乞食大名
最上家重臣に鮭延秀綱という人物がおりました。一説には近江の佐々木源氏を祖としており、現在の真室川町にある鮭延城を居城に、もともとは最上義光と敵対した隣国の領主小野寺氏に属していたのですが、義光に攻められ一旦は庄内の武藤氏を頼り落ち延びました。当主武藤義氏が義光の謀略によって家臣の前森氏に殺害されたのを機に義光の家臣となったようです(庄内には行かず、調略により義光に降りたという説もある)。秀綱は知勇兼備の武将として義光に愛され、長谷堂合戦の際には副将格として長谷堂城に送り込まれ城主の志村光安を助け、上杉方の大将直江兼続と対等に渡り合いました。
このような輝かしい戦歴を持つ秀綱ですが、義光の死後家督を継いだ家親が急死した後に一門の松根備前(義光の甥にあたる)と対立し、それがもとで最上家は改易となりました。秀綱は土井利勝のもとにお預けとなり、許された後は流浪の身となりました。秀綱の人生は実はこれからもなかなかに面白いのです。流浪の身となった秀綱の生活を支えたのは山形から一緒についてきた家臣達でした。最初のうちはいろんな職につき生活の糧を得ていましたが、しまいに職がなくなると乞食にまで身をやつして秀綱を養ったといわれているのです。以前世話になった土井家に五千石で召抱えられると、従った家臣に均等に分け与え、秀綱自身は死ぬまでその家臣達の間を渡り世話になりながら過ごしたといわれています。
この話は海音寺潮五郎氏が「乞食大名」という短編小説にも描いています。ただ、最近の研究により、自分が土井家より頂いた禄を家臣達に均等に分け与え自身はその家臣達の間を渡りながら世話になったという話が伝説に過ぎなかったことが分かっています。しかし、主と家臣がいかに互いを思い合っていたのかを物語る逸話ですね。秀綱の死後、現在の茨城県総和町に家臣達により鮭延寺が建立され秀綱はそこに眠っていますが、真室川町の鮭延城跡の麓にある正源寺という寺にもお墓が建立されています(下の画像)。