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気ままに来らむ 『時空をこえて』!

熟年男の一人旅 No3 :久木田憲司

2月1日更新

 


【オホーツク海からの風は】


稚内港から斜里町までは360qくらいあるんですけど、当時楽々の3日で走りました。その時の自転車は山道用の太いタイヤを履き、当時のテントは重く荷物の重量は50sを越えていましたので、走る距離は1日に90qが限度と思っていましたので、私にとっては想定外でした。そのわけは、オホーツク海からの強い風でした。初めは戸惑いましたが、身体を思いきって倒しヨットのように風を利用すると楽にスピードが出ました。あの高校生はこの要領を利用できなかったのかなと思いました。
北海道は同じような響きの地名があり、ノシャップ岬は廻った納沙布岬で間違いに気付きましたが、クッチャロ湖は後に鳥取で旅の話をするまで、屈斜路湖と勘違いしていましたよ。
当時はクッチャロ湖の桟橋では自転車をおいて小一時間ほど昼寝をしましたが、今の桟橋は管理が厳しく、鳥インフルエンザ対策で立ち入り禁止でした。それで、昨年は熊本市の鳥インフルエンザ対応獣医師としててんてこ舞いしていたことを思い出しました。
当時、能取湖のサンゴ草は有名ではなかったので、立ち寄りませんでした。今回、北海道に10年間住んでいた三女の婿が、綺麗ですよと教えてくれたので、立ち寄りました。しかし、湖畔の宿の主曰く、真っ赤な絨毯は一週間前に終わったとのことでした。残念!!
 


【網走は】


当時、オホーツク海沿岸では走ることだけに徹しましたが、唯一観光したのが網走刑務所でした。網走番外地で有名になっていましたので、正門前には若い女性のグループもいました。その中を看守に見守られながら隊列を組んだ囚人の集団が、所外役務のために門から出てきましたので、びっくりしたことを覚えています。後で知ったことですが、当時の網走刑務所は刑が軽い囚人が入る所になっていたそうです。今回、間違って網走監獄に行ってしまいましたが、良かっですよ。3時間ほどかけて見て回りましたが、良かった点は、地元の篤志家たちが財団を作って監獄の施設を集約して保存してきたこと。新たに知ったことは、屯田兵や道外からの集団移住者が道内開拓に入る前に、全国から集められた政治犯も含む若い囚人8000人が原野を切り開き道を作ったそうで、囚人は6人にひとりが亡くなり道路脇にそのまま埋められたとのことです。看守にも犠牲者が出るほどの苛酷な作業だったそうです。観光客が少なく不気味な静けさでした。麦飯の監獄定食を食べて駐車場に行ったら、修学旅行の高校生のバスが入って来ました。
午後からは網走刑務所に行きました。中の古い施設は網走監獄に移して、新しくなっているそうですが、正門は40年前のままでした。長塀もそのままでした。30分ほどいましたが、訪れる人は誰もいませんでした。刑務所に続く有名な橋を渡り帰っていたら、高齢のご夫婦が手荷物を抱えて橋を渡って行かれました。面会なのかなと思いました。

一枚目の写真は、網走監獄の正門。
二枚目の写真は、網走刑務所の長塀で、奥に正門が望める。
三枚目の写真は、網走川に架かる鏡橋。刑務所から出所する人は、ここで身を正して去って行ったそうです。
四枚目の写真は、網走監獄の中で、緒形拳が主演した脱獄囚のNHKテレビドラマのシーンのレプリカ。
五枚目の写真は、網走刑務所の正門。 

 
【斜里町では】


当時斜里町では神社の社殿廊下での野宿ではなく鳥居横にテントを張らせもらいました。その訳をどうにも思い出せなかったのですが、今回の旅でわかりました。社殿が高い所にあり、そこまでは自転車をあげることができなかったのです。なぜ、それにこだわった訳は、それからが大変だったのです。
突然に夜半から降りだした雨は、朝には上がりましたが、当時のテントは木綿でしたので、雨に濡れると大変重くなりました。連泊の場合は日にあてて乾かすのですが、畳んで先を目指すことにしました。今は楽な道になっていますが、当時はウトロの手前には九折の峠道がありました。その峠前で夜半の雨雲に追い付いてしまいました。それからウトロまで雨の中を走りました。重くなったテントを抱えた雨の峠道は身に堪えました。40qもない距離でしたが、一日かかってしまいました。ウトロの民営キャンプ場でも嫌な思いをしましたので、朝早く今は運航されていない知床半島をまわるウトロから羅臼への連絡船に飛び乗りました。今回は斜里町ウトロの奥にあるカムイワッカ湯の滝まで車を走らせましたが、当時はここまで整備されていなかったと思いますよ。

 
【知床峠は】


今回はウトロから羅臼町へは知床横断道路を通りました。この道路は40年前は工事中でしたので、当時は知床岬をまわる連絡船で渡りました。それで、初めての通行でした。高い所を通る道路で眺めも良くて私は2時過ぎに通りましたが、4時過ぎには積雪のために通行止めになりました。この道路の羅臼側のゲートの所には無料の露天風呂があります。その近くに町営キャンプ場がありましたので、私は当時そこをベースキャンプとして知床半島内を一週間走り回り、毎日夕方の明るいうちにその露天風呂に一人で入りました。今回、キャンプ場はシーズンオフで閉鎖されていましたし、男湯にも6人入っていましたので、近くのホテルに宿泊して翌朝早く車で駆け付け一人入浴しました。解説ボードによると当時できたばかり今の女湯が当時の露天風呂だそうです。当時は混浴で脱衣場もなくて周りから丸見えでしたので、女性は水着で入っていまし。私は専用として一人で入っていました。
一枚目の写真は、露天風呂の今の光景で、女湯の向こう側が男湯です。
二枚目の写真は、知床峠から羅臼岳を望む。
 

 
【羅臼町では】


天然温泉露天風呂付き町営キャンプ場の住み心地は大変良かったので、40年前は羅臼町には一週間滞在した。その間には羅臼岳にも6時間かけて登った。頂上の近くには湧水があり平地もあったので、野宿しようとしたら、ヒグマのフンが落ちていた。それから慌てて下山したので、キャンプ場に到着した頃にはすっかり暗くなっていた。今回も知床岬に走ったが、途中で立ち入り禁止の立て看板があり行けなくなっていた。そこで会った漁師さん曰く、世界自然遺産に登録されて以来厳しくなったとのこと。それと今はヒグマも出るので行かないが良いとのアドバイスも受けた。また、40年前猟師がする店でヒグマのルイベとトドのルイベを食べたけど、今も有るのかとホテルで尋ねたが、あるけど今は娘がする喫茶店だとのこと。その娘さんと友達だというホテルの従業員の話では、世界自然遺産に登録される前から狩猟頭数が制限されるようになり、ヒグマもトドも肉が貴重になって手に入れにくくなったし、冷凍であっても高額だとのこと。それで、今回は食することを諦めた。また、当時キャンプ場で知り合った道内男性が、岬の海岸の岩場に温泉が出るというので二人で入りに行ったが、単なる吹きっさらしの潮溜まりで熱すぎて入れず、潮が満ちてくるのを待って水着で入った。しかし、今回見に行くと観光用に整備されていた。
一枚目の写真は、岬の先端に向かう途中に立て看板があった。昔は行けたのにね?
二枚目は整備された海岸にある瀬石温泉。

 
【羅臼峠の今は】


昭和30年代に森繁久彌が主演した映画のロケーションが羅臼町で行われて、その時にさらばラウスよという歌を作り、後年に加藤登紀子が知床旅情として歌い、知床ブームを作ったと40年前の羅臼町のあちこちに記載されていました。羅臼峠で振り返り、さらばラウスと羅臼町をあとにしたと記載されていましたので、40年前には羅臼峠で振り返りましたが、羅臼町は見えませんでした。低い峠を越えて一気に納沙布岬を目指したことだけを覚えています。今回、町にはさらばラウスよの記載はまったくありませんでしたし町やホテルで若い人に尋ねても、羅臼峠のことを誰も知りませんでしたし、今回走ると新しい道には峠がありませんでした。
写真は車中泊した道の駅から納沙布岬の方向を望む。


 
【納沙布岬では、】


40年前には納沙布岬に到着して、ノシャップ岬と間違っていたことに気付きました。当時望郷館に登り、歯舞諸島の島々が手が届く位の近さにあることに驚きましたし、冷戦の真っ最中でしたので、ソ連海軍の艦船が直ぐ近くで監視していたことを思い出しました。今回、島の監視塔は見えましたが、監視船は居ませんでしたし、岬の灯台の先には野鳥観察小屋がありました。平和なんだなあと思いました。沖に漁船が数隻出ていたので、望郷館で職員に尋ねると昆布漁とのことでした。帰り道で、花咲に寄り郷土資料館を見学して、受付の若い女性に昼食のお勧めを尋ねたら、有名なカニラーメンの店を教えてくれました。昆布だしのラーメンだと思い、店に入るとテレビの旅番組で紹介されてからお客が増えたと女将さんが旅の客に説明していたので、席に着くと直ぐにカニラーメンを注文しました。直ぐに出されたラーメンには脂が浮いていたので、昆布だしですよねと従業員に尋ねると鶏ガラとのこと。腹がへっていたので冷凍カニと麺は食べましたが、スープは全て残しました。市販の鶏ガラスープに近い味でした。高額でしたので思い込みの強さを反省しました。

写真は、早朝に到着しましたので、誰も居ない岬の展望所と岬の灯台です。 




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