■---砂礫の森---■■■  □-4-□

 

「思い出しちゃうよ・・・」
 トトマルは鳴きそうな声を出して云う。
「そうだね。多分、」
「多分って、だってケイタくんのは違うでしょ。僕たちのとは違うでしょ。
  思い出しちゃいけないんだよ。」

(鍵のありかを思い出しても、記憶の箱は開かない。)
(何故?)
(だって、壊れてしまっているから。箱の鍵穴が壊れてしまっているんだよ。)

「トトマル、僕らのだって同じなんだよ。
ただ、僕らは自由に思い出すことが出来るだけ、・・・僕らがT闇の中Uにいることには変わりない。何時だって、手探りをしてる。壊れないように、壊さないように。」
「それは・・・」
「・・・楽しいことじゃない、」
 見つめ返された瞳に、トトマルは何も言えない。

(タノシイコトジャナイ)

 僕たちは暗闇に侵された溺れる子供。
 森に巣食うのは記憶の断片。
 それぞれの心を蝕む硬質のカケラ。

 ハジメの記憶。
 トトマルの記憶。
 ケイタの記憶。

 再生の記憶。
 再生の記憶。
 喪失の記憶。

 

 破滅へ向かう、壊れゆく想い。

 

 森の樹木は塑像のように微動だにしない。少し、風が出てきたようだ。ぬ るくて、肌に纏わりついて離れない、水を含んだ暮れ方の風。頭上で重なり合う枝葉に遮られて、二十七夜の月の光はこの森の中まで届くことは無い。
 ハジメは再度、大丈夫だと念を押した。
「何をするの?モトは、何がしたいの?どうして・・・」
 胸中にゾワゾワとした感覚が再び蘇る。
「時間がないんだ。トトマルが困らないように、ケイタが迷わないように、」
「・・・モト?」

 そこまで聞くのがやっとだった。
 トトマルはハジメの腕をきつく掴んで後の言葉を告がせなかった。元気そうに見えて、ハジメには持病があるのだ。命の期限が皆のそれとは違うかもしれないと云っていたのはいつのことだったか。掴んだ指先に力がこもる。泣きそうに、少し潤んだ瞳で見上げたトトマルの頭をハジメはそっと撫でてくれた。
  ハジメが首を横に振りながら静かに笑みを返す。穏やかな微笑だった。全てを受け入れたハジメの安堵の表情が、痛みに変わる。

(そんなに・・・悪いの?)
 眼底が熱を持ち、締めつけられる胸痛に全身が震撼する。
(そんな風に笑えるのは、何故?)

「行こう。」
  ハジメは端切れよく云ってトトマルの手を取った。二人でケイタの選んだ道を追う。手を伝うハジメの温もりに、身体の震えがピタリと止んだ。

(アカリヲトモソウ)
 ハジメの口唇の動きが、音のない言葉を語る。



 闇の中。
 ケイタは自分の足音だけを聞く。土を踏む乾いた音が耳の近くで聞こえている。前を歩いてゆくモナカの姿が時折チラチラと揺らいで見えた。

(なんだろう)

  額にうっすらと汗が浮かんでいた。疲労?そんなはずはない。それなのに、これ程までに躰が重たいのは何故だろう。動悸が激しくなって、視界の先からモナカの姿がふっと消えた。
「モナカ?・・・」
 ケイタは先刻、トトマルをからかった自分を思い出して身震いした。
 恐がっているのは自分の方?。まさか。
「モナカ・・・」 返事は返ってこなかった。
 落ち着け。ケイタは自分に云い聞かせる。何を怖がっている?
 誰かの気配。
 荒い息遣いが後方から迫るような威圧感にケイタは躰を硬直させた。

(タノシイコト)
 誰かが耳もとで囁いた。冷たい汗が背中を伝う。

 闇の中。
 僕は、誰かのことを呼んでいた。いつのことだ?いや、誰かに呼ばれて、

 振り向いた。

 闇に縁取られた大きな影が、その長い手を伸ばす。強い力で弾かれた小さな躰は、バランスを崩して後ろへ倒れた。
「叔父さん?・・・」
 水泡の沸き立つ音の狭間で誰かの叫ぶ声が聴こえた。堕ちてゆく。躰が堕ちてゆく感覚と逆行して、冷たい水の感触が頬を滑り、吐き出せれる息の塊が、視界を塞ぎながら上へ上へと昇っていった。
 僕の所為?───
 頭を過ぎるのは、心の中で繰り返される自問。
 答えの無いない残酷な言葉の輪涅。

(ボクノセイ)

 薄らいでゆく意識の淵で、暗い水の底に沈む僕の躰が、 大きくて、しっかりとした腕に抱え上げられている感覚を記憶した。
 誰?

「にゃぁ」
 モナカの声が聴こえた。足元に獣毛の柔らかさを感じる。ケイタを見上げるモナカの顔に不思議そうな表情が浮かんでいた。
「・・・なんだ?今の、」首筋に溢れた汗が粒になって噴き出していた。乱れた呼吸のせいで、胸が痛い。ケイタは軽く頭を振った。
 5メートル程先で道が大きく開け、緩やかな上り勾配が途切れて、ケイタは森を抜けた。頭がまだぼんやりとしていて、思考は停止したままだった。頭上の月が、笑っている。枝葉の擦れる音が微かに聞こえ、四方を取り囲む夜気の流れは渦を巻いて天に昇った。
 ケイタの眼前に小さな池が見える。何処がで水が沸いているのか、水面が波紋を描いて漣み立っていた。池の先にあるのは、木犀の老木。縦横に延びたその枝は濃翠の葉を天に伸ばしてながら、ゆったりと存在していた。
 ケイタは何処かで見たことのある景色だと思った。
 吸い寄せられるように水辺に足を運ぶ。水面に青白い顔をした自分の姿が映し出された。水面 の闇は、木々の中にあったそれよりも濃い。
 少し強めに吹いた風に、がさり、と枝が揺れ、 大気が揺れ、風を受けた水面 が細かい波形を描く。映し出されたケイタの虚像が、形なくさらわれて消えた。

(タノシイコト)
 また奇妙に人工的な声が耳もとで囁いた。 口の中がカラカラに渇いて、全身の細胞が警告の鐘を鳴らす。軋しむ蝶番のような不快な音だ。

 後方で、草を踏む微動がする。小さな光が左右に揺れながら近づいて来るのが見える。動悸がまた激しくなった。躰が小刻みに震えて、痺れたように動かない。
(なんだよ、これ、)
 ケイタは吐き棄てるように唇を噛む。
 怖い。と思った。

 

 見てはいけない。
 聞いてはいけない。
 言ってはいけない。
 

 そしてケイタは思い出す。

(助けて。)

 

 僕は、
 その一言が言えなかったのだと。

 恐怖。
 恐慌。
 そして、狂気。

 

 意識が再び混濁してゆく。


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