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気ままに来らむ 『時空をこえて』!

山中謙先生と宿沢広朗選手に惹かれて
久木田憲司


2014年7月14日投稿

当時のままの九州女学院(今はルーテル学院)・正門を抜け、両側を女生徒が登校する坂道を登り、左奥に幼稚園はありました
                                                                 
 
約1ヶ月間続いたFIFAワールドカップ・ブラジル大会も、今朝のドイツの優勝で閉幕し、これで寝不足になる事はなくなりますが、「祭りのあと」状態となり、チト淋しくなりますね。でも、4年後のロシア大会を楽しみにしましょうかね。

黌校2年生になり、サッカー部を退部した私は万石道路を歩いて登黌していました。すると、「クキタ―!乗らんかー!」と言って、2年生の他のクラスの担任だった山中謙先生(濟々黌・昭和26年卒)が愛車「スバル360」に拾ってくれました。

先生は、当時宅地開発されだした清水ヶ丘団地に新居を構えられて、お子さんを九州女学院幼稚園に送ってから黌校に通勤されていました。それで、車は万石道路から「ゆうれい坂」を登り、当時の九州女学院正門のところで左折して院内の坂を上り幼稚園駐車場まで行き、私は幼稚園まで見送りに行っておられる先生を助手席で一人で待っていました。当時の九州女学院は大学が無くて中高だけの女学校でしたので、男子禁制の女学院の中で黄線帽子を被った私は両側から振り向いた女生徒にジロジロと見られました。

部活をやめた私が遅刻しだした事が学年(2年生)の先生の間で話題になっていた為か、それとも、重いかばんを持って歩いていてかわいそうだと純粋に思われていたのかは、聞いていませんので今でも解かりません。

しかし、同級生の中で自分だけがいい思いして悪いなあという思いと、九州女学院の女生徒に毎朝ジロジロ見られるのが嫌になり、通学のルートや時間を変更しましたので、拾ってもらう事は次第になくなりました。
ただ、ラグビー部長兼監督だった先生が車内で話されるラグビーの話と先生の人柄に惹かれて、サッカーで芽が出なかった私は、ラグビーが次第に好きになっていきました。それで、ラグビー部の練習もたまに遠くから見ていましたし、テレビでラグビーが中継される時は、早明戦を中心に必ず観戦していました。

テレビの前で、いいなー、すごいなーと言って夢中に見ている私に対して、「東京の大学ラグビーは、金持ちの子どもがするスポーツだけん」と母は話しましたが、テレビで観る早稲田大学の9番の宿沢広朗には憧れを持ちました。
彼は私と同じくらい低い身長(162cm)で、高校日本代表や全国大会出場などの華々しい経歴は何もないにも関わらず、レギュラーのスクラムハーフ(9番)をしていましたし、日本代表のレギュラーの9番を務めていました。

当時の早稲田大学は、スポーツ推薦の制度もなく、受験自体が大変で、入学したくても入れない大学でしたので、高校日本代表や全国大会出場経験者は当時からスポーツ推薦制度があった明治大学や法政大学に入学していました。それで、往年のライバル・明治大学との早明戦は、力の明治に対して戦力的には劣っている早稲田が、年齢や序列に関係なく皆が知恵を働かせて、たくさんの勝つためのノウハウを作り上げていくゲーム展開で、非常に面白いものでしたよ。

卒業以来初めて大同窓会で山中先生にお会いした時に、私が大学卒業後直ぐに鳥取県立農業高校の常勤講師をして、高校に残れるものなら残りたかったと話した時に、先生は濟々黌から菊池農業高校に異動になって本当によかったと話されました。先生は清水ヶ丘団地の住居はお子さんに譲られて、ご本人は菊池のほうに新居を構えら、畑作業もされていたようでした。
山中先生は平成12年7月30日に、宿沢広朗さんも平成18年6月17日に黄泉の国へと旅立たれ、今はもう二人の話を聞く事もできませんが、川の向こうでお二人はラグビー談義をしているのでしょうかね?

※宿沢広朗氏のプロフィール。
ラグビー実業団からの多くの誘いがあったが、大学卒業後は実業団には進まずに、住友銀行に入行し、7年半ロンドン支店に駐在。伝説の為替ディ−ラーとして知られ、最終的には三井住友銀行取締役専務執行役員コーポレートアドバイザリー本部長となり、常に金融業界の最前線を走った。
http://livedoor.blogimg.jp/syukuzawajapan55/imgs/9/0/903e3fa1.jpg ラグビーでは、指導者としてその素質が開花して、平成元年〜3年に日本代表監督を務め、スコットランドを破る大金星を挙げ、平成3年の第2回ラグビー・ワールドカップのジンバブエ戦で、日本代表ワールドカップ初めての勝利をあげた。代表監督の中では最も実績があり、平成6年には早大の監督も務めた。
しかし、彼の持論はラグビーは名誉を得るスポーツで、サッカーのように小さい時からプロを目指して育成され、優遇されて巨富を得るものではないというものだったので、それ以前からプロ化が主流となった世界のラグビー界の潮流では、彼は時代遅れだったのかもしれませんね。


山中謙先生(濟々黌・昭和26年卒)
48会卒業アルバムからのもので、学ランを着て写っておられます。黌校の先輩でもあり、お茶目な先生でした。
大学時代の宿沢広朗選手
 

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