*** *
***
「熱、下がりませんね・・・」
上気した紅色の頬の上、潤んだ瞳を大きく見開いた悟空の額に手を当てながら、八戒は困ったように呟いた。珍しく、食欲を無くしていた悟空に気がついて、具合が悪いのではないかと聞き咎めたのは一昨日のこと。
「あれほど言ったのに、昨日の晩、外に出ましたね」
「・・・ごめん、八戒」
悟空は眉をへの字に曲げて、苦しそうに熱い息を吐く。
三蔵の不在に、悟空の風邪を悪化させてしまった八戒は申し訳なさそうに肩を落として、もう一度悟空の額に手を寄せた。
「それにしても、どうしてそんな無茶を?」
「・・・俺、「雪」ってやつを見てみたくてさ」
「雪・・・見たことないんですか?」
悟空は窓の外に広がる灰色の重たい空に遠い目を向けて、こくりと頷く。 八戒も、悟空の流した視線につられて窓の外を仰ぎ見た。
もう、いつ降り出してもいいような雲ゆきが昨晩から続いているのに、空は一向に泣き出す気配を見せなかった。
この村に着いた2日前、悟空は村人の少年から一両日中に今年初めての雪が降るかもしれないという話を聞き込んできたのだった。何故だかとても嬉しそうにそれを話す悟空を見て、三蔵は不機嫌な口
調で
「くだらねぇ」
と一言捨て置いて、部屋へ下がってしまったことを八戒は思い出す。それがいつもの強い口調とは少し違って聞こえたことに改めて想いを廻らしたところで、部屋の扉が忙しなく開かれた。
「やっぱこの部屋寒いわ。だいぶ冷えてきたし、直、降り出すんじゃねぇ」
炭火鉢を抱えた悟浄がふるっと肩を震わせて、それを悟空の寝台の近くに置いた。
「どうよ、小猿ちゃんの熱の方は?」
覗き込んだ悟浄の目に、どう見ても高熱が引いたようには見えない赤い顔の悟空が映った。
「あらあら、なんか今朝より酷くなってんじゃない?」
「今日一日はダメですね。
三蔵の言うことをちゃんと聞かなかった罰ですよ、悟空」
母親のような口調で言って、布団を掛け直しながら、八戒は悟浄を労って、席を薦めた。
「すみませんでした。寒いのに買い物まで頼んでしまって。
今、何か温かいものでも入れますから」
「んじゃ、珈琲入れてもらおうかな?」
「はい」
八戒の視線が自分の吐いた白い息を追う。
「ほんとに、この部屋、寒いですね」
「よりにもよって、この部屋にだけ暖炉がついてないってのはどう言うことよ。しかも病人抱えてんのに、炭火鉢二つでしのげってんだから無茶もいいとこじゃねぇ?」
「・・・二つ貸して頂けただけでも感謝しないと」
薄く笑った八戒は、深く被された布団の中から、窓枠に切り取られた小さな空を見つめ続けている悟空に呆れて、ため息混じりの声で聞く。
「悟空はココアでいいですか?」
「・・・うん・・・」
心ここに在らず、悟空はうわの空で応えを返した。
「雪。もうすぐかな・・・」
少しだけ寂しそうに囁いた声が、二人の耳を掠めて、八戒と悟浄は不思議そうに顔を見合わせた。
*** *
***
「俺が戻るまで、大人しく寝かせておけ」
と云う言葉を残して、三蔵は昨日の昼過ぎから宿を空けている。5キロ程先にある寺院へ出向いているのだった。
寺院への路は細い山道になるため、ジープでは進めないことが分かっていた。三蔵は具合の悪そうな悟空を同行することを嫌って、三人供に村での居残りを強いたのだった。寺院での用事が済めば、結局またこの村に引き返して、西へ向かうことになる。
少しでも静養しておけと云う三蔵なりの心遣いなのか、村人一人を案内役に付けただけで、三蔵は寺院に出かけて行ったのだった。
疲れているのは三蔵も同じこと。気を遣わせてしまったことに、八戒は改めて自分の腑甲斐無さを責めて苦笑を漏らした。
入れたての珈琲を悟浄の前に置く。
「サンキュ」
悟浄が柔らかく微笑みかける。気にするなと暗示されたように見える視線が少し心地良かった。
手盆でココアを悟空の枕元へ運びながら、八戒は変わらずに流される悟空の視線の先にある、小さな空を見上げた。
「あっ・・・」
「雪、」
刹那、
二人の声が重なって、その瞳の中に、ひとひらの雪片が大気を揺らして、ふんわりと地上に舞い降りて来た様を認めた。
悟空の手がすっと掛布を逃れて、天に延びる。
そして、
ゆるりとした動作で、その手の平が何かを掴む形にそっと閉じられた。
「悟空・・・?」
八戒は悟空の挙動に目を見張り、後ろで悟浄が息を呑むのが分かった。
「あれが、雪なのか?八戒・・・」
「えっ・・・えぇ。そうですよ。とうとう降って来ちゃいましたね」
「そっか。あれが雪なんだ」
残念そうに云った悟空に、残念そうな声で八戒が応えを返す。そして、悟浄が心配そうに声をあげた。
「らしくねぇぞ、猿。
雪なんてもんは、積もってから楽しむのが子供の常だろうが」
「そっか。・・・そう言うもんなのか・・」
「そ・・・そぉ云うもんだろ?・・・なぁ八戒、」
揶揄した科白で、いつものような反論を示さない悟空に、調子を崩されてしまった悟浄は八戒に鉾先を向ける。
「そうですよ、悟空。さぁ、これを飲んで暖かくして寝ていれば、明日の朝にはきっと熱も治まって、遊べるようになりますから。そんな顔しないで下さい。三蔵に笑われますよ」
「・・・違うんだ」
八戒の手の中の器を受取りながら、そっと落とされた溜息が部屋の空気に白く溶けて、悟空は独り言のようにその訳を言葉にした。言葉の意味をはかりかねて首を傾げた八戒の背後で、静かに歩み寄って来た悟浄がそっと肩に手を落とす。
俺、最初に降る雪を、捕まえたかったんだ
呟かれた言葉の意味を、悟浄は八戒の耳元でそっと囁く。その訳に、八戒はさらに大きな溜息を漏らして、困った顔で悟浄を見上げた。
***
* ***
程なくして、三蔵が宿に戻った。
「猿の様子は?」
窓際の寝台の上で、八戒の入れたココアを啜りながら上目使いに三蔵を見た悟空を一瞥すると、三蔵は不機嫌な顔で眉根を寄せた。
「それが・・・昨日より悪くなってるみたいで」
八戒は困った表情で苦笑する。
「あの、バカ猿が。人の云うこと、」
三蔵は皆まで云わずに、悟空の寝台に足を向けた。つかつかと、腹立ちを隠せない様子で近付いて、赤い顔で自分を見上げた病人に手を伸ばす。
悟空はきゅっと目を瞑ると、罰を受ける子供のように肩を強張らせた。
「俺、」
何かを云いかけた悟空の額に、三蔵の白い手がそっと触れる。
発熱した身体に心地良い、冷たい感触に驚いて瞼を開いた悟空の目に、奥歯を噛んだ苦い面
持ちの三蔵が映っていた。
「さん・・ぞ?」
「ガキが。人の云いつけ聞かずに一晩中外にいたんじゃねぇだろうな」
言葉を継げず、図星を指された顔でへへっと笑った悟空の頭を、三蔵は軽く叩いて舌打ちした。
「手間掛けさせるな。それから・・・」
三蔵は何か云おうとして、ちらりと悟浄の顔を見る。悟浄は肩を竦めてニヤリと笑った。
「おまえ、妙なことしゃべって、」
と、その時、言葉は、ノックの音で断ちきられた。
「部屋が整いましたので、どうぞあちらへ」
宿主が申し訳なさそうに頭を下げると、三蔵はこちらこそ手間を取らせて申し訳なかったと、それ以上に深く頭を垂れる。恐縮した宿主は、三蔵たちが宿泊している部屋の暖炉が壊れていることを再度詫びて、もう一つ炭火鉢を指し出した。
「満室じゃなかったのかよ」
部屋の用意が整った旨を伝えられて、悟浄が問う。
「いえ、客室は満室で皆様には暖かい部屋をご用意できかねるのですが、三蔵さまが、一人部屋だけどうにかならないかとおしゃられたもので・・・」
「使っていない使用人用の部屋を借りることにした。そこなら暖炉もちゃんと使えるらしいからな」
「お客様をお泊めできるような部屋ではないのですが、
どうしてもと・・・」
三蔵の眉がぴくりと動く。これ以上何か云われても叶わないと、すぐに部屋を移らせる意思を伝えて、三蔵は早々に宿主を引き取らせた。
「ふうん」
悟浄が奇異の目で三蔵を見る。
「何だ、」
「いや、三蔵さまも人の子だと思ってさ」
「あ?」
三蔵の眉間に不快な皺が寄る。
「悟空のためですね」
八戒が柔らかく表情を崩しながらふふっと笑みを漏らした。
寒い部屋に悟空を置いておくのが偲びなくて、宿主に無理を云って、部屋を使う交渉をしたのであろう三蔵を想像して、胸に暖かいものが落ちる。
悟空が無理をした原因の一端が自分に関わっているのだと、たぶんそんなことを思って。
「これ以上酷くなったら、旅程に響くからな・・・」
三蔵がぼそりとそんな言葉を吐く。
「またまた。悪いと思ってるんだろ、悟空に妙な話吹き込んだの三蔵だからさ。まっ、信じる方もどうかと思うけどな」
棘のある言い方ではなくて、三蔵と悟空の間でかつて交わされた「お伽噺」を悟浄は大切なものを扱う口調で、優しくからかっているのだった。
「お前、喧嘩売ってんのか?」
三蔵は歯噛みして悟浄に絡む。
悟浄は八戒に目配せしながら、可笑しそうに微笑した。
「そうムキにならなくても、ね。三蔵。それよりも、悟空を暖かい部屋に移してあげましょう」
やんわりと諭した八戒に、三蔵は不服そうに頬を歪めた。
八戒の視線が悟浄を廻って、肩を竦めた悟浄がやれやれと云う風に悟空の寝台へ向き直る。
「俺が、運ぶわけ?」
「僕が運んでも構わないですけど。 悟浄は力持ちですからね。嫌なんですか?」
悪魔の微笑を湛えた八戒は、ただただ優しく言葉を吐いた。
悟浄は、この男には敵わない。惚れた弱みとう云うやつか。
「嫌じゃないですよ〜。悟浄さんは力持ちですからっ」
「俺、嫌だよ」
悟浄の戯言に呼応して、悟空の掠れ気味の声が云った。
「俺、ここで構わないよ。三蔵こそ、そっちのあったかい部屋で休めばいいじゃん。外寒かったんだろ」
殊勝な言葉を吐いた悟空に、三人は揃って顔を見合わせた。
「おっ。素直じゃないね。小猿ちゃんも。三蔵が、折角骨折ってくれたんだから、遠慮しないで甘えなさいって、なぁ、三蔵」
ふられた三蔵は何も云わずに目顔で伝える。
悟浄は掛布に包んだままの悟空の身体をヒョイと持ち上げると、丁寧に胸の前に抱いた。
「お姫様だっこ〜」
ふざけてニタニタ笑う悟浄の腕の中で、悟空は力なく身を捩る。
「力入ってねぇじゃん。無理すんなって、力持ちの悟浄さんが、ちゃぁ〜んと部屋まで運んでやっから」
「うるせぇ、エロ河童。離せよ」
じゃれあっている二人に呆れて、八戒が悟空の鼻先に指を落とす。長くて細い綺麗な指でノックをするように鼻粱を二回叩かれると、悟空はきょとんとした目で息を詰めた。
「三蔵に、使用人部屋を使わせるつもりですか?」
ひくりと喉が撓る。
「そんなつもりじゃなくて、」
「三蔵が、そうして欲しいんですから・・・ね」
三蔵は視線を外して短く舌打ちする。
八戒の言葉も、悟浄の言葉も決して意地悪で云っているのではないことは分かっている。三蔵の好意を素直に受けろと暗諭されていることも。
「まっ。そう云うこと。行くぞバカ猿。振り落としたりしねぇから安心して悟浄さんの胸に抱かれてなさい」
「うっ・・・」
不本意な姿勢のまま、悟空の視線が三蔵を追う。
「でも、俺だけ、あったかいとこ・・・悪いよ」
「病人がほざくな。うっとおしい」
投げやりな言葉が、似合わずに優しい響きを伴って三蔵の唇に乗った。八戒が頬を緩め、悟浄がくくっと喉を鳴らす。
その喉の奥で、悟浄は小さく囁いた。
「まっ。あったかくなる手段なんて、他に幾等でもあるからな。特に、あいつら二人には・・・」
見上げた先、悟空の目の中で、力持ちな男のちょっとだけ哀しい色をした紅い双鉾がゆらりと揺れた。
***
* ***
「・・・聞いたのか?」
俯き加減で三蔵が聞く。
「すみません。さっき悟浄から」
その言葉に、三蔵の頬が少しだけ羞恥に色づいて、今日何度目かの舌打が返される。
八戒はくすっと笑って三蔵の紫暗の瞳を覗き込んだ。
「可愛い、お話ですね。貴方らしい・・・」
「笑った口で何云ってやがる」
照れているのか、三蔵は窓の外で、少し強く降りはじめている白い欠片に視線を移した。
「優しくて、暖かくて」
「嘘に、優しいも、暖かいもないだろ」
「でも、素敵な嘘は、つかれてみたい気もしますよ。
特に、貴方にだったら・・・」
背後から、八戒の腕が三蔵の細い腰を抱く。冷えた躰がその手の中で綻んで、空を覆い尽くした灰色の雪雲を眺める三蔵の唇が、ふっと一つ吐息をこぼした。
優しい嘘。
素敵な嘘。
三蔵のついた、可愛い嘘。
お伽噺をしましょうか?
ひどく、嫌な夢を見ていた。
それがお師匠様の夢であったことに気がつくのに、ほんの少しだけ時間を要した。額には、うっすらと汗が滲んで、唇は渇いていた。
暗い部屋を満たす重たい空気に身体を起こすと、窓の外に舞う花弁の白さが視界を覆う。桜の花が風に散って、まるで雪のように見えた。
「雪・・・」
一度だけ見たことのあるそれは、手に乗せた先から姿を消した。白く、冷たい不思議な欠片は、広げた小さな手の平にゆっくりと降下して、温もりに触れて形を変える。好奇心に胸が疼いた。
それを見たのは、自分がまだ「江流」と呼ばれていた頃。
「お師匠様。これは何ですか?」
「それは、「雪」と云うものですよ」
「雪?」
「・・・雨に魔法を架けると・・ほら、こんな綺麗に」
「お師匠様が、魔法をかけたのですか?」
「いいえ。違います」
「・・・じゃあ、誰が?」
「 雨に魔法をかけるのは、冬の国の「サンタ」と云う妖精ですよ」
「サンタ?」
「そう。サンタはその冬初めて降る雪のひとひらと一緒に、
地上に降りて来るんだそうです。その初めのひとひらを
掴まえられた人の願いを聞いて、叶えてくれるらしいですね」
「そんなことが、あるのですか?」
「・・・江流、雪を掴まえましたか?」
「手の中で、消えて無くなってしまいました」
「雪とは、そう云うものなのですよ。
何か、お願いごとをしておくといいでしょう。サンタは、
地上に降りて、願いごとを聞いた証に、ささやかな贈り物を
残して去るんだそうです」
「贈り物・・・」
「小さな、可愛いものらしいですよ」
お師匠様は楽しそうに笑み綻びながら、そんな話をした。
その夜、間断的に降り続ける雪の中で、子供のような無邪気な顔で何かを作っているお師匠様を見かけた。何故だか声をかけるのを憚って床についた翌朝、自分の部屋の窓辺に、こちらを覗き込むようにして、小さな雪の人形が置かれていた。
小さな、可愛い贈り物。
サンタが降りた、ささやかな証。
子供だましの戯事であることは直ぐにわかったのだけれど、自分は、お師匠様の悪戯に騙されて、騙されたふりをして。
叶えて欲しい願いごとを誰でも一つくらいは持っているもの。
でも、結局その願いごとは叶わなかった。
散り際の桜が昔日の記憶を呼び醒ます。夢見の悪さに、溜息を吐くと、背後で悟空の声が聴こえた。開け放たれた隣室の扉の向こう、消え入りそうな小さな声が。
「さんぞ・・・」
振り向くと、寝汗に濡れた額で枕を抱えた悟空が、赤い目をして立っていた。その目は今にも泣きそうで、珍しく優しい声音が三蔵の口をつく。
「どうした?」
「三蔵が、うなされてる声聴こえて・・・」
「えっ」
「俺も・・怖い夢見て・・・なんか、嫌な感じの、変な夢なんだ」
「大丈夫か?」
「すごく、嫌な・・」
悟空の身体は小刻みに震えていた。
「どんな夢を見たんだ?」
おそらく、それが聞いて欲しくて部屋を訪れたのであろう悟空を、三蔵は嫌わずに部屋の中に招き入れた。
寝台にかけさせて、隣に座る。いつか、お師匠さまが江流と呼ばれていた頃の自分にそうしてくれたように。
「皆、居なくなっちゃうんだ。でも、それは三蔵でも、八戒でも、悟浄でもなくて。知らない人みたいなんだけど、良く知っているような気がして。俺、一生懸命手を伸ばすんだけど、届かなくて。三蔵みたいな、そのきらきら光る髪に手が届かなくて・・・」
悟空は遠い目をして、届かなかったと嘆いた両手をじっと見つめた。
「夢は、夢だろ。だれも居なくなったりしてねぇ」
その言葉に、悟空の沈んだ瞳が光りを取り戻す。
「そ・・だよな」
「つまんねぇこと考えてるから、そう言う妙な夢を見るんだ」
「俺、独りじゃないよな。三蔵も、八戒も、悟浄も・・・」
手を伸ばせば其処にいて。
悟空は安心した顔で頷くと、溢れかけた涙の粒をそっと拭った。そして、何かを思って、ふっと表情を暗くする。真顔で三蔵を見て、微かに聴こえた三蔵の声が発した知らぬ
言葉の意味を問うた。
「なぁ、「雪」ってなんだ?三蔵」
「えっ」
「さっき、窓の外見て、言ってたじゃん」
悟空は窓の外に降る花弁を指して、心配そうに言った。
「・・・うなされる程、嫌なもんなのか?」
「うなされる?」
「三蔵、さっきからすげぇ、うなされてて。そんなに嫌なもんなら、
俺が退治してやるよ」
真剣な顔をしてそう言われて、三蔵は可笑しくなって表情を緩める。その様子に安心したのか、悟空は太陽のように明るく笑った。
そして、三蔵は悟空に「サンタ」の話をする。
嘘だとわかっているお伽噺を、悟空に話す気になったのは何故なのか。
今でもよくわからない。
それは、西への旅が始まる少し前のこと。
「それで、悟浄はいつそれを?」
自分が知らなかった事実を悟浄が知っていたことに少し嫉妬して、八戒はまわした手に力を込める。
「話したすぐ後に、あのバカ猿がはしゃいで悟浄にしゃべりやがって」
「僕には話してくれませんでしたよ」
「・・・二人には、俺が口止めした」
三蔵は、少し照れたように言う。
「口止め?」
「嘘だってわかってて、たぶん真面目に信じるだろう悟空にそんな話をした俺を、お前がどう思うか・・・」
「心配だったんですか?」
「・・・怖かった・・」
怖い。と言った三蔵に八戒は驚いて、嘘をついた自分を恥じている健気な恋人の肩にそっと額を落す。
「でも、悟空にとってはその話が、何かの支えになったのかもしれませんよ。だって、悟空はあんなになる程ずっと、雪が降り出すのを望んでいたんですから・・そう思いませんか?三蔵・・・」
「そうかも・・知れないな・・」
「・・今日は、やけに素直なんですね」
八戒は小さく笑って、くすくすと肩を揺らす。自分でも可笑しいと思ったのか、三蔵は呆れた声で溜息に似た科白を吐露した。
「雪の所為だろ。きっと・・・」
「・・やっぱり、貴方は、優しい人です・・・」
雪は、静かに降り続ける。
***
* ***
「悟浄、俺ってやっぱ子供なのかな?」
暖かく設えられた小さな部屋の小さな寝台に寝かされた悟空は、部屋を去りかけた悟浄を呼び止めて不安げな眼差しを向けた。
「あ?」
問われた悟浄は半ば目を丸くして足を留める。
「子供って、まっ俺らから見れば、まだまだお前はお子ちゃまって感じだけど・・今更、何?」
「悟浄はさっ、三蔵が俺に話してくれた「サンタ」の話。全然、信じてないんだろ?そう言うの信じるのは、子供だって思ってる?」
信じていない、と言うよりは、三蔵が悟空に話して聴かせたと言うお伽噺の内容は、基本的な部分が間違っていると思っていた。
「サンタ」が居るとか居ないとか、そう言うことではなくて、それは冬のはじまりの雪に乗ってやってくるのでもなければ、誰かの願いを叶えてくれるのでもない。確か、なんとか言うカミサマの生まれた日に、子供達の所に贈り物を届けにくる老人のことではなかっただろうかと。
「信じてない・・つう訳じゃないし、別にそう言う意味でお前のことガキだって言ってる訳じゃないんだけど・・」
「けど?」
まさかそんなことが言えるわけもなくて、悟浄は困った顔で天井を仰ぎ見た。あの三蔵が、嘘だとわかっていて話した「サンタ」の話に、幾許かの意味があるのだとすると、無碍にそれを否定することが出来なかった。事実においての嘘であっても、誰かにとっての真実に成り得る事はあるかもしれない。悟空がそれを信じているなら、信じさせてあげたいと思っていた。
「お前、嘘だと思ってんの?」
少し意地悪な聞き方をする。
「嘘な訳ないじゃん。三蔵が話してくれたんだよ。三蔵が嘘つくわけないんだから、そうだろ?」
その問いに心が痛む。
「俺、雪掴まえて、その「サンタ」って妖精に叶えて欲しいことあったんだよ。どうしても、叶えて欲しいことが、」
滔々と言葉を繰出す悟空の瞳の奥がゆらゆらと揺れて見えて、泣き出すのかと思った瞬間、悟空は脈絡もなく、三蔵の話をはじめた。
悟浄は一呼吸おいてから、近くにあった椅子を引き寄せる。その背にゆっくりと腰を落とすと、聞き役の姿勢を保って、その話に耳を傾けた。
窓の外に降る雪が、静寂の中で微かな鈴の音を地上に落とす。降り積もる雪の上に零れる音色は、その内深くに吸収されて、消えた。
静寂と響音の繰り返しの中で、降雪が世界を白く変化させてゆく。
「三蔵が、時々ひどく悪い夢を見て、うなされてるの悟浄は知ってる?」
「あぁ。そう言えば、そんな話を八戒がしてたな」
「・・・俺さ、聴いちゃったんだよ」
「何を?」
「三蔵、つらそうな声で、」
一人にしないで・・・
「そう言って、泣いてたんだ・・・」
「ひとりにしないで・・か・・・」
それは、たぶん。
「俺、三蔵に誰も居なくなったりしないって言われた。独りじゃないって言われたんだ。なのに・・・三蔵は、自分が一人だって思ってるのかな?」
そうではなくて。
「俺たちじゃ、全然足りないってことなのか?」
俺たち?
「で?三蔵が独りで泣かないように、とでもお願いするつもりだった?」
「・・・悪いかよ。俺、嫌なんだ。三蔵があんな風に弱音吐いてるの。三蔵には、強く居て欲しいんだ。だから・・・」
悟空は伏し目がちに唇を噛み締める。
独りでないことを知っているから、ひとりになることに怖くなって。
ひとりにされたと感じたことのあるものなら、尚更強くそれを感じて。
だから、肩をよせて。
足りないものを埋めあって。
求めるものが、それぞれに違っていたとしても。
「心配しなくても、大丈夫だろ・・・」
「でも、嫌なんだよ」
「だ〜からっ。お前はガキだって言われんのよ」
「っんだよ。それ、」
「・・・似たもの同士ってこと」
「意味わかんねぇ」
不貞腐れたように口を尖らせた悟空の髪を、悟浄はくしゃりと撫でる。まるで子供扱いな仕種に怒って、悟空はその手を払い除けた。
「俺、結構真面目に話ししてんのに、ホントお前って嫌な奴だな」
「まっ。取りあえず、お願いしてみたら?」
切り返された言葉に悟空は目を丸くする。
「なっ何言ってんだよ」
「何って・・・ほら、見てみろよ」
悟浄は窓の外を指差しながら、真面目な顔で悟空に言う。
「あんなたくさん降ってんだから、まだどっかで寄り道でもしてんじゃねぇかと思ってさ。「サンタ」さん、」
「悟・・浄?」
「聞いててくれるかもしれないし。二人でお願いすれば、」
「ふたり?」
「そっ。俺も一緒にお願いしてやっからよ」
ひとりじゃないから。
***
* ***
「うわっ」
部屋を出た悟浄の前に、したり顔の八戒が立っていた。
「んなとこにつっ立てたら、びっくりするだろが、」
慌てた悟浄の顔が少し赤い。
八戒は、手に持った盆をすっと顔の位置までもち上げると、口角を微妙に上げて微笑んだ。意味ありげな表情に浮かぶのは、揶揄でも侮蔑でもなくて、どこまでも優しいほほえみ。
「薬、持ってきたんですけど・・・」
「・・・聞いてたわけね。今の会話」
「聴こえちゃった・・・んですよ。ほんとになんだかんだ言って、皆、」
八戒はそこで言葉を切ってくすっと笑う。
「何だよ、」
「大切なんですよね・・・悟空のこと。甘やかして」
「な〜に言ってんだか。一番甘やかしてんのお前だろ?」
悟浄は八戒が抱え持つ盆の中身を指して言う。盆の上には、薬湯の入った瓶の他に悟空の好物の品々が、博覧会のごとくに鎮座していた。
「いや、これは・・・甘やかしていると言うか・・・」
含み笑いに頬が緩む。
「ふふん。そう言うのもりっぱに甘やかしてる証拠。しかもあいつ・・・・声を揃えて言ってみるか?」
「えぇ」
────花よりだんご
「ですね」
「だろ?」
「それと、断っておきますが・・・僕が甘やかしているのは」
八戒の綺麗な緑瞳がすぃと細められて。
「・・その先、聞きたくないかも」
悟浄が耳を塞ぐ。
「三蔵だけですから」
「はいはい。ごちそうさま」
***
* ***
雪明かりに照らされた何かの輪郭が、窓辺で息を殺している。真夜中、八戒は謀を胸に抱いて起き上がった。窓辺の輪郭に声をかける。
「悟浄、貴方もですか?」
毛布をすっぽりと頭から被った悟浄がゆっくりと振り返る。いつからそうしていたのか、白い息に包まれながらにこりと微笑み返す。その頬に、好奇の色が浮かんでいた。
「なんだ、お前もか。我ながら、俺たち3人とも甘ちゃんだったわけだな」
「・・・やっぱり」
悟浄は窓の外を顎で示して、八戒の為の場所を空けた。
「見てみろよ」
窓の外。白く積もった雪の中に見知った人物の顔を認める。屈み込んだ身体の前で、何かをせっせと作っていた。時折、ふっと両手に息を吹き掛けながら黙々と作業を続ける後ろ姿は、何処かとても楽しそうで、覗き見ているこちらの頬も緩みがちになっていた。
「三蔵、楽しそうですね」
「自分の嘘に自分で後始末つけてんじゃ、世話ないわな」
「・・悟浄だって、そうしようと思ってたくせに」
「お前だって、悪の手先に加担しようと思ってたんだろ?」
「お互い様ですね」
二人は顔を見合わせて、声を殺して笑う。
窓の外でお伽噺の結末を実践している、可愛い人に悟られぬように注意しながら。しばらくそのまま三蔵を眺めていると、三蔵は出来上がったばかりの小さな雪の像を抱えて、悟空の眠る部屋の窓辺に置いた。
空からは、ほんの小さな雪粒が、時折忘れもののようにひらりと舞う。
三蔵は振仰いだ空に向かって、大きく一つ息を吐く。舞い降りた雪粒を手の平で丁寧に受け止めながら、その白い吐息の中で、満足そうな笑みを浮かべて、部屋へ戻る為に足を踏み出した。
「さて・・と」
悟浄が不意に立ち上がる。
「俺、ちょっと出てくるわ」
にやりと笑った顔に、悪意のない綻びが宿り、八戒はしげしげと悟浄の顔を見つめ返した。
「出て来るって、夜中ですよ」
「え〜と。ちょっくら小猿ちゃんのところにでも・・・」
親友の妙な気の使い方に感心して、甘えていいものかと首をかしげる。
「そんな、変に気を使って貰わなくても」
「三蔵にまで風邪ひかれたら、叶わんでしょ。いっぱいあっためてあげて下さいな。俺は向こうであったか〜い暖炉にあたらせていただきますから」
戯けた表情を崩さずに、悟浄はひらひらと腕を振って静かに部屋の扉を開けた。入れ替わりの三蔵が、眠りを解いている二人の姿にぎょっとした視線を投げて立ち尽くす。
「んじゃ。ごゆっくり」
三蔵の肩をぽんと叩いて、悟浄は廊下に降りる闇の中に姿を消した。
その晩。
恋人の腕の中で温もりを貪りながら、三蔵は甘い吐息を零し続けた。
三蔵が睦言の狭間に告白した言葉の続きを考えながら、八戒は極上の優しさで、外が白みはじめるまで、三蔵の身体を甘やかす。
「俺がはじめから嘘だといって信じなかったあの話を、
あいつは信じて疑わなかった。
もし俺も、それを嘘だと思わず信じていたら・・・」
────叶うものがあったのかもしれない
夜が明けて、
朝日を浴びた小さなの窓辺に、小さな可愛い贈りもの一つ。
太陽が昇り、そしていつもの日常。
「三蔵!サンタが、」
悟空の歓声。
「うるせぇぞ。猿っ」
三蔵の罵声。
雪だるま一つ。
小さな嘘の結末は、誰かの為の真実になる。
【2001.12.25>>>hatohane
tukuto】
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