【蒼ノ彼方】
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*** + ***

 

 そこにあるのは、ただ蒼い空ばかり。

 

「さて、これで全部終わりですね」
 抱え上げた洗濯籠の中身を確認して、八戒は大きく空をふり仰いだ。二月の空気は凛と澄んで、少しだけかじかんでしまった指先にふっと息を吹きかけると、背後で悟浄の声が聴こえた。
 悟浄の声と重なるようにして、張りのある見知らぬ少年の声がする。遠慮がちに、それでいて、親しみを込めて話される悟浄の口調に、無二の親友のような響きがあることを訝って、八戒はそろそろと頭を返した。

 はて、誰でしたかね。

 振り返った先、悟浄と並んで歩く少年の姿に見覚えは無く、悟浄の胸の下あたりにある少年の額の上で、癖のない紅の前髪が風に煽られ、さらりと心地よく揺れていた。
 昨日今日の知り合いと言うわけでは無さそうな雰囲気に、そのような年少の知り合いが悟浄にいたのかと思うと、少し意外な気さえして。
 この位置からは少年の顔を確認することは出来なかったけれど、背格好から判断して、年の頃は、12、3歳と言うところだろうか。

 あ。荷物。

 悟浄の両手一杯に抱えられた荷物は、朝方、八戒が買物を頼んだ品の数々で、隣に並ぶ少年の両手にも、両手を塞ぐのに十分な量 の荷物が握られていた。いや、良く見ればそれは、本来悟浄と連れ立って出掛けたはずの悟空が持って帰るはずのもののようで。
 周囲を見回しても、悟空の姿は見当たらなかった。
 一陣の風に、今干し終えたばかりの洗濯物が音をたてて翻る。

 少年が、ゆっくりとした動作でこちらを振り返った。

 悟浄に良く似た紅玉の双鉾が、滑らかな白磁の顔の中できらきらと輝いている。光りに透けて、硝子質のそれは、猫の目のようにくりくりと大きく見開かれていた。軽く笑み綻んだ頬がうっすらと朱鷺色に上気する。
  その瞳が八戒を認め、少年は八戒に向けて丁寧に会釈をした。
  人慣れしたゆったりとした物腰が、まだあどけなさの残る顔つきを少しだけ大人びて見せている。
「こんにちは」
 澄んだ声が、渇いた空気の中に暖色の潤いを与えながら投げかけられる。反射的に微笑を返した八戒は、同じ言葉を唇に乗せながら、深々と頭を垂れた。
 真直ぐに伸ばされた背筋の脇で、少年の細い手首が軽く撓る。握られた指の腹に、薄い朱が昇っていた。
「あっ」
 八戒は慌てて少年に駆け寄ると、その荷物に手をかける。
「すみません。これ、悟空が運ぶはずの荷物なんじゃありませんか?」
 少年は頭上の悟浄と顔を見合わせながら、肩を竦めて、くすりと笑った。

 

*** + ***

 

「・・・本当に、悟空には困ったものですね」
 少年を部屋に招き入れて、お茶を振る舞った八戒が呆れ声で言う。
 少し目を離した隙に、荷物を置いたまま悟空はどこかへ姿を消してしまったらしいのだ。全ての買物を終えてしまっていたことが災いして、身動きが取れずに市場で立往生していた悟浄に、この少年が助けを申し出たらしいのだが。
  何ヶ月ぶりかの再会になるという二人の間には、何か秘密めいた空気が漂っていた。 この旅のさなか、顔見知りであるという眼前の少年と、悟浄との関係の糸口は、他愛なく交わされる会話の中では容易に察することは難しかった。ただ、ものづくりを生業として、行商で生計をたてているこの少年もまた、西へ向かう旅路についているらしかった。
  時折、ちらちらとこちらを窺うような視線が、好奇の色合いを含んでいることが少し気になって、問いただそうとした矢先、悟浄が焦ったように席を立った。

「お茶、もう一杯飲むか?」

 何か、わざとらしい。

「いえ・・・もう失礼しないと」
「あ〜そうか。店、そのままにして来ちまったからな」

 店?

「美味しいお茶を御馳走さまでした」
 八戒へ向けられる好奇の視線はそのままに、少年は振舞いの礼を述べる。悟浄を一瞥したように見えた瞳の色が、満足そうに揺らいでいた。
「お兄さんには、久し振りにお会い出来てとても楽しかったです。それに・・・」
 八戒に向き直った顔が無邪気に微笑む。輝かしいと言う形容がぴったりと嵌り込むような表情だった。
「・・・噂の八戒さんと、会えましたし、」
「うわさ?」
「あ〜っ」
 首を傾げた八戒の脇で、悟浄が一つ、大きく吠えた。
 三人の視線が窓の外に注がれる。小さな影が、ふらふらとした足取りで歩を進めているのが見えた。
「ご、悟空やつ、帰って来たぞっ」
 裏返った声が慌てて悟浄の口に昇った。
「あぁほんとだ。小さいお兄さん、随分な荷物になってしまったみたいですね。ちょっと可哀想だったんじゃないですか?」
 少年が、悟空を見てそう呟く。
「えっ?」
「うっうわぁっ」
 八戒の疑問符をかき消すように、悟浄がまた一つ大きく吠えた。  
「なんなんですか?悟浄、」
 頓狂な声をあげる悟浄の態度に、少年は前屈みの姿勢で肩を小刻みに揺らしながら立ち上がった。
  口元に宛てがわれた指の間から、微かに声が漏れている。
  笑っているのだ。くくくっと押し殺された笑いに悪意はなく、むしろそれは、一回りも年の離れた悟浄をからかうような仕種にさえ見えた。

 怪しいですね。

「それでは、僕はこれで」
「おっおう。悪かったな、荷物持ちさせちまって。助かったよ」
「あ。そうそう、これ」
 少年は席を離れかけて、負った箱型のリュックの中から少し大きめの紙袋を取り出した。重そうに抱え持った袋を悟浄に手渡す。
「さっきお約束したアレです。それと、こっちが・・・」
 リュックの底の方を探って、手に乗る程の大きさの箱をテーブルの上に置く。箱は綺麗に梱包されてリボンがかけられていた。
「最後の一つなんですけど、僕から、悟浄さんに」
 悟浄の背が、ぴくりとさざめく。
「俺に?」
「・・・品質保証付きですから、御安心を。
  あ、それから、説明書きと例のレシピはその袋の中に入れてありますから、ちゃんと読んで下さいね。今度のも、力作ですから」
 少年は得意げに片目を瞑った。

 ご幸運を。

 そう言い残して、少年は悟浄と連れ立って部屋を出る。閉まりかけたドアの隙間から、物憂気にこちらを振り返った少年が、片手をあげてにっこりと笑い、その口元が音の無い言葉を紡いだ。

 マ タ ア シ タ

 少年の唇の動きの余韻を残したまま、扉は静かに閉ざされた。

 硬質な硝子窓を透かして、暖かな日射しが格子の蔭を落とす。
  見上げた空は、何処までも、蒼かった。

 

「・・・なにか、嫌な予感がしますね・・・」

 

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