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気ままに来らむ 『時空をこえて』!

ゆうれい坂:久木田憲司 

2014年5月12日投稿


 
◆右手のルーテル学院正門を通り過ぎ、
北東(鬼門)に向かう小道。
 
◆小道の先は坂となり、昼間でも人通りはありません。右手の土手に獄門されて、さらされたそうです。
 
◆小道の反対からの入り口には用水路がありまして、小学生の頃には田植え時期と大雨の時は大量の水が流れていました。これが役人が溺死した井手かどうかは分かりませんが昔からあるそうです。

 
◆夜は街灯と学生用のワンルームマンションの灯りはありますが暗いです。
 
先月の48会・クラス幹事会終了後、3組・宮本君、10組・吉永愼一君との3人で濟々黌近くの居酒屋で懇談し、2時間ほど楽しい時間を過したあと、二人と別れて30分程ほろ酔い気分の千鳥足で歩いて帰宅しました。

濟々黌からバス通りを北に120メートルほど歩いたら、近道のルーテル学院(旧:九州女学院)正門に向かう細い道に入り、正門を少し過ぎたところで、「はっ」と我に返り、その道を引き返してルーテル学院正門前の坂を下ってバス通りにもどり帰宅しました。

細い道を引き返した訳は、その道の先にある下り坂が清水校区の松崎・亀井・万石に昔から住んでいる住民に言い伝えられている「ゆうれい坂」だったからです。
日が昇っているときは通りますが、黌校時代のサッカー部・部活の帰りでも日が暮れたら私は通りませんでした。その訳は、小学生の時に近所の農家のおばあちゃん達からこっそり聞いた話からです。

それは、江戸時代末期において、その坂で清水村室園地区の農民十数人が張付け獄門の刑に遭い、見せしめの為に永い間曝されたそうです。
その事件は、清水村室園地区を治める細川藩の役人がその地区の宴に出席したあと、酔っ払って帰りに疏水(井手)に落ちて溺死したそうです。事故として処理されるところが、近くの竜田山麓(清水村室園)に別宅(拝聖院)を構えていた細川藩医・鳩野氏の通報により、その役人の厳しい支配に対して不満を抱いていた室園地区農民の飲ませ・食わせ・酔わせての謀略による事件となり、室園地区の有力農民十数人に嫌疑がかかり、処刑されて曝されたそうです。

それ以来、無念の怨念が住み着き幽霊としてあらわれると言われるようになり、昭和40年代初めまで地元農家では言い伝えられていました。

拝聖院は明治10年の西南戦争の時の日赤発祥の地の一つであるということで、近年「拝聖院顕彰会」が結成されました。地元の住民にも参加が呼びかけられ、戦後の宅地開発で清水校区に移り住んだ方々は積極的に参加されていますが、昔からお住まいの方は黙り込んで参加されません。清水校区まちづくり委員会・副会長をしている私が参加しない訳を個人的に尋ねると、終戦前からお住まいのお年寄りからは必ずこの話が出てきます。
松崎・亀井・万石には、古くからある農家(今は土地持ちの不動産貸付業)の姓が今でもそれぞれいくつかありますが、何故か室園にはその姓が一つしかありません。

戦後に移り住んだ私にはそれがなぜなのかは分かりませんが、歴史学の常識論でいうと、勝者側の話は語り継がれ文字となり残っていますが、敗者側の話で、特に負の歴史は語り継がれることはあっても文字として残ることはありません。この話もどこまでが真実なのかを今確かめることはできませんが、語り継がれてきたことは事実です。

ただ、幼心にも部外者には話してはいけないという思いを私は抱いたので、黌校時代には同級生の誰にもこの話をしませんでしたけどね。
 写真を見ればお分かりでしょうが、現在、昼間でもこの道を歩いて通る人はなぜか少ないです。
 
 

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