童謡ベスト10      選出・池田小百合/池田博明

 いくつかの出版社から童謡の本を出していただけましたが、本に載せる童謡を選定する際に、もれてしまった童謡についての文章を、ホームページに掲載します。これらの童謡は私たちが考えるベスト10にはなくてはならない作品なのですが、そう考えない人も多いようです。そんな意味では是非積極的に推薦したい作品です。
         2004年



      
かわいいかくれんぼ     サトウハチロー作詞、中田喜直作曲

                                      池田小百合  文


 かわいい動物たちのかくれんぼを歌ったこの歌は、戦後の童謡の最高傑作だと思います。季節ははっきりしませんが、春から夏にかけて生まれた子スズメが庭に集団で来る機会が多いのは秋ですから、スズメの歌詞のところは秋の歌とみなすことができます。

  『かわいいかくれんぼ』には、すぐれた童謡の条件がすべてそろっています。
 まず、この童謡には、子どもが無理なく思い浮かべることができる動物のしぐさなどの「情景」があり、それぞれの動物たちが自分の体をかくしきれずに見つかってしまうという「物語」があります。
 曲は、日本人好みのヨナ抜き音階(ファとシを使わない音階)を使い、日本語に合った自然なメロディーで書かれています。
  リズムには「変化」があります。「ひよこがね」の「ね」のやさしい呼びかけ、「ピョコピョコ」など擬態語の巧みさ。「見えてるよ」と「よ」を使って全体を上手にまとめています。
  それだけではありません。
 最後に「だんだん だあれが めっかった」と、突然、わらべ歌の世界が出てきたような調子になります。この曲の「サビ」に当る部分はこの最後の連で、歌い方が難しいところです。この最後には、『かごめ かごめ』で「うしろの正面 だあれ」と歌うときに感じられるような唐突さがあります。その唐突さは、二番が始まると、また元の軽いテンポに戻ります。
 このような曲想の転換は同じ作詞作曲者の『ちいさい秋みつけた』にもありますから、作曲者の中田喜直が意図的に使ったものと思われます。

 また、この童謡には子どもの目線に立った「発見」があります。
 ひよこの「黄色い あんよ」、すずめの「茶色の 帽子」、こいぬの「かわいい しっぽ」。それぞれの動物のいちばんの特長を子どもは「発見」していきます。

 歌には教育的な意義もあります。実際のかくれんぼのなかで、かくれたつもりが鬼に見つかってしまうという経験を子どもたちはきっとしていることでしょう。
 ところで、かくれそこないは失敗でしょうか。この歌には隠れそこねたひよこや、すずめや、こいぬの失敗をむしろ楽しみ、いつくしむ感覚があります。動物たちの失敗を楽しむことで、自分の失敗だけでなく、他人の失敗を思いやる気持ちが育ちます。
 それに、もともとかくれんぼという遊びは見つかることを期待して隠れているという側面があります。もしも完全に隠れきってしまって、見つかることがなければ、自分の隠れ場所の見事さを誰にも評価してもらえないわけですから。

  この名作は、昭和二十六年一月、NHKラジオ「幼児の時間・うたのおけいこ」で安西愛子が歌って発表され、その後、「うたのおばさん」でもくり返し歌われました。『かわいいかくれんぼ』と『めだかの学校』を吹き込んだレコード(歌・安西愛子と杉の子こども会)を製作したコロムビア株式会社は、昭和二十七年度、第三回芸能選奨(現・芸術選奨)の音楽部門で文部大臣賞を受賞しました。

 曲が作詞者サトウハチローのイメージに合っていたので、それからハチローは、作曲を中田喜直に依頼するようになりました。
 「すなおな、むりのない、いやみの少しもないのが中田さんの作曲の一大特長です」と絶賛しています。コンビで作った童謡は二百篇以上あります。
 佳曲『ちいさい秋みつけた』には、「ハゼ」が読み込まれていますが、ハチローは当時、東京・文京区弥生に住んでおり、その家の庭には秋になると紅葉する「ハゼ」の木があったそうです。亡くなるまで住んだ家は、「サトウハチロー記念館」になっていましたが、現在は、岩手県北上市立花・展勝地公園内に移転しました。

  作曲者の中田喜直は、大正十二年八月一日、東京・恵比寿で生まれました。父親の章(『早春賦』の作曲者)は、喜直が八歳の時に亡くなりました。
 名前は、「よしただ」と読みますが、みんなが「よしなお」と読むので、「よしなお」で通しました。
 昭和十五年、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)ピアノ科に入学。同十六年の太平洋戦争開戦にともない同十八年、東京音楽学校を繰り上げ卒業し、宇都宮陸軍飛行学校に入学、一年後パイロットとして戦場に向かいました。
 終戦後は、作曲家として活躍しました。『かわいいかくれんぼ』は、二十七歳の時の作品です。この作品から童謡の作曲が本格的になりました。四十歳を過ぎて、作曲のかたわらフェリス女学院大学教授として、後進の指導や合唱団の指導にもあたりました。また、日本童謡協会会長を務め、昭和五十九年に、七月一日を「童謡の日」と定めました。
 二千曲あまりの作曲をして、平成十二年五月三日、享年七十六歳で亡くなりました。
 近年相次ぐ青少年の犯罪については、「小さい頃、童謡を聞いていないからかな」と言っておられたそうです。その言葉を平成十二年五月二十三日の朝、NHKテレビ七時のニュースが報じていました。童謡を愛する人の言葉です。


    参考文献
  季刊『どうよう』第十九号(チャイルド本社)


              さんぽ      中川李枝子作詞、久石譲作曲
                          
                                    池田博明 文


 宮崎駿監督のアニメ映画『となりのトトロ』(1988)の巻頭に流れる歌「さんぽ」は、終わりに歌われる「となりのトトロ」(宮崎駿作詞)と共に、新しい時代の童謡と言ってもいいでしょう。
 明るくて元気いっぱいのこの歌は、「坂道、トンネル、草っぱら」といった自然のなかで、「蜜蜂、トカゲ、ヘビ、バッタ」などいろんな生き物に出会える喜びを教えてくれます。
 『となりのトトロ』は、ビデオやDVDでくり返し作品を見返すことができる傑作として残る作品でしょうから、主題歌も映画の印象と記憶とともに歌いつがれることでしょう。

 作品が成功したかどうかは、映画を見終えた人たちが劇場を出るときに主題歌を口ずさんでいるかどうかで判断できます。『となりのトトロ』を見終えた子どもたちは、「歩こう、歩こう、私は元気!」とか、「ト・トロ、ト・トロ」と口ずさんでいるのではないでしょうか。そして、歌の背景でメイが腕を振って歩いていたように、子どもたちは「どんどん」歩いていくでしょう。

 歌は途中で転調しており、大変難しい曲想をもっていますが、耳で聞き覚えた子どもたちは何の苦もなく歌いこなしてしまいます。

  『となりのトトロ』はアニメーション映画では初めて、キネマ旬報の日本映画ベスト・ワンに推奨された作品です。長い間、アニメ映画は劇映画より格下にみなされていましたが、『となりのトトロ』が公開された頃からでしょうか、アニメ映画と劇映画をことさら区別するひとはいなくなりました。いまや日本の長編アニメ映画が世界一であることは宮崎駿監督だけでなく、多くの才能のある人々が輩出していることからも明らかです。

 『となりのトトロ』は昭和三十年代を背景に描かれています。この映画を解くキイ・ワードは、ドングリが発芽した朝にサツキが「夢だけど」と言い、メイが「夢じゃなかった」と同調する言葉にあります。夜の間にトトロたちが庭の小さな畑にやって来て、お祈りをしてくれたお蔭で、ドングリは一気に発芽し、成長しました。トトロが独楽を回し、夜の空を子どもたちはトトロにつかまって飛び回ります。それは夢の冒険でした。
 トトロは子どもたちにしか見えません。もともと子どもの想像力が生み出した生き物なのです。ところが、目が覚めると、ちゃんと種子は芽を出していました。

 映画を見ている私たちは、この言葉を聞くまでは、トトロは子どもたちの幻影にすぎないと解釈していました。しかし、顔を出した芽を発見した子どもたちが「夢じゃなかった」と言い切ったとき、「夢」を信じることが生きる力になることを確信できたのです。その瞬間に、トトロが実在すると思えることの大切さが理解できたのです。
 そういえば、この当時は、まだどの家庭にもテレビがありませんでした。サツキたちの家には電話もありません。子供たちは学校から帰ってくると外に飛び出して遊んだものでした。外には街灯もなく、夜中になると月明りでした。道も舗装されていませんでした。こういった情景は映画のなかで描写されています。
 そこで、私たちは電灯の乏しい、テレビのない時代だからこそ、子どもたちは外でトトロのような「となりのおばけ」に会うことが出来たのだと気づかされます。家の中では、「ススワタリ=まっくろ黒助」にも出会えたのです。ところが、テレビが普及してくると、子どもたちの想像力はテレビのなかに限定されるようになりました。トトロや猫バスのようなおばけも、テレビの中に住み場所を限定され、閉じ込められてしまったのです。テレビで見えるものは子どもたちの想像力を奪ってしまうのでした。

 もし私たちがトトロに会いたければ、テレビを消すことです。そして「さんぽ」に出かけることです。子どもになりきる必要もあります。そうすれば、きっとさんぽの途中でトトロに出会えることでしょう。この映画の宣伝コピーは、父親の声で出演している糸井重里の作った「この変な生き物は、まだ日本にいるのです。たぶん」というものでした。その気になれば、トトロに出会えるという意味があります。
 主題歌「さんぽ」は、『となりのトトロ』のテーマを再認識できる主題歌だったのです。

 作詞の中川李枝子は絵本『いやいやえん』『ぐりとぐら』などの作者です。昭和10年(1935年)9月29日、北海道生まれ。保母として保育園に勤務するかたわら同人誌「いたどり」に処女作『いやいやえん』を発表し、サンケイ児童出版文化賞など数々の賞を受賞しました。6歳下の妹・山脇(旧姓大村)百合子がさし絵を描いています。『そらいろのたね』や『ぐりとぐら』はイギリスからも英訳出版されている人気絵本です。
 『ぐりとぐら』の話はたいてい午前中の出来事が多いですねと聞かれた中川李枝子はこう答えています。
  「子どもの生活は午前中なんですよ。午後はおまけ。だから私ね、子どもが朝いつまでも寝てるっていうのは許せない。子どもはお日様と一緒。夜は早く寝て、朝は起きるっていうのが子どもの生活だと思うんですね。午前中めいっぱい遊んで、お昼を食べた後は昼寝して、グダグダして、夕方になるとお母さんんにからんだりして、ぶうたれて、晩ご飯食べてちょっと元気になって、お風呂入って、本読んでもらってコトンと寝るっていうのがよい子の一日。よい親もそれに合わせなきゃいけない」と。
  これは『となりのトトロ』のよい子の世界です。サツキとメイのお母さんは病院ですが、エンディングのアニメーションでは最後にお母さんは退院して家に戻ってきており、子どもたちとお風呂に入ったり、本(『三匹の山羊』)を読んであげています。

 作曲の久石譲は昭和25年(1950年)12月6日、長野県中野市生まれ。国立音楽大学作曲科在学中より、現代音楽の作曲家として活動を開始。宮崎駿監督とは『風の谷のナウシカ』(1984)以来ずっと組んでいます。40本以上の映画音楽を担当し、日本アカデミー音楽賞最優秀音楽賞をはじめ、数々の賞を授賞しました。2001年には音楽映画「Quartet カルテット」を製作、音楽はもちろん脚本・監督もつとめました。

   参考文献
   『ぼくらのなまえはぐりとぐら』(2001年,福音館書店)


 
           ないしょ話   結城よしを作詞   山口保治作曲
                                 池田小百合 文


 この歌は、「ないしょ」を三回くり返して歌い出します。このように同じ言葉を三回もくり返す童謡は他にはありません。そして、大切な「ないしょ」の話の内容は書かれていません。書かれていないことによって、ないしょ話の内容は歌う人の想像のなかにできあがります。
  また、「ないしょ」は誰の言葉でしょうか。言葉は同じ音程とリズムでだんだん大きく歌っていくように作られています。最初は坊やが母ちゃんに呼びかけている言葉だとしても、二回目は母ちゃんの応答、三回目は作者の心の中にこだまとして響いた言葉と、とれるのではないでしょうか。
 はっきりと歌い分けると、かえって意味を限定して奇妙になりますから、これは登場人物三人の間で響いている大切な言葉だと考えられます。
 続く「あのねのね」は、あまえた、あどけない感じです。歌うとほっとして、涙さえこぼれます。
  ニコニコ ニッコリしているのも母ちゃんだけではありません。坊やも、作者もみんなもニッコリしています。
 この歌は、単なる親子のないしょ話の情景描写ではなく、幼い頃の思い出を呼び起こす歌なのです。
 そして「ね、母ちゃん」と歌った時、すべてが一体となります。「ね、母ちゃん」に作者の強い思いが込められています。作者の思いが伝わるので、私たちの心に響くのです。

 近年は、母と子の絆を歌った歌はなかなか登場しません。「ね、母ちゃん」という呼びかけが欠けていることを、「ないしょ話」が教えてくれています。

  戦場でも童謡を書き続け、若くして亡くなった作詞者の結城よしをとその時代を追ってみましょう。
 結城よしをは、大正九年三月三十日、山形県東置賜郡宮内町(現・南陽市)で、長男として生まれました。本名は芳夫といいます。時代は戦争に向かい、昭和六年には満州事変が開始されました。 昭和九年、高等小学校卒業後、書店の住み込み店員をしながら童謡を作りはじめました。
 日中戦争開始の同十二年頃から、時雨夜詩夫の筆名で、「詩と歌謡」「歌謡劇場」「山形新聞」「日刊山形」などに童謡・童話・随想・批評を投稿し、同十三年九月に童謡誌『おてだま』を創刊。
 『ないしょ話』は、同十四年、満十九歳の時の作品です。五人の弟や妹がいたので貧しくつらいことが多く、母親にあまえ、せがむことができなかったので、その気持ちを詩に書きとめました。
 昭和十六年、太平洋戦争が始まると召集され、船舶砲兵として北洋、南洋を転戦しました。この間も寸暇を惜しんで手記を書き、童謡を創り続けました。
 しかし、軍務中にパラチフスに感染し、同十九年九月十三日、九州の小倉陸軍病院で亡くなりました。享年二十四歳の若さでした。
 遺言は、「ぼくの童謡を本にして下さい」でした。この遺言により、三年後に童謡集『野風呂』が、同四十三年一月には遺稿をまとめて『月と兵隊と童謡 若き詩人の遺稿』(三省堂)が出版されました。

 その中で、童謡を作る訳を聞かれて「楽しいから、うれしいから、思い出があるから、童謡を作るのだ」と答えています。
 また、こんな言葉も残しています。「神様が、わたしにいいことを教えてくれた。―それは童謡」。

 父の健三は、歌誌『えにしだ』を主宰した歌人です。父と母えつが、よしをを詠んだ歌がたくさんあります。すばらしいので、結城よしを著『月と兵隊と童謡 若き詩人の遺稿』(三省堂)より抜粋して紹介します。
    部隊より届きし遺品は童謡と戦記にてありよくぞ書きける  健三
    臨終の子に童謡を聞かせつつ頬つとふ涙妻は拭はず  健三
    鉛筆に書きし字癖をかなしめば死にたるものの清しきかもよ  健三
    乳首吸う力さへなし二十五の兵なる吾子よ死に近き子よ  悦子
    外泊に来ればせっせと童謡を清書して帰りし子が今は亡き   悦子

  ところで、なぜ『ないしょ話』の詩になぜ山口保治が曲を付ける事になったのでしょう。
 当時、『かわいい魚屋さん』(加藤省吾・作詞)が大ヒットし、山口のもとには各地の作詞家から詩が送られて来ていました。
  「結城よしを君との関係は昭和十年ごろからで、『おてだま』のほかに原稿を送ってくれて、毎月二、三曲作曲していたようだ。『ないしょ話』は「昭和十四年六月六日夕方、晴、電車」と原本に書いてあるから、当時の勤務先、京橋の京華小学校から林町の自宅に帰る電車の中で作曲したものらしい」(戦後復刊された童謡誌「おてだま」(弟ふじを編集)一〇〇号記念号(昭和三三・三)掲載・山口保治のことば)。
 これをキングレコードに売り込み、七月に大塚百合子の歌唱で吹き込み、九月にレコードが発売され広く全国的に歌い親しまれました。

  山口の作曲理念は、「幼児の歌は、子供たちのしゃべる言葉と、余り遠く離れないもの、言い換えると話しことばに、ほんのちょっぴり節らしいものを加えたもので、子供たちが遊びながら歌えるものでなければならない」というものでした。
 時代は、太平洋戦争に突入、小学校は、国民学校と改称され、学徒出陣、学童疎開へと移って行きます。妻の晴子さんによると、「今に、子供たちの歌がなくなる時代が来るぞ。その日に備えて、いい童謡を残しておくのだ」。これが口癖だったそうです。

 作曲者の山口保治は、明治三十四年十月二十日、愛知県宝飯郡国府町(現・豊川市国府町)で生まれました。生家は、劇場を経営していたので、子役で舞台に立ち人気でした。三味線が弾け、バイオリンも中学の頃、独学しました。東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)を卒業し、教師をした後、作曲に専念しました。
 『かわいい魚屋さん』は出世作で、自己紹介の時、「魚屋さんの山口です」と挨拶していました。『ふたあつ』(まど・みちお・作詞)もヒット曲です。 昭和四十三年七月二十四日、享年六十六歳で亡くなりました。

  参考文献
  毎日新聞学芸部『歌をたずねて 愛唱歌のふるさと』(音楽之友社)
  結城よしを『月と兵隊と童謡』三省堂新書 



            汽車ぽっぽ    本居長世作詞作曲
                               池田小百合 文

 蒸気機関車を歌った歌には、有名なものがいくつもありますが、短いこの歌をいちばんに推薦したいと思います。「今は山中 今は浜」の『汽車ぽっぽ』(文部省唱歌)や、「汽車汽車ぽっぽ ぽっぽ」の『汽車ぽっぽ』(冨原薫作詞、草川信作曲)の方がよく知られていますから、『汽車ぽっぽ』を知らない人もいるかもしれませんね。
   
   お山のなかゆく 汽車ぽっぽ
   ぽっぽ  ぽっぽ 黒いけむを出し
   しゅ しゅ しゅ しゅ 白い湯気ふいて
   機関車と機関車が まえ引き あと押し
   なんだ坂 こんな坂  なんだ坂 こんな坂
   とんねる鉄橋  ぽっぽ ぽっぽ
   とんねる鉄橋  しゅ しゅ しゅ しゅ
   とんねる  とんねる
   とん とん とんと 
   のぼりゆく

 昭和二年五月の作品です。長世の三女・本居若葉さんから伺ったお話しによると、毎年夏に静岡県沼津市の伯父の家に避暑に行ったときの、東海道本線の様子だそうです。また、若葉さんが初めて歌った曲で大変思い出があるそうです。

 東京-沼津間に鉄道が敷かれたのは明治二十二年のことです。当時は東海道本線は、箱根山の北側の御殿場を回る線路でした。昭和九年十二月一日に丹那トンネルの開通によって東海道本線は熱海側のルートを通るようになりました。そして、それまでの国府津駅から沼津間は御殿場線と名前が変えられました。

 傑作と推薦する理由は、まず本居長世自身が作詞と作曲をともに手がけていることです。彼にとっては会心の作だったにちがいありません。実際に、詩と曲が見事に一致しています。特に「ぽっぽっぽっぽ」や「しゅっしゅっしゅっしゅ」と擬音語が入って、歌につづくところのリズム感は誰にも真似ができない出来栄えです。
 伴奏も工夫されています。曲の前奏四小節で、発車合図の呼笛と汽笛の音に続いて、汽車がゆっくりと動き出し、加速して走り出す様子が巧みに表現されています。
 そして休みなく歌いついでいくメロディーにつながっていきます。この歌は同じ旋律が戻ってくるというところがありません。行ったっきりなんですね。
 子どもが歌ったとき、そのコトバの力強さと機関車の力強さの印象が重なって、何度もとなえないではいられない魅力があります。
 この歌のモデルになった現在の御殿場線の山北駅から御殿場駅までは、歌のようにトンネルと鉄橋が交互に繰り返されますし、「なんだ坂 こんな坂」というコトバはたいへんはやったそうです。
 
 いまは御殿場線に蒸気機関車は走っていませんが、私の幼年時代には、御殿場線には石炭をこぼしながら汽車が走っていました。客車だけでなく、牛、馬、豚を乗せた貨車や、シートをかぶせて戦車も運んでいました。汽車の走る映画の撮影もしばしば行われました。
 静岡県の大井川線のように、蒸気機関車を走らせることは線路の幅が違うので不可能だそうです。                           


あとの6曲は・・・・・・現在、編集中の本と内容が重なりますので、後でホームページにアップします。



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