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気ままに来らむ 『時空をこえて』!

今、足尾銅山跡は:久木田憲司

2018年12月20日投稿 

 
足尾銅山観光入口 わたらせ渓谷中流域
 


黌校生の頃、教科書の片隅に載っていた日本初の公害である足尾銅山鉱毒事件。足尾銅山は昭和48年に閉山されたので、大学生の頃から現地を見てみたいと思っていたが、なかなかその機会がなかった。

48会事務局としての主行事であった卒業45周年記念同窓会も終わったので、先月、家のかみさんと二人で旅に出た。

熊本空港から羽田空港に降り立ち、JRで桐生駅まで行き、わたらせ渓谷鐵道(旧足尾鉄道)に乗り換えて足尾銅山跡を目指した。渡良瀬川に沿って谷あいを進む列車の両側には紅葉が広がり、平日にもかかわらず車内は満員であった。
その客の多くは夫婦づれ、男女グループ、女性グループで、年齢は皆65歳以上であった。
列車が進むにつれ紅葉に対して歓声が沸いたが、私は渓谷に沿って紅葉の中を続く一すじの高圧送電線が景観を壊していると思ったし、渓谷の広葉樹林と針葉樹林とのバランス、それと渓流の異様な透明感に違和感を覚えた。

紅葉狩りが旅の目的だったのか客の多くが途中の駅で降り、足尾の通洞駅で下車するころにはわずかな人数になっていた。
足尾銅山観光(施設名)では、坑内電車で坑道に入り途中で下車して坑内を見学したが、足尾歴史館でのガイドの説明は興味深かった。
私たち二人だけのために、1時間半ほどかけて丁寧にわかりやすく説明してくれたその女性ガイドは、古河鉱業梶E足尾銅山の社員住宅で生まれ育ち、地元で結婚・子育てをして暮らしてきた69歳の方だった。

明治維新後の富国強兵・殖産興業の流れの中で、銅精錬過程で発生する亜硫酸ガスによる煙害と、重金属を含んだ廃水による下流域の水質汚濁や農地の土壌汚染が、明治20年代には足尾銅山鉱毒事件として問題となった。
明治30年(1897年)の第3回鉱毒予防工事では、古河市兵衛が巨費を投じて工事を遂行して廃水対策は一定の成果を出すが、煙害は脱硫技術が確立される昭和31年(1956年)まで続くことになったとのこと。

その間、足尾銅山周辺の渡良瀬渓谷一帯はハゲ山となり、下流の3村が明治35年(1902年)に廃村となり、その村民は国策として北海道奥地(栃木村)の開墾・開拓にあたったとのことであった。
煙害地の植林活動は、国、県、古河で行われ、特に昭和30年代以降(約60年間)の植林が荒廃地であった山々の回復に効果を表しているとのことであったので、なぜ、古河主体(原因企業)ではなく、国・栃木県主体(税金が投入される)かと尋ねたら、山のほとんどが国有林と県有林であるとのこと。(他の情報では国・県が行う植林事業の民有地は、ほとんどが古河機械金属・旧古河鉱業の所有地であるとのこと)
いつの世も大企業が起こした公害の後始末には税金が投入されるということかと思った。
帰りは、わたらせ渓谷鐵道の観光トロッコ列車に乗車した。夕方の便で乗客は少なかったが、これには中国人観光客がグループで乗車していた。尾根向こうの日光東照宮経由の観光客かなと思った。

足尾歴史館での丁寧な説明のおかげで、車窓から眺める渓谷の広葉樹林と針葉樹林とのバランスの違和感は、普通の植林ではない煙害地対策の植林作業での結果であり、渓流の異様な透明感(魚影がない)も廃水対策の結果であることが理解できた。
なお、新聞情報では平成23年(2011年)の東日本大震災発生時には鉱毒汚染物質堆積場が決壊して、渡良瀬川に流下し下流の観測地点において基準を超える鉛が検出されが、詳細は不明とのこと。また、別の新聞の情報では、降雨時の鉱毒汚染物質堆積場からの水質が、定置観測点において環境基準を超えていることを、平成17年(2005年)に群馬県が指摘しているとのことであった。

見た目はきれいになっても、目に見えない汚染物質の影響は、流域において永く続くということなのか。

 




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