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気ままに来らむ 『時空をこえて』! |
馬の嘶きと霧の中で、思いは八幡原の戦いに:久木田憲司
2015年1月14日投稿
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-上杉謙信の馬は放生月毛- |
熊本市食肉センターは、昨年度で牛・豚のと畜業務が終了し、現在は馬のと畜業務のみを行っています。そこでは、年末・年始は馬刺しの需要が増大するので、年末は毎年30日まで午前7時から業務を行ってますが、馬のと畜頭数が一日100頭を超えていた15年位前までは午前6時から業務を行っていました。 その頃は、夜明け前の暗闇の中で馬の嘶きがあちこちから聞こえ、と畜検査のため検査員として現場に立つと、ドアを開けた急速冷凍庫からあふれ出す冷気が霧状になり、解体場内全面を覆うことが多く、馬の嘶きと霧に包まれた中で黌校時代は歴史学者になろうと思っていた私は、川中島の八幡原に思いを寄せていました。 武田信玄と上杉謙信が5度戦った川中島の戦いにおいて、4度目の熾烈を極めた永禄4年(1561)の八幡原の戦いでは、武田軍の啄木鳥戦法(奇襲作戦)を見破った謙信は、陣を張っていた妻女山に約100人の勇士を残して、全軍闇の中、山を下って千曲川を渡り八幡原に兵を進め陣形を整えます。夜が明けて霧が晴れると信玄本陣の目前に陣形が整った上杉軍本隊が姿を現し、車懸かりの陣形(巴の陣形)で果敢な攻撃を仕掛け、武田軍は鶴翼の陣形で守備体制に入って、川中島の戦いの中での最大の激戦が始まります。妻女山への奇襲攻撃が空振りに終わった武田軍の主力が、急いで山を下り戦場に到着して攻勢をかけると数でわずかに劣る上杉軍は越後に撤退しましたので、武田軍は八幡原で勝ち鬨を上げました。 しかし、この戦で武田軍は信玄の弟・信繁や軍師・山本勘助を含む名だたる武将が命を落としていますし、上杉軍の智将・直江兼続らが約5千の兵で後詰めの陣を張って武田軍の進撃を止めたので、上杉軍は自軍の勝利だとしたと記録には残っています。 その後、川中島一帯は武田の支配下になったそうですが、武田軍は有力な武将を失ったので、この戦いが武田氏滅亡の遠因になったのではと私は思っています。 15年位前、馬の嘶きが響く霧の中から馬の内臓を運んできた白装束(白い作業着)の解体補助員が内臓検査台の前に現れると、信玄のごとく「待っていたぞ」とつぶやき、腰の鞘から剣先光る刃を抜き身構える私であり、その時は、「鞭声、粛々、夜河を渡る」が心の中で流れていました。 解説: 時代がやや下って、織田信長軍の長槍隊や鉄砲隊が主力となる戦法が戦場での主流になる以前は、陣形が戦においては重きを成していたそうです。 車懸かりの陣形とは、中心に本陣を据え各隊列が車軸のように構えた陣形で、各隊が本陣の攻撃進路に合わせて車輪のように同じ向きに回転しながら攻めたてるものだそうです。それで、守っているほうは敵が前から、続いて横から、そして後ろから襲い掛かってくるそうで、やり過ごしても次の隊の攻撃を続けて繰り返しで受けるそうですので、兵力で劣る信玄本陣の各隊は混乱したと記録されています。 また、現在テレビや映画での平安時代から幕末までの戦闘シーンにおいて使われる馬は、サラブレッド種の軽種馬で、明治以降に帝国陸軍に導入された西洋馬術で騎乗しています。それ以前の馬術は、大相撲の新鋭関脇・逸ノ城の故郷であるモンゴル高原での騎乗方法に近いもので、鞍の上下運動がありません。腰の位置が水平に動く乗り方ですので、矢を射る場合でもぶれが少ない騎乗術です。 宮崎県・都井岬の御崎馬もそうですが、江戸時代の各藩には、軍馬を育成する牧があり、そこにはそれに携わる武士集団が居たそうです。私の祖先(祖母方・前田家)も、都城の北郷(ほんごう)島津家の牧を守る武士で、殿様の乳母を出した家だったと、昔、本家(前田)の伯父が話してくれました。 ちなみに、私の腰の鞘は衛生的なプラスチック製で、剣先光る刃は刃渡り25cmのステンレス製の内蔵検査刀です。 |