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気ままに来らむ 『時空をこえて』!

高校時代のぼんくらの言い訳であります。:岩原和哉

2016年3月28日投稿

NPО法人くまもと文化振興会というとこが出している総合文化誌くまもと、という雑誌(季刊)から「二代目・三代目の底力」のテーマでの原稿依頼があり、掲載された文を投稿します。

 

原稿依頼では「二代目、三代目の底力」
という特集タイトルをいただきましたが、私には底力は無く、むしろ潰さない為の努力をした35年間であったと言ってよいと思っています。

私は1954年生まれの満61歳です。父から家業のお菓子屋を引き継いだのは、大学を卒業して当時のミノルタ事務機販売(株)現コニカミノルタビジネスソリュージョン(株)に営業マンとして勤務して約4年が経過した1981年5月でした。前年の1980年の11月に結婚をしていました。1912年生まれの当時68歳の父が体調をくずし、同月12日に亡くなりました。このままでは商売を継続できない状況となり、1913年生まれの当時67歳の母は1級視覚障者でほぼ全盲ということで、廃業もやむなし、ということでした。私が就職する時点で後継者はいませんでしたから、父がやれる間は商売を継続するということになっていました。経済的には老後の見通しはついていると父は言っていましたし、それはその通りでした。
一方で、私は6人兄弟の末っ子で、長女、長男、二女はすでに結婚して、家を出ていましたし、二男はJTB、三男は読売新聞大阪本社社会部記者で、子供もおりました。その当時で創業75年だったと思います。(今年で創業111年になります)廃業はやむを得ない状況です。しかし、当時40歳過ぎのベテラン職人さんが1名、女性の従業員さんが2名、販売員さん夫婦を入れて計5名、いずれも大変優秀な方達でした。

その年から遡ること約10年前、私は高校3年の頃から、田崎市場内のうちの出店に販売員として、父の手伝いにほぼ毎日行っていました。熊本市内の私立大学時代は4年間店長として通いました。高校は黒髪にある進学校でしたが、成績は下位でした、家業のせいではありません。私の努力不足が原因だと今でも考えています。同じ高校の3年上の三男は、同じ状況にも関らず、現役で当時の国立大阪外語大学デンマーク語科に進学していました。

ここはやはり、父が一番心配していた母の行く末を思うと、私しかいないという思いとややサラリーマン生活にも、疲れていたのかもしれません。私は、家業を継ぐ決断をしました。
それと、その前の約5年間の手伝いは、家業継承をスムーズなものにしました。大学時代のアルバイトともいえる手伝いは、市場店の月商の3%を報酬として貰うというシステムでした。当時はよく売れていて、平均月150〜200万円位売れていましたから、4万〜6万円位は貰っていたと記憶しています。学生時代写真部だったので、このお陰で高校2年のときに買ってもらった質流れの一眼レフのカメラを買い替えたり、サークル活動ができた訳です。今より可処分所得は多いかもしれません。笑。そういう決まりを作ることによって、商売の妙味や、売る苦労や工夫を体験させていたのでしょう。
また、父は小さいころから私達子供に創業者である祖母や商売を手伝わざるを得なくなった祖父の話をしてくれました。父と母が結婚した数年後に親戚筋の保証人倒れで、当家がかなりの借財を背負った時に、祖母は、母が実家から持参した着物や道具にはいっさい手を付けず、祖母と父の物だけを質入れしていた、ということも聞きました。辛抱強い祖母で、父が商売をたたみ裏に引っ込んで自分が働きに出る、と言ったときに、「もうちょっと、辛抱してみなはっ」と繰り返し励ましてくれたおかげで、何とか借財を完済できて、今がある。最後まであきらめるなということだろう、と話してくれました。祖父は絵に描いたような、肥後モッコスで、駅の乗り場の乗換え時に、絶対階段や陸橋を使わず、線路に降りて横切って駅員に注意されると、せからしか、と一喝。ついて行く父はとても恥ずかしい思いをしていた、とか、親戚の家に行くと、吉平(祖父の名前 )さんが来るということで、4合瓶の日本酒を用意してあると、4合しかの飲まない前提で用意したのかと言わんばかりに、帰ると言い出す。家の人が一升瓶を買ってくると、毎回3合飲んで帰るという、とんでもない異風者だったようです。私は祖父似かもしれません。

現在、最少規模で商売が続いているのは、そんなバックボーンが、私の中や店の空中に浮遊しているからかもしれません。これまでのお客様、働いてくれた方、未熟な私を指導していただいたすべての方に感謝いたします。今年から来年にかけて、夏目漱石生誕150年、来熊120年、没後100年のプレミアム年の年です。当店が保持している「漱石」という商標を活かして、漱石先生に恥じない菓子作りに邁進したいと思います。夏目漱石は東京帝国大学教員時代に日本で第1号の文学博士号の当時の文部省からの授与を辞退しています。祖父とは違った意味での肥後モッコスのような精神を感じています。漱石先生がどのような立場で、どのような読者を想定して書いたのか等、想像すると楽しくなります。ひょっとして、名前はまだ無い猫の目で、世の偽物のインテリや、二百十日に出てくる成り金連中を見て書いているのかもしれません。

私には成人した長女、長男、二女がいますが、4代目候補はおりません。
読んでいただいた、すべての方に感謝いたします。

      2組 岩原和哉拝






 

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