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気ままに来らむ 『時空をこえて』!

熟年男の一人旅 No8【最終章】:久木田憲司

4月10日更新

 


【島根から熊本へ】


島根県の日本海沿いを西に向かって走ると、島根の三田(大田市、浜田市、益田市)を通る。三市とも過去に訪れたことがあるので大田市は通り過ぎて浜田駅前のビジネスホテルで一泊して、益田市に向かった。
益田市は、画僧・雪舟ゆかりの寺もあるところだが、幕末の第二次長州征伐において石州口(益田口)の戦いが行われたところだ。大村益次郎率いる近代化された長州軍の前に幕府軍が壊滅された戦いだ。小倉城においてもそうだが、会津藩以外は幕府譜代大名のところがことごとく簡単に敗走するのが幕末における戦いだったと思う。
その戦跡を見た後、津和野の温泉旅館で一泊して4度目の訪問となる萩市に向かった。今回の目的は、もう一度松下村塾を訪ねることと、平成29年3月にオープンした萩・明倫学舎(旧萩藩校明倫館跡)を見学することだった。その二か所と萩博物館を見学して丸一日が終わった。萩博物館においては、幕末時における長州藩の経済力について質問したところ、学芸員は不在とのことでボランティアガイドをされている初老の女性が対応してくれた。石高は37万石であったが、江戸時代における新田開発において幕末では100万石を超えていたとのこと。琉球貿易で蓄財した薩摩を凌ぐほどではなかったが、余剰を特別会計として蓄えてそれが討幕の資金となったのである。石高は54万石であるが江戸時代の平均収穫高は約37万石であったために、大阪商人から借財を重ねて、その莫大な借金が幕府の徳政令によって帳消しとなり、その後肥後の細川藩には金を貸すなと大阪商人に言われて、幕末においては経済的に困窮していた肥後藩とは大違いであった。質素倹約ではない肥後の見栄っ張りは江戸時代から続いているのであると思う。
余談だが、忠臣蔵の主役である大石内蔵助は津和野においては評価されていない。それよりも津和野藩・亀井氏の城代家老の方が賢かったと伝えられている。その訳は津和野を訪れて理解してください。
萩で夕食を取ってから中国自動車道の美東SAで車中泊した
 
松下村熟


40年前の北海道自転車の旅では、東京・晴海埠頭でフェリーに乗って小倉港に到着した。その時の持ち金は350円であった。
それで、福岡県甘木に帰省している鳥取大学の仲の良い後輩から 2千円借りようと思い、甘木駅に向かった。駅の公衆電話から後輩の実家に電話するとお母さんが出られて、すでに鳥取に帰ったとのこと。10円玉がなかったので100円入れて電話したので、所持金は250円となった。私のお袋にはすでに北海道で金の無心をしていたのでもうできないと思い熊本まで一気に帰ることを決心してペダルをこぎ始めたが、金がなくてフェリーの中でもまともな食事をしていなかったので、腹を満たすために有り金をすべて使い あんパンと魚肉ソーセージを買って食べて走り始めた。途中に峠道もあったので体力を使い果たし、 陽も傾いて 8月の強い日差しも弱まってきた中で、このまま走り続けるか又はテントを張って野宿するかで悩んだ。このまま走り続ける体力が残っていないし、野宿しても翌日走れる自信がない。
そこで、羽犬塚駅前にあった交番に駆け込んで事情を話して2千円貸してくれないかと頼み込んだ。年配のお巡りさんからは警察は金貸しではないと長々と 説教されたが、最後に若いお巡りさんがポケットマネーから2千円貸してくれた。地獄に仏とはこのことかと思い、若いお巡りさんには後光がさしているように見えた。自転車を駅前の有料の預かり所に預けて、当時国鉄の羽犬塚駅から汽車に乗って熊本の実家に帰宅した。
上熊本駅 で降りたのか熊本駅で降りたか覚えていないけど、実家の玄関を開けた時に、真っ黒に日焼けして 50日間髭伸ばし放題でざんばら髪の私の姿を見て驚いたお袋の顔は今でも覚えている。事情を聴いた両親からも説教されて、翌日朝から3千円の菓子折りと2千円入った封筒をもって汽車に乗って羽犬塚駅前交番を訪ねたが、当番明けでその若いお巡りさんは不在だった。それで、他のお巡りさんに菓子折りと封筒を手渡して、丁寧にお礼を述べて交番をあとにした。自転車 預かり所から自転車を引き取って、熊本の実家を目指してペダルをこぎ夕方までには到着した。
今思うと、50日間に及ぶ自転車旅行で何か吹っ切れたような思いになったような気がする。
今回、当時走ってきつかった峠道を探したが新しい道ができていて分からなかった。また、羽犬塚駅は新幹線開通で新しくなっていたし、それに伴って駅前交番も移転新築されていた。また、駅のテナントの従業員に昔あった 自転車駅前有料預かり所のことを尋ねたが、その存在を誰も知らなかった。40年の月日の流れは大きいなと思った。
 
鉄道線は民営化されたが、甘木駅舎は昔のまま 羽犬塚駅舎は新しくなかっていました
?近くに移転新築された駅前交番です。

 
【今回のぶらり一人旅のまとめ】


熊本の自宅を出発し手から帰宅するまでの車の走行距離は7998qで、38泊39日の旅でした。それについての情報提供と感想を述べます。

1 費用等について
 宿泊代、フェリー料金、ガソリン代、高速料金、食事代等でかかった経費は総額約48万円。車中泊主体でありましたが38泊の内15泊は宿に泊まり、一番安かったところが1泊2食付きで4998円のビジネスホテル(姫路市)で、一番高かったところが約2万2千円の観光旅館(十和田湖)。フェリー代金は5回乗って約11万円でした。食事代は各地の郷土料理を食したので少し多くかかりました。
 ガソリン代はプリウスでしたので安く済みました。

2 洗濯について
 ビジネスホテルには有料のランドリーコーナーがありますが、シティホテル(熊本ホテルキャッスルやホテル日航と同格)にはランドリーがありません。しかし、地方都市のシティホテルには無料のランドリーがあるところがありますので、フロントで訪ねることをお勧めします。また、今はアパート経営よりも収益率が高いということで新しいコインランドリーがあちこちにできていますので、洗濯で困ることはありませんでした。

3 入浴について
 天然温泉付きの道の駅が数多くありますし、高速のSAにも温泉施設が併設されているところもあります。また、日帰り温泉施設はあちこちにありますので、車中泊が続いても入浴で困ることはありません。
 ちなみに、今回日帰り入浴で一番安かったところは0円(知床半島・羅臼)、一番高かったところは1000円(和歌山県・かつらぎ温泉)で、500円の所が多かったです。

4 車中泊について
 自宅にいるときと同じタイム状況で生活することが大切ですので、就寝時間も夜10時半から11時の間で、起床時間も目覚ましをかけることもなく朝の5時から5時半の間でした。 今回は車の後部座席を倒してフルフラットのベット状態にして、良質のマットを敷いて寝ましたので 朝まで熟睡できました。

5 道の駅について
 道の駅はピンキリあります。名前ばかりの道の駅も多くありますが、温泉施設もあって施設が充実したところもありますので、キャンプするときと同じように明るい15時までに下見をすることをお勧めします。ダメでしたら1時間以内に次の道の駅まで走ることです。車中泊に適した道の駅は駐車場とトイレの位置で決まります。駐車場が公道に面していない静かなことも条件です。
 また、よい道の駅がなかったら、駐車場が広いコンビニもいいと思います。穴場は24時間施錠無しの公営運動公園駐車場です。トイレも整備されていますし、夜間のパトカーの巡回がありますので安全ですよ。

6 変革時には
 天狗党の水戸から中山道を通り諏訪を旅し、山陰を走り萩の長州藩を見て回ってあらためて 思ったことは、太平になれた武士(約200万人)の内ガチンコで戦っているのはその1%にも満たない人たちです。幕府軍も兵力の数は集まりますが、旧式の武力であるため薩長の近代兵器の前では敗走するだけだったようです。徳川慶喜も幕閣の中では孤立状態の人であったために、天狗党を見捨てたり大阪城を見捨てる行動に出たのかなと思いました。そして、戊辰戦争の中では、徳川親藩も譜代大名も様子見のまま江戸幕府を見捨てる状況は、現代にも通じるものがあるかと思いました。

7 神社仏閣について
 大きな神社仏閣は今多くの参詣者・参拝者でにぎわっています。しかし、縄文時代の昔から日本においては祟りの文化があったと思います。祟りの文化は、今もてはやされている崇徳上皇だけではありません。出雲大社もかつては祟りの神と言われましたが、今はそれを表立って表記している施設がありません。なぜなのかな?

8 感想
 今回は40年前の北海道自転車旅行の足跡を再び訪ねる旅でもありましたが、40年の月日は大きかったです。一番変わっていたのは道路でした。新しく広い道や長いトンネルが至るところに造られて、昔通った海沿いの道やつづら折りの峠道は通行止めになっていたりして、また、道そのものがなくなっていたりした所もありました。ゼネゴンによる公共事業は、日本中隅々まで執り行われていました。
 ただ、それらの維持管理費も永遠に続くのでしょうね。

 




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