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気ままに来らむ 『時空をこえて』!

 ホームにて:久木田憲

2014年5月8日投稿



学生時代の想い出をたくさん乗せて走ってくれた、急行列車「さんべ」


今は日本テレビ系列のKKT・くまもと県民テレビの「ケンミンショウ」が人気番組になっているおかげで間違われる人は少なくなりましたが、
10年位前までは、私が鳥取大学卒業ですと話すと、熊本では「ああ山陰のとっとり」と言いながら隣の島根県の話をされる方が年配の方にも多く居られました。

私自身も40年余り前の大学入学試験願書出願の時は「鳥取」を「取鳥」と書き間違えてしまうほど、熊本とは縁が薄い地方が山陰だったと思います。

現在、熊本は昔の肥後が県全域になっていますが、江戸時代までは、鳥取は因幡(東部)と伯耆(西部)の二つの国、島根は出雲(東部)、石見(西部)の二つの国でした。人口は少ないですが海岸線は約690km(ちなみに、荒尾市から水俣市までは約150km)あり、瀬戸内海にあてはめると広島、岡山、兵庫の3県分をこの2県で占めています。

その長い海岸線沿いを毎日運行する「さんべ」という急行列車が私の学生時代にはありました。その名前は島根県中央部、大田市・飯南町にまたがりそびえる三瓶山(さんべさん)に由来していて、1号は熊本発・鳥取着、2号は鳥取発・熊本着で、それぞれが8時半頃に発車し21時頃に到着しました。3号は博多発・米子着と米子発・博多着があり、それぞれ21時半頃に発車し、7時頃に到着する夜行で運行していました。

 寝台ではない普通の対面四人がけの固定席での列車でしたので、いろんな人と相席になりましたが、今でも印象に残っている出来事がいくつかあります。
その一つは、夜行で米子から博多に向かっていた時のことです。島根県東部あたりで、突然、向かいの席に若い女性が飾り荷物など何も持たずに倒れこむように座り、人目もはばからず泣かれました。戸惑った私は、少し落ち着かれるのを待ち、容器入りのお茶(当時はペットボトルのお茶は存在しない)と煎餅を「召し上がりませんか」と差し出すと、お腹がすいておられたのか貪るように大きめの煎餅を数枚召し上がられました。落ち着かれて話をお聞きすると「事故で父危篤」の電報を受け取り、とにかく急いで列車に飛び乗ったそうです。
小さい時にお母さんを亡くされ、男手一つで彼女を育ててこられたそうで、自分の希望で親元を離れて進学したことを後悔されていました。柄にもなく(まるで神父さんのように)聞き役に徹していましたら、小さい時のこともいろいろ話されまして、私も少しもらい泣きをしました。
「貴女の親離れをお父さんはきっときっと喜んでいたんじゃないのですか」と話した記憶があります。2時間ほど相席し、郷里近くの駅に到着すると、お茶と煎餅のお礼を述べて下車し、ホームにて改めて会釈をされて足早に去って行かれました。

もう一つは、やはり夜行で博多から米子に向かった時、福岡の大学に通う黌校でクラスメイトだったS君と偶然にホームで出会いました。卒業以来でしたが、彼は山陰の郷里に帰る彼女を見送りに来ていました。自由席でしたので、彼の意向もあり私は彼女と相席することとなり、ふとさびしそうな表情を見せる彼女に道中いろいろと話しかけることになりました。
それで、私は同級生として黌校時代の彼の良い思い出話を語ったと記憶しています。3時間ほどしたら、丁寧にお礼を述べられて浜田市あたりで下車されまして、ホームにて汽車の出発を見送ってくれました。それ以来S君とも会っていませんので、その後、二人がどうなったかは知りません。

大学時代には、私は女性シンガーでは荒井由美と中島みゆきの曲をよく聞いていました。夜行列車に乗る時は、心の中ではいつも、中島みゆきの「ホームにて」が流れていました。それで、数年前に東京に出張した時に、この曲がJR東日本のCMとして流れてきた時には、「さんべ」での色々な出来事を思い出しました。

現在JR東日本でお偉いさんになっている3組・田浦君は、そのJR東日本のCMを覚えてますか?
断りも無く私の思い出の曲を使ったことも覚えていてくださいね。
48会の皆さんも機会があったら聞かれることをお勧めします。
いい曲ですよ。

どちらも三十数年前の話ですが、とりたてて美人ということではなかったけれど、おとなしく質素だったお嬢さんお二人は山陰のどこかで幸せにお暮らしなのでしょうかね。昨年11月の熊本、今年3月の東京、それぞれの濟々黌卒業40周年記念同窓会で久しぶりに会った48会の女性のようになっているのでしょうかね???

 
 


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2014.05.08更新