■+-+触れあう距離+-+■

 目を醒ますと、隣にいるはずの八戒の姿が消えていた。
 ぽかりと開いた空間に手を伸ばすと、乱れたシーツの上に、まだぬくもりの欠片が残っている。触れた白布の感触を確かめるようにして、三蔵は八戒の残骸を愛おしみ、その温もりにそっと口吻をしてもう一度目を閉じた。

 闇が降りる

 目蓋の奥で、八戒の細く長い指が、知り尽された躰に愛撫を与えるその感触が甦る。甘やかされることに慣れていない心の拒絶を、八戒はゆっくりと時間をかけて解いてゆく。痺れに似た感覚を与えられて、慣らされてゆく自分がどこか違う次元を彷徨っているのではないかと、不安になる一瞬、八戒はきまって三蔵の額に優しい唇でキスをくれた。
 柔らかな唇が、そっと触れる。そのまま目蓋に触れ、頬に触れ、最後に三蔵の形の良いふくりとした厚みを持った桜色の唇に触れる。

「三蔵・・・」
 声は、すぐ側で聴こえた。

 目を開ける。八戒の綺麗な緑瞳が、驚く程近くに見えた。息を飲んだ刹那、落とされた唇から何の抵抗もなく舌を差し入れられて、三蔵は小さな声を漏らした。
 唇は直ぐに解放されて、三蔵は慌てて半身を起こすと、濡れた唇を手の甲で軽く拭う。微かに鼻孔を刺激する芳香に、微睡んでいた意識が引き戻される。
「どうぞ、」
 八戒は、両手に持ったカップの一つを三蔵に差出しながら、くすくすと微笑していた。
「あ・・・」
 カップの中の琥珀色の液体から、ゆらりと湯気が立ちのぼる。もう朝なのかと窓の外に視線を向けると、月はまだ高い位 置にあった。
「三蔵。今、眠りながら僕のこと考えてました?」
「なっ」
「唇・・・少し開いてましたよ。すごく、色っぽくて素敵な顔をしている貴方を見ていたら、つい・・・ね・・」
 八戒の唇が、再度三蔵を捕らえて、三蔵は抵抗も出来ずにその動きに従ってしまっていた。ただそれは、軽く音を立てて施された口吻で、八戒は未だ手に持ったままのカップを少し重たそうに掲げて薄く笑った。
「いらないですか?コーヒー」
「・・・なんでお前、こんな時間にコーヒーなんて入れてるんだ?」
 時計の針は、あと半時間程で日付けを越える辺りにある。一度終えた情交の後、三蔵は一時間程眠っていた計算になる。そう言えば、引き込まれる眠りの間際に、確か八戒は何かを言っていたようだった。半分、気を失うような形で眠りに落ちた所為か、何を言われたのか覚えていない。
「あと、もう少しですから。躰暖めて、外に出ますよ」
「外?」
 何のことか分からずに聞き返えすと、八戒は呆れたように肩を竦めた。
「聞いてませんでしたね。僕がさっき言ったこと」
「・・・何のことだ?」
「だから・・・悟浄がさっき、」
 八戒は途中まで言った言葉の先を告がず、悪戯な笑みを浮かべて三蔵を覗き込んだ。
「まっ、いいでしょう。とにかく外に出ますから、これ飲んで、着替えてしまいましょうね」
 今度はにっこりと至極の笑みで微笑まれて、三蔵は何かに摘まれたような顔で首を傾げた。

 遠くで鐘の音が聴こえている。
 低く響くその音は、一定のリズムで繰り返されていた。単調なリズムであるのに、余韻を残す揺らぎのある残響が、躰の内側に作用して、心地よい気分にさせる。三蔵は、その鈴鐘の意味にようやく気がついたのか、少し恥ずかしそうに言葉を紡いだ。
「あぁ、そうか。今日は大晦日だったな」
「そうですよ。三蔵、忘れてたんですか?」
「・・るせぇよ。で、これを聞かせたくて、この寒い中外に連れ出したのか?」
 不満そうに呟いた三蔵に、八戒は首を横に振った。
「違いますよ。108つ、鐘の音を聴いてからのお楽しみです」
 今、鐘の音は幾つくらいなのだろうかと考えて、三蔵は溜息混じりの吐息を、少し冷えて冷たくなった指先に吹き掛けた。
「寒いですか?」
「お前は?」
 そう聞き返した三蔵の指に、八戒は自分の指を絡ませる。しっかりと繋がれた二人の手を、八戒は自分のコートのポケットの中に仕舞いこんだ。
「こうしてれば、少しは暖かいでしょ?」
 その言葉に、三蔵は何も言わず、こくりと頷くように八戒の肩に頭を寄せた。
「眠い・・」
 囁いて、そのまま目蓋を閉じる。
「仕方のない人ですね。107回目までは寝ていても構いませんから、どうぞそのまま寄り掛かっていて下さい」
「・・・今、幾つ目だか、わかってんのか?八戒・・・」
 意地悪な声で言った三蔵に、八戒は自信あり気な口調で数字を羅列する。子守り歌のよに聞こえる八戒の声を寝枕に、三蔵は浅い眠りに就いた。

 そう言えば。

 三蔵は、その浅い眠りの中であることに思いあたる。
 そう言えば・・・

「・・100・・」 
  八戒の声が、100回目の鐘の音を告げた。

「なぁ、八戒」
 三蔵は凭れ掛かった姿勢のまま八戒を仰ぎ見る。真直ぐな視線が三蔵の紫暗の瞳を窺う。
「101・・・なんですか?」
「お前、最近言わなくなったな」
「102・・・何を・・ですか?」
 訝しんで、眉を寄せた八戒は、103、104、と近付く最後の数字を求めて、数を並べ続けていた。三蔵は、その間もじっと八戒の唇の動きを見つめている。
「三蔵?」
「お前・・・俺に・・余計なこと言わなくなっただろ。最近、」
「105・・・余計な事ってなんですか?僕、貴方に余計なことを言っていたつもりは無いんですけど・・」
 そう言いながらも、八戒はにやりと意地悪そうに唇を歪めていた。何か思いあたる節がある風な顔つきをして。
「・・・「愛してます」・・とか・・言わなく・・なった・・」
 恥ずかしそうな途切れとぎれの言葉で、三蔵は少しだけ不安気な表情を八戒に向けた。思っていても、決して口に出さないような事を問われた八戒は、優しい眼差しを三蔵に向ける。
「珍しいですね。貴方がそんなこと、面と向かって僕に言うとは思ってませんでしたよ。でもちょっと嬉しいです。・・・それ、気にしててくれてたんですか?」
 気にしていない、と言えば嘘になるが、その科白を聴かなくなったことに、必要以上の不安を感じていたわけでもない。それが何故なのかわからないことの方がむしろ気にかかっていた。
「106・・・分かりませんか?」
「何が?」
 八戒はポケットの中で繋がれている手に力を込める。きゅっと繋ぎ直された手を、三蔵は嫌がらずに握り返す。その仕種に呼応して、八戒は満足そうに頷いた。
「言う必要がなくなったから、言わなくなったんですよ。それに、そう言われるの、貴方あまり好きじゃないでしょ・・だから」
「・・必要がない?」
「ええ。だって、ほら」
 ポケットの中の手をゆっくりと引き出しながら、八戒はひどく嬉しそうに頬を緩めた。そして、とても穏やかに微笑み返す。
「こんな風にすること、ちゃんと認めてくれるじゃないですか」
「えっ・・・」
「だから、確かめる必要がなくなったんです。口に出さなくても、この距離でいられることを赦してくれているでしょ?」
 そんなものなのだろうか?と思う。
「107つ。あと一つですよ、三蔵」
「あぁ・・・」

 108つ。
 その年最後の鐘の音が、空高く響き渡って。


 三蔵の手を取る八戒の手が、一層強く力を込める。そして、残響に重なりあって、ドンと大きな音があがった。空が、明るく照らし出されて、夜空に光の花が咲く。
「見て下さい三蔵、綺麗な花火があがりましたよ」
「お前が俺に見せたかったのは、この花火か?」
「はい、そうです。悟浄がね、教えてくてたんですよ。悟浄ったら、「女はこういう状況の根廻しが大切」とか言って意気込んでました。でもね・・・」
「また、女か?」
「 それがですね、悟浄は街の広場の方に悟空と一緒に見に行ってるんですよ」
 八戒は面白そうに笑う。
「それ、お前への操だてなんじゃないのか?」
「・・・その冗談、面白くないですよ」
 怒っている風でも無く、八戒はもう一度くすりと笑う。
 新しい年の幕開けに、八戒がこれを見せたかったのかと思うと、三蔵は自分が女扱いされている事実に胸が悪くなった。それで、少し意地悪を言ってみたのだった。それでいて、相手にされない戯言は、ただの睦言のようにしか聞こえなくて。自らも八戒が言う、二人の間にある距離の近さを心地よいものに感じていることに気付かされた。

 少し前の自分だったらどうだろうかと考える。
 自分は、変わったのかもしれないと。

 自分より、少しだけ目線の高い八戒の横顔に、ゆっくりと明滅する花の残照が映っていた。空を仰ぐ顎のラインや、流れる鼻梁の清涼な色香が、光と影の狭間で美しく浮かび上がっている。三蔵は、それを心から綺麗だと感じ、新しい年のはじまりに、八戒の隣にいることを赦されたことに感謝していた。

 そう、
 その距離を互いに赦しあえたことを。

「綺麗ですね・・・」
 八戒が呟くように言う。
「・・・綺麗だな」
 三蔵は、八戒を見つめたまま言葉を吐く。その視線の在り処に気がついてか、八戒はわざと三蔵の視線を避けて頭上を仰いだまま、今度は艶のある声で同じ科白を口にした。
「・・・綺麗です・・ねっ」
 繋ぎあう手をゆるりと顔の位置まで近付けて、八戒はそっと三蔵の甲に口
吻けて。

「花火は、お気に召しませんでしたか?」
 戯けたように言った。

「やっぱり、子供だましでしたね。折角の新年のお祝は、もっとこう・・大人テイストな・・」
「・・別に、んなこと思って、」
「ない?ですか?・・でも、ほらっ例えば」
 口吻けられた手を、八戒は両手で包み込むようにして胸の前に抱く。
「たとえば、別の部分を繋ぎあっているとか・・」
「・・・はぁ?」
 もしかすると、とてもはずかしいことを言われているのではないかと気がついて、三蔵が顔を上げようとした瞬間、狙いすましたように、八戒の唇が頬に落ちる。子供のようなキスをされているのに、三蔵は深く探られる口吻よりも数倍増して羞恥を覚える。
  そして、急激に紅を指した頬を、八戒は空いている片方の手の平でそっと包み込んでから、三蔵の耳元に唇を這わせてそっと囁いた。

「これからも、宜しくお願いしますね・・・三蔵」

 その声に重なって、ひときわ大きな光りの花が闇間に綺麗な花を咲かせた。

 

 手を伸ばせば其処にいて
 これからも、
 この先ずっと・・・

 触れあう距離で
 そばにいて

 

【2002.01.01>>>hatohane tukuto】

戻る