最上家重代の宝刀、「鬼切」
最上家には代々伝えられてきた「鬼切」という太刀がありました。この太刀のたどってきた道のりには、その時々の歴史が色濃く反映されているようです。
「鬼切」の名がついたのは、源頼光が酒呑童子を退治したときにその首を切ったものとされているからです。以来、この太刀は源家重代のものとなり新田義貞に受け継がれました。南北朝争乱の際、この新田義貞を討ち果たしたのが斯波高経ですが、実際に首を取ったのが氏家重国という人物で、高経は斯波兼頼の叔父、重国は兼頼の出羽入部に先立ち代官として山形に来た氏家道誠入道の嫡男です。最上家・大崎家の重臣である氏家氏はこの末裔にあたります。鬼切は重国から高経へと渡りますが、これを聞いた足利尊氏が「源家重代のものであるから、我が家の宝刀として代々伝えたい。」と所望します。自身も源家の流れである高経はこれを拒絶しようとしますが、相手はときの征夷大将軍、正面切って断ることは出来ず奇計を案じます。高経の屋敷が火事になったとき預けておいたこの太刀も燃えてしまった、と偽りを届け出てしまったのです。後にこのことは尊氏にばれてしまったのですが、尊氏長子直冬の叛乱などのごたごたがありウヤムヤとなったようです。この後鬼切がどのようにして最上家に伝わったのか不明ですが、高経から弟の家兼、そして次子兼頼へと伝えられたものと思われます。
最上家に代々伝えられた鬼切は改易後も受け継がれ、8代将軍吉宗の時にはその所望により三日間江戸城に貸し出されたという記録があります。当時の最上家の領地であった近江から江戸までの道中鬼切は唐櫃に入れて運ばれましたが、途中民衆は「魔除けの効能がある」と唐櫃の下をくぐらせてもらったと伝えられています。また、実はこの唐櫃に入っていたのは偽物で、本物はこのとき従者が腰に佩びていたものでした。道中、盗難に遭ったときのための方策だったんですね。明治維新による東京遷都後、明治天皇が京都に行幸した際にも鬼切を見たいと所望され叡覧に供されました。
廃藩置県の後、最上家当主が事業に失敗し借金返済のため遂に鬼切は最上家を離れ、京都の質屋に入れられてしまいました。明治13年、当時滋賀県令であった篭手田安定はこれを憂い、有志の寄付を募り鬼切を請戻し最上家に返しましたが、重代の宝刀を手放してしまったことを恥じたのか、あるいは二度とこのようなことが起こらないようにと考えてか、最上家ではこの太刀を北野天満宮に奉納しました。現在もここの宝物殿に納められているようですが、毎月25日の参観日にはその優美な姿を拝むことができます。機会があれば一度いかがでしょうか。