エルサレムからのHOT NEWS
−イスラエル・パレスチナの紛争の解決を願って−


マーサムとエリザベス・サンダースの夏季休暇


2003年7月27日

 休暇は、日頃の環境から抜け出し、新しい活力を得たり気晴らしをしたりするための良い機会です。幸いに私たちは、6月に休暇を取って8回目の結婚記念日にマドリッドで小皿料理を堪能し、米国にいる家族を訪ねることができました。私たちは体力、気力に満ち溢れ、しばらくの間抜け出すことができたことにほっとして戻ってきました。おおかたザバブデの友人たちは、私たちほどラッキーではありません。私たちも、この暴力にあふれた土地におびえて暮すことの重圧を感じています。しかし友人たちと違って、私たちはいつでも去ることができるのです。

 現在西岸とガザ地区のパレスチナ人の65%以上が失業しています。75%が1日2ドルの貧困線以下にあります。子供の30%が慢性的な栄養失調です。言うまでもなく、旅行する資力のある人は殆んどいません。しかし資金があっても、旅行の許可が出ないのはしばしばです。私たちの住む地区では、サーレムにあるイスラエル軍の地域調整事務所(DCO)が、ジェニン地区住民の西岸地区内での移動と、エルサレムへの通行、西岸地区を出るための申請を裁定しています。
サーレムを以前訪ねたことがあります。高いコンクリートのバリケードに沿ってブルドーザーが盛んに溝を掘っているのが遠方から見え、音が聞こえました。ここがあの壁の始まる地点です。高さ約6メートル、全長約370キロ、そして1キロ当たり約200万ドルもの費用をかけた障壁で、パレスチナ人が自由にイスラエル側に入れないように、壁は西岸を囲むように建てられています。この壁をめぐっては、国際的に承認されたイスラエルと被占領地区の間の境界線グリーンラインにその位置が従っていないことについて特に議論があります。それどころか、壁は深く西岸に食い込み、被占領地域の10%〜15%を事実上併合し、町々を農地や水そして他の町から分断しています。

 サーレムにある地域調整事務所へのパレスチナ人用の入り口には、間もなく電流が流されることになっているゲートがあります。私たちがそこにいる間、そのゲートはいつも閉ざされていました。代わりに、許可証を求めるパレスチナ人たちは現在、壁に沿った深さ1メートル80センチの溝とゲートの間にある幅15センチの崩れかけた未舗装の道路を通らなければなりません。多くの人たちは、落ちないようにフェンスにつかまりながら端まで行き、身を翻してイスラエル軍キャンプに飛び込みます。そこからコンクリート陣地での身分証明書検査があり、そして列が始まります。1つは、磁気身分証明書を購入するための列で、もう1つは旅行許可を得るための列です。そしてさらにもう1つは、そこに拘置されている囚人の家族と弁護士のための列です。金属のベンチのある待合所は、両側が開いていて、トタン屋根で、夏の暑さや冬の寒さをほとんどしのぐことができません。

 この前の週末、イヴォンヌはここに2度来ました。金曜に、役所が開いているかどうか分からないので、家族の友人にフェンスの向うまで行って尋ねてもらい、彼女は外で待っていました。コンクリート陣地の兵士は、役所は開いているが、イヴォンヌ本人が来なければならないと告げました。65歳のおばあさんのイヴォンヌは、ヤギのように四つんばいになって塀の向う側まで行きました。そこに着いてから、彼女は兵士に様々な書類を見せました。「イスラエル側の許可が必要だ」とイスラエル兵に言われ、「はい、そのために来ました」とイヴォンヌは答えました。するとイスラエル兵は「今日は事務所は休みだ」と言いました。引き返してそこを立ち去るしかありませんでした。その若い兵士は、イヴォンヌにこんな無駄な苦労をさせたことを、悪いことだとも思っていないようでした。

 イヴォンヌは日曜にまたサーレムに行きましたので、彼女がいつも座っている教会の最前列の席は空席でした。役所は開いていて、長い行列ができていました。イヴォンヌはやっと書類を提出しました。最近受けた手術の後にナザレの医師のところに行くようにという、主治医からの要請の書類と身分証明書のコピーでした。9時でした。兵士はそれを受け取ると、申請書の山の上に置きました。イヴォンヌのように、何人かはエルサレムやガリラヤの医者のところに行こうとしていました。またある者は、例えばジェニンからラマラへといった西岸の中での移動許可を得ようとしていました。 あれこれの細かい点で受け付けられない申請書がありました。エルサレムの病院は身分証明書番号の数字の1つを間違えていました。パレスチナの医師の記録には日付が書かれていませんでした。ナザレから予約の確認がなく、へブライ語の名前の綴りが間違っていました。それでもイヴォンヌは受け付けてもらえ、待つように言われました。「どのくらい」と尋ねましたが、そのときには列に押しのけられていました。それで彼女は他の数10人とともに金属ベンチに腰を降ろしました。

 数時間がたちました。ヘブライ語を上手に話す若いパレスチナ人が、ひっきりなしに呼ばれ、通訳するように命じられていました。若者は、僕は事務所でも開いたほうがいいねと冗談を言い、「もちろんそのために別の許可証が必要だ」と続けました。磁気身分証明書の列にいた人たちも、気まぐれな理由で差し戻されました。申請書を提出するために、手数料として38シケル分の印紙を買わねばなりませんでした。印紙の販売所で38シケルの額面の印紙が売り切れ、39シケルと40シケルの印紙を売り始めました。申請書を受け付ける兵士は38シケルの印紙を貼った申請書だけ受け付けました。払い過ぎた人たちは差し戻されました。彼らは不機嫌に、聞いてくれる人には誰にでも不満をもらしました。いちばん皮肉なのは、サーレムにやって来てここで何時間も時には何日も待ち、しょっちゅう差し戻されるこれらの人々は、イスラエルによる占領の規則を守ろうとしている最も従順な人々です。彼等はそれゆえに罰を受けていると感じています。

 イヴォンヌは待ち続け、時々申請の状況を確かめました。その度に「大尉のところに回っている」、「情報部に回っている」、「もうちょっとかかる」と言われました。熱く、乾燥した、ほこりっぽい場所で5時間も待たされた揚げ句、彼女の申請は、「不備がある」と言われ差し戻されました。彼女は階段を降り、工事現場を横切り、塀の向う側に身を翻して、タクシーを捕まえて帰宅しました。
昨年の12月、壁の工事が始まる前、マーサムはこの官僚主義のラックホール―サーレム―をライラの代わりに訪ねました。ライラは大きな笑顔とウェーブのかかった髪をした大学1年生です。大学での勉強だけでなく、教会の活動、特に小教区のスカウトプログラムのリーダーとしての活動を止めることはありませんでした。世界中から3万人の若者が集う、タイのバンコクでの世界スカウトジャンボリーに招待された2名のパレスチナ人スカウトの1人に選ばれました。切符を買ったり、ビザを取ったりしてすべての手筈を整えました。ただ1つ残ったのは、テルアビブのベングリオン空港までと、そこからの旅行許可でした。申請は受理されるだろうというイスラエル当局の口頭の約束にもかかわらず、許可は得られませんでした。ライラは行くことができませんでした。

 色々な経験から、友人のタグフリードがシカゴに行く際、テルアビブ経由でなくアンマン経由で行くように私たちは薦めました。彼女は「世界規模のコネクションの創造:女性信仰者との会話」と銘打った、第四長老教会の5月の会議で中東代表として招待されていました。エルサレムの女性研究所への深い関与と、西岸北部の他のNGOでの経験から彼女が適任でした。私たちは彼女が招待されたことに興奮し、特にシカゴのことを教えてあげることにわくわくしていました。どこへ行けばいいか、誰に会えばいいか、どのピザを食べたらいいかなどです。彼女は西岸のパレスチナ人なので、米国領事館のあるエルサレムに入ることを拒否されました。 しかし、少しばかりの幸運と、現地版のフェデックスのおかげで、なんとかビザを手に入れることができました。切符も買って、ヨルダンとの国境までのイスラエル軍からの旅行許可も、ヨルダンからの入国許可も与えられました。入国が許可されるパレスチナ人の数についてのヨルダン側の規制を、パレスチナ自治政府が厳密に守っていることが、国境に着いて初めて分かりました。理論上は入国許可を持っていましたが、現実には1日あたり2台のバスしか国境を越えることが許されませんでした。彼女の順番が回ってくるのは2ヵ月後だと言われました。彼女のフライトは数日後に迫っています。いくら説得しても、コネを使ってもフライトに間に合うように橋を越えることはできませんでした。タグフリードは行くことができませんでした。

 ジャメールは私たちのお気に入りの生徒の1人です。歌声がすばらしいく、笑顔が愛嬌のある背の高い少年で、頭が良くて自信に満ちていて9年生には珍しく礼儀正しい子です。ジャメールは、勤勉で将来が有望なので、ベイト・ジャラのローマ.カトリック神学校に受け入れられた数人の生徒の1人です。そこでは、聖職者になるだろうと認められれば事実上無料ですばらしい教育が受けられます。この神学校は150年の歴史で初めて、この1年閉鎖されていました。イスラエル政府が、ローマ典礼総大司教区の、イスラエル国籍以外のアラブ人神父や学生にビザの発給と延長を拒否したからです。ジャメールのような頭の良い若者がザバブデに帰ってきたのは私たちにとってうれしいことですが、必要なビザをイスラエルが発給してくれ、神学校がこの秋再開できるよう願っています。先月、ジャメールはパレスチナ人とイスラエル人の学生からなるグループに加わり、エジプトでの和解プログラムのために紅海に行きました。イスラエルはパレスチナ人の学生に必要な旅行許可を与えていました。しかし、国境でエジプトの係官がパレスチナ人の入国を拒否しました。ジャメールは行けませんでした。

 これらは、西岸のちっぽけな村でのほんのわずかなできごとにしかすぎません。それでも、パレスチナ人にとってのパレスチナでの現実を物語っています。旅行をしなければならない人々が、西岸の中でさえいつも妨害されています。たった今も、ファディがシカゴの大学に入学する準備をしています。ファディは私たちの最も頭の良い生徒の1人で、ノース・パーク大学で奨学金が受けられることになっています。ビザの手続きは非常に困難で、時間がかかっています。そのためファディは、エルサレムの米国領事館で必要な面接をまだ受けられません。サーレムの地域調整事務所から旅行許可をもらわなければならないからです。ビザが手に入っても、出国許可が必要です。今までの経験からすると、ファディが大学の入学に間に合うには奇跡が必要です。

神が、私たちすべてにこの夏安全な旅をかなえてくださいますように。

キリストの平和       
エリザベスとマーサム   


マーサム・サンダースとエリザベス・サンダースはザバブデのパレスチナのキリスト教徒の村で働いている、長老教会派のアメリカ人です。



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