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気ままに来らむ 『時空をこえて』!

「ビックリ・どん(前震)・どん(本震)」はあさま山荘やで!:久木田憲司

2016年5月31日投稿 

前震と本震のなか日は私だけ仕事が休みでしたので、食器棚(二棹)の上段の食器・酒を全てキッチンとダイニングの床の上に避難させました。それで、本震でも全て割れませんでした。 前震と本震のなか日の夕方には、記念品のバカラのワイングラスとロックグラス、実父の形見の鶯徳利、義祖父の形見の九谷焼のお調子は地震対応の鉄則どおりに居間のテーブルの下に避難しましたので本震でも割れませんでした。

 

 嘗て、濟々黌設立者・佐々友房氏の孫である初代内閣安全保障室長の佐々淳行さんが言っていた「東大・安田講堂事件での全学連との攻防では警察庁にも余裕があったが、あさま山荘事件での連合赤軍との攻防では、最前線で仲間が次々と倒れていく中その余裕は完全に無かった。」と同じように、熊本地震での前震では私にも余裕がありましたが、本震は「これはやばい」と思うくらい凄いものでした。

 それは、前震では近くに住む三女夫婦がその後の強い余震が続く中で我が家に駆けつけて来て、自宅近くの清水小学校の体育館は地域住民で溢れかえり、校庭と運動場も車でいっぱいになっているから安全な所に避難したほうがいいと誘いに来ました。しかし、我が家は平成元年に建てて27年余り経っているが、地震に強い家を建ててほしいという私の要望を受けて一級建築士は基礎コンクリートを通常よりも厚くし、とおし柱(1階から2階まで1本での柱)を15本使って(当時の通常は5本から7本)建ててくれました。それで、絶対に倒れる事はないし、たとえ倒壊して下敷きになって死んでも本望だと言って、娘夫婦は避難しましたが私たち夫婦は自宅に留まりました。

しかし、本震の時は我が家に避難していた三女夫婦が私たちの寝室に来るやいなや「逃げよう!」と言いました。その訳は、ボクシングに例えますと我が家は今までに経験の無い有効パンチ(前震)を食らってもダウンしなかったのですが、それから強いボディーブロー(強い余震)を数発食らっている中で一発目よりも強い有効パンチ(本震)を食らいダウンはしていませんが、暗闇の中でもう一発食らったらやばいかもと思ったからでした。

それから、余震が続く中昼間は我が家で過ごしましたが、夜は避難所で車中泊を3泊しました。以前話しましたように、のじゅくが趣味の私は車中泊では家族皆がフラットな床で脚を伸ばして就寝できる空間を確保していましたので、エコノミー症候群になる事はありませんでした。

幸いな事に我が家では自宅にも家具にも食器(写真)にも被害はありませんでしたが、長女夫婦の家は一昨年新築したばかりでしたが、内壁クロスに亀裂が入りバカラなどの高価な食器が全て壊れたそうです。

 それから、仕事で週に3回避難所応援に従事するとともに、ボランティアでも地元の清水小学校避難所の支援を行いました。避難所が集約されてからは被災地の現地調査の仕事でてんてこ舞いしています。

 今春役職を離れて気楽に再雇用生活をエンジョイしようと思っていたのですが、想定外な事となり役職の頃の3倍の仕事量をこなしている私ですが、人生は思うようにはいかないものですね、ほんとに。

 ただ、私は普段は質素な生活をしていますが、住む家と自家用車の安全性にはお金をかけてきたことは正解だったと改めて思いました。




本震では大丈夫だったのにその3週間後の余震で石垣が崩落した馬具櫓
左端の熊本城の名が入った石塔は本震で左横を向き、馬具櫓の石垣は余震で崩落しました。




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