田の神さあ(仮) =中編=
朝の門司
8時46分着の門司駅は、下関駅と同じような雰囲気であった。ここで「さくら」と別れ、8時51分発の門司港行に乗る。この区間には、前回すなわち九九年夏の旅にて、会長さん以下が乗車している。
門司港駅は、かつての門司駅であった。関門トンネル開通以前は、いまの海峡夢タワー(九九年夏の旅の諸子の文章に既出)の位置に下関駅があり、また現在の門司港駅が門司駅であって、両駅間を関門連絡船が結んでいた。一九三六(昭和十七)年に関門トンネルが開通した際、下関駅は現在地へ移転し、トンネルの九州側坑口に近い大里駅が門司駅と改称された。これに伴い門司駅は門司港駅と名を改められ、現在に至っている。
つまり、一九三六年までは現在の門司港駅が九州の鉄道の玄関口であったと言える。そして現在も、鹿児島本線の起点は門司港駅となっている。
起点と言っても帳簿上のことだけで、特急の始発駅は博多や小倉になってしまっているから、帳簿が実態に即しているとは言い難い。しかし九州の旅の起点として、とりあえず門司港まで行ってみることにした。確かに門司港までの線路に乗りたいという征服欲はあるが、今回ばかりはそれだけではなかった。
門司港まではすぐで、左窓の倉庫街の合間から関門海峡を見ながら走ると、もう門司港駅の構内が広がってきた。
線路の終端があって、その先に駅舎が建っている。改札口を抜け、駅前の広場に出て、振り返って駅舎を眺める。白壁の、洋風の建築であって、黒っぽい銅板葺の屋根がメリハリをつけている、古い建物である。なお、この建物は重要文化財の指定を受けている。
このあたりは、北九州市の門司区であるが、古い建物が多く遺っており、「門司港レトロ地区」として整備されている。そういった古い建物の間を抜けていくと、簡素な踏切に出た。これは、いま乗ってきた鹿児島本線ではなくて、門司港駅の少し手前から分岐した非電化の貨物線である。頭上に電線のない踏切を渡るのはひさしぶりだなどと考えながら、春の若草がいっせいに萌え始めた、滅多に列車は来ないであろう線路を渡った。
春の日豊本線
門司をひとまわりして、一路宮崎を目指しにかかる。まず門司港駅9時39分発の電車で小倉に着き、駅のベンチで、筑豊炭田を経由するなどの諸経路を時刻表に諮る。しかし色好い返事がなかったので、日豊本線を延々と南下することに決め、10時25分発宮崎空港行「にちりん5号」の自由席に乗る。すぐ前の10時11分に大分行「ソニック11号」があるために乗車率は極めて低く、車掌の車内検札もすぐに終わってしまったようであった。
小倉の市街を外れると、左窓に周防灘まで続く平野が広がって、若草の中に菜の花が交じっている。幼稚園児が十数人、列になって、こちらに手を振っている。明るい海が見渡せる箇所もあった。
宇佐から国東半島の基部を越え、列車は別府へ下っていく。再び海が現れた。温泉旅館のビルが集まる別府を過ぎて、マラソンのコースにもなっている国道と並行しつつ、猿で有名な高崎山を右に見る。
大分からの乗車も多くはなかった。お昼の列車だから仕方ないところであろうが、飛行機に客を取られているという理由もあるだろう。福岡空港から宮崎空港までは、所要わずか40分、間隔は開いても二時間程度である。
ともあれ、宮崎までの道は半ばにも達していない。依然として低い乗車率で、春の日向に向かう。国境の宗太郎越えでは、急な勾配と曲線でおよそ特急らしからぬ速度になり、さらに単線区間なので上りの特急を待ち合わせることもある。
山越えの区間が、やはり乗車率の最低区間であった。山を越えて日向に入り、最初の停車駅である延岡に着くと、乗客が大勢乗ってきて、半分以上の席が埋まった。延岡からは宮崎まで平野が続いているため、人口密度も高くなり、「にちりん」は延岡・宮崎間の都市間特急として走り始めたようであった。
青島大返し
宮崎には15時08分に着いた。これから青島へ大急ぎで行ってこようと思う。
青島は宮崎市の南方に位置している。日南線に乗れば青島駅があって、青島まで十分ほどであるらしい。時刻表を見て、半時間に満たないながら滞在時間を捻出できることが判明した。
今日の集合は宮崎駅前に十八時、ということになっている。旅会の集合時刻などあってなきが如き存在になりつつあるが、今回は殆どの会員が同じ列車で宮崎入りするために、遅刻などするとひとり取り残されるということが予想される。
原色を多用して無理に南国の印象を与えようとしている宮崎駅の4番線から15時22分に発車する日南線列車に乗る。この旅はじめての気動車である。
大淀川を渡り、宮崎空港を眺めて、15時51分、青島駅に着いた。大急ぎで歩きだす。帰りの列車は16時26分発である。これなら南宮崎で乗換があるが宮崎には17時09分に到着できる。これを逃すと青島発17時43分まで列車はなく、宮崎到着が18時11分となってしまう。
国道に架かる歩道橋を渡ると、土産物屋などが建ち並ぶ道に入り、これをそのまままっすぐ進むと青島と海が現れた。
青島は周囲を「鬼の洗濯岩」に囲まれている。上空からの写真では、青島は周囲に斜線を施された島のように見える。その異様な地形は筆舌に尽くしがたい。地層や波の関係によってできたらしいが、なにぶん気が急いているから説明板なども読まず、青島へ通じる橋を渡った。
渡ると、まわりは海であった。水平線が春の大気に霞んでいる。島の中央には亜熱帯性の植物群が保存されていて、春爛漫の若草色をしている。北に目を転ずると、海の向こうに宮崎の市街と、それよりもすこし離れたところにあるビルが見える。このビルがシーガイアである。
なにやら神社があったようだが、それを無視して「洗濯岩」の上を歩く。柵で囲って立入禁止にしてもおかしくない、貴重な自然地形だが、なぜか入れる。有り難いことで、一直線になった岩を伝いながら沖の方へ歩いてみる。その途中で、シャッターを頼まれた。足場が不安定だからぶれたかも知れない。
飫肥へ
宮崎一泊の後、さらに南へと日南線に再び乗車した。青い海と、山の中にぽつぽつと咲いていた桜が印象に残った。
列車の乗車率は案外に良好であった。この列車には、錦江湾口を渡るという周音速さんと、今日半日の同道であるナスさんの二人が同乗している。
日南線沿線で、さしあたって行ってみたい土地は飫肥である。
飫肥藩では藤原南家を祖とする伊東氏が代々藩主を務めた。詳しい説明はナスさんの文章にあるであろう。
さて、その飫肥に着き、周音速さんと別れた我々は城跡へと歩きだした。が、どうもおかしいと思ったら駅にスケッチブックを忘れていた。ナスさんに先行していただき、走って駅へ戻る。
酒谷川に架かる稲荷下橋を渡り、城下町へ入る辺りでナスさんに追いついた。のこのこと歩いてゆくと、小村寿太郎の誕生地、という表示のある四つ角に出た。地図を見るに、ここで北へ折れると飫肥城の大手門に至るようであったので、それに従って上り坂の通りを北へ向かう。
飫肥城は建物の復元に熱心で、最初に目に入った大手門は一九七八(昭和五十三)年の復元、しかも木造での復元である。林業の衰退で飫肥杉が余ってきた頃の対策であったのかもしれないが、安直な鉄筋混凝土造よりも雰囲気がある。
緩やかすぎたり急すぎたりする、要するに城跡らしい階段をいくつも登ったところに、書院造りを復元した松尾の丸があった。ここへ入る際に、入館料のようなものを取られることになっている。
建物の玄関にカウンターが組み込まれていて、ここの部分だけは当時のままではないのだろうが、そこで地元のおばちゃんが受付をやっていた。
ちょうど、愛用の絵描き用チャコール鉛筆の芯が折れてしまったところであったので、カッターナイフを借りて削る。その最中に、件のおばちゃんが、人の顔を描くのかと訊いてきた。描いてくれなどと言い出されると、人の顔を描けない私は困ってしまうので、風景しか描かぬのです、と言っておいた。描けぬのです、と言わないところに私の欠点がある。
この書院は大手門の翌年に復元されたらしく、今年で築二十二年となる。手入れはさすがに良く、一般住宅の築二十二年とは比較にならないが、使う人がいないためか、江戸時代築の「本物」に較べるとすこし不自然である。結局、絵はここでは描かなかった。
靴を履いて外へ出ようとするときに、例のおばちゃんが同僚と噂話をしていた。固有名詞が並んでいたので全貌は不明だが、敢えて内容を推測するに、町で有名だったカップルが別れた、ということらしい。我等が会長の唱える「年度末危機説」の実例であるのかもしれなかった。
志布志まで
昼食を仕入れ、ナスさんと11時52分発の列車で日南線をさらに南下する。昼の列車だからであろうか、乗客数はふるわない。
日南という駅に着く。日南市の代表駅と言うことになっているが、そもそも日南市という漠然とした市名からも推測できるように、先ほどの飫肥町とこの先の油津町の二つ(と他2町村)が合併(一九五〇=昭和二十五年)してできたのが日南市なのである。そして日南駅は両者の中間点に位置し、市役所もこの駅前にある。飫肥・油津がもうすこし力の強い町であれば、この二つの町の間が市街化されたのかもしれないが、目下日南駅前は栄えているとは言い難い。
油津で結構な降車があり、車内が閑散とした。乗ってくる客は少なく、この先に線路が生きて残っているのが不思議であった。
乗車客があるならここだ、と思っていた12時49分の串間でも乗る客は少なく、閑散としたまま終点の志布志が近づいた。
こんな調子だから、志布志というところはひどく寂れたところに違いない、と思っていた我々であったが、ようやく見えてきた志布志の町を車窓から遠望して驚いた。
まず大きな工場がいくつも目に入り、その城下町のような家並みが広がっていた。いままで町らしい町を見てこなかっただけにその効果は凄まじかった。なぜこんなにも大きな町であるのに、日南線に乗る人がいないのだろうかと思った。
時刻表の地図を見ると、志布志港には東京や大阪からのフェリーが入っていた。大阪南港から14時間40分、東京の有明からは27時間となっている。後者は那覇への船が寄港する形になってはいるが、ともかく志布志港は海上交通の要衝なのであった。原料を海外から航送でき、生産した製品を、たくさんの船で混雑する瀬戸内海を経由せずに東京や大阪へ持ってゆけるというところが利点なのであろうか。ともかく、そんな志布志に着いた。
バスに乗るとろくな事がない
ナスさんは際どい乗換である。志布志到着が13時12分であり、彼の乗る、垂水へ向かうバスが13時17分発となっている。要するに五分しかない。
大急ぎで列車から飛び出すと、目指すバス停がなかった。時刻表バスの欄には「志布志駅」発と書いてあるのに無いのである。我々は大いに慌てたが、ここから彼と行程を別にする私が慌てる必要は皆無であることに、後日気付いた。それはともかく、我々は大急ぎでバス停を探しにかかった。
さらに悪いことに、私が旅行バッグを列車に置き忘れたことに気付いて取りに戻ったりしたので、焦燥感に拍車がかかった。忘れ物は本日二度目である。
律儀にも私を待っていたナスさんは、駅の山側を走る街道上に「志布志駅上」バス停を発見した。その瞬間、「垂水」の文字を尻に掲げたバスがそこに停車しており、発車寸前であるのが解った。彼とバスとの距離は百メートルばかりであったろうか。彼は突如として走りはじめ、発車しかけたバスの扉を開けさせ、乗車した。私は彼の俊速に追いつく能わず、バスの後方から彼が首尾良く乗車する様子を眺めた。彼が疾走するのを見たのははじめてのような気がした。
私のこのあとの予定は、おなじ「志布志駅上」バス停から出るバスで都城まで出ることになっている。このバスはかつての国鉄志布志線西都城・志布志間38・6キロ(一九八七年廃止)とほぼ同経路を辿る。バスの発車は13時31分となっている。
大急ぎで走ったので、息を整えていると、新たなバスがやってきて、私に向かって扉を開いた。私は、随分早いなと思いつつも運転手に行先を尋ねた。行先標を見ていなかったのである。
「都城行ですか」
「いや、垂水行」
垂水といえば、五分前にナスさんが大急ぎで乗り込んだバスと同じ行き先ではないか。同行子があれほど急いで走ったのも、17分を逃すと14時07分までバスがないからではなかったのか。しかるにバスはここにいる。まさか07分が早着したわけでもあるまい。すると、このバスは時刻表に載っていない別のバスなのかも知れない。地方のバスで五分間隔の運転など信じられないが、とにかくこのバスに人定質問をしてみる。
「え? それじゃあ、このバスは何分発ですか」
私は運転手の返事に耳を疑った。
「遅れの17分発ですが」
なんと。
要するに、いま目の前にあるのはナスさんが目標としていたバスだ、ということになる。
それではナスさんが命をかけて乗り込んだ、あのバスは一体何者なのだろう。17分の前の垂水行は12時27分発で、さっきのバスがこれの遅れであるとは到底考えられない。
「お客さん、どこまで?」
考え出した私に運転手が訊く。
「あ、都城までです」
返事の代わりにドアが閉まった。
独りで乗り込んだ都城行のバスには、殆ど客が乗ってこなかった。運転手と二人きりになることも珍しくなかった。前が見やすいように一番前の席に座った私に、運転手が、船で来たのですか、と訊く。いや、列車で来ましたと答えたが、運転手は、ああ、汽車ですか、と言ったっきり、職務に忠実になった。
14時15分頃、岩川営業所前というバス停に停まり、時間調整をする。その岩川営業所は取り壊しの最中であった。運転手はそれを見て、ああ、壊されてしまった、とつぶやいた。
岩川の町を外れるあたりで国道269号線に入った。14時34分、「末吉駅前」バス停を通過した。バス停に名を残す志布志線末吉駅跡には、駅舎が保存されていた。いままでも何カ所か「〜駅前」という名残りのバス停はあったが、ここまで保存されているところははじめてである。
再び宮崎県に戻って、かつての志布志線の終点である西都城駅を経由し、都城駅に着いた。降車客もやはり、私独りであった。
錦江湾へ
15時36分都城発の日豊本線普通列車に乗り、鹿児島を目指す。先ほど見上げた西都城は都城の次の高架駅で、志布志線の分岐点であった。志布志線は高架化後もしばらく走っていたらしく、駅の南で日豊本線から分岐する弱々しい高架線を見ることができた。もちろん、駅を少し離れたところでは志布志線の高架橋などとっくに取り払われていた。しかし、志布志線の分岐部分は盲腸のように西都城の高架線に未来永劫張り付いていることであろう。
霧島神宮を過ぎると、霧島川沿いに続く菜の花が右窓に広がった。
錦江湾へ下り、国分へ着く。ここから、ナスさんの目指した垂水を経て志布志へ至る大隅線が廃止されたのは、一九八七年であった。
鹿児島へ、錦江湾沿いに走る。今日はやや霧がかかっているようで、桜島は望めない。月照入水地、西郷隆盛蘇生の家などが車窓を流れ、城山を抜けると、西鹿児島に着いた。