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気ままに来らむ 『時空をこえて』!

熟年男の一人旅 No2 :久木田憲司

10月23日更新

 


【もう一の目的地】


日本海沿い道を外れて40年前には通らなかった内陸の名寄市に今回は立ち寄った。その訳は大学時代の友人の仏壇に手を合わせるためである。詳しいことは、コラムナンバー28番、2014年11月14日付け掲載の気ままに来らむを読んでもらうと分かると思う。彼は牛の臨床獣医師として日本の畜産の川上において貢献し、私はと畜検査員・獣医師として畜産の川中の関所において貢献してきたと思っている。鳥取の実家から遠く離れて位牌を一人で守る奥さんとは午前中の二時間程の懇談であったが、彼の死を聞いた時に体が震えたのが昨日のことのように思いだされた。遠く離れた孫もいて、ばあちゃん業も板についてきているなと感じ、彼も幸せだったんだなと思った。彼の遺影は、彼が急に言い出して亡くなる一週間前に町の写真館で撮られたという3世代家族集合写真からのものだという。末期ガンの痛みの中でも彼の目には幸せが溢れていた。仏壇には持参した球磨焼酎と彼が好きだった武者がえし添えて、おいとまごいもそこそこに天塩町に向かう車の中では彼を思い出す曲であるエレファントカシマシの俺たちの明日が流れていた。
写真は訪問する朝に駅前のホテルから名寄市内の彼の家の方角を眺める。遠くに無料の自動車専用道路が走り、これを使って彼は牛の急病に対応していたんだなと思った。10/17
 
 


【稚内はわからない】


車にナビがあるので、稚内駅が分かりましたけど、駅舎が新しくなりその並びも90度変わっていましたよ。昔の駅舎は線路と平行に建っていましたけど、最北端の線路端がありましたので分かりました。また、そこにある道の駅で車中泊しましたが、専用のトイレがなく、離れた駅舎のトイレか横の公園のトイレを使うようになっていました。また、そこは地元通勤客の駐車場として使われているようで、夕方は満車状態であっても19時過ぎにはガラガラにになり、朝の通勤時間帯になると入庫が一気に増えました。稚内市には海の駅もあります。日帰り温泉もありますのでそちらがくつろげますよ。
写真は最北端の線路端越しにみる稚内駅舎 10/17
 

 
【利尻島へ】


実は当時自転車で稚内に向かって走るまでは、利尻島の存在を私は知りませんでした。日本海沿いを北上していると、左前に小さく見えていた島が次第に大きくなって美しい島になりました。それで島に渡ってみることにしました。10/18
稚内市のノシャップ岬から望む利尻島です。 フェリーから見える利尻島です。山頂が冠雪していますよ。利尻富士と言われる所以ですかね?

 
【利尻島は】


40年前にあてもなく島に渡った私は、港に一番近い町営キャンプ場にテントを張り、そこをベースキャンプとして一週間滞在したので、記憶をたどりながらその辺りに行ったが、キャンプ場はなかった。それで十数キロ離れた岬のキャンプ場に行ったが、車中泊には適してなかった。それから、津波対策として高台を目指して走って確認し、岬近くに島内唯一の天然温泉かけ流しのホテルがあったのでそこを宿とした。過去に映画ロケ地になったことを高らかに歌っていたが、温泉はいまいちであった。翌日、もう一度当時キャンプ場を探して走り回った。日曜日で役場は休みだったので、地元の人に尋ねてみたが誰も知らなかった。
しかし、飛び込んだ施設の管理人が教えてくれた。取り壊されて新しい別の施設になっているとのこと。行ってみると、道は広く立派になり町の温泉施設が建っていた。これでは分からなかったのも無理もないと思った。
また、当時港のターミナルビル内にあった大衆食堂で食べた利尻ラーメンが昆布だしでおいしかったので、観光案内所で尋ねたが分からないということで今のターミナルビルの前にある食堂を薦めてくれた。しかし、値段が高い割にはいまいちであったので、もう一軒薦めてくれた岬近くの店に行ったが、本州のイベントに参加するために長期休業とのことであったので、シンプルでおいしかった利尻ラーメンを食べれなかったのが、残念無念でした。10/18
 
写真は港横の岬に登り、フェリーターミナルを見下ろしました。40年前はここで半日時間をつぶしましたが、当時は船の出入りも多く活気がありましたよ。

 
【利尻富士は】


当時利尻山の姿に見せられた私は、山の高さがいつも登っていた1720メートルくらいの鳥取の伯耆大山と同じくらいなので大丈夫だと思い、利尻富士の山頂に立ちたいと思った。キャンプ場の近くにあるユースホステルが天気が良い日は山頂で朝陽を見るために有志で夜の8時から登山を始めるという情報を得て、一緒に登った。しかし、大変きつい登山だった。そのわけは3つ。一つ目は伯耆大山は途中まで車で行き登るが、利尻富士は港近くからの登山だった。二つ目は、五合目に着いても高さは300メートル台だったので、それからの傾斜がきつかった。三つ目は夜露で足下が滑り、山頂近くでは傾斜が45度を越える程になり両わきの樹木につかまりながらはいあがった。ただ、山頂で朝陽を拝めたことでその疲れがぶっ飛んだことを覚えています。しかし、今回は登山しなかった。そのわけは、山頂の冠雪よりも今の自分の体力でした。

一枚目の写真はオタトマリ湖に映る逆さ利尻富士です。二枚目の写真は利尻島から礼文島に向かうフェリー上で眺める利尻富士です。島の天気は猫の目のようにめまぐるしく変わりましたよ。 10/19

 
【礼文島には】


当時礼文島に渡ったわけは、1721メートルの利尻富士の山頂から礼文島を眺めて、行きたいと思ったからですが、今回も渡ったわけは足跡巡りとともにある家を探したかったからです。当時のメモ帳をなくしてしまいましたので、住所も名前も覚えていません。ただ、一宿一飯の恩義がある家です。当時の旅では、主にテント、寺、神社に宿泊しましたが、礼文島では、唯一人家の納屋に泊まりました。当時礼文島に渡ったら、夕方からは雨が降りそうでした。それで、フェリーで知り合った自転車部の道内の男子高校生と、泊まれる場所を南北に分かれて探すことにしました。私は南を担当して探しました。夕方に約束の場所で落ち合うと、彼が良い所があったといって案内してくれました。そこは、民家でして客間には旅の仏師夫婦が泊まっているので、申し訳ないが納屋に泊まってくれと家の主が言われました。私達は雨露がしのげるだけで幸せでした。納屋でそれぞれに持参した簡単な夕食を済ませていたら、母屋に呼ばれて仏師夫婦と懇談しました。翌朝は朝食をご馳走になり、雨もあがったのでおいとまごいもそこそこにあとにしようとしたら、私達の旅の安全を祈ってくれました。今回、泊まったホテル、コンビニ、観光関係者にも尋ねましたが分からないとのこと。それで、家が道路よりも低い土地に建っていた記憶を頼りに探しました。しかし、道路が広く新しくなっていて道よりも低い家が少なく、数軒訪ねましたが、不在が多かったです。島の人口が40年前の三分の一に減少していますと今朝語ったホテルフロントの男性の言葉が思いだされました。玄関で対応してくれた女性も、舅姑も他界し、夫も道内に仕事に行っているので分からないと話し、道路が新しくなる前はほとんど家が道路よりも低かったと教えてくれました。それで、地区のお宮に行き、大枚の賽銭をあげて40年前のお礼を述べるとともに、この地区の五穀豊穣を祈ってあとにしました。 10/19

一枚目の写真は、礼文島の北端の岬です。
二枚目の写真は、礼文島の地蔵岩。
三枚目の写真は、礼文島の桃岩。 
四枚目の写真は、礼文島にある映画ロケ地の丘から望む利尻富士。


 
【宗谷岬では】


40年前の旅の目標は宗谷海峡で泳ぐことでしたので、岬の先の海に入り軽く泳ぎましたが、今回はやめました。理由は寒さです。歳もあるかもね!
当時のサイクリストは連れだって走る人が多かったのですが、私は主に一人で走っていました。ただ、礼文島での高校生とは稚内港からは連れだって走ることにしていましたが、礼文島からのフェリーでその高校生と知り合った東京の大学生も一緒に走ることになりました。
その大学生のために宗谷岬までの間に二回休憩を取りましたが、彼は宗谷岬には30分近く遅れて到着しました。それで、それからはそれぞれのペースで走ることにしました。鳥取で峠越えの訓練を二年近くやっていた私には知らぬ間に脚力が付いていました。次の猿払村までは高校生も着いてきていましたが、次のクッチャロ湖には高校生も現れませんでした。それ以来、その高校生と会うことはありませんでした。
今回の宗谷岬には台湾や香港からのツアー客が多くいました。次から次とツアーバスが来るので、私は近くの丘に登りました。そこには灯台があるのですが、昔はなかった色んなものが建っていました。ただ、それよりも驚いたのは、そこに雄のエゾジカが一頭いたことです。そして、もっと驚いたのは、逃げないことでした。旅の途中の丹後半島で出会ったニホンジカは私に気づいたら直ぐに立ち去りましたが、そのエゾジカは私と10メートルほどしか離れてないのに、私を見つめて逃げません。悲しいことですが、観光客から食べものをもらったことがあるなと思い大声をあげて追い払いました。このままでは、奈良のニホンジカと同じようになってしまうと思いましたよ。 10/20
 
写真は、宗谷岬での私ですよ。




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