エルサレムからのHOT NEWS
−イスラエル・パレスチナの紛争の解決を願って−


2004年四旬節のメッセージ


ミシェル・サバー大主教
エルサレム、灰の水曜日(2004年2月25日)

1. 私たちの霊的生活

 断食の時は悔い改めの時、神へたち帰る時です。神のみ前に出る時です。「神の国はあなた方の中にある。」とイエスは言われました。神はあなた方の中に居られます。四旬節の間だけではなく、あなた方の生涯が、あなた方自身とあなた方と日々の生活を分かち合う全ての兄弟姉妹、神の全ての被造物の中で、神をより深く感じ取る絶え間ない浄化の時でなければなりません。

 日々の関心事、生活の複雑さや、その喜びや試練の中で、断食は信者の生活における霊的な小道です。私たちを支え、日々の霊的闘いを耐え、真の強さをいつも変わらず私たちに与えてくださる神の霊は、地上に神の国を建てる私たちの道しるべです。このようにして全ての地域と全ての教区が、地上の神の住まいとなるのです。

 信者の日常生活には信仰があります。しかしまた、私たちの中、また社会のあらゆる悪の現れの中に、いろいろな挑戦を挑んでくる絶え間ない闘いがあります。40日の断食の後、誘惑者はイエスに言いました。「『これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。』」(マタイ4:3)物的な欲求が、神の言葉に耳を傾ける障壁にならないことを私達は知っています。私たちの中の神の存在に気づかせるのはその言葉です。神の王の建設は易しい時も困難な時もあらゆる状況で追求されるべきものです。神の恵みは全ての状況において与えられるはずです。自分自身の中の悪に対する弱さと、福音を述べるよう彼を招く神の恵みとの間でもがいていた時、神は、『私の恵みはあなたに十分である。』(コリント二12:9)聖パウロに言われました。

 聖性への小道を歩むキリスト者の生活の基準は、イエスが私たちに残された掟の完成にあります。『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ19:19)
私たちが正しい道に居るかどうか知りたいなら、本当に隣人を愛しているかどうかを自問し、自分の置かれている場や態度を再吟味しなければなりません。私たちが正しい道に居るかどうかは、私たちの行動や感情がどのぐらい彼、彼女を心にかけているかどうかによって彼または彼女が教えてくれます。隣人とは、例外のない全ての隣人です。私たちの教会のメンバー、他の教会のメンバー、他の宗教のメンバー、私たちの人生の全ての人です。神の愛に従うキリスト者の愛には制限がありません。イエスは言われました。『あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。』(マタイ5:48)
と。又こうも言われました。『互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように。』(ヨハネ13:34)見習うべきお手本は神以外にありません。もしイエスが私たちにこれを命ずるなら、私たちがそれを成し遂げられるということ、そして神は私たちを支える恵みを下さり、神に倣うことが出来るようにしてくださるという意味です。神が全ての被造物を愛するように、私たちも全ての兄弟姉妹、すべての宗教に属するすべての教会のひとびとを愛しましょう。

 断食は、神に立ち返るためのもの、ひいては全ての兄弟姉妹に立ち返るためのものです。私たちの中に少しずつ溜め込んだ悪を私たち自身から取り除き、生活の全ての面で強くなるために聖霊の力をいただきましょう。そうすれば、プライドや人への敵対の実りではなく愛の実りである私たちの力を、人々は尊敬するようになるでしょう。

2.最近の私たちの生活における聖地の紛争

 四旬節は分かち合いの時です。私達は困難な時代を生きています。多くの人々に強いられている様々な剥奪がありますが、分かち合いは務めです。その一方、霊的には、私たちの中の神の国を一人で建設することは出来ません。私達は苦しんでいる全ての人々と共に建設します。人びとへの敵対や恐れの中で、私たちの魂うちに、また祈りのうちに生きることにより、私たちは四旬節を過ごします。また、敵対や怖れを終わらせる自分の責任に気づくことにより、四旬節を過ごすのです。このようにして、私たち自身の中に、また戦時下にある私たちの国の中に神の国を建設するよう招かれています。

 聖地において私たちが直面しなければならない人々の状況は、事実、戦争の状況なのです。全ての人に強いられる占領、ある人々には死、逮捕と苦しみ、様々な剥奪、家の破壊、農業の倒壊、罪のない犠牲者への襲撃と殺害。これら全ての只中にあって、私たちの生活は、困難の中で痛みを伴いながら正義と平和を模索しています。それは弾圧と恐れ、それらの結果である暴力の連鎖に終止符を打つための途絶えることない要求です。いつの日か、神はこれらを取り除いてくださるでしょう。しかし人間もまた行動します。私達おのおのが、人々の弾圧と罪のない人々の流血の両方を拒絶することにより参加するのです。指導者たちはまた、その与えられた利益ではなくその英知を使って、自分自身と自分たちの利益のためではなく、人々に仕えることにより、神の働きに参加するのです。

 この地の戦争の責任者たちは、近年あたかも永久の平和ではなく、永久の戦争をたくらんでいるかのようです。然し、この地域の人間は、終わることのない戦争状態に生きるようよばれていません。この地を住まいに選ばれた神と共に平和に生きなさいと、神は言われました。平和は、弾圧とその結果である暴力が続いている間は建設できません。人々から自由を奪い、土地を奪うことは誰にも決して受け入れられない弾圧です。同様に、弾圧に抵抗しようとする無実の人々を殺すことを、誰も受け入れられません。戦争の二面的な餌食にならないようにしましょう。第一に物的破壊の餌食に、第二にパレスチナ人であれイスラエル人であれ人間を破壊する憎しみの餌食に。

 人が憎しみと復讐の鬼に変わる時、それは最悪なことです。悲しいことに、これがこの地―3つの宗教にとっての聖なる地、そして世界中が聖なるがために注目している地、に起きていることなのです。弾圧を強いている人々が、それを止めなければならない理由はこの為なのです。その時こそ、切に望まれている安全と平和を、この地が体験することになるでしょう。

 教区の司祭、いろいろな教区の宗教者たちは、それぞれの教区や司教区の中で司牧の仕事を果たすため、軍の検問所で長時間を費やしています。私達は彼らにこう言います。「忍耐強くありなさい。パレスチナ人であれイスラエル人であれ、全ての人々のために祈りなさい。あなた方の試練を、紛争の両サイドで苦しんでいる全ての人への祈りとしなさい。あなた方の試練は多くの犠牲者が立ち向かっている死、苦痛、襲撃、破壊にくらべれば、小さなものです。これらの困難を、この地の虐げられた全ての人との分かち合いとして受け入れなさい。私たちが彼らに仕え、彼らと苦しみと希望を分かつため、神が私たちを彼らに送られたのです。」

3.兄弟姉妹の皆さん

 断食と祈りの時である四旬節は神に立ち返る時です。私たちの中の神の国に気づかせ、それを私たちの社会の中に建設する時です。それは神を信じる全ての人々が、神の愛と力に満たされる時です。

 私たちが直面している困難の中で生き続け、信じ続けましょう。エルサレムのキュリロスは、その頃やはり困難な十字架を背負っていた忠実な信者たちによく言ったものでした。「平和の時だけ十字架を尊ぶのではなく、迫害の時も同様の信仰を保持するように。平和な時だけイエスの友になるのではなく、迫害の時もイエスの友となるように」と。



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