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気ままに来らむ 『時空をこえて』!

生活路地が「うらぶれ通り」から「上之裏通り」になって

久木田憲司
  2014年8月13日投稿

通りを小島商店跡から南に見た眺めです。左右に飲食店が点在し、その先の右手にグリル・ドゥ・ギャンが有ります。 グリル・ドゥ・ギャンの横から通りを南に見た眺めです。右手先に堀田君、小堀さんのテナントビルがあります。
                                  
 
「上之裏通り」は、昭和から平成になる頃から先駆け的に古い町屋や蔵を改造して、やる気のある若い料理人に安いテナント料で貸し出し、活気溢れる街になって行きました。
しかし、私が帰熊し、熊本市保健所の食品衛生監視員としてその地区の担当になった昭和57年頃は、そこら辺りは「うらぶれ通り」でした。

その通りは私の黌校時代は商売人が住む生活臭が溢れる路地で、熊電・藤崎宮前の香川駐車場側から通りを歩くと、10組・小島君の実家「小島商店」、9組・堀田君の実家「堀田製麺」、5組・小堀さんの実家・八百屋「八百広」、9組・中島君の実家で立派な門構えの「中島邸宅」が点在していました。

食品衛生監視員の頃、食品製造業の立ち入り調査の時間調整では、小島商店で彼のお袋さんと何度か立ち話をし、堀田製麺では、そこの立ち入り調査の後に、対応されたお袋さんに堀田君は濟々黌の同級生ですと話すと、「あらそうね。宗作は県庁に行きよるたい」と話されて、お茶とお菓子をご馳走になりました。

 また、当時は継続営業申請での旅館の立ち入り調査もしました。その中には、、男女が愛を確かめ合う和室・四畳半一間の宿もありました。そのての宿も白川の向こうの新屋敷周辺では和室六畳となり、渡鹿あたりになると和室・二間で、入って直ぐが居間で、奥の間に寝床が一つ、枕が二つ並べてありました。そのうちの数軒は、30歳代後半か40歳代前半の美しい女性が経営されていました。その歳ですごいなと思いましたが、旅館業組合の幹部の方に後で聞いた話では、大店の旦那さんが芸者上がりの御めかけさんにさせていたそうです。まだ、昭和が残っていた頃の話です
平成になってからの上之裏通りでは、8組・中村君の妹夫婦の店「グリル・ドゥ・ギャン」、堀田君の妹夫婦の蕎麦処「ひさや」は48会でもよく利用しました。

しかし、通り周辺に3店舗あった「グリル・ドゥ・ギャン」関連店は、今は1店舗になっていますし、「ひさや」は閉店して他の店に貸し出されています。
小島商店は更地となり別人の建物(住居)になっていますし、小堀さんの実家「八百広」と「中島邸宅」はテナントビルになっています。
今もはやっている店は数軒ありますが、通り全体の活気は最盛期より少し無くなったような気がします。

 かつて、国内ファッションの先進街として全国にその名をはせた新市街の「シャワー通り」が今は見る影もなくなったように、「上之裏通り」がまた「うらぶれ通り」に戻らないか、私は勝手に一人で心配しています。



5組・小堀(旧姓:桧垣)さんの話:
私の両親のお店は八百広という屋号で、本当に古くて、小さいお店でした。住所で言いますと、上通10-15ですが、上の裏通りになります。私が記憶している母黌関係者は、堀田君のお家の製麺所、書道の清水先生と社会科の伊藤先生の奥様のご実家が近くでした。

私の家の二階は狭すぎて、私は赤ちゃんの時からずっと、立田自然公園近くの母の実家に預けられ、済々黌へもそこから通いました。堀田君のご両親は、障害者の方達をたくさん社員にされていて、その方達が、うちの店へも配達にいらしていたのを良く覚えています。皆さん、楽しそうに働いていらしたのが子ども心に印象的でした。

そういうわけで、住んでいなかったので、東京同窓会でお会いするまで、堀田君とも初対面でした。あの通りも昔は、八百屋だけで4件、魚屋、古本屋などなどがあり、今と違う活気がありましたね。当時の写真は、あります。古すぎて、時々新聞に取り上げられていました。お店は、多分1951年から2000年位まで営業していました。やめた後に新築し、母が、お菓子などをおいて"お休みどころ 桧垣"として、八年程昼間旧知の方とすごしました。両親ともなくなり、昔の話も聞けなくなりましたが、あの近辺の方とは、親しくおつきあいしています。

 今は、テナントビルにして貸しています。三階は、ワインバーですが、そこへ知り合いと行くと、つい飲みすぎます。住んではいませんでしたが、特別な場所だからだと思います。機会がありましたら皆さんをご案内しますよ。


 



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