空襲

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              神戸大空襲の記憶
                                                         川端泰子   (春日台)

   子供の時のことゆえ、間違っていることも多いと思いますので、どなたか
あの時のことご存じの方、ご訂正くださればと思いつつ記します。

1  第1回目の空襲(1945年3月17日)
   私は、1935年12月生まれで、西須磨小学校の3年生でした。須磨区稲場町3丁目に住んでいました。
   この3月の空襲のとき、隣保の方々は須磨海岸に避難されましたが、我が家では、妹が3歳ではしかに罹っていて風に当たると内攻するので逃げられません。
   私は、冬ふとんを被って弟(小1)と、目と耳を指で押さえ伏せの姿勢で(焼夷弾で目玉が飛び出さないよう、耳の鼓膜が破れないよう、腸が飛び出さないよう、当時空襲時の防御姿勢として訓練されていた)ふとんの中で、空襲の過ぎるのを待っていました。時々廊下のガラス戸の外を見ると空が真赤、母は妹をねんねこで負って、廊下を行ったり来たりしていました。この空襲では、そのあたりの家は焼けずに残りました。
   しかし、神戸駅近くの祖父の家(母の実家)や伯父(父の実家)、神戸の親戚のほとんどは焼け出され、命からがら須磨の我が家に歩いて着いたのを憶えています。

2  同年5月ころまで
   その後,桜のつぼみの頃までに(庭に八重桜の木があった),建物疎開のシールが門に貼られ,たしか1週間か10日後に立ち退きを命じられた。すぐ近くに須磨電話局があったので,類焼を防ぐため周辺の家を取り除こうとしたのです。急に言われても,行き先もなく(前年12月に父が病死)、月見山の親戚HA家に,その隣保に家財を置いたまま疎開しておられたY家を紹介してもらい,そこに母と子供3人が泊めていただくことになりました。私の家の家財は、稲場町のHIさん宅に預かってもらいました。Y家に居候している間に、離宮前に疎開して空き家となっていた家を見つけ,私ども4人はそこに落ち着くことになり,家財も引き取りました(当時の引越は大八車)。
   5月頃,西須磨小1年の弟は岡山件赤磐郡陽村の天理教の教会に疎開しました。小学校は閉鎖され,区役所になっていたように思います。
   私は,4月から6月半ばまで垂水におられた隣保のSさん宅から垂水小学校に通うことになりました。授業中に空襲警報が鳴ると,Sさん宅へ帰り,そこからS家のおばさんや近所の方々と逃げました。S家は,子ども達は田舎に疎開し,ご主人のおじさん(小学校の教師)とおばさんだけでした。通学の途中でも,空襲警報になり,滝の茶屋附近で電車が止まったこともありました。

防空壕2

   3  第2回目の空襲(6月5日?)
   2回目の大空襲が6月5日(?)にあり,須磨の一帯は全焼。稲葉町も,この間まで泊めていただいた月見山町あたりも焼けました。この空襲で今まで何かと助けて下さったHA家のおじさんは防空壕の入口あたりで即死(爆風で)。おばさんは大けがされ,壕を這って出てきたそうです。山の手にある家なので,南から山の方に逃げてくる人たちを防空壕に入れてあげていました。おじさんは気の毒なことでした。もちろん家は全焼し,蔵だけが残り,その後おばさんは蔵で生活されました。不思議なことに引っ越してきた離宮前町は焼け残りました。家財を預かっていただいたHIさんの奥さんと男の子が我が家の2階に同居されました(ご主人は応召中)。この空襲で大勢の方が亡くなられました。死者は須磨の北,多井畑の間の青山でダビに付しました。亡くなられた方は地面に置かれ,娘さんを亡くしたお母さんが「末期の水をあげたい」と泣いておられたのを今でも憶えています。
   当時,防空壕は庭か,家の中では床板をあげ座敷の下に掘って居ましたが,家の中の壕に入っていたら焼死するだけです。「防火用水」は隣保に一つしかなく,空襲には何の役にも立ちませんでした。

4  6月の空襲のあと
   だんだん追いつめられて、私は、母方の祖父の一家(母の実家)が焼け出され、頼った祖父の姉の嫁ぎ先、大阪府中河内郡安村に疎開しました(9月?日ころまで)。離宮前の家に母と3歳の妹を残して。当時母は33歳。
     その夏、戦争は熾烈となり、母と妹は須磨に居られなくなり、家を空けたまま(施錠せず、焼夷弾が落ちて消火できなかったらいけないから)、母の弟(叔父)と3人で河内に逃げてきました。大阪までは国鉄で、そのあと、東に行くトラックに頼んでどこかまで乗せてもらったそうですが、人数制限で3人は乗れませんでした。その時、一人の方が飛び降りて下さって3人揃って来れたそうです。「その人を拝んだよ」と母は話していました。夜中に歩いて、妹は叔父に肩車してもらって、たどり着き、終戦まで居たと思います。私は、9月?日まで安小に通わせていただきました。
   弟は、私のあと学童疎開から帰りました。頬がこけ痩せていましたが、元気で帰り、嬉しかったです。1年生でよく頑張ったと思います。弟は、大人になって、桃を食べませんでした。岡山で桃しか食するものがなかった時があったそうで、先生のご苦労が窺えます。
   小学校の友達は何人も亡くなりました。私は、先生に道で会った時、「生きていたの」と言って貰いました。

5  その他思い出すこと
   空襲はB29で、高度1万メートルのところから,爆弾や焼夷弾を落とします。下から射砲で撃つのですが、全然届かない。赤く染まった空に影絵のように見え、何もできない。あきらめ。
   低空飛行で操縦する兵士の顔が見えそうな位まで降りてくる(目があうことさえもあった)たしかP51と言っていたように思う飛行機から、機銃掃射でバリバリと、入っていた豪の上の土中に弾がささっていたこともありました。
   当時ラジオは政府からの放送で、負けていても「帝国海軍は敵艦〇艘撃沈」などウソの放送をしていて、国民はこれを信じていました。
   学校も開戦記念日の8日が来ると。全員が並んで「天神さん」へ「武運長久」を祈りに参りました。
   家の門に習字で「撃ちてし止まん」「米英撃滅」と半紙に書いて貼り出しをしていました。神風が吹くとも言われていました。国民全てが同じ方を向かされ、疑問に思いませんでした。
   教育も隣保の組織もおそろしいものでした。この隣保の組織で金属の供出がなされました。ミシン(お国のためのものを縫うため)、ダイヤモンド(飛行機に使う、これは大丸に持っていきました。終戦時、日銀本店にまとめてあったそうです)などなど。

   思いつくままに記しました。神戸の片隅で小さかった私が見聞したことだけで、狭いことです。
   もう半年早く戦争が終わっていたら、沖縄も原爆も各地の大空襲もなく、亡くなる方も少なく、くい止められたはずと、とても残念に思います。
   このようなことが二度と起こらない様に私達はどうすべきか、よく考えなくてはと思います。
   それから書き加えさせて下さい。母のすぐの弟はボルネオで特攻隊で戦死。その妻(叔母)は95歳になっています。

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