昨年12月上旬の新聞報道によると、最上義光の父である義守の書状が新たに4通も発見された。それまで義守の書状とされて現存していたのがたった2通(仙台博物館所蔵)しかないので、これは最上家の歴史を知るうえで大きな発見と言える。この書状は神奈川県在住の伊達家家臣の末裔の方が青葉城資料館に寄贈した百通余りの書状の中にあったことにより、今回日の目を見ることになったものである。
書状の内容は家督を譲った義光との確執に関するもので、「義光を討ちたい。」とか、輝宗の武力介入を望むもの、「(義守自身の)復権が近い。」、といったもののようである。実際には、輝宗があまり積極的に介入しなかったため義守の巻き返しはならなかった。青葉城資料館学芸員の方の分析に寄れば、これまで義光が最上家の家督を相続した時機について元亀元年5月15日説と元亀2年8月説の2つあったのが、どうやら元亀元年5月15日以前に判断できるとのことである。
また、今回発見された義守の書状により、義光の家督相続に際しての争いの首謀者が義守である可能性が高まってきた。それと同時に新たな謎が出てきたように思う。それは中野義時の存在に関してである。さる方より「中野義時」の名は史料には出てこない、との指摘を受けて、『奥羽永慶軍記』、『最上記』、『会津四家合考』などを見てみたが、たしかに「中野義時」の名は認められない。また、『伊達輝宗日記』に「中野」という人物が登場しており、従来はこれが義時を指すものと思われていたようだが、この度の書状の分析により青葉城資料館の学芸員の方はこの「中野」を義守自身をさしている可能性が高まったと指摘している。義守が最上家の分家である中野家から宗家の養子となったことからそのように考えておられるようだが、私としては義守が義光に家督を譲った後に中野城に戻って隠居した可能性もあるのではなかろうかと思う。幼少の頃既に中野家から最上宗家の当主となった義守を、数十年も経た後まで「中野」と言っていたとは考え難い。話を元に戻すが、『性山公治家記録』には中野城主として「氏淳」という名が認められるが、これが義清と同一人物なのかそうではないのか、まったく分からない。「中野義時」の名が出てくるのは僅かに1本の系図のみである。従来より巷でまことしやかに義光と義時の家督争いが伝えられてきたが、義時に関しての史料がこれほど少ないことに驚かされるとともに、なぜこのようになかば事実として伝わっていったのか不思議である。
しかしながら、中野義時という人物が存在しなかったのか?というと、そう言い切ることも難しい。義守が義光と険悪になった頃、その年齢は推定では50歳を越えていたものと思われ、自分が復権した後の後継をどうするかという問題は当然あったと思うし、最上家内部の家臣の取り込みや近隣の天童、寒河江、白鳥らの武将の協力を取り付けるには、そこまで先を見通した上で話をつけなければ強力なものとはならないだろう。だから、義時のような担ぐべき神輿となるような人物がおそらくいたはずだと私は思う。

中野城跡の小学校敷地内に建つ碑と看板