寺尾判決批判概論(抄)

 

 狭山第二審において権力は、一審につづいて国家権力がたくらんだデッチあげ「自白」のみを根拠に、石川さんを極刑にふし、いわゆる「狭山事件」のケリをつけようとした。この悪辣なたくらみは、石川さんが権力犯罪のかずかずの事実をバクロしないことだけを頼りにしたシロモノだった(本誌・西川論文参照)。第二審冒頭での石川さんの「私は善枝さんをころしてはいない」という警察・検察、弁護士の制止をふりきっての、渾身の無実の叫びは、根底から権力の意図をくつがえすものだった。
 狭山第二審闘争は、一九六四年から七四年まで、一〇年をこえてたたかわれた。六五年日韓条約の締結、七二年のペテン的「沖縄返還」=安保大改定をもって、いよいよ本格杓な侵略帝国主義へと反動的飛躍をなしとげようとしていた日本帝国主義は、石川さんを先頭とした狭山蹄争によって、権力犯罪が糾弾されつづけ、しかも、日をおって怒りの声がたかまる(七三年十一月には、ときの総評も狭山闘争とりくみを決定した)なかで、ますます、なにがなんでも石川さんを亡きものにすることで、決着をつけなければならないところにおいつめられていた。とりわけ、寺尾が、第二審を担当することになった理由は、二審の差別論告以上に悪辣な、大槻検事の論告を支持し、強権的な訴訟指揮をつづけた井波裁判長が、石川さんを先頭にした人民の怒りのまえに打倒されてしまったからであった。
 寺尾は、日本帝国主義・国家権力の意図を一身に体現して、七二年十一月狭山事件を担当することになってから、わずか一年たらずで、おどろくべきことに、結審からたったの一ケ月という短期日で、暗黒の差別判決へとつっぱしった。
 国家権力の階級意志を代弁して、未曾有の差別判決・極刑をくだすことのみが、寺尾の反動的・反階級的役割だったのである。実際、寺尾は、狭山事件を担当する以前に、担当していた六九年の東大闘争の裁判などで、狭山一審判決について、すでに、「一審公判調書は信用できる」「警察には(デヅチあげの)作為性はなかった。石川の供述には任意性がみとめられる」などという暴言をはきちらして、反動的、差別的心証をあらわにしていた。しかし、狭山の担当裁判長になるや、口先では、弁護団に「井波裁判長のような訴訟指揮はとらない。公正に裁判を行う」などとふるまい、再開第一回公判で入廷するや、石川さんに、「からだの且ハ合はどうですか」などと語りかけ、有罪の心証をおしかくして、石川さんの身を案ずるようなそぶりさえしめした。石川さんは、このことを「私を武装解除しようとした」と弾劾し、「寺尾への幻想を捨て狭山闘争の決定的攻勢を」とうったえた(一九七三年一一月一七日のアッピール)。
 したがって、寺尾にとっては、再開公判のすべてが、「石川さん有罪」の形式を、わずかばかりのアリバイ的公判日程でととのえる、権力犯罪を完成させる場でしかなかった。だからこそ、寺尾は、「現場検証」や「証拠・証人の採用」のすべてを拒否し、一回の事実審理もおこなわないままで、七四年五月二三日の公判で「調べるべきものはすべて調べつくした」と断言し、大槻検事の「自白は信頼できる。今になって、無実を主張する石川は、ウソつきだからだ」という差別論告を積極的にとりこんで、石川さんに無期懲役なる暗黒の差別判決をくだしたのである。
 寺尾確定判決こそ、国家権力の計画的差別犯罪に法的=社会的な追認をあたえ、無実の石川さんを「無期懲役」にすることによって、日本帝国主義・国家権力の差別犯罪を最後的に完成させたものだった。寺尾は、国家権力の差別犯罪を追認し、合理化するために、のちほど具体的にあきらかにするように、「自白の信憑性」を強弁し、およそ客観的事実を無視したあらゆる専断とデマゴギーとコジツケを最大限動員したのである。
 私たちは、寺尾確定判決の一語一語を、完膚なきまでに、批判しつくし、なんとしても粉砕しなければならない。以下、寺尾差別判決にそって、そのデタラメぶりと差別性をみていきたい。
 なお、国家総がかりの部落差別をテコとした権力犯罪を護持し、その総仕上げをおこなった寺尾確定判決の反階級的暴力性と差別性を、寺尾自身の言葉をつかつてあきらかにするために、読者のわずらわしさをかえりみず、長文におよぶ引用をおこなった。

                批判の視点


 第一に、寺尾判決は、部落差別を徹底的につかった国家総くるみの権力犯罪を護持し、その総仕上げをおこなった、歴史的な極悪の差別文書である。第一審の死刑を破棄して無期懲役判決をくだしたのは、その典型である。これは、減刑したのではない。一〇万人規模の狭山闘争の大衆的発展にグラグラになりつつも、あくまでも狭山権力犯罪を護持するために、最高裁で、石川さんから口頭弁論の機会をうばい、密室の書面審理だけで、上告棄却が強行できる道すじをつけたのである。
 第二に、そのためには、ブルジョア法的な体裁もなげすて、ありとあらゆる詭弁をろうして、権力犯罪を容認していることである。寺尾差別判決は、初動段階から差別捜査によって、石川さんを犯人にデッチあげたことにはじまり、獄中における暴力的な取り調べとウソの「自白」の強要、証拠のネツ造、第二冨のスピード判決などの権力犯罪を意識的に自覚したうえで、正当と居直っている。
 第三に、寺尾差別判決は、部落問題に一言もふれずに無視抹殺することで、ぎゃくに、部落差別をつらぬいていることである。寺尾は、就任当初、部落問題の関係の本を十数冊あげ、それを熱読した自分は、部落問題を理解している、という大芝居をうった。石川さんを先頭とする差別糾弾闘争から、なんとか身をそらし、そのほこ先をにぶらせ、狭山闘争の武装解除をねらったのである。そうしておいて、判決文では、部落問題にひとこともふれなかったのだ。これは、だましうちとかペテンとかの戦術問題ではない。部落問題にふれないこと自体が、権力犯罪を護持する、すさまじい部落差別なのだ。たとえば、部落差別と関係ないかのように、こっそりとふれた内田幸吉の証言のところで、むきだしの部落差別を扇動している。すなわち、内田幸吉は、石川さんが中田栄作方を五月一目に「たずねた」ことを、事件後、ただちに警察にとどけでなかった理由を、「部落民が襲ってくるのではないかと恐くていえなかった」と、証言した。寺尾判決は、その「心情も理解できないことでもない」と、国家の判決という公文書の名において部落差別にお墨つけをあたえ、国家として部落差別を扇動した極悪の差別文書である。それは、一九〇二年の広島控訴院の差別判決、一九三二年の高松差別判決をこえるあくらつな部落差別文書である。
 第四に、寺尾流のペテン的「自白論」の、おそるべき反動性である。寺尾差別判決では、「人は真実を語るがごとくにみえる場合にも、意識的にせよ無意識的にせよ、自分に有利に事実を潤色したり、意識的に虚偽を混ぜ合わせたり、自分に不都合なことは知らないといって供述を回避したりして、まあまあの供述(自白)をする」「これこそ人間の自衛本能であろう」と、つまり、容疑者は、絶対にウソをつくものだと断言している。とくに本件では、容疑者一般ではなく、石川さん=部落民を念頭においたうえで、部落差別そのものとして、専断している。そして、ペテン的にさえ説明できない点は、すべて、石川さんのウソの「自白」と「石川さんウソつき論」=部落民ウソつき論で、ごりおしし、合理化している。その根拠こそ、寺尾の独特のおぞましさをもった「自白論」である。その内容を、ひとことで要約すれば、自白や供述にウソはつきもの、ということである。だから、強要されたウリの「自白」にも、矛盾があるのは当然だ、として、石川さんのウソの「自白」も、信頼すべきものであり、石川さんは、ともかく「自白」したのだから有罪であると結論づける。だからこそ、第二審の供述(石川さんやご家族の無実の血叫び)は信用できない、あくまで「自白」は信用できる、ときりすてているのだ。ある意味では、この「自白論」に、寺尾差別判決がもつ国家の暴力性が集約されているのである。
 第五に、狭山闘争の解体をとおして部落解放運動の解体を策したことである。「無期懲役」判決は、一審とは、まったくちがう階級的力関係のもとでくだされた。すなわち、二審冒頭における石川一雄さんの無実の血叫びから、第二審は、石川さんを主人公に、三百万部落民と労働者人民が階級的共同闘争で、国家権力の部落差別犯罪を徹底糾弾し、「無実・差別」をたたかいとる死闘として展開されたなかでおこなわれた。石川さんの奴似りにもえた糾弾によって、形ばかりでも事実調べをおこなわざるをえなかった。そうしたなかで、石川さんの血叫びにこたえようとする戦闘的部落青年の、六九年浦和地裁徹底糾弾占拠闘争のたたかいがかちとられ、狭山闘争は、本格的に開始された。七〇年には、解放同盟が、第二五回大会で狭山闘争への決起を組織決定した。そして、七三年一一月には、総評が狭山闘争への参加を組織決定し、七四年九・二六中央集会には、一一万人が大結集した。同年一〇月には、完全無罪判決要請署名が、三三九万名を突破している。
 この全国で怒りにもえたたたかいが爆発している狭山差別裁判糾弾闘争を、暴力的に圧殺するものとして、寺尾差別判決は、くだされたのである。ここに、おなじく国家権力の階級意思を体現した一審の内田判決とはことなる、それをうわまわる、寺尾差別判決の反動的位置がある。
 第六に、寺尾の訴訟指揮は、ただただ結審をいそぐ、強権の発動の連続であった。再開第一回公判(第六九回)から第七二回公判までは、更新にあたっての意見陳述。第七三回、七四回は、証拠調べ手続きとその却下。そして、第七五回で事実調べを終了。なんと寺尾自身の手によっては、一度も事実調べをおこなっていない。その後、六回にわたる弁護側の最終弁論と検察側の最終意見陳述をもって、就任後、一年もたたないうちに、「無期懲役」の反動判決をくだしたのである。
 検察側の最終意見陳述からは、わずか一カ月のスピード判決である。寺尾は、膨大な資料を熱読し、検討をくわえるなどという作業は、はじめから、まったくおこなっていないのだ。寺尾がおこなったのは、なんとしても、有罪判決をくだし、国家権力の意志をつらぬくことだけだったのである。
 したがって、第七に、寺尾差別判決批判のポイントは、権力犯罪をいかに護持したか(国家権力の暴力性)、そこにつらぬかれている強烈な部落差別を徹底的に暴露し、「無実・差別」をあきらかにし、差別的攻撃に報てつつい復の鉄槌をくだすことである。


      寺尾差別判決の構成とその役割


〈判決理由の構成〉は次のようになっている。


はじめに
第一 本被告事件における公判の審理過程の特異性について
第二 いわゆる別件逮捕・勾留・再逮捕・勾留を含む捜査手続の違法・違憲を主張し、よって捜査段階における被告人の供述調書の証拠能力を否定し、自白の任意性を争い、原判決の審理不尽その他訴訟手続の法令違反を主張する点について
 一
 二
 三
第三 事実誤認の主張について
  一 事実誤認の主張一について
  (自白を離れて客観的に存在する証拠)
  (自白に基づいて捜査した結果発見するに至った証拠)
  (死体及びこれと前後して発見された証拠物によって推認される犯行の態様について)
 二 事実誤認の主張二について
第四 量刑に関する職権調査


 判決理由が、右記の構成になっているのには、そうせざるをえない必然的な理由がある。各章は、石川さんが無実であることを百も承知で、「無期懲役」の判決をくだすために、それそれの役割をもって、この順序で展開されている。
 「はじめに」の役割は、この裁判の性格を無実か否かの奉理ではなく、有罪が前提の審理である、と規定することにある。それを、冒頭で確認しているのだ。
 「第一」の役割は、石川さんが無実を主張した特異性があったが、審理は十分つくされた、と強弁することにある。差別裁判ではなく公正裁判だ、だから部落問趣にはふれない、といいたいのだ。
 「第二」の役割は、違法捜査はなかった、とすることにある。そうすることで、ウソの「自白」も、ネツ造された証拠も証拠能力をもつ、としているのだ。ここまでは、手続きについての評価である。この段階で問題があれば、その時点で無罪が決定してしまうので、なんとしても、まず、手続きには、なんの問題もなかった、とする必要性があったのだ。
 「第三」の前半は、「自白論」である。強要されたウソの「自白」の矛盾を、どうごまかすか、石川さんの無実の叫び(真実)を、どう無視するか、の核心的部分だ。そして、この「自白論」までで、寺尾差別判決は、事実上の中身をおわっている。
 後半は、形式をととのえるためのもの、といってもよい。なお、「第三」の後半の証拠の具体的検討については、第四章でのべるので、この章では割愛する。
 「第四」の役割は、「死刑」を破棄し「無期懲役」をくだす根拠をデッチあげることだ。
以上、なぜ、このような構成をとるのかをおさえてきた。つぎは、各章の役割と手口を具体的に批判していく。