エルサレムからのHOT NEWS
−イスラエル・パレスチナの紛争の解決を願って−

この記事はイスラエルより発信されている「NONVIOLENCE (非暴力)」のホームページより、製作者 ラエド・アブサリア神父様の許可を得て「聖地のこどもを支える会」で翻訳したものです。


オリーブ・ブランチ NO.197

<インタビューシリーズ>
Hania Bitarとのインタビュー

Godotを待つ

Hania BitarはPYALARAの会長です。この組織は、Ar-Ramに基礎を置き、アラビア語-英語青年新聞「The Youth Times」、パレスチナテレビの青年番組や又、西岸地区ガザ地区の青少年や大学生に様々な注意を喚起したり、指導者を養成したりする企画などで知られています。
Godod…Samuel Beckett "En attendant Godot"の中で二人の無宿者が待っているのについに現れなかった人物

パレスチナ人の宗教的アイデンティティとは何ですか、又、それを他の人にどう伝えますか?

 「パレスチナ人」であることは、私にとり、「キリスト教徒」である以上の意味を持っています。これは、私たちパレスチナ人が人間としての存在への大きな政治的挑戦に直面している、という事実によるものだと思います。パレスチナ人が、イスラム教徒であれキリスト教徒であれ、人間だということを世界は理解しなければなりません。西欧社会に人間としての私たちの存在にもっと注意を向けさせることが、私にとっての優先事項です。ひとたび私たちが権利ある人間として認められれば、私達は女性の問題であれ、宗教問題であれ、他の山積する諸問題に取りかかれます。

 私の宗教的アイデンティティを強調したとしても、西欧はここのパレスチナ人キリスト者を気にもかけません。世界は、ここにキリスト者が居るからといって、又はキリスト教価値が危ういからといって、興味や同情を示したりしません。物事が運んできたありように、今起こっている事をキリスト教徒として恥ずかしく思います。このことは、実際、私がキリスト教世界よりもイスラム世界により一層属していることを感じさせます。私はここで、より大きい保護を受けています。人々は、私を、私の存在に対する挑戦を、世界のキリスト教共同体の誰よりも良く分かってくれます。

 同じことがキリスト教のシンボルや聖なる場所にも言えます。ネパールの仏像が破壊されたとき、世界中が大騒ぎになりました。キリスト教やイスラム教の聖なる遺跡がイスラエルの攻撃で危機に瀕しても、いつも口先だけの非難の他には何も大してしてくれません。最も聖なる遺跡――生誕教会や、聖墳墓教会といった――を見ても、皆はこれらの遺跡に、本当のキリスト教の拘りを感じないのです。まるで世界に何の意味も無いかのように。巡礼者の数の少ないこと!

 ここでは、イスラム教徒もキリスト教徒も、自分の家族や子どもたちを、大変似たような価値観の上に育てているように思います。私達はキリスト教徒として生まれ、ここに根付いた。つまり、連れてこられたのでもなく、この国への新しい移民でもないということです。キリスト教徒として私は、パレスチナ領のイスラム教徒、キリスト教徒両方がお互いに仲良くなったと感じます。政治的重みがもう少し取り除かれれば、理解を深め会話と寛容の橋を架ける問題にもっと取り組むことが出来ます。パレスチナ人としての私達は、この方向へかなり進んでいると思います。私達は実際、世界中の国が後に続く、宗教的モデルに本当になれるのです。更に、イスラム教徒であれ、キリスト教徒であれ、パレスチナ人として直面している挑戦が私たちを更に合体させ、理解を深め、固く結合させていると思います。外からの挑戦に対し、今や一つになり、一つの声になり、一つの手になるときです。又、この国のイスラム教徒として、キリスト教徒として私たちをより緊密に結ぶ他の要因もあります。私たちの政治当局は、宗教的共存と寛容の重要性に気付いています。更に、パレスチナのキリスト教少数派は教育、学問、政治、医療などの様々なレベルに足跡を残すよう良く教育され、力強く成功してきました。大変重要な要因は、また、この二つの宗教的アイデンティティの間に橋を架けるべく主要な役目を果たしているイスラム教とキリスト教の宗教指導者に代表されています。

パレスチナ当局の宗教的複数性強化策をどう思いますか?

 重要なことはそれが、私たちが宗教的複数性や寛容を持っていることを世界に示す、ただの戦略ではないと言うことです。それは実地に行われています。世界で近頃流行りの曲に合わせて歌うような単なる人工的なものではありません。キリスト教徒として、私たちの宗教的権利がPNAにより没収されるとは思いません。反対に、PNAはこのような権利を保護します。私たち(キリスト教徒、イスラム教徒)に宗教の権利を履行出来なくする占領に対し、私達は更に挑戦します。

 どの国でも首脳部は大変重要な役目をします。少数派の権利を保護しようとする賢い首脳部を持てば、それが日々の業務に表われます。キリスト教パレスチナ人として、ヤセル・アラファトのような指導者を持てて私達は幸せに思います。宗教面では、彼はキリスト教少数派の権利について、正真正銘とても理解があると思います。そしてその指導は、何故寛容さが必要か、複数性を許すのかを十分に理解していると思います。世界への重要な戦略としてこれを理解し、複数の権威があることを示すだけではなく、実際に内面から理解している点が素晴らしいのです。力強さと高い教育という事実のゆえに、キリスト教徒は何とか影響力ある決定に手が届く、つまり地位を得てきました。これはまだ、政治的に更に高いレベルや段階に進む必要があります。女性や若者も――キリスト教徒、イスラム教徒として。でもこれは全く別の問題です。

 私達は今までずっと、パレスチナ人キリスト教徒とパレスチナ人イスラム教徒がいるということを表明してきたと思います。自分が誰であるか隠す人は誰一人いません。私にとって、キリスト教徒、イスラム教徒両方の指導者が共に歩いたり、行進したり、イスラム教徒やキリスト教徒として一緒に、これこれのことは拒否し、これこれのことは受け入れると示す努力をすることは、本当に良い経験だと分かりました。人々に、非常に多くの明確なメッセージを与えます。宗教指導者はこの意味で最良の任務を果たしています。人々にとり、良い模範になっています。ひとたび指導者たちが結ばれ、共に立ち、多くの問題で同じ声で話すなら、全住民はその人たちを注目します。そしてこのことが、パレスチナの宗教現場ではとても大事な要因なのです。

アラファトは、キリスト教徒のイスラム教徒に対する割合にかかわらず、西岸地区の10都市でキリスト教の市長を任命しました。

 それはパレスチナ地方だけではありません。キリスト教徒の存在が見えるように努めているヨルダンや他のアラブ諸国でもそうです。最初は、キリスト教徒定数割り当てから始めます。けれども自分で実証したキリスト教徒も沢山います。キリスト教徒だからといって、ただキリスト教徒を任命することはできません。そのような職務にふさわしくなくてはなりません。これは私たちの戦略ですがキリスト教徒、イスラム教徒に関係なく、実際にそのような地位に最もふさわしい人を選ぶという風に、長い間になっていくことを望みます。そうなのです。この人々のグループが忘れられないよう保証するための定数割り当てから始めて、それから次へと進むことが出来るのです。けれども次第に、又、寛容な状況の中で、適任性は最も重要な問題となりつつあります。

あなたは、イスラム教徒、キリスト教徒が一緒に住むことで、何か地元で問題を経験されましたか?

 勿論問題はあります。実社会ですから。一社会として異なる宗教を持つことに関し、様々な問題に出会うかもしれません。けれども大切なことは、どのようにこれらの問題に対処するかです――どのように共同体の指導者が扱うか、取り組むか、それは教育面での問題か、社会面かなど。問題があるのは当然です。人工的な共同体ではないのですから。

 共同体として、又は隣人としての問題が起こり得ます。例えば、Jifna村でのことを覚えています。かれらはJalazonn難民キャンプの近くに住んでいます。Jifnaはキリスト教徒が統治している村です。社交的飲酒はキリスト教関係では問題ではありません。勿論、アルコールの悪習と酔っ払いは問題になる懸念がありますが、酔っ払いのキリスト者はめったにいません。アルコールとの付き合いに慣れていますし、アルコールは家庭にも、店にも、レストランにも置かれています。けれどもイスラム教徒、特に成長さなかの若者にとり、アルコールは誘惑の種、何か試してみたいものなのです。とても魅力的なものになります。アルコールを試してみたい、際限なくアルコールを飲みたいのです。こうなるとイスラム教徒だけにかかわる問題ではなくなります。何故ならアルコールはイスラム教で禁じられていますが、キリスト教も、アルコールの悪習をキリスト教徒に禁じているからです。

 問題や違いがあるのは当然ですが、大事なのは、どのように問題に対処するかです。ただ法や規則を作る人々にまかせますか。あるいは共同体の指導者、モスクや教会の人々に実際に抗議しますか。何故若者が飲みたがるのか知るために社会に働きかけますか。私たちの社会でよい点は、小さな問題をいいかげんにせず、それらとかかわろうと一生懸命努めることです。

パレスチナの宗教的アイデンティティを表す企画や運動について、あるいは、イスラム教、キリスト教の関係の進展に寄与する企画や運動について、何か話していただけますか。

 PYALARAは青少年の組織です。今まで私たちがしようとしてきたことは、「他人を受け入れる」重要性について若い人々を教育することでした。寛容と、他人を受け入れること、他人が権利を持つ権利を信じることの価値は、異宗教、男性女性の問題、少数派の権利や他のカテゴリーとの関係にかかわらず、人々が目標としている価値です。

 PYALARAでは、実践を通して、若い人々に寛容と普遍的価値を教えます。例えば去年のクリスマス、若いイスラム教徒、キリスト教徒のグループが、サンタクロースと、病院に患者を訪ね、贈り物を届けました。若者のアマチュアグループが、人々の心に幸せをとどけようと、サンタとギタリストの伴奏でクリスマスキャロル、国の歌や、レバノン歌手Fayruzの歌を歌いました。これも去年のイスラムの祭りの間、キリスト教徒とイスラム教徒が一緒にAm'ari難民キャンプの或る貧しい家族の生活を変えようと働きました。ラマダンの祭りの最後に、とても貧しい家族を、一緒に幸せにしたかったのです。それで、PYALARAの若いキリスト教徒、イスラム教徒のグループが行って、この家族の生活の質を上げるために働きました。私達は共同体を何とか動かすことに成功し、ある人々はお金、タイル、セメント、窓や衣類を寄付してくれました。この家族に、ストーブや、ガスヒーターまで調達できたのです。特筆すべきは、このキリスト教徒、イスラム教徒の若者たちがすべて自分たちでやり、より大きい価値に向かって、(つまり助けを必要としている人たち、老人を助けること、キリスト教徒、イスラム教徒双方が求めている価値に向かって)、共に働いたことです。

西洋との現在の関係をどう見ますか?

 世界の態度はイスラエルに、やりたい放題させているという感じです。私達はパレスチナ人としてただ「Godotを待っている」といった存在のレベルに至っています。自由の中で威厳を持って生きる権利、夢を見る権利、過去、現在、未来を持つ権利、そういった人間としての私たちの価値は、国際会議事項では決して優先課題となることはありませんでした。イラクに対するアメリカの正当な理由の無い攻撃についての最近の国際的な一般大衆の拒否は、私たちが住んでいる暗闇の中で一条の希望の灯を表します。不正義を正当化するものは何もありません。権力も欲望も、歴史的宗教的口実も、何も正当化しません。私達は世界で、或る個人やグループが私たちの苦しみに答える様子に希望を見いだしています。合衆国は、世界中の沢山の人々にとり、第一の敵となることに成功しました。パレスチナ人関係でも、イスラエルを第二の敵としながら、同じ地位を占めています。イスラエルの攻撃に降伏することを拒否した23歳の若いアメリカ人Rachel Corrieは、大変高価な値(彼女の命)を払いました。Corrieとアメリカやその他たくさんの国の人々による攻撃に対するデモは、負け犬である私たちに、まだ希望があるよ、まだ意識に目覚めている人々がいる、これらのことがある日権力機構に影響を与えるかもしれないと言うことを、私たちに示してくれました。

 パレスチナ人として私たちが生き抜いてきた前例の無い状況悪化の中で、宗教的アイデンティティというものは、人間の生命と尊厳に比べるとき、無に等しくなります。国が、特に若い人々が、トンネルの先に明かりがないか見ようとして立ち止まるとき、「ヘンリー5世」の中でシェークスピアが言った「Let life be short; else shame will be too long」が警告となるでしょう。私たちの共同使命は、独裁制や占領の恥を多少とも緩和するため、現実的で具体的ステップを取ると同時に、人々の心に希望の明かりを灯し続けることに焦点を合わせなければなりません。


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