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気ままに来らむ 『時空をこえて』!

東京同窓会誌「多士東京」No.48を編集しました。:古閑啓弘

2018年8月2日投稿 

 

東京48会は持ち回りの編集幹事学年としてH30.5.26発行の東京同窓会誌「多士東京」No.48を編集しました。

ページ数の制限により省略された部分があったりしましたので、皆さんに関心を持って頂けると思われる次の3点についてオリジナル版を熊本48会HPに掲載させて頂きます。

1.東京48会員ひとことコメント(平成の自分史を募集しました) (下記に掲載)

2.東京同窓会長と黌長対談(濟々黌の現状、黌長の苦心がよくわかります) (PDF・ここをクリック)


3.現役生徒の活躍年表(多くの生徒が県や九州大会を勝ち抜いて全国大会で活躍しています) (ここをクリック)

 
東京48会事務局 古閑啓弘 (5組) 
 

H30.5.26付で発行されました濟々黌東京同窓会誌「多士東京No.48」に掲載されました、東京48会員ひとことコメント集 (平成の自分史)です。



■我が良き友へ  君が同窓会を卒業して5年が過ぎた。友よ、何時か君に会いに行きます。君が最後まで会うことを楽しみにしていた多くの友たちの近況報告も兼ねて…私は多くの友たちに囲まれて、今もあの頃と変わらぬ日々を過ごしているから安心してね。 しみじみと ものうち語る友もある 君のことなど 語りいでなむ
【鬼塚(斉藤)睦子】


■昭和64年1月7日土曜日の早朝、ラジオをつけると昭和天皇の崩御を告げていた。職種の都合で会社に赴いたが思う程の忙しさも無く、抜け出して皇居付近を歩いても静かで冬のモノトーンだった。そして次の日から平成が始まった。平成は覚醒せぬままに過ぎる。平成7年3月の神戸は霞んでいた。平成23年5月、石巻の海は街とは違い眩しかった。平成28年6月の熊本城は雨にくすんでいた。もうすぐ平成が終わる。未だ覚醒せぬままだ。
【神谷賢】


■平成の記憶は2011年の東日本大震災に尽きる。4年間のJR仙台支社長を終え、転出した8ヵ月後であった。穏やかで慈悲に満ちた東北の光景は一変した。消えてしまった沿岸部の鉄道も多い。東北活性化のため、様々な課題を一緒に推進してきた知事をはじめ各首長、財界や観光関係の知人たちの想像を絶する苦闘の日々が始まった。犠牲者のご冥福をお祈りするとともに、十分な支援が出来ないままの我が身を申し訳なく思い続けている。
【田浦芳孝】


■2年生在学時に、ラグビーのクラスマッチで優勝。正月の国立競技場での大学選手権決勝に何度も足を運び、応援の感動とその醍醐味は充分に承知。しかし、ルールなどやってみないとよくわからないスポーツ。高校生当時、素人同然でのラグビー採用は(蛮行?実際、初歩的なタックルで脳震盪や怪我が頻発)貴重な体験でした。怪我などものともしない熱きクラス対応、やらせてくれた済々黌の懐の深さを今でも実感。
【高瀬幹雄】


■多士東京幹事年が今まわってきて、その作業に携わったら、気の置けない同級の友、意外と優しい先輩、意外と頼もしい後輩。自分をとりまく濟々黌の縦と横のつながりがはっきりと見えた。濟々黌を卒業後東京の大学へ、そのまま東京で就職。遠い異郷の地で何とかやってこれたのは昭和に於いて厳しくも優しく周りが私を育ててくれたから。平成には自立し家庭、会社の為と努めてきたつもり。
平成の次、残りの人生を有難き濟々黌、有難き社会へ捧げてみようか。
【古閑啓弘】


■昭和天皇崩御から年号が変わり平成となった。その日は休みで不遜にも今はなき義父とゴルフをしていた。キャディーも皆喪章をしていたのが印象的であった。その後30年。毎年経済、社会、政治、そして自然と大きな変化が起こった。その中でいまだ会社の一員として働いていることに感謝している一方、会社の統合当時、人事部長として千人以上の人生に係わらざるを得なっかたことは私にとっては忘れられない苦い思い出だ。まだ会社があるだけでもという意見もあるが、当時の苦労は今でも何かにつけて思い出される。その時上った血圧はなかなか戻らない。
【松落英幸】


■熊本の田舎に生まれ、成長するにつれて故郷から遠ざかってきた。そして平成元年に東京に来た。平成の30年間で子供を育て、家を建てて、子供を送り出してきた。楽しいことも、苦しいことも、大きな事件も、いろいろなことが有ったが、一つを抜き出すことができない。この30年間が一つの思い出になってしまった。そしていま、また二人になった。平成30年は故郷に帰るか。思えば遠くに来たもんだ。
【加賀山保一】

■振り返ってみて重く心に残っているのは自然災害。一昨年の熊本地震では実家も被害を受けたが、東日本大震災は衝撃だった。 単身赴任していた東北の思い出の地の無残な姿。そして原発事故。原子力防災に携わった者として事故の進展には心を痛めた。 技術や制度面での対応でインフラや住居等は復旧しても生活や自然環境への影響は続いていく。我々皆が心をひとつにして対応していかなければならない問題である。
【木村紀雄】


■私が東京48会に初めて参加したのは、いまから約20年前、山一証券の倒産等で日本経済が大きく揺れていた時代だった。会場は当時、東京駅八重洲北口にあった  東京国際会館(現、大丸デパート)地下の椿山荘。 10数人の同級生との再会に感激し楽しい時を過ごした記憶が鮮明に残っている。後日談だが、私が今いる会社は、当時同じビルの5階にあったそうで改めて人の縁を感じた。これからも濟々黌との縁を大事に、そして誇りにして生きていこうと思う。                                【木村宏】


■私の一人娘がちょうど30歳になり、それが平成の30年と重なります。子育てをしながら仕事を続けてきたので当初は、保育園に預けて仕事をしていると親族等から子供が可哀相だとか言われたものです。でも今は私と同様、仕事をする女の人が増えて徐々に当たり前の事となり、時代が変わっていくと、世の中の考え方も変わっていくのかなと思います。これからの私の子供の世代では、肩肘張らずに自然に仕事も子育ても出来る時代になっていくといいと思います。
【坂田朋子】


■私にとっての平成は会社人生(通信事業者)そのものである。通信システムやサービスの開発畑で多くを過ごし、後半は監査を手掛けた。会社の成長と共に様々な経験をし、会社や社会から成長させてもらった時代だった。60歳の折り返し地点を過ぎ、次は成長させてもらった社会に恩返しができるよう活動していきたいと考えている。現在、外では障害者雇用を担当し、家では介護。まだまだやる事がいっぱいある。休んでいる暇はない。
【竹原啓五】


■俯瞰して想えば。昭和中期の高度成長の恩恵に与った小中校時代。本黌入学時は学生運動末期。卒業時に石油ショック。大学時に国外を初体験、1米$290円前後。就職後まもなく好況期到来。働き盛りの平成に入りバブル崩壊。度重なる災害。閉塞感と進路の見通せない不安感たっぷりの平成期。ポスト平成はどんな顔をしているのだろう。いつの時代も先行きは不確実。先輩諸氏、後輩の皆さんと元気を振るって進んでいけたらと思う。
【野村俊生】


■平成元年 消費税導入でこんな事をしていた。『輸出は免税、地代は非課税、保険は不課税』 なんじゃい これは 全部0なのに 言葉遊びか?!(怒)
あれから30年 もうすぐ10%になる。
平成の次の次の元号の時には20%になっているのだろうか・・・
高齢化社会になり 労働力不足となり 日本が沈んで行くような・・・
【勝田誠司】


■平成を想った。当初のパソコンは貴重品。今では会社でパソコン、外ではスマホ、持ってない人を探す方が難しい。IT技術の進展やリーマンショック、大きな変化の時代をよくも生き抜いて来たもんだ。後輩が生きる時代、汎用AIの社会進出、そして一万三千年ぶりの氷期到来、更なる激変が待っている。しかし変化のない社会には楽しみもない。ノーチェンジ・ノーファン。後輩には変化を享受して未来を楽しんでもらいたい。
【斎藤国寿】

■私は、4年前まで40年間海上保安庁に在職し、北は稚内から南は沖縄まで全国津々浦々で勤務しました。仕事では、座礁したカーフェリーの海難救助で総理大臣表彰を受けた事や、宗谷海峡、対馬海峡、尖閣諸島においてロシア、韓国、中国の船に対応した事等が特に記憶に残っています。また、私的には、各地において地域の人々との交流や名所旧跡を訪れたことが懐かしく思い出されます。
【堀田省吾】


■平成の記憶 平成元年は国内外ともに激動の年であったが、私にとっても転機の年となった。この年に仕事で海外と関わり始めて以来30年近くをかけて、ようやく自分の人生を肯定できる心境になってきたと思う。そして、あるときから私の海外からの帰省を肴にしてミニクラス会が開かれるようになって熊本との繋がりが強まるという思わぬご利益に恵まれ、元気を貰っている。
【中村滋】

■平成に想う/やはり“継続は力なり”
平成元年…私が千歳基地で、F−15戦闘機で緊急発進を25回/年実施した年でした。平成19年10月16日、充実した自衛隊生活を送っていた私を突然襲った脳梗塞(倒れた直後は、右半身に麻痺、特に、右足は全く動かせず、言葉も「あ…」としか発せられず)、あれから10年、毎日、寸暇を惜しんで継続したリハビリのお陰か、今では、外見からは分からないまでに回復できました。
【山本康正】


■昭和から平成への年号変更、営業活動中車中のラジオニュースで聞いた記憶があります。すでに3人の子供に恵まれ、会社でも部下を持った、サラリーマン真っただ中の時期で、その後2回の海外駐在生活、2回の国内転居、子供の独立、退職、転職と人並みのことはすべて経験し、ふと今気づいて見ると、これまで支えてくれた古女房と肩を寄せ合う生活をしています。特に後悔するような場面は見当たりませんが、敢えて言えば、仕事以外の事を考える余裕もなく、老後の趣味を問われて返答できない自分が今いることでしょうか。
【小島義人】


■IT、AI、大震災、バブルと崩壊、大企業倒産、グローバル化、デフレ、IPS細胞、コンプライアンス、残業全盛から働き方改革、テロ、格差、・・・。平成は従来の価値観が大きく変わる時代だった。不確実でありながら、閉塞感、限界が見える現在、新しい時代に向けて今を悲観して将来を楽観したい。
【松田直】


■私の平成は病院のベッドで始まった。当時はオフロードバイクを乗回していて、その若気の至りでの骨折手術の入院であった。会社では「遊び人」と揶揄されながらも、一生遊び人として生きて行くつもりであったが、あれから30年、体と相談しながら遊び方も自然に変わってきたように思う。33年間勤めた会社を辞め、独立してコンサルタントを起業、さらには故郷熊本で食品会社も合弁で起業した。30年前は想像できなかった渦中にいる。
【坂田康二】


■(次の文は多士東京No.48には掲載していませんが、メールで頂きました文章そのままをここに掲載します。)
古閑君
今年は寒い年になりそうですね。
今年は私にとっては意識大変化の年になりました。
というのは、たまたまテレビで見ていた加計学園・閉会中審査で、参考人として招致された前愛媛県知事の加戸さんの発言をテレビが翌日以降一切放送しなかったからです。

少し長いですが、彼が時系列で説明した加計学園承認までの発言を聞けば、誰でも安倍総理の関与がないのが分かります。
しかしテレビは翌日から前川の信ぴょう性のない発言ばかり取り上げていました。(テレビ上では加戸前知事は存在しません)
この時、テレビは偏向し、情報操作をしていることが分かりました。(目的は内閣打倒です)
今まで小学生からずっとテレビを100パーセント信用してきたのに、騙されているのに気付いてショックでした。
朝日新聞はもちろん、テレビ・新聞は信用出来なくなりましたので、現在はインターネットから情報を得るようにしています。(ちなみに若い人は新聞・テレビの偏向捏造が分かっているから、余り見ないそうです。
逆に新聞・テレビを信じている団塊の世代60,70,80歳はよくテレビを見るそうです)
まだ書きたいことは沢山ありますが、今度会った時、話しましょう。
寒くなりましたので、体に気を付けて過ごしてください。
それでは、良いお年を!
(政治的内容かもしれませんから、載っけなくてもOKです。)
【坂田昌友】




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