ユリ2

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                      友の死に祈りを
                                                         只野秀子      (美賀多台)

   私は深川の数矢小学校・明川高等小学校を卒業した昭和十九年、藤倉電線株式会社に入社いたしました。
   家族は富岡町での十余年の生活を、疎開と言うことで離散いたす事になりました。戦争が激しさを増してきた十九年秋、父は深川東雲町の三菱製鋼所に勤めておりましたので、社宅に移り、兄は石川島造船所に勤め、洲崎の寮に入っておりました。母、姉、弟、妹は三重県に疎開いたしました。

   当時、私の家の隣に「初音」という料亭がありましたが、戦時になり藤倉電線の女子寮に変わりましたので、私はこの寮に入る事になりました。東京出身者は、私の外に二名だったと思います。他の方は地方出身者で戦時中の事で軍事工場に集められた人たちでした。
   山形・栃木・和歌山・福島県と南から北からと集まり、各地の方言も豊かに交じりあった寮生活でした。軍需工場の事ですから戦争が激しさを増してきた二十年には、度重なる空襲、工場で働く時間も長くなり、残業から夜勤への厳しい毎日を送るようになりました。朝は軍歌を歌いながら工場へ、一日中機械の前に立ち、夜も真から体を休める事の出来ない状態になっていた其のころでした。あの日も、日勤、夜勤と交代して寮には多分半数位の人がいたと思います。

   その夜、寝入りばなを寮母さんの、けたたましい叫び声に目を覚まし、枕元においたオーバーコートを羽織って、階段をかけ降りた事だけを記憶しております。寮母さんと共に防空壕に入り、外の様子を全く見ることの出来ない状態で、強風が吹きまくり、人の叫び声が入り乱れている様は、私たちを恐怖と不安に震えあがらせました。
   十日の早朝、壕の外の有様は何と言う事でしょうか、総てが焼けつくされ、焦土の上には痛ましい屍が累々、呆然といたしました。私の様に幸いにも一個所の壕の中で助かった人は、少なかった事を聞いて幸運であったと思いました。数矢小学校に引揚げましたが、そこは言葉では言い尽くせない状態が繰り広げられておりました。うめき声、焼けただれた体、家族を捜す叫び声など、誠に悲惨な姿でした。
   夜勤のため、あの日工場で働いていた、あの友、この友、若く幼い程に純粋に生きていた地方から出てきた人々です。

   生き残れた私は、あれから五十年の年月を色々と乗り越えて生活してまいりましたが、三月十日の東京大空襲で尊い命を失った友を想い出すとき、生きている尊さに感謝いたして参りました。尊い犠牲者のあることを忘れずに、戦争に巻き込まれられない心を養い、平和を念願いたします。

   ( 編集子伊東付記 )  只野さんはクリスチャンです。私自身はまだ信仰には至らない者ですが、教会の雰囲気が好きで、糀台の西神教会の日曜礼拝に時々寄せていただき、牧野牧師のお話を聞き、皆さんと一緒に讃美歌を歌っております。礼拝の始まる前、隣の席の信仰厚い只野さんは、私に親しく声をかけて下さいます。今年の6月の半ばころ、何かで6・21集会をお知りになった様子で、思いもかけず 「私は身体が弱いので、集会には出れませんが、9条の会の皆さんがんばって下さい。戦争は絶対にいけません。」 と激励をいただき、お話を聞いているうちに、東京空襲に遭われたことも知りました。その後「平和の祈り 女性が語る東京大空襲」(平成7年刊行)という立派な冊子を読ませていただきました。そこに寄稿されている只野さんの文章を転載させていただくお許しを得て、本稿となったものです。只野さんがこの大空襲に遭われたのは15歳のときだったそうです。
   以下は、只野さんがその後別の文集に書かれたものの中の短歌です。

      夕暮るる    空に悲しきあかね雲   友失いし空襲の色
      故郷ふるさとは   若き戦にょの命綱   夜勤のつとめに絶たれしあわれ
      今は亡き   若き乙女のおもかげを   しのびて開くこころのとびら

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