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気ままに来らむ 『時空をこえて』!

黌門前の坂道は・・・分かれ道???
久木田憲司

2014年8月21日投稿

黌内の正門の横に掲示された昭和45年・濟々黌高等学校入学試験合格者掲示板の写真です。当時は番号だけではなく、氏名も掲示されていました。当時は普通の中学生はカメラを持っていませんでしたので、これは合格発表日当日に濟々黌写真部が販売していたものです。
                          

 
先日、私が幹事を務めて中学校の還暦クラス会をしました。42人のクラスメートの内23人の出席があり、小・中一緒だったA君も県外から出席してくれて、遠くは埼玉県からも駆けつけてくれました。出席された当時のクラス担任でサッカー部監督兼部長のF先生も大変感激されました。

そのクラスからは5人が濟々黌を受験しました。その内のA君、10組・小島君、11組・宮川君の3人はサッカー部員で、9組・永井君と私は帰宅部員でした。中3の時の3者面談では、帰宅部の二人は子飼橋の向こうの第二濟々黌(熊高)を勧められましたが、私は当時県内で強豪校であった強いサッカー部に入りたい理由、永井君は父親の影響で濟々黌を希望しましたので、私のクラスからは熊高を受験する者はいませんでした。また、その中学校でのトップクラスの生徒は、皆濟々黌を受験したように記憶しています。

それで、その年は入試での合格最低点が熊高をすごく上回り、平均点でも遜色なかったので、入学後、黌校1学年担当の先生達が「今年の新入生(48会)はすごい」と色めき立っておられたことを覚えています。(半年したら、例年と一緒でしたけどね。)

そういう状況でしたので、合格者発表掲示板には5人の内A君の名前だけがありませんでした。その日、一人、濟々黌正門前の坂道を降りていくA君の後姿を今でも覚えています。
サッカーの素人だった私は、高校入試が終わり黌校入学までの約1ヶ月間は近くの小学校グラウンドで毎日のように宮川君からサッカーの特訓を受けました。しかし、彼はサッカー部には入らずに新聞部に入りましたので、結局、中学校サッカー部・主将だった小島君と私の二人だけがサッカー部に入りました。

万年補欠だった私は1年生の3月末に退部し、その後キャプテンになっていた小島君の誘いで2年生の冬にマネージャー専任で復帰しました。
小島君は一浪後、大分大学でサッカー部に入り、就職した会社でもサッカーを続けて大学時代の女性マネージャーと結婚して、今も幸せ一杯だそうです。

今から15年前にF先生の還暦を祝うクラス会に参加した折に、中学卒業以来初めてA君と会いました。口数の少ないA君からは、高校ではサッカーをしなかったこと、まだ一人身で、長男だが大学卒業以来県外で働いていることを聞きました。

今回、集合写真を撮影する為に中学校正門で会った時も、彼は15年前よりも穏やかな表情になっていましたが、私はなぜか当たり障りのない話しかできていませんでした。しかし、一次会の一人2分間ずつのスピーチで、孫がいるという彼の言葉を聞いた時「えっ?」と思い、結婚した相手が子連れでその子が出産して初孫ができたということで、皆から歓声が上がりました。

スピーチでは、皆それぞれの現況を語りましたが、私にとって一番うれしかったのはこのA君の話でした。
最終列車で愛妻と孫が待つ自宅(県外)に帰るという彼を一次会会場前で見送り、私は皆が待つ二次会会場に足早で向かいました。

当日は、東京に住む小島君は長男の結婚式で欠席、永井君は鬼籍に入り、宮川君は48会名簿でも住所不明です。

川を渡るにはまだ早すぎて永井君に会うのは無理だけど、小島君と宮川君には「よー」と逢いたいものですね。
 



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