第2次再審棄却決定文

昭和六一年(お)第二号

           決      定
                 
  本 籍  椅玉県狭山市入間川二九〇八番地の一

  住 所  椅玉県狭山市
             

請求人       石 川 一 雄
                          昭和一四年一月一四日生

 右の者に対する当庁昭和三九年(う)第八六一号強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂、窃盗、森林窃盗、傷害、暴行、横領被告事件について、当裁判所が昭和四九年一〇月三一日有罪(無期懲役)の言渡をし、昭和五二年八月一六日確定した判決に対して、請求人(その弁護人は、別紙一の弁護人目録記載のとおり。)から再審の請求があつたので、当裁判所は、請求人及び検察官の意見を聴いた上、次のとおり決定する。

      主   文

本件再審請求を棄却する。

      理   由

 本件再審請求の趣意は、別紙二の目録の再審請求書等に記載のとおりであるが、その趣旨は、当裁判所が請求人に対し昭和四九年一〇月三一日に言渡した無期懲役の確定判決について、以下の各点に関する証拠が新たに発見され、これらの新証拠が確定判決を下した裁判所(確定判決審)の審理中に提出されていたならば、請求人が前記被告事件中の強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄及び恐喝未遂事件の犯人であると認定されることはなかつたはずであり、これらの罪につき請求人に対し無罪の言渡をすべき明らかな証拠を新たに発見した場合に当たるから、刑訴法四三五条六号により、再審の請求に及ぶというのである。
 そこで、以下検討を加える。

第一  脅迫状について

 一 脅迫状の書き手

 昭和三八年五月一日午後七時三〇分ころ、被害者の自宅玄関のガラス戸に差し込まれた脅迫状とその封筒(浦和地裁昭和三八年押第一一五号の一、本件脅迫状と本件封筒。また、本件脅迫状の文章を指して本件脅迫文ともいう。なお、捜査段階で、指紋検査、インクの成分検査などの作業のため、文面が一部消去され、あるいは一部切除されているが、それ以前の本件脅迫状と本件封筒の状態を明らかにするものとして、埼玉県警察本部刑事部鑑識課塚本昌三作成の昭和三八年九月二七日付写真撮影報告書(第一審記録三七八丁)添付の写真二葉(同年五月二日撮影)がある。
 以下の検討においては、右写真に写っている消去ないし切除前の記載文字・文章部分も併せて対象とする。また、押収番号は、最初に押収した裁判所のそれによることとする。以下同じ。)の書き手が、請求人であるか否かを検討するについて、請求人が日頃読書、書字などにあまり親しまず、存在する自筆の文書も少ないため、筆跡判定などのうえで対照資料となるべき請求人に自書の文書は、限られることにならざるを得ないのであるが、確定判決審で証拠とされ、あるいはそれまでの審理の中で請求人が提出した請求人自筆の文書としては、主に次のようなものがある。
a 昭和三三年から三四年にかけて、東鳩製菓保谷工場勤務当時に、会社に提出した早退届二枚(浦和地裁前同押号の五七)のうちの一枚(昭和三三年九月三日付、早退届T)と四枚(浦和地裁前同押号の五八、早退届U)の計五枚
b 昭和三五年中に、同じく右保谷工場勤務当時、提出した横書きの通勤証明交付願四枚(浦和地裁前同押号の五九、通勤証明願。これらは、手書き部分の「狭山市入間川」などの字形が、請求人の自筆であることに争いのない関宛手紙類の宛先住所の「狭山市入間川」などの字形に酷似しており、第一審第五回公判における証人佐藤祐一の供述をも併せ見ると、請求人の自書になることは明らかであると認められる。)
c 昭和三八年五月二一日(逮捕される二日前)に、狭山警察署長宛に提出した上申書(浦和地裁前同押号の六〇、警察署長宛上申書)
d (昭和三八年)六月二七日付中田栄作宛の手紙とその封筒(東京高裁昭和四一年押第二〇号の一、中田宛手紙)
e 昭和三八年七月二日付検察官原正に対する供述調書添付の請求人自筆の同日付脅迫状の写(第一審記録二二九六丁、脅迫状写)ほか、捜査官に対する供述調書に添付された請求人自筆の見取り図説明文等
f 昭和三八年八月二〇日付浦和地方裁判所宛の接見等禁止解除請求書(第一審記録一四三丁、接見等禁止解除請求書)、第一審内田裁判長宛の同年一一月五日付上申書簡(第一審記録一一六丁、内田裁判長宛書簡)ほか、一件記録中の裁判所宛自筆書類
g 昭和三八年九月六日付(ただし、右手紙の封筒の差出人氏名、住所は、その筆跡から判断して、請求人以外の者の手になると考えられる。)から昭和四五年四月四日まで、関源三宛書簡一四通と葉書三通計一七通(東京高裁前同押号の四、関宛手紙類)、そのうち、昭和三八年中に書いた手紙は、九月六日付、一一月一二日付、無日付(しかし、東京拘置所へ移監前に浦和刑務所から発信していること、封筒の消印の年、月は判読困難だが、日は26とあり、文中に「だいぶひえ込んで参りましたから…」との結び文句があることなどから、消印は昭和三八年一一月二六日と推定される。)、一一月三〇日付、一二月一七日付の五通(関宛昭和三八年手紙)
 そして、確定判決が依拠する埼玉県警察本部刑事部鑑識課の警察技師関根政一、同吉田一雄作成の昭和三八年六月一日付鑑定書(関根・吉田鑑定書。対照資料は、警察署長宛上申書、早退届U)、科学警察研究所警察庁技官長野勝弘作成の同年六月一〇日付鑑定書(長野鑑定書。対照資料は、関根・吉田鑑定書に同じ)、鑑定人高村巌作成の昭和四一年八月一九日付鑑定書(高村鑑定書。対照資料は、内田裁判長宛書簡、中田宛手紙)の各鑑定書の鑑定結果(これらを併せて三鑑定という。)は、本件脅迫状、本件封筒の書き手の筆跡と対照資料に用いた請求人自書の筆跡の同一であることを肯定する。
 これに対して、所論は、新証拠として、@大塩達一郎作成の昭和五〇年一二月一五日付筆跡鑑定書(大塩鑑定書)、A宮川寅雄作成の昭和五一年一月二〇日付筆跡鑑定書(宮川鑑定書)、B山下富美代作成の昭和六一年一〇月一日付筆跡鑑定に関する意見書(山下意見書)、C弁護人松本健雄ほか作成の昭和六三年一〇月一五日付「筆跡鑑定に関する調査結果について」と題する調査報告書(松本ほか第一報告書)、D木下信男作成の平成五年三月三日付筆跡鑑定に関する意見書(木下第一意見書)、E神戸光郎作成の同年四月一〇日付鑑定書(神戸鑑定書)、F弁護人松本健雄ほか作成の同年五月一〇日付「高澤(筆跡)鑑定に関する調査結果について」と題する調査報告書(添付資料を含む。松本ほか第二報告書)、G木下信男作成の平成八年四月一八日付「高澤鑑定に関する意見書」(木下第二意見書)、H弁護人横田雄一ほか作成の同月三日付調査報告書(横田ほか報告書)、I大野晋作成の昭和五一年七月三一一日付筆記能力に関する鑑定書(大野第二鑑定書)、J磨野久一作成の同年一月一〇日付筆記能力に関する鑑定書(磨野第二鑑定書)、K日比野丈夫作成の昭和六一年八月一日付筆跡鑑定書(日比野鑑定書)、L宇野義方作成の同年一〇月三〇日付筆跡鑑定書(宇野鑑定書)、M大類雅敏作成の同年一二月五日付句読法についての鑑定書(大類鑑定書)、N江嶋修作ほか作成の同月一〇日付意見書(江嶋ほか意見書)、O戸谷克己作成の平成五年四月七日付作文能力に関する意見書(戸谷意見書)、P石川茂の昭和三八年六月一八日付司法警察員に対する供述調書、Q斉藤一重の同月二〇日付司法警察員に対する供述調書、R証人山下富美代、S同大塩達一郎、21同宮川寅雄、22同木下信男、23同神戸光郎、24同日比野丈夫、25同宇野義方、26同大類雅敏、27同江嶋修作、28同鐘ケ江晴彦、29同福岡安則、30同大野晋、31同磨野久一、32同戸谷克己等を援用して、本件脅迫状及び本件封筒の筆跡が請求人のものと異なり、また、本件脅迫文に現れた書き手の書字、用字の習癖、文章力、表現力と請求人のそれそれとの間には、明らかな格差が存在し、本件当時の請求人の国語力では本件脅迫文を書き得なかったことが裏付けられ、本件脅迫状を書いたのは請求人であると判定した三鑑定は、信用できないことが明らかになったから、請求人の有罪を認定した確定判決には合理的な疑いがある、というのである。なお、右のうち@、A、I、Jは、いずれも、昭和五二年八月三〇日に再審請求がなされ、昭和五五年二月五日に東京高等裁判所第四刑事部がした請求棄却決定(第一次再審棄却決定。この決定は、昭和五六年三月二三日の異議申立棄却決定を経て、昭和六〇年五月二七日に最高裁判所第二小法廷がした特別抗告棄却決定により確定した)の手続(右再審請求から特別抗告棄却決定に至る審査の手続を、包括して第一次再審請求審査手続といい、この手続で審査された再審請求を第一次再審請求という)でも提出され、判断を経ている。
 しかしながら、所論援用の証拠を確定判決審の証拠に併せ検討しても、本件脅迫状、本件封筒と各対照文書に見られる書字の書き癖、形状、筆勢、運筆状態等を子細に対比検討した三鑑定が説得力を持ち、合理性が認められることは、確定判決、さらには、第一次再審請求審査手続において、検討されたとおりと認められるが、所論にかんがみ、その援用する証拠の主なものについて、検討結果を個別に明らかにしておくこととする。
(一) 神戸鑑定
 神戸鑑定書は、まず、本件脅迫状と警察署長宛上申書それぞれの筆勢、筆圧、配字形態、字画構成、筆順、誤字、文字の巧拙、書品、文字の大小、書体等を比較照合するとともに運筆を調べた結果、同筆と判定する根拠は薄弱である反面、偶然とはいえない相違点が数多く認められることから、両者は異筆と判断されるというのである。
 しかしながら、確定判決の援用する高村鑑定書や長野鑑定書、さらには、所論援用の山下意見書も指摘するとおり、書字・表記、特にその筆圧、筆勢、文字の巧拙などは、その書く環境、書き手の立場、心理状態などにより多分に影響され得るのであつて、かたや、本件脅迫状は、書き手自らの自由な意思表示として書かれた身代金の要求文書であるのに対し、対照資料である警察署長宛上申書は、請求人が自宅で書いたものではあるが、被害者失踪当日の行動につき警察から事情聴取を受けた者の弁明文書であり、しかも、わざわざ自筆の上申書の提出を求められたのは、被害者方へ届けられた本件脅迫状との対比に供する筆跡を得たいがためであることが、請求人にとっても容易に推察できたはずであつて(上申書作成のいきさつ、作成の状況について、第一審第六回公判における警察官今泉久之助の証言がある。)、このような両文書それぞれの性格、文書作成の経緯、環境、書き手の置かれた心理的立場、状況の違いを考慮すると、神戸鑑定書が両文書の相違点として指摘する諸点が、直ちにその書き手の相違を意味するものとは、必ずしも言い難いというべきである。
 このことを、請求人が自書した前掲aないしgの文書のうち、主として、昭和三八年五月下旬から同年九月上旬にかけての三か月の間に請求人が自書した文書について検討する。
 請求人は、確定判決審の第二四回公判において、筆跡鑑定を命じられた戸谷富之鑑定人から、同年五月二三日の逮捕以降に字の練習をしたかと問われて、「別に練習したことはないが、留置されて直ぐ、原検事に、この事件の脅迫状かなにか知らないが、セルロイドのケースに入ったものを見せられて、それを見ながら書けといわれて書いたことは、何回かある。調べに来る都度書かされたが、書かされた日数はわからない。」旨答え、被害者の中田善枝の父の名は前から知っていたかと問われて、「全然知りません」と答え、中田宛手紙を書いたいきさつについて問われて、「河本検事が、私のうちでも中田の家に謝りに行ったから、お前も謝りの手紙を書けと言われたから書いた。」と述べ(検察官は、東京高等検察庁平岡俊将作成の上申書(確定判決審記録九九一丁)において、この手紙が書かれたいきさつ、中田栄作から任意提出を受けて領置したいきさつについて、請求人と異なる説明をしている。なお、青木一夫作成の供述書(同記録八八六丁)、証人原正の確定判決審第一七回公判における証言(同記録一八〇四丁))、同第二七回公判においては、弁護人の問いに対し、「警察にいるとき、原検事から、脅迫状か何かわからないがセルロイドの中に入ったものを手本にして、六月六日ころまで何回も書かされた。その後同月二六日ころに、原検事らに言われて、手本を見ないで書かされた。」旨述べ、また、同第六六回公判でも、検察官から確かめられて、「取調べの原検事から言われて、セルロイドのケースに入った、今思うと本件脅迫状を、内容もよくわからないまま書かされた。」と述べ(この点につき、当時、本件の捜査を担当した原正検察官は、確定判決審第一七回公判で証言して、「被告人(請求人)が脅迫状を出した事実を認めた後で、脅迫状の内容を思い出して書いてみなさいといって、書かせたことはあるが、被告人が事実を認める以前に、自分が、セルロイドのケースに入った脅迫状を見せて、同じようなものを書けと言って書かせたことはない。そのころ、脅迫状はセルロイドのケースに入れて持ち歩かなかったので、被告人には直接脅迫状を見せてはいないと思う。文章は読んで聞かせたかもしれない。そのとき被告人が書いたものは、多少内容は違っていたが、大体の筋は同じことを書いたと思う。昭和三八年七月二日付検察官原正に対する供述調書添付の脅迫状写(前掲eのこと)がそれである。」と述べ、請求人の質問に対して、「脅迫状を見せたことはあると思うが、そのときか、あるいは別の機会かははつきりしない。見せてこのとおりに書けと言ったことはない。」と述べる。)さらに、「事件前の自分の字はほとんど存在しないはずである。東鳩製菓の早退届も人から書いてもらったのを写したものである。」とも述べ、第七五回公判では、識字、書字に関する弁護人の質問に、「字を習うようになつたのは、控訴審(確定判決審)になつてからで、(昭和)四二年頃から猛勉強した。外部の人に無罪を訴えるためには自分の手に頼るよりないから勉強した。外部から来た手紙は、ほとんど担当(職員)に読んでもらった。鬼沢部長、荒木部長がとても親切であつた。少年手紙宝典というのを母から差し入れてもらった。今ではほとんどなんでも書けるが、逮捕直後は、ほとんど書けなかった。平仮名しか書けなかった。字を覚える方は、拘置所に、仮名を振ってあって、ものすごく書きやすい本があったが、それを自分専用に貸してくれた。」などと述べている。要するに、請求人の言い分は、逮捕後、本件脅迫状らしいものを書写させられたほかには、控訴審段階になつてから、昭和四二年ころ猛勉強するようになるまで、特に書字の練習をしたことはないというのである(因みに、所論援用の大類鑑定書は、関宛手紙類を句読点の用法の見地から調査した結果として、「昭和四〇年七月以降、四五年四月までの間に句読点の使用が習得されたと考えられる。」と述べる。同鑑定書四三頁)。
 ところが、昭和三八年五月二一日付警察署長宛上申書、同年六月二七日付の中田宛手紙、及び同年七月九日の起訴と同時に川越警察署から浦和刑務所拘置区へ移監された後、当時心安くしていた関源三巡査部長に宛てた、同年九月六日付の近況報告のあいさつと頼みごとの手紙(前記関宛手紙類のうちで一番早い時期の手紙)とを取り上げて比較対照してみると、これら文書は、確定判決が依拠する関根・吉田鑑定書、高村鑑定書も指摘するとおり、いずれも個々の書字の癖ないし形状(例えば、禾偏、木偏、三水偏、「な」「ま」「わ」「ツ」等)の点で、本件脅迫状と共通する多くの類似点が認められる反面、関宛の手紙は、右警察署長宛上申書及び中田宛手紙に比して、個々の配字、筆勢、運筆などの点で暢達であり、また全体的印象でも、明らかに書字として優っていると認められる。請求人が前二者を書いてから右関宛の手紙を書くまで、僅か二、三か月程の時日を経たに過ぎないのであるから、逮捕後に本件脅迫状らしいものを書写させられたという請求人の確定判決審での前記供述を踏まえ、また、未知の漢字、手紙や裁判所へ提出する書面の書き方などにつき、浦和刑務所拘置区の書物で学び、担当職員から教示を受けたこと(確定判決審第一四回公判における証人森脇聰明、同安藤義祐の各供述。確定判決審記録一四〇三丁、一四四三丁)を考慮に入れても、この間の練習により書字・表記能力が飛躍的に向上して関宛手紙の域に到達し得たものとは考え難い。警察署長宛上申書、中田宛手紙と関宛の手紙との書字の差異は、身柄拘束中の練習の影響も幾らかはあるとしても、主として、書き手である請求人の置かれた四囲の状況、精神状態、心理的緊張の度合い、当該文書を書こうとする意欲の度合い、文書の内容・性格など、書字の条件の違いに由来するとみて誤りないものと認められる。このような次第で、警察署長宛上申書、中田宛手紙、脅迫状写、捜査官に対する供述調書作成の際に描いた図面の説明文など、捜査官の目を強く意識しながら、心理的緊張のもとで、嫌疑事実に関して記した文書に見られる、書字形態の稚拙さ、交えた漢字の少なさ、配字のおぼつかなさ、筆勢と運筆の力み、渋滞などを以て、当時の請求人の書手・表記能力の常態をそのまま如実に反映したものとみるのは早計に過ぎ、相当でないことは明らかである。
 なお、これらの文書の書字と脅迫状の書字の間に認められる類似点に関して、前記戸谷富之鑑定人は、その鑑定書(同記録二二五二丁)において、「書くことに慣れていない被告(人)が、(脅迫状を書写させられたという)このような練習をさせられると、脅迫状の筆跡が容易に身につくものであることは充分考えられる。中田栄作氏宛て手紙(中田宛手紙)及び内田裁判長宛て所信(内田裁判長宛書簡)は脅迫状や上申書(警察署長宛上申書)と似てくることは当然であつて、鑑定結果を左右させるものであり、鑑定に際してこの点を注意することなしには正しい判断を下せない恐れがある。」と指摘する。しかしながら、原検事の取調べの都度、脅迫状らしいものを書写させられたという請求人の言い分が、仮にそのとおり真実であったとしても(前記のとおり、確定判決審で証言した原検事は、自白以前から何度も書写の練習をさせられたという請求人の右言い分を否定する趣旨のの供述をしている。)、その期間は短かく、しかも、脅迫状との書字・書き癖の類似は、昭和三三年から三四年にかけて書かれた早退届T、U、昭和三五年に書かれた通勤証明願などにも存在するのであつて、原検事に脅迫状を見せられ、練習させられたがために筆跡が脅迫文に似てきたなどということは、本件の場合に考え難い。
 先に見たとおり、請求人は、第七五回公判において、「自分は昭和三八年五月に逮捕された当時には、字はほとんど書けなかった、平仮名しか書けなかった」旨述べている。しかし、当時の請求人の識字や書字・表記の能力が、義務教育を受けただけの成人一般の水準から見ると相当に低く、偏ったものであつたことは、関係証拠に明らかであるけれども、昭和三三年から三四年にかけての早退届T、同U、昭和三五年の通勤証明願、昭和三八年八月二〇日付接見等禁止解除請求書、前掲九月六日付を含む関宛昭和三八年手紙五通及び同年一一月五日付内田裁判長宛書簡などをそれぞれ書いた事実があることから判断すると、浦和刑務所拘置区に移監された後の学習の影響を考慮に入れても、これら文書の書字・表記、運筆の筆勢などの実状に照らして、本件当時の請求人が平仮名以外ほとんど字が書けなかつたというのはいささか過ぎた表現であつて、その書字・表記の能力は、請求人が捜査官の求めにより強度の緊張下で書いたと認められる前掲警察署長宛上申書、中田宛手紙、脅迫状写、捜査官に対する供述調書添付図面の説明文句などに見られる程度の低いレベルにあつたとは、到底認め難いと言わなければならない。
 そして、神戸鑑定書が、本件脅迫状と警察署長宛上申書とについて、個々の書字の形態、筆法などの違いを指摘して、異筆であることの根拠にする事柄についても、首肯し難い点がある。同鑑定書は、本件脅迫状の運筆上の特徴点として、「な」の字の第一筆と第二筆の連続を挙げ、請求人自書の警察署長宛上申書との際立った相違として指摘するが、このような連綿の現象は、筆勢伸びやかな関宛昭和三八年手紙の「な」の運筆にも時にみられることは、木下第一意見書の検討の際に述べるとおりであり、また、脅迫状の「す」が連続して一筆で書かれていることを相違点として指摘するが、請求人の手になる接見等禁止解除請求書にも、「す」の一筆書きは認められる(「あますところ」「請求します」等)のである。このように、運筆の連綿は、その時々の書き手の気分や、筆圧、筆勢などによっても変化し得るもので、書き癖として固定しているとも限らないのであるから、本件脅迫状に神戸鑑定書指摘の筆の連綿が存在することが、直ちに本件脅迫状と警察署長宛上申書との特徴点であるとは言い難い。その他、同鑑定書が本件脅迫状と警察署長宛上申書との筆跡の相違点として挙げるところを、先に述べた両文書それぞれの性格、文書作成時の環境、書き手の置かれた心理的立場、状況の違いなどの影響を考慮しながら逐一検討したが、異筆を裏付けるものとはいえない。
 このような次第で、右鑑定書は、確定判決が依拠する三鑑定の結論に影響を及ぼすものではない。
(二) 山下意見書
 山下意見書は、主として筆跡計測学の立場から、本件脅迫状と対照資料である警察署長宛上申書とに共通に存在する文字、偏、旁につき、筆順、字画構成の特徴の比較検査を実施し、これを基に統計的に算出した異同比率(対照特徴総数中に見られる同一特徴の百分比)を鑑別基準にして、両文書の筆跡それぞれについて異同比率を算出したところ、鑑別基準上、両文書は筆跡異同不明領域に属することが判明したから、これを同一筆跡と認めることはできないというのである。
 しかしながら、筆跡の特徴点を捉えるについて判定者の主観が入ることは避けがたいであろうから、これが、異同比率の算出にも影響することは察するに難くなく、しかも、その異同の鑑別に用いた、請求人自書の対照資料は、警察署長宛上申書一通のみであるところ、右は通常とは異なる心理的、物理的状況の下で作成されたもので、筆者の自然な書字行動が反映されているか疑わしい面があること。(この点は、神戸鑑定書の項で詳しく検討するとおりである。)、また、本件脅迫状と右上申書とに共通する漢字であつて、異同比率算出の基礎にし得たのは、「月」「日」「時」「五」の四個に過ぎず、量的に問題があることは、鑑定人が自認しているのである。
 このように見てくると、右意見書の価値は、限定されたものといわざるを得ないのであつて、三鑑定の判断を揺るがすには至らない。
(三) 木下第一意見書
 木下第一意見書は、確定判決の依拠する三鑑定を、筆跡鑑定の基本定理と近代統計学に対する無知、無理解に基づく謬見であり、鑑定人が類似点として取り上げた、本件脅迫状と各対比文書とが同筆であることの判定根拠を全く示していないと論難する。そして、右意見書では、@本件脅迫状と警察署長宛上申書の各共通文字につき、数値化した異同性の指標を設定し、「ツ」については、第二筆と第三筆の長さの比を指標として測定した結果、前者に存在する九個の「ツ」と後者に存在する三個の「ツ」は、過誤危険率〇・四%以下で同筆でないといえるので、右両文書が同筆でないことが、過誤危険率〇・四%以下で判定できる、A本件脅迫状及び封筒と右上申書の共通文字の「時」についても、前者の六個の「時」は、ほぼ正字であるのに対し、後者の三個の「時」は、いずれも明らかに誤字であるから、これらは同筆ではなく、右両文書もまた同筆ではないことが証明される、B本件脅迫状と内田裁判長宛書簡の共通文字の「に」について、第二筆と第三筆を結んでいる連続腺の第二筆となす角度を指標として測定した結果、前者の一三個の「に」と後者の四個の「に」とは過誤危険率〇・三%以下で同筆ではなく、右両文書は過誤危険率〇・三%以下で同筆でないと判定される、C本件脅迫状の「な」は、第一筆と第二筆を連綿させて一筆で書かれているが、この点は、請求人の手になる警察署長宛上申書、内田裁判長宛書簡、中田栄作宛手紙の「な」には見られない特徴で、この相違からも本件脅迫状の「な」と各対照文書の「な」とは同筆でないことが証明され、結局、本件脅迫状とこれら対照文書とは同筆でないことが判定される、というのである。
 しかしながら、本件脅迫状と各対照文書に見られる書字の書き癖、形状、筆勢、運筆状態等を子細に対比検討した三鑑定の判定が合理的で首肯できることは、確定判決審、さらには第一次再審請求審査手続において、検討されたとおりであつて、三鑑定が単に共通文字の類似性のみから筆跡の同一性を判定したものでないことも、各鑑定書の記述内容に照らして明らかであり、三鑑定が判定根拠を示していないという論理は当たらない。そして、木下第二意見書が、本件脅迫状と警察署長宛上申書につき、関根・吉田鑑定書や長野鑑定書の指摘する類似点や共有する個性的特徴についての検討をまったく行わず、片仮名の「ツ」については、その第二筆と第三筆の長さの比だけを問題とし、本件脅迫状と内田裁判長宛書簡の平仮名「に」についても、専ら第二筆と第三筆を結ぶ連続線が第二筆と作る角度だけを問題にして、その余の要素は取り上げないまま、異筆を結論づけるその手法は、手書き文書の筆跡異同の判断過程として余りに単純直截で、その妥当性には疑問があるといわざるを得ない。また、本件脅迫状に存在する「な」の第一筆と第二筆の連綿を、請求人の筆跡にはない特徴点として挙げるが、神戸鑑定書の項でも検討するとおり、このような点は、一般に必ずしも習癖化している場合ばかりとはいえず、書き手のその時々の気分や、筆圧、筆勢などでも変化するものと考えられるのである。現に、関宛昭和三八年手紙のうちの同年一一月一二日付、同月三〇日付、一二月一七日付の各書簡の中には、「な」の第一筆と第二筆を連続させたものが存在する。したがって、右意見書の指摘の点を請求人の筆跡には存在しない本件脅迫状の筆跡の特徴として挙げるのは、相当とは言い難いのである。
 したがって、右意見書は、三鑑定の結論に影響を及ぼすものとは言い難い。
(四) 日比野鑑定書・石川茂、斉藤一重の各供述調書
 日比野鑑定書は、本件脅迫状と警察署長宛上申書とを比較対照し、両文書にみられる文字配列の状況、当て字、誤字、筆順など漢字、片仮名の使用状況、筆勢、運筆、文章の作成状況、句読点の使用状況等から、右両文書が同筆であるとは考えられず、両文書の作成者の書写能力や漢字能力には差があり、請求人の能力では、雑誌「りぼん」を手本としても本件脅迫状を作成することは不可能である、というのである。
 しかしながら、警察署長宛上申書を対照資料にするについて、右上申書の書字、漢字の交ぜ方、筆勢、運筆等の状況が、請求人の当時の書字・表記の能力をそのまま示しているといえないことは、神戸鑑定書の項において詳しく検討するとおりである。
 請求人の書字・表記の習得が小学生のころで停止してしまい、その後は本件当時まで国語力の進歩がまったくなかったという前提をとるのであれば格別、所論援用の江嶋ほか意見書、大野第二鑑定書についても検討するとおり、本件当時二四歳であつた請求人にとつて、社会生活上の必要、書かれたものの内容に対する興味、関心などから、そのつど自分で習得した漢字もある程度は集積していたであろうことは、前掲の請求人自筆の筆跡資料、就中、早退届T、同U、通勤証明願、関宛昭和三八年手紙の記載内容などに徴して、推察するに難くないのである。
 なお、所論が新証拠の一つとして援用する石川茂、斉藤一重の司法警察員に対する各供述調書は、所論援用の江嶋ほか意見書中にも、請求人の書字能力の低劣であることを示す証拠資料として引用されているのであるが、両調書を総合すると、昭和二八年、請求人が、石川茂方靴店に住み込みで働いていた一四歳当時、店主茂の妹である斉藤一重から、約三か月間平仮名や漢字を習い、平仮名の読み書きができるようになり、漢字も、例えば「川口」という得意先の名前程度のものは書けるようになつていた、というのであり、請求人が一四歳当時に至って、ようやく平仮名と若干の漢字を習得したことが、右供述調書で明らかにされているが、これにより、約一〇年後の昭和三八年当時の請求人の書字・作文力などの国語力を直接推認することは相当とは言い難い。日比野鑑定書は、本件脅迫文で、「警察」と書くべきところに当てられた「刑」と「札」の漢字は、小学校で習得すべき教育漢字には含まれず、当時の当用漢字に該当することから、漢字を使うについてある程度高度な能力の持ち主が書いたと判定するのであるが、右の漢字などは、字画数も多くなく、ありふれた漢字であるから、当時、請求人が身辺にあつた新聞、雑誌等の印刷物などで見て、習得する機会は比較的容易にあり得たと考えられるのである。右鑑定書の判定は、その余の片仮名の使用状況、筆勢、運筆、文章作成能力などに関する指摘も含め、必ずしも当を得たものとは言い難いといわざるを得ない。このような次第で、右鑑定書は、三鑑定の判定結果を左右するには至らない。
(五) 宇野鑑定書
 宇野鑑定書は、本件脅迫状と脅迫状写とを、警察署長宛上申書、接見等禁止解除請求書、内田裁判長宛書簡、関宛手紙類などを参考資料にして、文字、語彙、文章の表記の点から比較検討した結果、両者には著しい差異が認められるとし、これを理由に本件脅迫状と脅迫状写とは同一人の筆跡とは認められないと結論する。
 検討するに、脅迫状写は、請求人が被疑者当時、取調べの検察官の求めにより、本件脅迫状と同旨の文章を手書したものであり、このような作成のいきさつを考慮すると、日頃の書字の様子、能力が率直に表現されたと言い難いことは、所論援用の神戸鑑定書の検討の項で、詳しく述べるとおりである。
 また、宇野鑑定書が、本件脅迫状における「江」「ヤ」「ツ」の使用、平仮名の字画の連綿、対照文書の誤字などについて判定するところもにわかに容れ難い。
 右鑑定書は、本件脅迫状には、「え」と表記すべきところを「江」としている個所があるが、「エ」は用いていないのに対し、請求人が書いた警察署長宛上申書、脅迫状写、関宛昭和三八年九月六日付手紙では、いずれも 「江」は用いておらず、「エ」と表記している個所はあるけれども、「エ」と「江」は不注意で書き誤る性質のものではなく、「え」の代りに「江」を用いるのは、極めて特異な例である」(同鑑定書三頁)として、本件脅迫状の表記上の特徴だというのである。そこで検討するに本件脅迫状中には、「え」と表記すべきところに「エ」を用いた個所がないことは、右鑑定書が指摘するとおりである。しかし、動詞「かえる」の活用で「え」を表記するのに、「江」を当てている個所(「ぶじにか江て」)がある一方、他方では、これと使い分ける格別の意味もないところで、通常の用法どおりに「え」を当てている個所(「かえッて」「かえてきて」)もあるのである。したがつて、本件脅迫条の書き手は、「え」と表記すべき場合に、音の共通する「え」「江」「エ」のうちから思いつくまま用いる傾向があるところ、本件脅迫状では、偶々「エ」は用いずに「え」を用いたとも考えられるのである。そして、同鑑定書は参照していないが、右脅迫状写より数日前に請求人が自書した中田宛手紙では、「え」と表記すべきところを、「江」(「中田江さく」が本文中に三個所、封筒の上書きに一個所の計四個所。なお、名の部分を平仮名で書くのであれば、「中田えいさく」と表記すべきところである。)と書き、あるいはまた、「エ」(「よしエ」が本文に三個所)と書いていることが認められるのであつて、請求人が、確定判決審第二四回公判において、右中田宛手紙について、これを書いたいきさつを尋ねられた後、「そのとき上書したのは被告人(請求人)か」と問われて、「そうです。」と答え、「中田江さくというのは何か見て書いたのか、(それとも)覚えていて書いたのか」と質問されて、「ただ書いたと思います」と答えている事実(確定判決審記録二一三二丁)にも徴すると、当時、請求人も、中田宛手紙を書くにあたり、「エ」とともに「江」を、「え」と表記すべき個所に用いており、しかも、「中田栄作」と表記すべき被害者の父親の氏名を、本件封筒(本件脅迫状の封筒)に書かれたとまったく同じ「中田江さく」(名の部分を平仮名書きするのであれば、正しくは、「中田えいさく」と表記すべきであることは既に述べたとおりであり、「い」が欠落している点でも特徴ある表記方法と認められる。)と四度まで繰り返し表記していることは、宇野鑑定書のいう本件脅迫状と同じ「極めて特異な」表記を行ったということができる(この点につき、所論援用の戸谷意見書五三頁、五四頁は、請求人が取調官から指導された結果と推測しているが、中田宛手紙の作成事情に関する前記請求人の供述に照らして疑問である。そしてまた、捜査官から本件脅迫状らしいものを書写させられた旨の請求人の供述(確定判決審第二四回、第二七回各公判)を考慮に入れても、その影響のためとも断じ難い。)。
 次に、本件脅迫文中の「ヤ」の使用(「さのヤ」「ころしてヤる」)については、右二個の用例だけでは、宇野鑑定書が指摘するように書き手の用字癖であるとか、特殊な効果を狙った用字であるとか、直ちに決めてかかることはできない。請求人自書の脅迫状写、警察署長宛上申書に片仮名の「ヤ」が用いられていないからといって、このことから本件脅迫状の書き手は請求人ではないとするのは、妥当な推論とは言い難い。
 他方、本件脅迫状は、漢字平仮名交じり文であるが、「つ」、促音「っ」と表記すべきところを、すべて片仮名「ツ」 あるいは「ッ」と表記していることが認められ(「ツツんでこい」「女の人がもツて」「車出いツた」「気名かッかたら」「いツてみろ」「車出いツた」「ぶじにかえツて」「とりにいツて」)、これは顕著な特徴と認められるところ、これと同様の「ツ」の用例が、請求人自書の警察署長宛上申書(「五月一日のことにツいて」「いツしよして」「けいさツ」)、同鑑定書は参照していないが、捜査官に対する供述調書添付図面中の請求人自書の説明文(第一審記録二〇一二丁の「あツた」、同二一〇二一丁、二〇二三丁の「まツもと」、同二〇二二丁の「とツた」、同二〇二四丁の「がツこを」、同二〇三五丁の「はいツていたさいふ」、二〇三六丁の「あツたとをもいます」、同二一一三丁の「ツかまエていツたほをこう」など多数)などに存在することは、看過できない共通点であると認められる。ところが、右鑑定書は、漢字平仮名交じり文で、促音だけ「ッ」と書く例は相当数あるとし、古く明治末に発表された小説中の用例を引き合いに出し、「促音に「ッ」の文字を使うことは必ずしも特異であるとは言えないのであって、脅迫状と上申書とでの一致を特に問題とするべきではない。」(同鑑定書六頁)と判定するのである。このような見解には与することはできない。
さらに、右鑑定書は、脅迫状中の「な」「す」及び「け」についてみられる字画の連続は自然に身につけている運筆・筆勢の習慣であるとした上、このような字画の連綿現象は、請求人の手になる脅迫状写や関宛手紙中には見当たらないというが、平仮名は、その時々の書き手の気分や書字の状況如何によって、字画を連続させたり、させなかったりすることがあり、必ずしも習慣となつて固定している場合ばかりではないことは、神戸鑑定書の検討の際に指摘するとおりである。そして、右宇野鑑定書の認識と相違して、関宛昭和三八年手紙の一一月一二日付(「お世話になった」)、同月三〇日付(「悪くしないで」)、同年一二月一七日付(「お変りなく」「皆んな」「きびしゆうなりました」)の各手紙には、平仮名「な」の字画の連綿が認められ、また、同年八月二〇日付の前掲接見等解除請求書にも、平仮名の字画の連続が見られる(本文二行目、三行目、四行目(二個))事実は、右撃定書が判定の前提にした事実認識が、既に当を得たものとは言い難いことを示している。
 右鑑定書は、漢字の表記に関して、脅迫状では正字が書かれているのに、脅迫状写では同じ漢字が誤つて書かれている個所があることを指摘して、請求人が脅迫状の書き手であるならば、正しく書けないはずがないというが、前述したような脅迫状写の作成のいきさつ、書き手である請求人のおかれた精神状況を考慮すれば、このような判定が相当であるとは言い難い。
 以上の次第で、右鑑定書の鑑定結果は、三鑑定の判定の評価に影響を及ぼすものとは認め難い。
(六) 大類鑑定書
 大類鑑定書は、本件脅迫状の句読点の用法と本件当時の請求人の句読点使用の状況とを比較検討した結果として、本件脅迫状は、高度な句読法を用い、部分的に文字を大きく表記するなど、詩文に見られる手法を用いており、このような文章は、請求人のように、句読の意識も明白でなく、句読法が身についていない者には作成することができないと結論するのである。しかし、本件脅迫状の句読法の誤りを、高度の句読法を身につけた者の作為の仕業と推測することには、疑問がある。右鑑定書も認めるように、請求人自書の文書にも本件脅迫状と同種の句読点の誤用の例が見られるのである。また、本件脅迫状の後半部分には、三行にわたり文字を大きく表記した個所があり、これは強調の意味があると思われるが、これをもって、詩文に精通した者でなければ書けない筈などという大類鑑定書の見解は、穿ちすぎの感を免れない。このような次第で、本件脅迫状は請求人が書いたものではないとする本鑑定の結果には、疑問があるといわざるを得ない。
(七) 江嶋ほか意見書
 江嶋ほか意見書は、社会学、教育学の見地から生活史的方法による調査により請求人の国語能力等を解明した結果、請求人は、十分な基礎的国語教育を受けず、読み書き能力の極めて乏しい状態のまま社会に出たため、その後の仕事先や日常生活場面でも、書式の決まった文書に、住所、名前、極く限られた文字や数字等を書き込む程度のことをこなせただけで、ラブレターでさえ他人に書いて貰わなくてはならないなど、自分の意思内容を伝達するに足る、まとまりのある文章を自分で書くことは到底できない状況であつたから、本件脅迫状のような要求を的確に表現する文書を自分で書くだけの国語能力はなかったと判断される、というのである。
 しかしながら、本件脅迫状作成者の国語能力と請求人のそれとの間に格差があると結論するのは、必ずしも当を得たものとは言い難い。請求人が義務教育として十分な国語教育を受けることができず、社会生活上読み書きの体験も乏しかったことは、確定判決審の関係証拠から明らかであるが、請求人は、一四歳当時に靴店で住み込み奉公中、顧客の靴などの管理の必要から平仮名や顧客名の漢字を教わる機会もあつたこと、米軍基地でパッケージ作業をした当時も、班のリーダー格としてタイヤの取付け状況を記帳する機会があつたこと、一九歳ころから二二戚ころにかけて、東鳩製菓に勤めた際にも、仕事上あるいは社会生活上の必要からある程度の漢字の習得、書字が行われたことが、確定判決審の証拠から認められるのであつて、請求人が東鳩製菓在勤当時に書いた早退届T、同Uや通勤証明願(なお、後者は、住所、氏名等の限られた漢字や数字を記入する形式ではあるが、横書きである。)の書きぶりからもその片鱗が窺われる。そして、昭和三七年秋から翌三八年二月ころにかけて、石田養豚場に住み込みで働いていた当時には、歌の本、週刊誌、新聞の競輪予想欄等に目を通していたことも、関係証拠上明らかである。したがって、請求人は、生活上の必要と知的興味、関心から、不十分ながらも漢字の読み書きなどを独習し、ある程度の国語知識を集積していたことを窺うことができるのであって、右意見書の依拠する調査結果から、直ちに、請求人の本件当時の国語能力が右意見書がいう程度のものでしかなかったと結論づけることには、疑問がある。
(八) 戸谷意見書
 戸谷意見書は、本件脅迫状と警察署長宛上申書、捜査官に対する各供述調書添付図面の請求人自書の説明書き、中田宛手紙、脅迫状写、関宛手紙類等を対象として、本件脅迫状の筆者と請求人の平仮名・片仮名・漢字の能力、句読点を使いこなす能力、文章の構成力、指示語・接続語を使いこなす能力、文章思考能力と内容構成能力、客観的描写・叙述の能力などの作文能力を、小学校の学習指導要領と国立国語研究所の研究に沿って分析、検討した結果、本件脅迫状作成者の作文能力は、小学校高学年あるいは小学校卒業以上のかなり高度なものであるのに対し、請求人のそれは、小学校低学年以下であり、両者の間には厳然たる格差が存在し、たとえ吉展ちゃん事件の脅迫電話や雑誌「りぼん」を参考にしたとしても、請求人が本件脅迫状を書くことはできなかったと判定する。
 しかし、請求人の書字・表記等の習得については、神戸鑑定書、江嶋ほか意見書の各項において検討・指摘するとおりであって、その国語力は、教育課程に沿って段階的に順序よく習得してきたものではなく、独習者にあり勝ちな偏りのあるものではあつても、一概に、本件当時の漢字の書字能力を小学校低学年以下と判定してよいとは思われない。戸谷意見書は、警察署長宛上申書、中田宛手紙、脅迫状写、捜査官に対する供述調書添付の見取り図説明文などをもって、請求人の当時の書字・表記能力の実際を示すものと認め、その後、請求人が昭和三八年九月六日付以降の関宛手紙類を書いたのは、勾留中の自学自習による「驚くべき発展」であると評価するが(同意見書八九頁等)、昭和三八年春から六、七月ころの請求人の普段の書字・表記の能力が警察署長宛上申書(五月二一日自書)、中田宛手紙(六月二七日付)、脅迫状写(七月二日付)に見るとおりのレベルにあつたとすると、漢字や手紙文の書式、言い回しなどについて、浦和刑務所拘置区の職員の教示を受けたことを考慮しても、僅か一、二か月間の学習で、書字、配字、筆勢、運筆などの点で格段に優れている昭和三八年八月二〇日付の接見等禁止解除請求書、関宛の同年九月六日付手紙などが書ける程に「驚くべき発展」を遂げ得たとは考え難い。昭和三三年から三五年にかけて作成され、それぞれ手書き部分は請求人が自書したと認められる前記早退届T、同U、通勤証明願に見られる書字の形態、配字、筆圧、筆勢なども併せ検討すると、戸谷意見書の指摘する「格段の差」(同意見書八九頁)は、学習の成果というよりも、むしろ請求人の置かれた環境、心理状態などの違いによるところが大であると考えられる。前記関宛の九月六日付手紙は、請求人が、昭和三八年七月九日までに取調べと起訴がすべて終わり、浦和刑務所の拘置区に勾留場所を移されて、精神的にも落ち着いた時期に、以前から心安く、警察署に勾留中に世話になつた関源三巡査部長に、近況報告と願いごとのために自発的に書かれたもので、運筆、筆勢が暢達であるのに対し、警察署長宛上申書、中田宛手紙、脅迫状写、供述調書添付図面の説明書きなどは、いずれも請求人が、捜査官から求められて、その面前で被疑者として作成したものであつて、配字の乱れ、運筆、筆勢の渋滞も、書き手の強く緊張した心理状況の現れと見ることができる。筆跡対照資料を検討するに当たっては、神戸鑑定書の項において論じるとおり、このような文書作成の背景事情を看過することはできない。
 さらに、片仮名の「ツ」の字の使用に関し、促音の「っ」の部分に片仮名の「ツ」を使うのが請求人の用字の一つの特徴で、この表記の誤りは、仮名表記能力の低さを示すとしながら、他方では、本件脅迫状に見られる「ツ」の使用は、本件当時出回っていた振り仮名付きの漫画本、大衆小説などに多く見られた用法によったものではないかと推測し、これを両者に共通する特徴点とは見ない右意見書の見解には納得し難いものがある。このように、右意見書の判定には疑問点が多く、三鑑定の判定に影響を及ぼすものとは言い難い。
(九) 大野第二鑑定書
 大野第二鑑定書は、本件脅迫状と警察署長宛上申書及び脅迫状写などを国語学的観点から考察した結果、本件脅迫状は、小学校漢字学年別配当旧表による一年程度から六年程度の漢字のほか教育外漢字三字をも含む三四種、七五字の漢字が使われていること、故意の作為的用字と判断される特殊な万葉仮名的用字法が見出されること、句読点が使われていること、拗音や促音を小文字で表記しているこどなどから、書字・表記につき高度の知識を有する者が作成したものと認められるのに対し、他方、請求人については、小学生のころ欠席が多く、国語の成績も悪かったこと、請求人の書いた警察署長宛上申書や脅迫状写には、小学三年程度の漢字しか使われておらず、小学二年程度の漢字でも字画の多いものは使わず、平仮名で書かれていること、句読点の打ち方も誤っていること等から、請求人の書字・表記能力は小学一年程度と認められることなどが指摘され、これらの点を総合して、本件脅迫状は請求人が書いたものでないことが明らかである、というのである。
 検討するに、右鑑定書についても、神戸鑑定書、江嶋ほか意見書、戸谷意見書等の各項において検討・指摘するところが当てはまる。大野第二鑑定書が、本件脅迫状の書字・表記の状態から、その作成者の書字・表記能力が高度で、作為的な用字があると判定し、請求人自筆の警察署長宛上申書や脅迫状写にみられる書字・表記の状況や小学生当時の就学状況、学業成績、請求人の確定判決審における国語の知識、書字能力等に関する公判供述から、請求人の書字・表記能力が小学一年程度でしかないと判定することの妥当性に疑問がある。大野第二鑑定書は、確定判決審における請求人の供述に依拠して、取調べ官から本件脅迫状を見せられて、これをそのまま書写するようにいわれたにもかかわらず、請求人の書いた脅迫状写には、右脅迫状どおりの漢字を書写できずに仮名書きした個所がある旨指摘し、これは、請求人の当時の書字能力が低劣で、本件脅迫文を書くだけの能力がなかったためとしている。しかし、神戸鑑定書の項で見るとおり、原検事が、確定判決審で、脅迫状写は本件脅迫状の文章を書写させたものではないと述べて、請求人の言い分を否定する趣旨の証言をしていることなども考えると、脅迫状写の作成のいきさつについて請求人の述べるところが、そのとおりであるとも言い切れない。請求人は、小学生のころから、基礎的な国語知識、書字・表記の学校教育を満足に受ける機会には恵まれなかつたのであるが、書字習得に必要な知的能力においては、通常人になんら劣るところはなく、他家へ奉公し、工場勤めを経験するなど、社会経験もある程度は積んでいたのであるから、書字、表記等について、易から難へ段階的に順序立てた国語教育を受ける機会はなくとも、社会生活上の必要、関心に応じてその都度、ある程度の書字・表記を独習し、これを用いていたことは、確定判決審の関係証拠から窺われるのである。このような請求人について、「当時身につけていた書字技能は、かろうじて小学校一年生程度のものであつたことは確実である」(大野第二鑑定書一三頁)などと小児同然の評価を下すことが、正鵠を得たものとは考え難い。同一人の書字、表記であつても、その時々の書き手の心理状況、文書作成の心的物的環境等も影響して、配字、筆圧、運筆速度等が変化し、また、ある文書では漢字で表記したものを他では平仮名で表記し、ある文章では句読点を用い、他では省くなどの事象は稀なことではないのであつて、請求人が、捜査官の求めにより、重大な犯罪の被疑者として、高度の緊張を強いられる心理状況の下で自書した対照資料から、事件当時の請求人の国語知識、書字・表記能力を判定し、これを尺度に本件脅迫状は請求人が作成したものではないと断定することには、疑問があるといわざるを得ない。
 このような次第で、右鑑定書が三鑑定の判定に疑問を抱かせるものと言い難いことは、第一次再審請求審査手続において判断されたとおりであると認められる。
(一〇) まとめ
 以上、請求人の国語能力、筆跡などの観点から、本件脅迫状は請求人が・書いたものでないことを示す新証拠として所論が援用するもののうち、主要なものについて、当裁判所が検討したところを明らかにしたが、さらに、同様の立証趣旨で援用されたその余の証拠も含め、これら援用された証拠のすべてを確定判決審の関係証拠と併せ考量しても、本件脅迫状の作成者に関する確定判決の事実認定に疑問を生じさせるには至らないといわなければならない。

 二 脅迫状の記載訂正前の金員持参指定日付
 所論は、要するに、@大塩達一郎作成の昭和五四年三月二〇日付写真操影報告書、A弁護人中山武敏作成の同月三〇日付写真撮影報告書、B串部宏之・北田忠義作成の同年五月一五日付意見書、C昭和三八年五月四日付朝日新聞朝刊記事写により、本件脅迫状に記載された金員持参の指定日は、当初「4月29日」と記載されていたのを塗抹し、「五月2日」と訂正したものであることが裏付けられ、請求人の「本件脅迫状の金員持参の指定日の記載を「五月2日」と訂正する前は、「4月28日」と記載してあつた。」旨の自白が捜査官の誘導による虚偽であることが明らかになったばかりでなく、訂正前の日付である四月二九日には、請求人は終日近所の家の修理作業に従事していて本件脅迫状を作成する時間的余裕などなかったことが裏付けられ、右自白内容は虚偽で、信用し難いことが明らかになり、請求人が本件脅迫状の作成者であるとする確定判決の認定に合理的な疑いが生じる、というのである。 しかしながら、所論は、第一次再審請求で主張された身代金持参指定日の日付訂正に関する主張と同旨であり、所論を裏付ける新証拠として提出された資料も、訂正前の日付についての地元警察の認識を報じた事件発生直後の新聞記事の写(前掲C)が加わっただけで、第一次再審請求で新証拠として提出され、その請求棄却決定の理由中で判断を経た証拠と実質的に同じであると認められるから、所論は、実質上、同一の証拠に基づく同一主張の繰り返しというほかなく、刑訴法四四七条二項に照らし不適法である。
 そして、念のため、所論援用の前掲証拠を確定判決審の関係証拠に併せ検討しても、確定判決の事実認定に合理的な疑問を抱かせるには至らない。

 三 封筒の宛名の筆記用具
 所論は、新証拠として平成一一年四月一三日付斎藤保作成の鑑定書及び証人斎藤保を援用して、本件脅迫状の封筒に記赦されていた文字のうち、表側の「少寺様」
の「様」の文字は、ボールペン様のもので書かれ、その余の文字は、「少時」を含めて、万年筆様のものによりインクで書かれていることが明らかになつたが、この事実は、請求人が犯人であるとすると、本件犯行より前に、本件脅迫状を作成するとともに封筒表側には万年筆様のもので「少時」と書いておいたことを意味し、犯行以前に自宅のボールペンで自宅のボールペンで書いておいた脅迫状の文言の一部と封筒の宛名を、被害者から奪った万年筆を用いて訂正したとする確定判決の認定を動揺させるだけでなく、犯行の次第に関する自白を全面的に崩壊させ、確定判決の事実認定を根底から覆すことになると主張する。
 そこで検討する。
(一) 確定判決審が取調べた秋谷七郎作成の鑑定書(確定判決審記録八一五六丁)は、ボールペンで書いた文字は、書き始めの部分が白く抜けることがあり、筆圧による濃淡が強く、紙面に対するペン先の方向、角度の変化によりインクの濃淡が生ずることがあって、アルコールに溶解するが、全般的に見て、ペン先による紙の繊維の乱れは認められないのに対して、万年筆、ペンの場合は、書き始めから書き終わりまで、満遍なく着色し、そのインクはアルコールには溶解しないが、水に溶解し、ペン先による紙の繊維の乱れが認められるなどの相異点があるとし、これらの知見から、本件脅迫状の本文はボールペンで書かれているのに対し、その訂正部分二個所(「5月2日」と「さのや」)は、万年筆かペンで書かれたものと判定し、封筒の文字については、表側と裏側の「中田江さく」の文字について観察して、明瞭な二条の筆跡があり且つそれぞれ二条の画線は平行で、太さもやや一様で大小もあまりないこと、筆跡に沿っている紙面には、繊維の乱れが生じていることを述べて、「封筒に記載された文字の筆跡を弱拡大で観察するに万年筆を使用した公算大なり。」と判定する(同鑑定書の内容を検討すると、ここに「封筒に記載された文字の筆跡」とは、「中田江さく」の文字を指していることは明らかである。)。そして、同じく確定判決審が取調べた埼玉県警本部刑事部鑑識課員斎藤義見ほか二名作成の昭和三八年五月一三日付捜査報告書(確定判決審記録三九四六丁)によると、鑑識係官が指紋検出のため、(1)本件脅迫状の封筒について、ニンヒドリンのアセトン溶液による検査を行ったところ、表面上部中央に書かれた「少時様」様の文字が、液体法と還元法(過酸化水素水による還元)等により消滅した、(2)本件脅迫状の紙片については、ニンヒドリンのアセトン溶液による検査を、その第一行と末行に試みたところ、いずれも記載文字のインクが溶解し、拡散したので中止し、沃度ガスによる気体法に切り替て指紋検出を実施したというのである。
(二) 所論援用の齋藤鑑定書は、およそ次のように論ずる。
 請求人の自白によると、本件脅迫状の文章とその封筒上の文字は、同一ボールペンで書いたとされているところ、前掲捜査報告書では、封筒について、「ニンヒドリン、アセトン溶液による(指紋の)検出を行った」としながら、記載された文字の溶解を認める記述はないのに対し、脅迫状の紙片については、「ニンヒドリンのアセトン溶液による検出方法を該紙の第一行目及び末行について実施したところ、アセトン溶剤により記載文字のインクが溶解し(た)」と記載されていて、これでは、同一ボールペンで記載された文字が、ニンヒドリンのアセトン溶液に対して別異の反応をしたことになり、不合理である。そこで弁護人提供の写真により、封筒の表側を観察すると、「少時」と「中田江さく」の文字はいずれも溶解していないが、右「少時」の文字に続く「様」の文字は滲んで溶解しており、その状態は、脅迫状の第一行目と末行の溶解と同様である。一般に、ボールペン(インクで書いた)文字は、有機溶剤であるアセトンにより溶解するが、万年筆のインクは、アセトンでは溶解しないので、封筒上の「少時」と「中田江さく」の文字は、いずれも万年筆様のもので書かれていると判定され、他方、「様」の文字は、ボールペンで書かれていると判定される。
(三) しかしながら、齋藤鑑定書の右の判定には、にわかに与し難い。
 本件脅迫状の封筒の表側と裏側の「中田江さく」の文字が、万年筆様のもので書かれていることは、これを視覚的に検査した前掲秋谷鑑定書も指摘するところであり、そのとおり肯認できると認められる。しかし、封筒表側の「少時様」の文字について、前掲報告書は、ニンヒドリンのアセトン溶液による指紋の検査を行ったところ、「液体法と還元法(過酸化水素水による還元)等により消滅した」と述べているのであり、齋藤鑑定書が、「記載文字の溶解を認める記述はない。」(同鑑定書一一頁)とするのは当たらない。椅玉県警察本部刑事部鑑識課塚本昌三作成の昭和三八年九月二七日付写真撮影報告書(第一審記録三七八丁)添付の写真(同年五月二日撮影)により認められる、指紋検出のための試薬処理以前の封筒の状態と対照しながら、本件脅迫状の封筒の現物を具に観察すると、その表側の「中田江さく」の文字は、褪色はあるものの、「く」の文字を除いては、はっきり読みとれるのに対して、「少時」の文字は、完全に消滅していて、肉眼で読みとりは不可能であり、「様」の文字も溶解し、ぼやけて、ほとんど読みとり不可能な状態にあることが認められる。そして、右写真撮影報告書添付の写真で「少時様」の三文宇を観察すると、「少時」と「様」の文字がそれぞれ別異の筆記用具を用いて書かれたとするのは、如何にも不自然である。このように見てくると、「少時」の文字は、「様」の文字と同様、ボールペンで書かれたと見られるのであり、ニンヒドリンのアセトン溶液のかかり具合によって、「少時」の文字については、溶解が進み色素が流れてしまい(ボールペンのインク様の青い色素が、極薄く、不定形に広がり、用紙の繊維に付着しているのが見てとれる。)、ほとんど完全に消滅して読みとり不可能となり、他方、「様」の文字も溶解したが、色素が流れて拡散してしまうには至らなかった(右「少時様」の三文字のいずれについても、過酸化水素水による還元法は功を奏しなかったものと思われる。)ということができる。齋藤鑑定書の見解を援用する所論は、容れることができないといわなければならない。
 したがって、所論の指摘にかんがみ、所論援用の齋藤鑑定書とその余の証拠を併せて、確定判決審の関係証拠と総合検討しても、脅迫状とその封筒の宛名書きに関する確定判決の事実認定に合理的な疑問を抱かせるには至らないというべきである。

 四 雑誌「りぼん」
 所論は、本件脅迫状の作成に当たって参照したとされる雑誌「りぼん」が、本件当時、請求人方に存在していなかったことが、石川美智子、水村知恵子、樋口弓子、伊五沢マサ子、小川京子の各昭和三八年七月一日付司法警察員に対する供述調書によって、明らかであると主張する。
 しかし、これらの証拠は、いずれも所論と同旨の主張を裏付ける新証拠として、既に第一次再審請求で提出され、その再審請求棄却決定の理由中で判断を経たことが明らかであるから、所論は、刑訴法四四七条二項に照らし不適法である。

 五 脅迫状の用紙
 所論は、要するに、請求人は、妹の学用品の大学ノートの紙片を脅迫状の用紙に使用したと自白したが、関根政一作成の昭和三八年六月二一日付大学ノート綴目に関する捜査報告書(関根報告書)によれば、請求人方から押収された大学ノートの綴目が、本件脅迫状の用紙である大学ノート片の綴目と異なることが裏付けられ、右自白の信用し難いことが明らかになつたから、請求人が本件脅迫状の作成者であるとする確定判決の認定に合理的な疑いが生じる、というのである。
 検討するに、関根報告書は、本件脅迫状に用いられたノート片の綴目は、一三か所あるが、請求人方の捜索で発見押収されたノート七冊(昭和三八年五月二三日押収分六冊、同年六月一八日押収分一冊)のうちの一冊の用紙の綴目は一一か所であり、両者の綴目の数は相違しているという事実を明らかにしているに止まるのであり、両者の綴目の数は相違しているという事実を明らかにしているに止まるのである。したがって、右報告書を確定判決審の関係証拠と併せ考えても、請求人が自宅にあつた妹のノートから外した紙片を使って脅迫状を作成した旨の自白の信用性がこれにより揺らぎ、延いては、本件脅迫状が請求人作成にかかわる旨の確定判決の認定に疑いが生ずるものとは言い難い。

 第二 殺害の態様について
所論は、新証拠として、@上田政雄作成の昭和五〇年一二月一三日付鑑定書(補足説明書を含む。上田第二鑑定書)、A木村康作成の昭和五一年一二月二七日付意見書(木村意見書)、B青木利彦作成の同月一三日付意見書(青木意見書)、C上山滋太郎作成の昭和五八年三月一五日付鑑定書(上山第一鑑定書)、D上山滋太郎作成の平成五年五月一〇日付鑑定書(上山第二鑑定書)、E弁護人中山武敏、同横田雄一作成の昭和五八年八月三日付調査報告書、F弁護人中山武敏、同横田雄一作成の平成五年二月一八日付実験報告書(中山・横田平成五年二月実験報告書)、G殺害方法についての新聞記事写一二点、H長谷部梅吉著「教本ありばい崩し」抜粋写、I法医学文献の抜粋写(北條春光ほか著「法医学」六七〜七八頁、古畑種基著「簡明法医学」一一〇〜一一三頁、三木敏行著「法医学」第二版三八〜四二頁、宮内義之介著「法医学」第三版四四ないし四七、四九、五〇頁、上野正吉著「新法医学」一〇八〜一一三頁、松倉豊治編「法医学」一九六ないし二一〇頁、石山c夫編著「現代の法医学」六六〜七三頁、富田功一著「法律家のための法医学」三一三、三一七頁、青木利彦・向井敏著「エッセンシヤル社会法医学」一九四頁、何川凉著「法医学」一一三〜一二二頁、朝倉了・池本卯典著「法学部法医学」一二五〜一二八頁、山澤吉平著「小法医学書」七三〜八〇頁、富田功一・上山滋太郎編「標準法医学・医事法制」一三〇〜一三七頁、船尾忠孝著「法医学入門」七四〜七八頁、錫谷徹著「法医診断学」二五二〜二七五頁、上野佐著「法医学概説」九二〜九五頁、横浜市大医学部法医学教室「新法医学」八〜一一頁、城哲男ほか著「学生のための法医学」一〇一〜一〇八頁、赤石英編一「臨床医のための法医学」一〇八〜一二四頁)、J証人上田政雄、K同木村康、L同青木利彦、J同上山滋太郎等を援用して、被害者の死因は、絞頸による窒息であると認められるから、扼頸による窒息と判定する五十嵐勝爾作成の昭和三八年五月一六日付鑑定書(五十嵐鑑定書)及び五十嵐勝爾証言、さらには手掌で被害者の頸部を圧迫して殺害した旨の請求人の自白は、誤りであることが明らかになり、請求人が殺人の犯人であるとする確定判決の事実認定には合理的な疑いがある、というのである。なお、右のうち、@ないしBは、第一次再審請求審査手続においても提出され、判断されたものである。
一 五十嵐鑑定書及び第一審、確定判決審の各五十嵐証言(以下、これらを併せて五十嵐鑑定という。)によれば、埼玉県警の警察技師である五十嵐勝爾医師は、昭和三八年五月四日午後七時ころから約二時間にわたり、被害者方構内において、電灯の照明下で被害者の死体の外表検査と解剖を行い、採取した資料につき後に所要の検査を行って、同月一六日までかけて死因等について鑑定書を作成したのであるが、その所見と鑑定の結果は、およそ以下のとおりである。
(一) 頸部の外表所見として、前頸部の皮膚面を体軸方向にやや伸展した状態で検査すると、
(1)前頸部において、胸骨点上方約九・七センチのところを通り、皮膚の皺襞を伴う横走状の皮膚蒼白帯(左右の長さ約九・九センチ、幅径約〇・五センチ、上下両縁の境界は不明瞭)が存在し(五十嵐鑑定書掲記(4)b)、
(2)左前頸部において、正中線上で胸骨点上方約九・四センチのところ(ほぼ喉頭部上縁に相当)から左方に向かい横走する暗赤紫色部一条(長さ約六・二センチ、幅径約〇・三センチ、周辺は自然消褪して境界不明瞭)が存在し(前同C1)、
(3)中頸部において、胸骨点上方約六・六センチのところに、頗る不明瞭な横走状の暗紫色部一条が存在し(前同C2)、
(4)前頸部において、下顎骨下から(1)掲記の皮膚蒼白帯までの間は、前頸部一帯にわたり暗紫色を呈し(前同C3)、その内に小指爪大以下の暗黒色斑点若干が散在し、また、下縁部には、左上方から右下方に向かい平行に斜走する赤色線条(幅径約〇・三センチ)多数が存在し、
(5)前頸部一帯において、(2)掲記の横走する暗赤紫色部の下方から上胸部のルドウッヒ角のあたりまでは暗赤紫色を呈し(前同C4)、その内に小指爪大以下の暗黒色斑点やや多数が散財し、上縁部には左上方から右下方に向かい平行に斜走する赤色線条(幅径約〇・三センチ)多数が存在する。
 このうち、(4)及び(5)掲記の斜走する各赤色線条には生活反応が認められないことから、右は、死後に荒縄または麻縄の類で圧迫されて生じたと推認されるけれども、その他の(2)ないし(5)掲記の各暗赤紫色条痕、暗紫色条痕及び各暗黒色斑点は、生存中に成傷したと認められ(なお、五十嵐鑑定書記載の記号Cの大文字、小文字の使い分けには、鑑定書自ら規定するところに合わないものが見られるが、五十嵐証言にも照らすと、C1ないしC4の暗赤紫色、暗紫色、暗黒色等の変色部は、いずれも生存中の成傷と観察・判断されたことは明らかである。)、その他には、特記すべき損傷や異常を認めない。
(二) 他方、頸部の内景検査では、
(6)前頸部に、舌骨部から下顎底にわたり、手掌面大の皮下出血があり(前同C3に相当)、喉頭部より下部に手掌面大の皮下出血が存在し(前同C1、C2、C4に相当)、
(7)舌前端部に、舌尖から約〇・七センチのところに長さ約二・四センチの挫創があり、
(8)咽頭腔内の粘膜は暗赤紫色を呈し、血管像は著明で半粟粒大以下の溢血点少しばかりが存在し、
(9)喉頭腔内には、泡沫液やや多量があり、粘膜は充血性、半粟粒大の溢血点数個が散在し、粘膜の色は、上腔においては淡紫色、下腔においては暗紫色を呈する。
(10)気管腔内には泡沫液やや多量があり、その粘膜は一般に暗紫色を呈し、血管像の発現は著明で、上部には半粟粒大の溢血点数個が存在するが、
(11)舌骨、喉頭諸軟骨いずれも骨折を認めず、
(12)軟部組織間の出血の存否については、甲状腺左右両葉の周囲に、それぞれ軟凝血塊があり(前同ち、り)、甲状軟骨右上角部に大豆大の出血一個がある。(前同ぬ)。
(三) そして、顔部は僅かに瀰漫性腫脹の状を呈し、軽度のチアノーゼを呈すること、眼瞼結膜には溢血点があり、充血性であることなど、その余の所見・検査の結果も総合して、死因は、窒息死と判断されるが、前頸部の圧迫痕跡(手掌面大の皮下出血二個など)が著明であるのに、頸部に索条痕、表皮剥脱はないことなどから、窒息は絞頸ではなく、扼頸によると認められ、また、その方法は、頸部に爪痕、指頭による圧迫痕が存在しないことなどから、手掌、前膊、下肢、着衣等による頸部扼圧による他殺死と推定される。
二 所論指摘の上田第二鑑定書、木村意見書、青木意見書、上山第一鑑定書及び同第二鑑定書は、いずれも、本件被害者の死因が頸部圧迫による窒息で、他殺であることについては、五十嵐鑑定の見解を承認するのであるが、殺害方法を扼頸と判定した右鑑定結果を批判する。
(一) 上田第二鑑定書は、確定判決審で取調済みの上田政雄作成の昭和四七年七月二〇日付鑑定書(上田第一鑑定書)を補足するもので、(1)頸部に幅広い索条物が作用した場合、索痕が五十嵐鑑定書のC1に見られる暗紫赤色で境界不鮮明な変色部として現われることがあるから、右が索痕である可能性を否定できない、(2)前頸部下部に手掌大の皮下出血を認めた同鑑定書の所見は不自然で、それが手掌面による圧痕と断定はできない、(3)眼瞼結膜の溢血点が少なく、顔面も軽度のチアノーゼを呈していた旨の同鑑定書の所見から、被害者が比較的早く窒息死したと推認されるところ、請求人の自白のような扼頸方法では、そのように早期に窒息死させることはできないというが、結論としては、幅広い物体による絞頸とともに扼頸の可能性をも認める。
(二) 木村意見書は、(1)五十嵐鑑定書の所見によっても、頸部圧迫の原因までは特定できないから、頸部圧迫による窒息死とはいえても、扼殺と断定はできない、(2)同鑑定書添付の写真によれば、前頸部に、索条物による絞頸の際の索構とみられる帯状圧痕及びC3を上縁とし、C1を下縁とする淡黒色の帯状圧痕が認められ、これら索溝と判断される帯状圧痕二条の上下両縁に皺襞形成に伴う線状皮内出血と見られる紋様が認められることから、死因は絞頸であり、索溝は帯状の褪色部より成るので、軟いタオル等の使用が推定できるという。
(三)青木意見書は、(1)五十嵐鑑定書の添付写真によっては、その所見にいう前頸部の舌骨上部及び下部の手掌面大の皮下出血を確認できない、(2)同鑑定書の所見の舌前端部の挫創、甲状腺周囲の出血等は、扼殺に特有なものではなく、(3)顔面鬱血が軽度であることも、死因の決め手にはならない、(4)同鑑定書の所見によれば、前頸部外表に指圧痕や爪痕はなかったとされるが、手掌で圧迫して頸部の内部に変化が生じていながら、外表に変化がないことはほとんどあり得ない、(5)軟性索条物で絞頸した場合、外表に表皮剥脱や著明な索溝などの異常が出るとは限らないので、同鑑定書掲記のC1の生前創傷も、軟性索条物による索条痕と見るのが相当であり、(6)同鑑定書の所見にいう前頸部の上部の赤色線条痕は、一般に索条物による絞頸で時々見られる所見であり、絞頸により生じた皺に相当するが、扼殺の場合には皺は生じないし、死後にも生じにくい、(7)同鑑定書掲記の横走帯状の変色部の存在も、扼殺より絞殺の可能性が高いことを示している、というのである。
(四) 上山第一鑑定書は、(1)五十嵐鑑定書に添付の写真によれば、前頸部には中頸部を横走する幅広い褪色部(蒼白帯])が観察され、その上下の幅は、左前頸部において約二・五ないし三センチ、右側頸部において約一・五ないし一・八センチ前後であるところ(同C4の暗赤紫色部分の上縁の赤色線条群は、この蒼白帯]の中に形成されている。)、土中に長時間うつ伏せ状態で放置されていたのに、そここ死斑の出現が殆どないことから、かなりの圧力が加わったと認められ、また、索条痕、表皮剥脱が残されていないことから、軟性索条による圧迫があつたものと判断され(手指、手掌あるいは腕などで扼した場合には、このような形状の褪色帯は形成され難い。)、その直下に広範な出血が認められることなどから、生前に形成されたと判断される、(2)前頸部の二群の線条痕は、死体に纏絡していた木綿ロープや荒縄の走行角度や条幅、線条の間隔等がそれと符合しないことなどから、右ロープなどの圧迫で死後に印象されたものではなく、反膚の皺襞でもなく、軟性索条により蒼白帯Xと同時に生前形成されたと考えられ、(3)左前頸部に横走する同C1の暗赤紫色条痕も、蒼白帯]の形成とほぼ同時に、その形成に関与した軟性索条の上縁に相当する部位に沿って横走する皮内・皮下出血として惹起されたか、索条間出血の形で形成されたもので、これは絞頸の際に惹起する特徴の一つであり、(4)五十嵐鑑定が扼頸の根拠とした前頸部の二個の手掌一面大の皮下出血は、その存在部位や大きさが疑わしく、(5)これらのことから、本件は軟性索条による絞頸死で、蒼白帯Xは、その索条痕跡であると断定する。
(五)上山第二鑑定書は、検察官提出の平成四年一二月七日付「再審請求に対する意見書」の参考資料として添付された石山c夫作成の平成元年二月二三日付鑑定書に反論を加えながら、殺害方法等について上山第一鑑定書と同旨の見解を布衍するものである。
三 そこで検討する。
(一) 第一審で取調べ済みの司法警察員大野喜平作成の昭和三八年五月四日付実況見分調書(大野警部補作成実況見分調書。ただし、本実況見分調書は、二「現場の模様」の項中「更に機動隊員は」(調書四枚目表三行目)以下その項の終わりまで及び添付の写真一六号を除いて、証拠に採用されている。以下同じ)、第一審(第三回公判)及び確定判決審(第四四回公判)の証人大野喜平の各供述によれば、被害者の死体は、私有農地の中の狭い農道に縦約一・六六メートル、横約〇・八八五メートル、深さ約〇・八六メートルの穴を掘り、その底に、うつ伏せに置かれて埋め戻されてあったもので、タオルで目隠しされてその両端を後頭部で結ばれており、両手は手拭で後ろ手に縛られ、両足首も木綿細引き紐でしめられ、頸部には、木綿の細引き紐(太さ約〇・八センチ、長さ約一・四五メートル)の一端に蛇口を作り、他の一端をこれに通して輪を作ったものが絡めてあり、蛇口は後ろで緩くしめられていたことが認められるが、確定判決審の証人五十嵐勝爾の供述(特に、第五四回公判。確定判決審記録五七〇六丁)等も併せ見ると、五十嵐鑑定人が被害者の死体の外表検査と解剖を行い、死因を究明しようとするについては、発見時のこのような死体の状況についても、そのあらましを捜査官らから聞知していたものと認められる。そして、特に、頸部に細引き紐が一周して纏わり、絡んでいたという事態は、外見上、死因として絞頸を強く推量させるものであつたということができる。同鑑定人の行った頸部等の外表及び内景検査は、死体発掘の当日、被害者宅構内において、夜間、電灯の照明の下で行われたのであり、決して良好な条件・環境下に行われたものでないことは確かであるが、前記のような死体発見時の様子を聞知していた同鑑定人としては、絞頸の可能性をも十分念頭に置いたうえで、頸部の創傷や変色部分について生活反応を調べ、生前の索状痕跡、表皮剥脱等の微細な変化がないか慎重に見分し、検討したであろうことは、容易に察することができる。しかし、それにもかかわらず、同鑑定人は、外表観察と剖検の結果、前掲のとおり、生前に生成した複数の圧迫痕跡が前頸部に著明であるのに、生前に形成された索条痕、表皮剥脱は頸部のどこにも発見できず、頸部の赤色線条群には生活反応が認められなかったことなどから、索条物による絞頸死の可能性を否定し、死因は扼頸であると判断し、更に、その手段は、爪痕、指頭痕などが頸部表面に存在せず、前頸部の圧迫痕跡について境界が明瞭でないことなどから、手指ではなく、手掌、前膊、下肢、着衣などによる旨結論したのである。
(二) これに対して、所論援用の鑑定書、意見書は、いずれも五十嵐鑑定書の所見の記述及び添付の写真(全身像の二葉、陰部の一葉の計三葉のみカラー写真で、その余はすべて白黒写真であり、しかも前頸部の状態全般を示すのは、顎を上げて、皮膚面を体軸方向に伸展して撮影した第五号写真一葉のみである。)を主要資料にしているところ、五十嵐鑑定人が具に観察した皮下、皮内の出血の範囲、色調及び周辺部の輪郭、表皮の変色部の色調変化、その周辺部の輪郭、褪色部の色調、剥脱変化の模様等々の微妙な点についてまで、五十嵐鑑定書の記述あるいは添付写真の印影として、すべて的確に表現されているとは言い切れないことは自明であり、したがって、これらを基になされた請求人提出の鑑定書、意見書の判断は、その基礎資料において既に間接的・二次的であるという大きな制約を免れないといわなければならない。
(三) 以上の点を踏まえて検討する。
(1) 索条物による絞頸の痕跡の存在について
 所論援用の鑑定書、意見書は、死体の前頸部を横走する帯状の索条痕跡の存在を指摘し、これを索条による絞頸の痕跡であると判定し、軟性索条物を用いて絞頸した場合には、著明な索条痕、表皮剥脱が残らないことがあるから、五十嵐鑑定書の頸部所見とは矛盾しないというのである。
 しかし、索条物による絞頸死の場合、策条を頸部に一周させて緊縛するので、その圧力は前頸部、後頸部の区別なく、策条に接する皮膚組織に対してほぼ均等にかかるのであり、本件の場合、前頸部に横走状の暗赤紫色条痕、暗紫色条痕が生前形成されていることは、もしこれが、絞頸に伴って形成されたとすると(上山第一鑑定書は、これらの条痕の成因を、軟性索条の上縁に相当する部位に皮内ないし皮下出血したか、策条間出血したものと説明する。)、短時間に相当強い圧力が頸部全周に作用したことを示しているはずであるにもかかわらず、五十嵐鑑定書の所見によれば、後頸部には、索条の緊縛により生じたと認められるような異常変化(索条痕、表皮剥脱、皮下出血など)はなんら留めていないし、前頸部にも、同鑑定書掲記のほかに異常はなかったのである。このような同鑑定書の頸部所見にかんがみると、後頸部の皮膚には、前頸部に比して圧痕が付きにくく、また、幅広の軟性索条物の場合には表皮剥脱や著明な索条痕が生じないことがあり得るという一般論を前提とするにしても、本件を索条物による絞頸死と結論するのは、早計に過ぎるといわなければならない。
 上山第一、第二鑑定書は、前頸部を横走する幅広い褪色部(蒼白帯])は、扼頸による圧迫をもってしては形成され得ず、これは索条物による絞圧痕であるというのであり、中山・横田平成五年二月実験報告書もこれら鑑定書に沿う証拠であるが、本件死体が長時間、深さ数十センチの湿った土中にうつ伏せの姿勢で埋められ、不規則な凹凸のある底土と埋め戻された土との間で不均等に圧迫され、しかも頸部には細引き紐が一周していて、下顎部と前頸部との間に右の紐が挟み込まれていたという状況に徴すると、前頸部付近の表皮外側から内部に加わった圧迫は、前頸部の皮膚の皺襞の形成や細引き紐が前頸部に横走状に纏絡していたことなどの影響も加わって一様ではなく、圧迫の分布が、頸部の外表曲面、これに纏絡横走する紐に沿って変化し、不定形の帯状に死斑の出現を妨げて、褪色帯を形成したとみることができる。
 このような次第で、前掲五十嵐鑑定書の所見に照らして、これを索条による絞頸痕であるとすることには、納得し難い。
(2) 前頸部において斜走する赤色線条痕の成因について
 五十嵐鑑定書が、これら赤色線条痕は生活反応がないから死斑であると判定したのに対して、上山第一、第二鑑定書は、痕跡が赤色であるということは生前形成を強く示唆しており、索条物による絞頸に際して見られる現象であるというのである。しかし、頸部の所見上、本件を絞頸死と見ることに疑問があることは、先に検討したとおりであるうえに、確定判決審における五十嵐鑑定人の証言によれば、同鑑定人は、本件死体の創傷部位には、いちいちメスをいれて生活反応の有無を確認したというのであり(第五三回公判。確定判決審記録五六三一丁)、また、五十嵐鑑定書の所見に赤色とあつても、赤色と表現される色調には、実際上相当の幅があるのであるから、右色彩の記述をもって直ちにこれらの線条痕が生前に生成したと結論することが相当であるとは考え難い。先に述べた頸部に纏絡されていた細引き紐の状況にかんがみると、その縄目の凹凸が死班に出たとする五十嵐鑑定書の見方は納得できるというべきである。五十嵐鑑定書添付の第五号写真は、前頸部の皮膚面を体軸方向に伸展した状態を撮影したものであるから、そのような状況の下における線条痕の走行方向、縞模様の間隔を基に判断して、うつ伏せで下顎を引いた状態で頸部に纏絡していた細引き紐の死後圧痕の可能性を否定するのは当を得ない。
(3) 前頸部の手掌大の皮下出血について
 所論援用の鑑定書、意見書は、五十嵐鑑定書掲記の前頸部に二個の手掌大の皮下出血がある旨の所見を疑問視するのであるが、皮下出血の有無、大きさ等を五十嵐鑑定書添付の頸部の黒白写真から判定することには、大きな困難を伴うことは自明のことであるから、写真の上から、五十嵐鑑定書の所見どおりに皮下出血を確認することができなくても、そのこと自体は異とするに足りない。所論の鑑定書、意見書を検討しても、直接死体を具に見分した五十嵐鑑定人のこの点の所見に疑念を抱かせるまでのものとはいえない。
四 検討の結論
 このように検討してくると、所論の掲げる鑑定書、意見書、実験報告書をもってしても、本件を扼頸による窒息他殺と判定した五十嵐鑑定の証拠価値を揺るがすには足りず、確定判決が肯定した殺害方法についての事実認定に影響を及ぼすものではないというべきである。
 以上が当裁判所の判断の結論であるが、所論にかんがみなお検討してみるに、仮に、所論援用の鑑定書、意見書の判断のとおりに、軟性索条物による絞頸が行われ、それが被害者の窒息死に寄与したとしても、確定判決を維持すべきことについて、右の結論が変わるものではない。
 すなわち、まず、殺害方法に関する請求人の自白内容を見ると、捜査官に対しては、
a「自分の首に巻いていたタオルで夢中で善枝ちやんの首をしめてしまいました。騒がれたので私は夢中で首をしめたのですが始めは両手でしめその端を自分の右手で押さえ私の左手で善技ちやんのズロースを膝の辺りまでおろし(姦淫部分は省略)その時私は右手でずっとタオルの両端を持って首をしめていました。(昭和三十八年六月二十三日付司法警察員に対する供述調書。第一審記録二〇四〇丁)
b「私の右の手で善技ちやんの首を上から押えつけ左の手でジーパンのチャックを外し、(姦淫部分は省略)その時ずっと右手で善枝ちゃんの首を上から押さえつけていました。(中略)私はおまんこをするのに夢中で騒がれないように首をしめていて気がついたら死んでいたのです。」(同月二五日付司法警察員に対する供述調書。同記録二〇七六丁)、
c「私は声を出さないように右手の親指と外の四本の指を両方に広げて女学生の首に手の平が当たる様にし、声を出さない様に上から押さえました。」(同日付検察官に対する供述調書。同記録二一八八丁以下)、d「夢中で自分の右手で善枝ちゃんの首を上から押さえつけてしめながら善技ちゃんの身体の上へのって自分のズボンのチャックを左手で外し(姦淫部分は省略)私が首を押さえていた時間はおまんこをしようと思つて夢中だったからよくわからないが五分ぐらいかかつたと思います。私は夢中で力一ぱい押さえつけていたので善技ちやんが何時死んだかわかりません。(同月二九日付司法警察員に対する供述調書。同記録二一二六丁)、
e「右手で女学生の首を締め、声を出さない様にしました、首といってもあごに近い方ののどの所を手の平が当たる様にして上から押さえつけたわけです。」(同年七月一日付検察官に対する供述調書。同記録二二四〇丁)、
f「善枝ちやんが声を出して騒がない様に、前に云った様に、右手の親指と外の指を両方に開く様にして、手の平を善枝ちやんの侯に当てて、上から強く押さえました(中略)今考えると右手の肘を善技ちやんの胸から肩あたりに押しつけていた様な気がします。」(同月四日付検察官に対する供述調書、同記録二三一六丁)、
などと述べ、
 第一審公判廷では、公訴事実をすべて認めた(第一回公判調書)うえで、
g「縛りつけて時計や財布を取った後に強姦したのか」と問われて、「はい」と答え、「その際、被害者を殺すようなことになつたのか」と問われて、「はい」と答え、「この間の事情は警察や検察庁で述べたとおりか」と質されて、「はい」と答えている(第一〇回公判調書)。
 そして、第一審判決は、自白と五十嵐鑑定書など関係証拠から、「(被害者善枝が)救いを求めて大声を出したため、右手親指と人差し指の間で同女の喉頭部を押えつけたが、なおも大声で騒ぎたてようとしたので、遂に同女を死に致すかも知れないことを認識しつつあえて右手に一層力をこめて同女の喉頭部を強圧しながら強いて姦淫を遂げ、よって同女を窒息させた・・・」旨を認定した。
 右事実認定につき、弁護人が、確定判決審において、上田第一鑑定書を援用して被害者の死体の状況から推認される実際の殺害方法は、自白内容と明らかに異なり、このことは、自白が架空であって信用できないことを示していると主張したのに対して、確定判決は、詳細に検討を加え、上田第一鑑定書は五十嵐鑑定の結論を左右するに足りないと判示したうえで「被告人(請求人)は、捜査段階において、被害者を姦淫しながら右手の親指と他の四本の指とを広げて頸部を強圧した上いうのであるが、右鑑定の結果からは、扼頸の具体的方法についてまではこれを確定することはできない。しかしながら、被害者の死因が扼頸による窒息であることは前記のとおり疑いがないから死体の状況と被告人の自白との問に重要なそごがあるとは認められない。」と判示した。
 請求人は、捜査官に対して、殺害方法などにつき、自白の当初には、タオルで絞頸したと述べ(前掲a)、その後は一貫して、手掌で扼頸した旨述べ(前掲bないしf)、第一審公判廷においては、単に、捜査官に述べたとおりである旨を答えるにとどまった(前掲g)ことは、先に見たとおりであるが、前掲aからb以下への自白内容の変化がどのような事情から生じたのかについて、捜査当時あるいは第一審段階において、請求人に対して質された形跡はなく、その点についての請求人自身の説明も記録上残されていない。しかしながら、劣情に駆られて被害者を押し倒し、その抵抗を排除して姦淫するとともに、頸部を圧迫し、窒息させて殺害したという本件犯行の態様に照らし、犯行当時かなり興奮し、動揺していたであろうことは、察するに難くないのであり、捜査官の取調べに対して姦淫と殺害の犯行の一部始終をありのまま供述したとは考え難く、供述時に、多少とも記憶が混乱し、あるいは一部亡失し、またあるいは意識的に供述を端折るなど、供述内容に不正確な部分が生じているであろうことは、むしろ当然のことと考えられるのであつて、自白が実際の犯行の模様そのままをすべて物語っているとはいえない、といわなければならない。
 このように検討してくると、具体的殺害方法に関する前掲aの自白とbないしfの自白を吟味するにあたっては、いずれかが客観的事実に合致し、他は誤りであるという二者択一の関係にあると考えることは、必ずしも当を得ないというべきである。そこで、仮に、所論指摘の上山第一、第二鑑定書などの判断のとおり、前頸部の褪色帯が軟性索状物による圧迫痕であり、軟性の索条で絞頸が行われたと認めるべきものとしても、これは、所携のタオルで絞頸した旨述べた当初の自白内容(前掲a)とは符節が合うのであり、また、絞頸の後で、更に、手掌などで頸部を扼したと推認することも、死体の状況から無理なく可能であると認められ、自白(前掲bないしf)も存在するのであるから、請求人の自白内容が、死体の状況から推認される殺害方法ないしその態様と懸隔が甚だしく、あるいは矛盾を来たし、この点に関する自白が虚構であって信用できないということには、当然にはならないというべきである。前掲a以下の自白を通覧すると、当初から殺害を企図していたわけではなく、被害者の頸部を圧迫したきっかけは、被害者が声を出して騒ぐのを防ぎ、姦淫の犯行を容易にするためであったというのであるから、そのような目的に照らしても、たとえば、被害者を押し倒して姦淫しようとしたところ騒がれそうになったので、夢中で自分のタオルを被害者の頸部に巻き付け、両端を左右の手で持って絞め、声をたてるのを防ぎ、その途中でタオルから片手を離して下半身の着衣をゆるめるなどして姦淫行為を容易にし、残る片手でタオルの上から被害者の頸部を扼しているうちに窒息死させたという事態も、本件において十分想定され得ると考えられる。
 このような次第で、所論主張のとおりに軟性索状物による絞頸が行われた事実があったと仮定してみても、このことから直ちに、請求人が、殺害の方法ないし態様について自分の経験していない虚構の事実を自白したとはいえない。
 そして、右に検討した証拠に加えて、所論援用のその余の証拠も併せて、確定判決審の依拠した証拠と共に更に検討しても、請求人が被害者の頸部を扼し、窒息させて殺害した旨認定した第一審判決の事実認定を是認した確定判決を揺るがすには足りない。


第五 血痕等の痕跡の存否について
 所論は、新証拠として、@前記上田第二鑑定書、A前記上山第一鑑定書、B前記上山第二鑑定書、C弁護人中山武敏、同横田雄一作成の昭和五八年八月三日付報告書、D司法警察員福島英次作成の昭和三八年五月六日付実況見分調書、E司法警察員大谷木豊次郎作成の同年七月五日付実況見分調書、F昭和六〇年二月二二日衆議院法務委員会会議録第四号二三ないし二六頁写、G新聞記事写一三点、H静岡地裁昭和六一年五月二九日島田事件再審開始決定謄本九八、九九頁写、I佐藤武雄ほか「急激死亡人屍流動性血液に関する研究」信州大学紀要第三号七七〜一〇三頁写、J警察技師松田勝作成の昭和三八年七月五日付検査結果回答書、K証人上田政雄、L同木村康、M同青木利彦、N同上山滋太郎等を援用して、被害者の後頭部に形成された裂創からは多量の血液が流出滴下したはずであり、殺害現場や死体隠匿場所にこれが遺留されたはずであることが裏付けられるのに、請求人の自白した殺害現場(通称四本杉の付近)、死体隠匿場所である芋穴には、被害者の血液が遺留された痕跡は認められないから、殺害現場や死体隠匿場所等に関する請求人の自白内容は虚構であり、右自白を根拠に請求人を本件強盗強姦、強盗殺人等の犯人であると断定した確定判決の事実認定には、合理的な疑問のあることが明らかである、と主張する。なお、右のうち、@は、第一次再審請求審査手続にも提出され、判断されたものである。
 そこで検討する。
(一)五十嵐鑑定書、証人五十嵐勝爾の確定判決審における証言によれば、頭部所見として、(1)被害者の頭有髪部には、黒色頭毛を叢生し、その長さは、前頭部髪際において約一三センチであり、(2)後頭部に、生前に形成された頭皮損傷一個が存在し、その皮膚創口は柳葉状に開き、長さ約一・三センチ、幅約〇・四センチ、両創端は比較的尖鋭で、両創縁は共に正鋭―平滑ではなく、僅かに挫滅状を呈し、微少の凹凸をなし、創壁はやや不整、創洞内に架橋状組織片が顕著に介在しており、創底並びに創壁に凝血が存存し、創口周囲の皮膚面には著明な挫創を随伴せず、創洞の深さは頭皮内面に穿通せず、骨に達していないが、(3)右裂創に相当する頭蓋壁の部分に、母指頭大の頭皮下出血斑一個が存在する、というのである。
(二)所論援用の上山第一、第二鑑定書は、扼頸ないし絞頸による窒息死の場合には、頭部・顔面に多量の血液の鬱滞があるため、剖検時に頭皮の切断部及び頭蓋骨の鋸断部ならびに脳硬膜内の静脈洞の切断部から多量の血液を洩らし、顔面の鬱血、死斑の発現とも高度であるのが通例である旨、一般論を述べたうえで、五十嵐鑑定書が、「頭皮を横断開検した際、殆ど血液を洩らさず」「頭蓋骨を鋸断開検した際、殆ど血液を洩らさず」などと所見を記載する一方で、顔面の鬱血、死斑の発現ともにその程度が高いことを特記してはいないことをとらえて、本来ならば頭皮・顔面及び頭蓋骨内に鬱滞したはずの血液が、被害者の後頭部の裂創からかなり流出したことが想定され、仮に裂創の形成時期を死亡直前とすると、流出量は五〇ないし二〇〇ミリリットル前後と推定されるとし、上田第二鑑定書も、後頭部の裂創から、「かなりの血液が体外表や周囲環境等に落下したり附着する筈である」旨述べており、これらは、いずれも所論に沿う証拠であると認められる。
(三)しかしながら、五十嵐鑑定書の記載によれば、後頭部の本件裂創は、長さ約一・三センチで、創洞内に架橋状組織片が顕著に介在しており(すなわち、切断されない血管が残存している可能性を意味する。)、深さは頭皮内面に達しない程度のものであるところ、右鑑定人の死体検査に先立ち、死体発見直後にその状態を見分した大野喜平警部補の第一審及び確定判決審における各証言大野警部補作成の昭和三八年五月四日付実況見分調書にも、頭部を一周して後頭部で結ばれていた目隠しのタオルや被害者の着衣に血液が付着していたことを窺わせる供述ないし記述は認められず、添付の写真を見ても、その様子は窺われないのである。他方、右鑑定書によれば、前掲のとおり、被害者の頭部には毛髪が叢生し、その長さは前頭部髪際において約一三センチであるが、右鑑定書添付の頭部の写真を見ると、後頭部にもこれに近い長さの頭髪が密生していることが認められる。そこで、右裂創の創口からの出血は、頭皮、頭毛に附着し、滞留するうちに糊着し凝固して、まもなく出血も止まったという事態も十分あり得ることであって、一般に、頭皮の外傷では、他の部位の場合に比して出血量が多いことや、本件の場合、頭部圧迫による頭部の鬱血が生じたことなどを考慮に入れても、本件頭部裂創から多量の出血があって、相当量が周囲に滴下する事態が生じたはずであるとも断定し難い。したがって、自白により明らかにされた殺害場所、死体隠匿場所である芋穴に、被害者の出血の痕跡が確認できなくても、そのことから、直ちに自白内容が不自然であり、虚構である疑いがあるとはいえない。
 右に検討した証拠に加えて、所論援用のその余の証拠も併せて、確定判決審の依拠した証拠と共に総合検討しても、殺害現場や死体隠匿場所に関する請求人の自白の信用性、延いては確定判決の事実認定に疑いを生じさせるとはいえない。

第六 被害者の死亡時期ないし死体の埋没時期について
 確定判決は、昭和三八年五月一日午後三時五〇分ころ、請求人が被害者に出会って、四本杉に連れ込み、同所で強いて姦淫し、殺害して、午後九時ころ、農道に被害者の死体を埋めて遺棄した旨の第一審判決の認定を肯認しているところ、所論は、新証拠として、@五十嵐鑑定書、A法医学・栄養学関係文献抜粋写(赤石英著「臨床医のための法医学」二四〜三八頁、四方一郎・永野耐造編「現代の法医学」一二〜一八頁、三五頁、同第二版二三、二六、三五頁、矢田昭一ほか著「新基礎法医学・医事法」一〇〜二二頁、野崎幸久著「栄養生理学」一四〜一九頁、露木英男編著「栄養生化学」六九〜七二頁、速水泱著「栄養生理学提要」五四〜五七頁、岡田吉郎・井上仁「死体外表所見(角膜混濁・死斑・硬直)からの死後経過時間の推定」(科学警察研究所報告法科学編四一巻二号一六四〜一六七頁)、若杉長英著「法医学」第三版一三、一五、一九頁、同第四版一七〜二〇頁、塩野寛著「臨床医のための最新法医学マニュアル」二九〜四四頁、勾坂馨編「TEXT法医学」一一〜一八頁、何川凉著「法医学」二一〜二四、三五頁、富田功一・上山滋太郎編「標準法医学・医事法制」第二版一九〇、一九六、一九七頁、松倉豊治編「法医学」第三版三六、四七、四八頁、船尾忠孝ほか著「臨床医のための法医学」第二版二五、二七、三〇頁、永田武明・原三郎編「学生のための法医学」第三版一七ないし一九、二一、二二、二七頁、高津光洋著「検死ハンドブック」二九、三〇、三六、三七、四二、四七頁、高取健彦「エッセンシヤル法医学」第三版三五、三九、五〇、五一頁、石山c夫編著「現代の法医学」六〜九頁)、B鈴木要之助の昭和三八年五月四日付司法警察員に対する供述調書(鈴木員面)、C同人の同年七月五日付検察官に対する供述調書(鈴木検面)、D新井千吉の同月二日付検察官に対する供述調書(新井検面)、E狭山市祇園**番所在の土地に関する不動産登記簿謄本、F証人上田政雄、G同木村康等を援用して、(1)本件死体の死後経過日数は、五十嵐鑑定書記載の角膜の混濁の度合い、死斑の出現の具合、死後硬直等々の早期死体現象の所見より推定すると、昭和三八年五月四日午後七時から午後九時にかけて行われた五十嵐鑑定人の剖検の時点から遡ること二日以内であることが明らかであるから、被害者が殺害され、農道に埋められたのは同月二日以降であつて、同月一日に殺害されてその日のうちに埋められたことはあり得ない、また、(2)被害者の死体の胃内容物、その消化の度合いなどから推定される、生前最後の食事摂取時から死亡時までの経過時間は、約二時間以内と認められるところ、被害者が同年五月一日午前中に調理の実習で作ったカレーライスの昼食が生前最後の摂食とすると、被害者は、それから二時間以内、すなわち、下校前に死亡したことになり、被害者が実際に下校した時間と矛盾を来すから、殺害されたのは、昼食後に更に摂食して後であったと認められる、(3)この二つの推定経過時間を併せ見ると、五月一日午後に被害者を殺害し、その日の夜に死体を埋めた旨の自白は虚偽であって、事実として成立し得ないことが明らかであり、原判決は、このような虚偽自白と五十嵐鑑定人の誤った鑑定に依拠して、第一審判決の事実認定を是認したもので、請求人の無罪は明らかである、というのである。なお、所論が他の論点につき援用する前記上田第二鑑定書及び木村意見書でも、五十嵐鑑定書の所見を踏まえて、摂食時から死亡までの経過時間につき、前者は、自己の解剖例なども参考にしたうえ、「食事後二時間くらい」と、後者は、「食後約二時間前後」と、それぞれ推定意見が述べられている。また、請求人は、石十嵐鑑定書を殺害の犯行日時に関する新証拠に挙げるが(平成四年九月二九日付事実取調請求書)、右は、確定判決が是認した第一審判決の事実認定において、殺害日時の認定に用いられた証拠であり、所論が別の趣旨で新証拠として提出するのであれば格別、そうでない以上、刑訴法四三五条六号にいう新らたに発見した証拠とは言えない(もっとも、請求人提出の石十嵐鑑定書写の表紙には、「参考」と朱書されていることからすると、単に、資料として提出したとも解されるが、いずれにせよ新証拠ではない。)。
 そこで検討する。
(一)五十嵐鑑定は、昭和三八年五月四日午後七時ころから午後九時ころにかけて実施した剖検により認められた外表所見(死斑の発現状況、死後硬直の状態、角膜混濁の状況等)、内景所見(筋肉、内臓等の緩解状態)、死因等のほか、気温、死体保存状況等の全体的所見から、鑑定人の経験に徴して、剖検時までの死後経過日数を「ほぼ二〜三日位と一応推定」したものである。
 所論は、これに対し、その援用する証拠と確定判決審の証拠を併せ見ると、剖検時までの死後経過時間は、長くても二日間以内であると主張するのであるが、死体現象の変化は様々な条件によって左右され、死後の経過時間を日単位で何日間と確定することは困難であり、その推定には相当の幅を持たせることにならざるを得ないことは、所論援用の文献も認めるところであって(前掲塩野三〇頁、勾坂一八頁、若杉第四版二〇頁、何川三五頁、富田・上山一九六頁、船尾三〇頁等)、所論にかんがみ検討しても、五十嵐鑑定の死後の推定経過日数の判定が疑わしいとするいわれはない。
(二)五十嵐鑑定の食事後死亡までの経過時間に関する判定は、剖検時、胃腔内には、消化した澱粉質のなかに馬鈴薯、茄子、玉葱、人参、トマト、小豆、菜、米飯粒等の半消化物が識別される軟粥様半流動性内容約二五〇ミリリットルが、十二指腸内及び空腸内には、微褐淡黄色半流動性内容極少量が、回腸内には、黄緑色軟粥様内容と共に小豆の皮少しが、それぞれ残存していたことなど、その胃内容並びに腸内容の消化状態及び通過状態の観察結果から考察して、「最後の摂食時より死亡時までには最短三時間は経過せるものと推定する。」とするのである。
 五十嵐鑑定書が認めた胃の半消化物のうち、小豆は、五月一日の朝食に自宅で摂つた赤飯の中の小豆が消化しないで残っていたもの、トマトは昼食時にカレーライスと一緒に摂ったもの、その余は、調理の実習で作った昼食のカレーライスの具と米飯と考えられるのであって、関係証拠に明らかな被害者の朝、昼の食事内容に照らしても、五十嵐鑑定に格別不自然あるいは不審な点は見当たらない。所論は、カレーライスには肉類が使われているはずのところ、胃の内容物に肉片が認められなかった点を問題にするが、被害者が食べたカレーライスに肉片が入っていたとしても、それがどの程度の大きさのものであったかは、判然としないのであるから、肉片が胃内に発見されなかったことをもって、胃の内容物が昼食のカレーライスではないと断定するのは相当でない。また、医学常識として、肉類は胃液中の消化酵素の作用により、死後もある程度分解消化されることも考えられるから、右の点は格別異とするに足りないというべきである。
 所論は、本件の場合、胃腸の内容物、その消化具合などに照らし、最後の食事から死亡まで、約二時間以内しか経過していないはずであると主張し、五十嵐鑑定を誤りと断定するのであるが、食物の胃腸内での滞留時間や消化の進行は、食物の量や質、咀嚼の程度などによって一様ではなく、個人差もあり、更には精神的緊張状態の影響もあり得るのであって、胃腸内に残存する食物の種類や量、その消化状態から摂食後の経過時間を推定するには、明確な判断基準が定立されているわけでもなく、種々の条件を考慮しなければならないのであるから、幅を持たせたおよそのことしか判定できないことは、所論援用の文献も認めているのである(前掲勾坂一八頁、高取五一頁等)。死体剖検の際に、胃腸の内容物を直接視認して検査した五十嵐鑑定人が、「摂食後三時間以上経過」と判定したものを、五十嵐鑑定書記載の所見を基に、一般論を適用して、「摂食後二時間以下の経過」と断定し、五十嵐鑑定の誤判定を言うことが、当を得ないことは明らかである。所論援用の証拠や上田第二鑑定書、木村意見書を確定判決審の証拠に併せ検討しても、最終の摂食から死亡までの経過時間につき五十嵐鑑定書の判定に疑義があるとは言えない。
(三)次に、埋没時期についてみるに、第一審証人鈴木要之助は、「昭和三八年五月一日は、荒神様の祭りで終日休養し、二日の朝、自分の畑へごぼうの種まきに行った際、隣地の新井千吉所有の畑の幅六尺くらいの農道上に大きく土を掘って埋め戻し平らにならした跡があるのに気付き、犬か猫でも埋めたのかなと思って、二、三回そこを通った、翌三日の朝、ラジオで堀兼の女子高生が行方不明である旨聴いたが、麦畑の草取りに行った際、またその現場へ行って考えてみたけれども、他人の畑の農道なので掘って調べることまではしなかった、その翌日の四日にも現場近くの畑へ農作業に出かけたが、午前一〇時ころ、付近を捜索しながら近づいて来た警防団や警察の者が、右農道の異状に気付き、自分が貸したおかめという草掻きの道具で掘ったところ、被害者の死体が出てきたので驚いた」旨を供述しており(第三回公判)、右は、消防団員として捜査活動に協力し、死体発掘現場に居合わせた証人橋本喜一郎の証言(同第三回公判)ともよく符節が合うのであって、右鈴木が殊更虚偽の証言をしたとは考え難く、右供述に不審の廉は窺われない。
 所論は、右鈴木が、前記証言に先立って捜査官に供述した鈴木員面及び鈴木検面の中で、「五月二日、入間川本里**番地の自分の畑へ行ったのは、農協で開かれた総会が午前九時四〇分ころ終了した後で、ごぼうの種を播いた。」旨供述している点をとらえて、(1)農家は早朝から農作業に多忙なのが通常であるから、朝のうちに農協総会を開くことなどあり得ない、(2)播種は好天のときに行うものであるから、前日は本降りの雨天、二日当日朝も曇天であったのに、ごぼうの播種をしたというのは不自然であり、(3)隣地の持ち主であるA・Sの供述調書(A検面)には、ごぼうの播種のことはまったく触れられていない、(4)五月四日撮影の航空写真(平成四年一一月二四日付再審請求補充書添付)によれば、鈴木、新井それぞれの畑に、ごぼうを播種した事跡が見当たらないなどと主張し、右鈴木員面、鈴木検面はいずれも信用できず、延いては、鈴木の第一審証言もまた内容が虚偽であることが裏付けられるというのである。
 しかしながら、農協の総会を朝のうちに行うことや、ごぼうを雨降りの翌日に播種することがあり得ないこととはいえない。また、新井検面にごぼうの播種のことが触れられていないからといって、新井が播種を行わなかったとは言えないのであって、同人は、第一審公判で証言して、「ごぼうは、毎年多少は作った。今年も一段ぐらい作ってあったと思う。播種は四月二〇日ころではなかったかと思うが、すでに五月四日には生えていた。」旨述べており(第三回公判)、この証言内容と、鈴木が第一審第三回公判で、弁護人からの反対質問に対して述べた内容、すなわち、「(ごぼうを)自分の畑のわずかなところへ播き、そこまで行ったら、ちょうど新井千吉さんのすぐの畑で五月二日にごぼうが生えていた。それで、わたしは、新井さんのところでは、今年はずいぶん早く播種したなと思って、畑を見ながら六尺幅の農道まで出た。それで東を見ると、(農道の)泥が白く乾きかかっていた。もう十時ぐらいになっていたから、新井さんがもう来てきれいにして帰ったのかなと思って、そばに行ってみた。」という供述(第一審記録四五五丁裏から四五六丁裏)とは、よく符合するのである。したがって、鈴木が五月二日の朝、ごぼうの播種作業をしたとき、隣地の新井所有の畑の農道に掘り返した跡があるのを見付け不審を抱いたこと、そして、同月四日午前一〇時ころ、その場所を捜索に当たっていた消防団員らが掘ったところ、被害者の死体が発見されたことは、疑う余地のない事実と認められる。所論援用の航空写真をもって、鈴木、新井両名の畑にごぼうの播種の事跡がないと認めることはできない。 このような次第で、所論援用の証拠と確定判決審の関係証拠を併せ検討しても、鈴木要之助の前記証言が真実に反し、虚偽であるとはいえない。
(四)そうしてみると、所論指摘の証拠は、これらを確定判決審の証拠と併せ見ても、被害者の殺害が五月二日以降に行われた可能性を裏付けるものではなく、第一審判決の事実認定を是認した確定判決に、合理的な疑いを生じさせるものとは言えないことは、明らかである。

第七 犯行に使われた手拭について
一 本件犯行で被害者の両手首を縛るのに使用された手拭一本(浦和地裁前同押号の一一、本件手拭)は、狭山市峯所在の五十子米店(店主五十子貞作)が昭和三八年正月の年賀用に注文して用意し、得意先に配った手拭(昭和三八年度手拭)一六五本のうちの一本であることが、関係証拠から判明しているが、確定判決は、得意先として昭和三八年度手拭一本を貰った請求人方から同年度手拭一本が捜査当局に任意提出されていることを前提にしつつ、捜査当局が回収に努めても行方が確認できないで終わった昭和三八年度手拭の配布先の中に、請求人の姉婿石川仙吉方(配布された二本のうち任意提出された一本を除く、その余の一本)と請求人方の隣家である水村しも方(一本)が含まれていることを認定して、「(被告人方の)家人が工作した疑いが濃い。被告人が五十子米屋の手拭を入手し得る立場にあったことを否定する事情は認められない。」「(本件)手拭一枚も五月一日の朝被告人方にあったと認めて差し支えなく、したがってこれも自白を離れた情況証拠の一つとして挙げるのが相当である。」と判示した。
二 これに対して、所論は、五十子米店から昭和三八年度手拭一本を年賀に貰った請求人方から、同年度手拭一本が捜査当局に任意提出されたことによって、本件手拭が請求人方に配られた手拭ではなく、請求人が本件に関与していないことが明らかであると主張するとともに、@五十子貞作作成の手拭配布先に関する便箋メモ四枚(東京高検昭和四一年領第一七号の五六ないし五九、五十子貞作メモ)とその検証、A五十子米店の得意先から回収され東京高検で保管中の手拭一五四本(東京高検右同領号)とその検証、B石川仙吉作成の昭和三八年五月二二日付狭山警察署長宛上申書(石川仙吉上申書)、C水村しもの同月二四日付司法警察員に対する供述調書(水村員面)、D弁護人横田雄一作成の昭和五四年六月三日付手拭一五四本及び五十子メモに関する調査報告書等により、昭和三八年度手拭一六五本のうち、請求人の姉婿石川仙吉方へ配布されたのは二本ではなくて一本であり、隣家である水村しも方にはまったく配布されなかったことが裏付けられ、石川仙吉方が同年度手拭一本を捜査当局へ任意提出したことで、石川仙吉方及び水村しも方いずれにも、提出洩れの昭和三八年度手拭は存在しないことが明らかであり、したがって、右の両家から同年度手拭各一本がそれぞれ未回収のままであるという前提事実は否定されるから、請求人方の家人が、捜査当局に、昭和三八年の年賀に配られた手拭であるとして任意提出した昭和三八年度手拭一本は、石川仙吉方へ配布され未回収の一本、あるいは、隣家水村しも方へ配布され未回収の一本のいずれかを調達して、これを請求人方に配られた手拭であるかのように装って提出した疑いがあるとして、この点を、本件犯行と請求人とを結びつける情況証拠の一つとして挙げる確定判決の事実認定には、合理的な疑問があることが明らかになった、と主張する。
三 検討するに、確定判決審の関係証拠に、上告審において弁護人が提出した昭和五二年四月二六日付上告趣意補充書の添付資料である五十子貞作の昭和三八年六月一七日付、同月一九日付、同月二六日付検察官に対する各供述調書写(順に、貞作一七日検面、貞作一九日検面、貞作二六日検面)、五十子清の同月一九日付検察官に対する供述調書写(清検面)、第一次再審議求審査手続において検察官提出の昭和五四年一〇月九日付追加意見書及び同月二二日付「追加意見書添付の疎明資料の一部訂正等について」と題する書面の各添付資料である各任意提出書写、証拠金品総目録写、検察官瀧澤直人作成の昭和三八年六月二七日付捜査報告書写(なお、これは前掲上告趣意補充書の添付資料として弁護人からも提出されている。)を併せ見ると、
(1)五十子米店が昭和三八年正月に年賀の手拭を配ったのは、いずれも狭山市内の得意先であって、店主の女婿五十子清が予め便箋四枚に地域別に列挙した得意先名を、店主が点検して記載洩れの得意先名を書き加え、手拭を二本配布する得意先六世帯には氏名のうえに「2」と、そのほかにタオルも一緒に配布する得意先の氏名には「〇」と特に記入し(Iメモ)、このメモにしたがって、配布先一六八世帯の大部分を清が、その余の何軒かを店主とその妻が、それぞれ手分けして一月五日から七日までの三日間で年賀の挨拶に回って手拭を配ったこと、
(2)年賀の手拭を配るに当たっては、まず昭和三八年度手拭一六五本全部を充てた後、それで不足の分について、昭和三七年正月の年賀用に作った手拭(昭和三七年度手拭)の配り残りで保存してあった一五、六木のうちから充てたこと(なお、右両年度の手拭は、同じ色柄であるが、昭和三八年度手拭の柄の一部には、染抜きの微細な欠損があるので、両者は識別可能である。)、
(3)捜査当局では、犯行に使われた本件手拭の出処を特定するため、昭和三八年度手拭の回収に努め、結局、全部で一六五木配布されたうちの一五四本を回収保管中であるところ、栗原段次郎方及び溝呂木三二方に配布の各一本は、いずれも現に着物裏などに使用中であることが確認されているから、この二本を加えて、計一五六本については所在が明らかで、そのうち一本(前掲証拠金品総目録符号三二三。中島のぶ又は渡辺清司のいずれかに配布されたものと認められるが、特定はできない。)を除いては、配布先も明らかであり、したがって、配布先の明らかでない昭和三八年度手拭は、一〇本であること、
が認められる。
 ところで、確定判決が同題とする水村しも方と石川仙吉方に昭和三八年度手拭が配られたか否かについては、右両名とも事実を否定しているのであるが(水村員面、石川仙吉上申書)、前記貞作一七日検面、水村員面によれば、水村方が五十子米店の得意先であって、昭和三七年暮にも正月用の餅一斗を購入していること、五十子メモ等によれば、右メモに昭和三八年度手拭一本の配布先としてその氏名が記載がなされ、配布済みを示す「∨」印が付されていること、清検面によれば、同人は年賀二日目である昭和三八年一月六日ころ、水村方を訪ねて、年賀の手拭一本を水村しも本人に手渡したと明言していることなどから判断して、水村しも方に年賀の手拭を配り落としたということは、考え難いことのように思われる。また、五十子メモ中で、昭和三八年度手拭を二本宛配布すべき得意先の一つとして石川仙吉の氏名の上にペン書きで「2」と記載されており、 水村の場合と同様、その氏名には配布済みを示す「∨」印が付されていること、そして、清検面によれば、水村に配ったと同じ一月六日、年賀の手拭二本を持って石川仙吉方を訪ね、奥さんに渡してきたと述べていることなどからみて、五十子清が石川仙吉方に同年度手続を二本配ったということは、肯定できると考えられる。なお、所論は、五十子メモが捜査当局の都合のよいように改竄された疑いをも主張するが、所論指摘の関係資料を検討しても、そのような事跡は認め難い。
 このような次第で、所論指摘の証拠を検討し、確定判決審の関係証拠と併せ見ても、請求人方に配布された昭和三八年度手続一本に見合う手拭が捜査当局へ任意提出されて回収はされているけれども、水村しも方へ昭和三八年度手拭一本、石川仙吉方へ同年度手拭二本が配られ、前者及び後者のうちの一本がいずれも未回収のままその所在が明らかではない疑いがあり、この両家と隣人ないし近い親族として日頃から親しかった請求人方では、請求人方に配布された昭和三八年度手拭一本のほかに、右水村方あるいは石川仙吉方から同年度の手拭を入手し得る立場にあったと認めた確定判決に、合理的な疑いがあるとはいえず、所論援用の証拠が確定判決の事実認定に影響を及ぼすとは認め難い。

第八 殺害現場付近で農作業中の者の存在について
一 確定判決は、被害者が昭和三八年五月一日の午後三時五〇分ころ、加佐志街道のエックス型十字路に差し掛かったとする第一審判決の認定を肯定したうえで、殺害時刻を午後四時ないし四時半ころ、殺害場所を通称四本杉の雑木林と認定判示するところ、所論は、新証拠として、@司法巡査水村菊二ほか作成の昭和三八年五月三〇日付、同月三一日付、同年六月二日付、同月四日付各捜査報告書(水村巡査ほか報告書)、A小名木武の司法警察員に対する同年六月四日付、同月六日付、検察官に対する同月二七日付、弁護人に対する昭和五六年一〇月一八日付、昭和六〇年一〇月一八日付各供述調書(小名木員面・検面・弁面)、B弁護人中山武敏、同横田雄一作成の昭和五六年一〇月二八日付現場検証報告書(中山・横田現場検証報告書)、C内田雄造ほか作成の昭和五七年一〇月一二日付鑑定書(第一次識別鑑定書)、D安岡正人ほか作成の同月九日付鑑定書(悲鳴鑑定書)、D弁護人横田雄一作成の同年四月二八日付、同年五月二九日付、同月三一日付各調査報告書(横田現場調査報告書)、F弁護人中山武敏、同横田雄一作成の同年九月三〇日付悲鳴の到達範囲に関する実験報告書(中山・横田悲鳴実験報告書)、G内田雄造作成の昭和六一年七月二〇日付鑑定書(第二次識別鑑定書、H昭和三八年五月四日撮影の航空写真、I証人小名木武、J同安岡正人、K同内田雄造及びL小名木武が農作業した桑畑付近、殺害現場とされる雑木林の現場検証等を援用して、確定判決が認定した殺害時刻を含む時間帯には、小名木武が、殺害現場と認定された通称四本杉から至近距離にある桑畑で除草剤の撒布作業をしていたから、当時の右雑木林の樹木、下草の刈り込み状況、桑畑の生育状況等から推認される現場の見通し、右小名木の農作業地点までの距離関係などに照らして、もし本件の姦淫と殺害が、確定判決判示の時と場所で行われたとすると、当然、同人は、犯人と被害者の存在に気付いたはずであり、犯人と被害者の側でも、作業中の小名木の姿を至近距離で認識したはずであると認められ、このような場所で易々と強姦、殺人の犯行が行われたとは考え難いところ、小名木は、雑木林にいる犯人と被害者に気付かず、また、被害者が上げたとされる悲鳴にも気付いていないのであるから、請求人の「通称四本杉の雑木林内で被害者を姦淫し殺したが、その際、被害者が悲鳴を上げた」旨の自白は、右小名木認識と合致せず、内容虚偽であることは明らかであり、このような虚偽の自白に大きく依拠して請求人を本件強盗強姦、強盗殺人の犯人であると断定した確定判決の事実認定が誤りであることが明らかになった、というのである。
二 そこで検討する。
(1) 水村巡査ほか報告書、小名木員面及び検面は、付近住民に対する聞き込み捜査過程において、昭和三八年五月一日の本件強姦、殺人の犯行当日の午後、四本杉の雑木林西側の約一反歩の桑畑(本件桑畑)で農作業をしていたことが明らかになった小名木武(農業、当時三四歳)から、同月末から六月にかけて事情聴取した結果であって、その大要は、「五月一日の午後二時前ころ、死体埋没現場東方約一〇〇メートルの地点にある桑畑に着き、除草剤約四斗を積んだ軽三輪自動車を桑畑東側の山林端に停め、午後四時半ころまで、一人で噴霧器(約四升入り)を背負って除草剤を撒布し、その間、除草剤補給のため桑畑と車の間を約一〇回くらい往復した、午後三時半ころから四時ころの間に、声の方向や男女の別などは分からないが、誰かが呼ぶような声が聞こえ、直感で親戚に立ち寄っている妻がお茶を持って来る途中で誰かに襲われたような感じがしたので、思わず親戚の家の方向を見たが人影はなかった、よほど行ってみようかと思案して仕事の手を休めたが、雨も少し降っていたことでもあり、そのまま急いで作業を続けるうちに、用意した除草剤が切れてしまったので、午後四時半ころ作業を打ち切り、妻の立ち寄り先の親戚へ向かった、右作業現場の西側の見通しはよいが、その他の方向の視界は雑木林に遮られて悪く、特に東側の旭住宅団地より南に通ずる道路は低いため、桑畑から通行人の姿を見ることはできない、その後、五月五日ころ、手伝いに行った大工の堀越万吉方で事件のことが話題になり、その際、自分が同月一日に桑畑で耳にした声のことを思い出して、「変な声を聞いた」旨話すと、同人の兄から、あまり人に言わない方がよいと言われたことがあった」などというものである。
 小名木弁面二通は、弁獲人が小名木に、昭和五六年一〇月六日と昭和六〇年一〇月一八日の二回にわたり、昭和三八年五月一日午後の除草剤撒布作業中の出来事について供述を求めてその内容を録取したものであるが、農作業中に聞いた声に関して、員面、検面と相違し、あるいはこれらに述べられていない主要な点は、「除草剤撒布作業中に聞こえた声は、ホーイともオーイとも取れ、誰か何か言ったかなと思うような気がした、確かに人の声だったが、はっきりした悲鳴とか、救助を求めるとかいうようなものではなかった、いつも来る山の方を見たが誰も来なかったので、作業を続けた、昭和三八年六月二七日付の検察官に対する供述調書に、一〇〇メートルくらい離れたところで声を聞いた旨の記載がある由だが、自分はそれは言わなかったと思う、女の悲鳴のようだとも言っていない」(第一回分)、「昭和三八年五月末ころ、警察官が聞き込みに来て、作業中に人の声を聞かなかったかと尋ねるので、誰かが何か言ったかなぁという気がしたということを話したが、それは悲鳴ではなく、人が襲われたようなものでもなかったから、周囲を見回したり、付近を探したりはしなかったし、警察が聞き込みに来るまで、まったく気に留めていなかった、自分が農作業をしていた桑畑とその東側の、犯行があったとされる雑木林相互の見通しは悪くなく、両者の境界付近から雑木林の真ん中辺りまでは見通せる状況であった、右雑木林で事件が起こったような状況は全くなかった」(第二回分)などというものである。
 次に中山・横田現場検証報告書は、昭和五六年一〇月に、四本杉のある雑木林と本件桑畑(検証時はローラースケート場)との位置関係、距離、見通し状況等の検証をしたもの、横田現場調査報告書三通は、昭和五七年四月末から同年五月末にかけて、弁護人が現場付近の雑木林の所有者やその家族、小名木と面談して調査した結果、事件当時、四本杉西側、東側の雑木林の下草は、毎年正月前後に刈り取られていたから、下草が雑木林内の見通しや音の伝播に影響することはなかったこと、桑畑の南側は、事件当時、樹齢約二〇年の松林であり、雑木は最高でも樹齢一八年位のものが生えており、林内のかやは日照が悪いため、五月でも余り伸びていなかったこと、小名木は、本件当時、聴力、視力とも正常で、眼鏡は使用せず、カーキ色か白っぽい色の帽子、白シャツの上に中間色のセーターを重ね、作業ズボンを着用していたことが判明したというもの、第一次識別鑑定書は、昭和五七年五月一日と六月一日に、時刻、天候、雑木林と桑畑の状態、犯人、被害者及び小名木の服装等所与の条件をととのえて、雑木林の犯行現場と農作業中の小名木の位置等の相互の見通し状況を現場で再現し調査したもの、第二次識別鑑定書は、自衝隊入間基地や気象庁の気象資料、関係者の供述をもとに、事件当日の午後四時から四時三〇分の時間帯を中心に気象状況を調査するとともに、昭和六一年四月二六日から二八日まで、現地で照度測定と人物認知状況の再確認を行い、同年五月一日には、樹木の繁茂状況の確認を行って、第一次識別鑑定の識別実験について再検討した結果、事件当日の午後四時から四時三〇分にかけて、桑畑の小名木の位置、犯人が被害者を縛ったとされる雑木林の松の木の位置は、いずれも十分な明視環境にあったこと、犯人と被害者は、小名木が駐車しておいた自動三輪車、農作業中の同人の姿を当然に認知したはずであり、また小名木も、犯人と被害者の会話、悲鳴を耳にするなどして、視線を林内の発声源近傍に向けた場合には、犯人と被害者を認知したはずであることが判明したというものであり、悲鳴鑑定書は、昭和五七年五月一日に、犯行現場とされる地点において、予めスタジオで録音した男女の話声や女性の悲鳴等をスピーカーで再生したもの、あるいは女性の実験補助者の発した肉声の悲鳴を音源とし、右各音源からの音圧レベル等を本件桑畑(実験時はローラースケート場)で測定するとともに、聴取実験を行い、また、別に農作業、手押し噴霧器、自動車等の発する音を調査した結果、被害者の悲鳴音は、本件桑畑のどの位置からでも知覚し得ること、小名木の自動車の発進音、除草剤噴霧器の発する騒音も、犯人が強度の興奮状態になければ、犯人において十分認識できることが判明したというもの、中山・横田悲鳴関係実験報告書は、悲鳴鑑定に付随して、前同日の午後一時から午後一時三〇分の時点で、犯行現場とされる雑木林内の杉の木の位置に悲鳴の音源を置いたとき、暗騒音の低いところでは、二〇〇メートル離れていても聴取可能なことが判明したというものである。
(二) 所論は、犯行現場とされる雑木林の近くで農作業をしていた小名木武の認識内容と自白内容が合致せず、自白の虚偽が明らかになったというのであるが、水村巡査ほか報告書に記載された小名木からの聞き取り内容、小名木員面、検面と小名木弁面とを比較すると、小名木は、農作業中に聞いた人の声に関し、捜査官に対して、大要、「桑畑で除草剤撒布中、午後三時半から四時ころの間に、声の方向や男女の別などは分からないが、誰かが呼ぶような声が聞こえ、直感で親戚に立ち寄っている妻がお茶を持って来る途中で誰かに襲われたような感じがしたので、思わず親戚の家の方向を見たが人影はなかった、よほど行ってみようかと思案して仕事の手を休めたが、雨も少し降っていたことでもあり、そのまま急いで作業を続けた」旨述べているのに対して、右弁面二通では、前掲のとおり、作業中に聞いた声は、極めて漠然とした、印象の薄いものであったように述べており、人の声を聞いたことでは共通するものの、この人声がどのようなものであり、これをどのように受け止めたかという点では、大きく相違している。この点、昭和三八年五月四日に、狭山市入間川**番地所在の畑の農道に埋められている被害者の死体が発見され、同月二三日に請求人が逮捕されて身柄を拘束されたが、殺害場所などについて自白を始めたのは、同年六月二〇日以降のことであって、それまでは、殺害に至る経緯、殺害場所などについて、捜査官は、まったく把握していなかったのであるから、小名木から事情を聴取するにあたって、殊更な誘導を行って同人の供述を歪めたなどということは考え難く、また、小名木の側においても、虚偽を述べ、あるいは誇張して供述したとも考えられない。そして、請求人が自白を始めた後に、更に小名木の供述を求めて作成された小名木検面(同年六月二七日付)の記載内容も、自白前に作成された前掲の水村巡査ほか報告書や小名木員面と実質的な違いは認められないのである。このように見てくると、本件桑畑で除草剤撒布作業をしてから一、二か月しか経っていない、記憶の新鮮な時期になされた小名木の捜査官に対する前掲の供述内容、就中、員面の内容は、十分信用に価するということができる。これに対して、弁面二通は、殊更に虚偽を述べたとは考えられないけれども、事件からそれぞれ一八年、二二年の歳月を経てから、求めにより、当時を思い起こして供述したものであり、前記捜査官に対する供述に比して、より正確であるとは認め難いものといわなければならない。
 このように、小名木の捜査官に対する供述内容は、信用できると認められるのであり、「桑畑で除草剤を撒布中、午後三時半から四時ころの間に、声の方向や男女の別などは分からないが、誰かが呼ぶような声が聞こえ、直感で親戚に立ち寄っている妻がお茶を持ってくる途中で誰かに襲われたような感じがしたので、思わず親戚の家の方向を見たが人影はなかった」旨の経験事実の供述は、強姦とそれに引き続く殺害に関する請求人の自白に沿うものと見ることができるのであって、これと相容れないものではない。
(三) 所論は、中山・横田現場検証報告書、横田現場調査報告書、第一次、第二次識別鑑定書、悲鳴鑑定書、中山・横田悲鳴実験報告書等により明らかにされた事件当日午後四時から四時半ころの現場の明るさ、天候、四本杉付近と本件桑畑との間の見通し状況、人の声の伝播状況、更には小名木の聴力、視力、着用していた衣服の色彩等の調査結果から、もし本件の姦淫と殺害が、自白どおりの時と場所で行われたとすると、当然、小名木は、犯人と被害者に気付いたはずであり、犯人と被害者の側でも、小名木の姿を認識したはずであって、このような状況の下で強姦、殺人の犯行が行われたことはあり得ず、また、犯行が行われたとすれば、小名木が被害者の悲鳴をはっきり聞き取らなかったはずはないと主張する。
 しかしながら、所論援用の小名木員面、検面及び確定判決蕃の関係証拠によれば、事件当時、四本杉のある雑木林の周辺一帯はほぼ平坦で、桑、麦、野菜などの畑の中に、これより僅か高く、入りくねった不定形の雑木林が散在しており、人家の集落からは程遠く、当日午後二時ころ小雨が降り出し、いったん降り止んだ後、午後三時半ころから再び降り出し、その後本降りになったことが認められる。現場は、こうした地形、地表の状況、降雨の影響等から、音が拡散し、減弱しやすい環境にあったばかりでなく、当時、毎秒四メートルないし六メートル余の北風(斜め逆風)が吹いていたこと、除草剤撒布作業中の小名木の周囲には、付近一帯の雑木林の枝葉が風に騒ぐ音、雨音、背負っている噴霧器の騒音があったであろうことも認められる。小名木は、このようなうっとうしい天候の下で約二時間半にわたり、作業を早く済ますことを心がけながら俯き加減に桑畑の中で往復を繰り返し、独り除草剤撒布に専念していたのであって、桑畑のすぐ東側の雑木林で兇悪な犯罪が行われて悲鳴があがることなど、夢想だにしなかったのであるから、除草剤撒布の作業の間に、雑木林の中の犯人と被害者の姿に気付かず、また突然に被害者の悲鳴(その音程、音量、長さ、回数などは、証拠上判然としない。)があがっても、前掲小名木員面、同検面にあるとおり、「声の方向や男女の別などは分からないが、誰かが呼ぶような声が聞こえた」と感じ、「直感で親戚に立ち寄っている妻がお茶を持って来る途中で誰かに襲われたような感じがしたので、思わず親戚の家の方向を見たが人影はなかった、よほど行ってみようかと思案して仕事の手を休めたが、雨も少し降っていたことでもあり、そのまま急いで作業を続けた」もので、危難に遭っている者が直ぐ近くにいるという切迫感を持たなかったことは、必ずしも不自然なことではないと考えられる。他方、犯人と被害者の側についても、右に見たような現場の地理的状況、当時の気象条件の下では、桑畑が見通せる客観的状況にあったからといって桑畑で作業中の小名木の姿に当然気付いて、犯人はその場所での犯行を断念し、被害者は救いを求めたはずであるとは、必ずしも言い難いといわなければならない。このように見てくると、小名木が除草剤撒布作業中に人の声を聞いたという右の経験は、請求人の自白供述に沿うものと見ることができる。所論が援用する鑑定書、報告書等は、いずれも昭和五六年から六一年にかけての現地調査に基づくものであるが、事件当時から二〇年近くを経て、現場とその周辺が大きく変容したことは察するに難くなく、事件当時のままに地形、気象、地上物等の条件を設定し、あるいは推測により近似の条件を設定して、近くで悲鳴がおこることなどまったく予期せずに、除草剤撒布の作業に集中していた小名木の心理状態を含め、当時の状況を再現することは、非常に困難なことであるといわなければならない。
 所論の指摘にかんがみ、その援用する証拠をすべて併せて、確定判決審の関係証拠と総合検討しても、確定判決の事実認定に合理的な疑問を抱かせるには至らないというべきである。

第九 死体の運搬方法について
 所論は、要するに、新証拠として、@渡辺謙、中塘二三生作成の昭和六三年五月九日付ダミー運搬実験に基づく意見書(ビデオテープ添付。渡辺・中塘意見書)、A渡辺謙、中塘二三生作成の平成五年三月一日付ダミー運搬実験再意見書(ビデオテープ添付。再意見書)、B証人渡辺謙、C同中塘二三生等を援用して、請求人の自白どおりの方法で、被害者の死体を殺害現場から芋穴まで約二〇〇メートルの距離を途中休むことなく運搬することは、科学的に考察しても不可能であり、請求人の自白は虚偽であることが明らかで、右自白を信用した確定判決の事実認定には合理的な疑いがある、というのである。
 渡辺・中塘意見書は、被害者の死体に見立てた重量五四・九キロ(着衣付きで五六・一キロ)の人体模型を用いて、男子四名を被検者とし、身体の前方で両腕の肘を屈曲させて人体模型を抱える姿勢で距離二〇〇メートルを目標とする運搬実験を行ったところ、いずれも右目標値に達しなかったことなどから、請求人の自白供述のように、身体の前方で肘を屈曲させて死体を抱える姿勢で運搬することには無理があり、事件当日の天候や地形をも勘案すると、請求人が自白どおりに被害者の死体を殺害現場から芋穴まで二〇〇メートル余も運搬したとは考えられないというものであり、再意見書は、再度検討した結果、渡辺・中塘意見書の運搬実験は、請求人の自白に沿った妥当なものであり、その結論は正しいというのである。これを要するに、渡辺・中塘意見書及び再意見書は、請求人の自白に述べられた死体運搬の態様を、「殺害現場から芋穴まで約二〇〇メートルの間、途中休むことなく、身体前方で肘を屈曲して両腕の上に載せ、前へささげるようにして運んだ」としたうえで、日本人男子の平均ないしそれ以上の体力を持つ複数の被験者に、「身体前方で肘を屈曲して両腕の上に載せ、前へささげるようにして、途中休むことなく運ぶ」という方法で、被害者に見立てた人体模型を実際に二〇〇メートル運搬できるか実験を行ったところ、被験者全員これを達成できなかったというのである。
 そこで検討する。
(一)請求人の供述調書の中から、死体運搬に関係する供述記載を摘記すると、およそ以下のとおりである。
(1)「私は死んだ善枝さんを頭を私の右側にして仰向けのまま私の両腕の上へのせ、前へささげるようにして、そこから四〇米から五〇米位はなれた畑の中のあなぐらのそばまで運びました、そこは私があなを掘って善枝ちゃんを埋めたすぐそばです」、「私は仕事をするのにセメント二袋二十六貫を担いで運ぶことがあります、善枝ちゃんはこのセメント一袋より軽い感じがしました」(司法警察員に対する昭和三八年六月二五日付供述調書)
(2)「死んでいる善技ちゃんの首と足のところに私の両腕を入れて抱え上げて藷穴の近くに運んでおきました」(検察官に対する同日付供述調書。第一審記録二一八八丁以下のもの)
(3)「善枝ちゃんをこの前話したようにあなぐらのそばへ運んでおきました、その時私は善枝ちゃんの両足を開かないようにビニールの風呂敷でしばったように思います」(司法警察員に対する同月二九日付供述調書)
(4)「死んでいる善枝ちゃんを両手で首のところと足の方に下から手を入れ、抱えて藷穴の所迄運びました」(検察官に対する同年七月一日付供述調書。第一審記録二二四〇丁以下のもの)
(5)「杉の木の根元から穴ぐらのところまで運ぶ時には善枝ちゃんの身体を仰向けにして頭が私の右手の方に、足の方を私の左手で支えるようにして前へ提げるように抱いて運んだのですが……」(司法警察員に対する同月三日付供述調書)
(6)「私は普通の人よりかなり力が強いと思います。腕相撲で友達に負けた事はないし、二十六貫位のセメント袋をかつぐ事もできます。現に事件の後の五月中ば頃、自分の家で一つ十三貫のセメント袋二つを地面から二つ一緒に両手で持ち上げて、右肩にかついで庭から家の前の車に積んだこともあります。前に働いていたN方でも同じ重さのセメント袋二つをよくかつぎました。」(検察官に対する同日付供述調書。第一審記録二三〇九丁以下のもの)
(7)「善枝ちゃんを穴倉の所迄運んだり穴倉から埋めた所迄運んだ際は両手で首附近と足を抱える様にして運びました、引きずって行った様な事はありません」(検察官に対する同月八日付供述調書。第一審記録二三六六丁以下のもの)
(二) これらの供述調書の記載を通観すると、請求人は、捜査官に対して、自分は力が強く、仕事でもセメント袋二個(二六貫=約九八キロ弱)を肩に担いで運ぶことがあり、本件では、死体の頭を右側にして、自分の両腕を死体の首と足の下に入れ、抱えるようにして芋穴まで運んだ旨述べたという記載があり、加えて、前掲(1)と(5)の司法警察員に対する供述調書には、それぞれ「前へささげるようにして」、「前へ提げる(原文のまま)ように抱いて」運んだ旨の、また、(7)の検察官に対する供述調書には、「引きずって行った様な事は(ない)」旨の各供述記載があるけれども、二〇〇メートル余運ぶ間に、持ち替えて担いだり、小休止を取ったか否かについては記載がない。しかし、その旨の供述記載がないことから、直ちに、運搬の途中で持ち替えや小休止をまったくしなかった趣旨に解するのは、必ずしも当を得たものとはいえないというべきである。
 両意見書の実験結果は、その前提において問題があり、本件死体の運搬に関する請求人の自白の真実性を疑わせるものとは言い難い。
 したがって、これら所論援用の証拠を併せて、確定判決審の関係証拠と総合検討しても、確定判決の事実認定に合理的な疑問を抱かせるものとはいえない。


第一○ 死体の足首の状態について
 所論は、新証拠として、@弁護人中山武敏作成の昭和五三年一二月二四日付報告書(中山実験報告書)、A木村康、弁護人倉田哲治作成の昭和五四年五月二二日付「芋穴逆さ吊り」実験についての報告書(木村・倉田実験報告書)、B木村康作成の平成元年一二月七日付「芋穴への逆さ吊り」実験報告書(木村実験報告書)、C井野博満作成の同月六日付「逆さづり」における荷重の測定および損傷についての実験報告書(井野実験報告書)、D大西徳明作成の同年三月一〇日付「芋穴への逆さ吊り」実験被験者の筋力検査報告書(大西検査報告書)、E昭和五九年三月一三日警察技師医師五十嵐勝爾面会録音テープ及びその反訳(五十嵐テープ)、F同月一五日付埼玉新聞記事写(埼玉新聞記事)、G証人井野博満、H同木村康、I同大西徳明J同上田政雄等を援用して、請求人の自白供述のとおりに、死体の足首を縛り、縄で芋穴に逆さ吊りにすれば、足首に損傷が生じ、その痕跡が必ず残ることが裏付けられるところ、本件被害者の死体の足首には、縛って逆さに吊したことを示すような特段の痕跡は存在しないのであるから、請求人の自白は、内容虚偽の供述であることが証明され、確定判決の事実認定に合理的な疑いのあることが明らかであると主張するのである。
 右のうち、中山実験報告書は、身長、体重とも被害者のそれに見合う合成ゴム製の人体模型を用いて、足首を縛り、逆さ吊りして実験したところ、縄が足首にくい込んで痕跡が残ったから、死体に損傷ができることは確実であるというもの、木村・倉田実験報告書は、表面を合成ゴムで固めて塗装した身長、体重とも被害者のそれに見合う人形を使い、両手首を後ろ手に縛り、揃えた足首をソックスの上から細引紐で縛り、藁縄を細引紐に継ぎ、徐々に人形を逆さ吊りにして芋穴に下ろし、次いで引き上げて実験した結果、足首の緊縛部分には強く凹んだ圧痕が形成され、死体の場合には表皮剥脱や凹痕が生ずることが推測されるというもの、木村実験報告書は、第一審の検証結果を基にして、本件芋穴と同じ深さ、形状の模型を作り、男性四名、女性一名の計五名を被験者とし、ソックスの上から木綿の細引紐を結び、滑車を用いて芋穴の模型に吊り下げ、吊り上げを行って足首に荷重し、各被験者の足首の状況を観察する実験の結果、被験者全員の足首に強度の圧痕が形成され、被験者の女性と男性の各一名の右足首、男性三名の両足首には、それぞれ表皮剥脱等の状況が観察されたというもの、井野実験報告書は、木村実験報告書の各被験者の足首にかかった荷重を測定するとともに、ウレタンフォームなどで肉付成形をし、さらにラテックスゴムを塗り合わせるなどした、被害者の身長、体重に見合う人体模型を用意し、発見時の死体と同様、両手首を後ろ手に手拭で縛り、足首を揃えてソックスの上から木綿細引紐で縛り、実際と同じ寸法の藁縄をつないだ上、大西検査報告書にあるとおり、筋力の優れた被験者が、本件芋穴と同じ深さの模型を使用し、右手に巻いた縄で人形の吊り下げ、吊り上げの実験を行い、人体模型の足首にかかる荷重と足首に生じる損傷との関係を検討した結果、請求人の自白どおりとすれば、死体の足首には、木村実験報告書以上の損傷が生じたことが推認されるというものである。
 検討するに、第一次再審請求に対する特別抗告棄却決定が夙に判示するとおり、死体の吊り下げ、吊り上げの態様に関する自白内容は、ありのままを述べた正確なものとは、必ずしもいえないと認められるのである。したがって、自白内容に相応する事態を想定して再現実験を行い、その実験結果から、芋穴へ一時死体を隠匿した旨の自白内容の真偽を論定することは、ほとんど不可能に近い難事であるといわざるを得ない。所論援用の各報告書が実験の基とした自白内容自体、実際の状況を細部にわたるまで如実に述べたものとは必ずしも言えない以上、これら報告書の実験結果から、発見された死体の足首に吊した痕跡ないし損傷がないのは不自然であると結論し、そのことから直ちに、本件芋穴に死体を一時隠匿した旨の自白は虚偽の疑いがあり、確定判決の事実認定に合理的な疑問が残るとまではいえない。
 所論援用の証拠をすべて併せて、確定判決審の関係証拠と総合検討しても、確定判決の事実認定に合理的な疑問を抱かせるものとはいえない。

第一一 死体埋没に用いられたスコップについて
 確定判決は、本件の死体埋没現場から約一二五メートルのところにある麦畑で発見されたスコップ(浦和地裁前同押号の四一、本件スコップ)が、本件事件当夜l養豚場からスコップを盗み出して死体の埋没に使用した旨の請求人の自白を補強する物的情況証拠であると説示するが、所論は、新証拠として、@生越忠作成の昭和五〇年八月二五日付鑑定書(生越鑑定書)、A生越忠作成の昭和五二年四月一八日付鑑定補充書(生越鑑定補充書)、B証人生越忠を援用して、本件スコップに付着していた土壌の質が、死体埋没場所付近の土壌のそれと異なることが明らかにされ、また、仮に本件スコップが同夜石田養豚場から盗み出されたものであるとしても、C戸門クラの昭和三八年六月二〇日付検察官に対する供述調書(戸門検面)により、本件犯行当夜にl養豚場の飼い犬が吠えたことが確認されたから、これを盗み出したのは、右飼い犬が怪しんで吠えるような、日頃同養豚場に出入りしていない者であり、右養豚場によく出入りしていた請求人ではないことが明らかにされたので、本件スコップを請求人と本件死体遺棄、延いては殺人等の犯行とを結びつける証拠の一つとして、有罪を認定した確定判決には、合理的な疑問が生じたというのである。
 しかしながら、右@、A及びCは、いずれも所論と同旨の主張を裏付ける新証拠として、既に第一次再審請求で提出され、その請求棄却決定の理由中で判断を経た(なお、@、Aについては、再審請求棄却決定に対する異議棄却決定、特別抗告棄却決定の各理由中でも判断されている。)ことが明らかであり、鑑定書の作成者生越忠を証人として新たに加えてみても、実質上、証拠は同一であるに等しいから、所論は、本件スコップに関して、第一次再審請求におけると同一の理由により再審を請求するものというほかなく、刑訴法四四七条二項に照らし不適法である。
 なお、念のため、所論援用の証拠につき検討を加えておく。生越鑑定書と生越鑑定補充書は、第一審が取調べた昭和三八年七月二〇日付星野正彦作成の鑑定書(星野鑑定書)の土質比較検査の方法とその結論を批判するのであるが、星野鑑定書の検査が採取資料間の土質比較のために必ずしも十分なものでなかったことは、既に第一次再審請求の特別抗告乗却決定が指摘するとおりである。しかし、星野鑑定書により、本件スコップ付着の土壌の一部が、死体の埋没穴付近から採取された土壌サンプルの一つと類似することが明らかにされたのであり、この事実については、所論援用の生越作成の鑑定書無二通も否定するものではなく、右スコップが畑地内に放置されていた状況など、確定判決審のその余の関係証拠から認められる具体的事情を併せ勘案すると、本件スコップが本件埋没穴の掘削に用いられた蓋然性は高いということができ、その意味で本件犯行の物的証拠の一つと認められる。この点に関する確定判決の事実認定は、相当として是認できる。また、T検面にあるとおりに、本件当夜、I養豚場の飼い犬が吠えた事実があったとしても、その事実と本件スコップの持ち出しとの関連性は、はっきりしないというべきである。したがって、確定判決審の関係証拠上、本件スコップが右養豚場のものである蓋然性が高いところ、請求人は、以前、右養豚場に出入りしていたことがあり、スコップの在り場所も知っていたはずであるから、同所からスコップを持ち出しやすい立場にあったと認められるのであり、所論援用の証拠を確定判決審の関係証拠と併せ検討して見ても、本件スコップに関する確定判決の事実認定に合理的な疑いを差し挟むものとはいえない。

第一二 死体埋没現場の玉石の存在について
 所論は、要するに、新証拠として、@生越忠作成の昭和五〇年八月二五日付鑑定書(生越鑑定書)、A証人生越忠を援用し、被害者の死体埋没現場に存在した玉石(東京高裁前同押号の六、本件玉石)は、犯人が死体埋没の際に意図的に置いたものであることが裏付けられるところ、請求人の自白がこの点について何も言及していないのは、請求人が死体を埋没した犯人ではないことを示す明白な証拠であると主張するのである。
 しかしながら、所論援用の生越鑑定書は、所論と同旨の主張を裏付ける新証拠として、既に第一次再審請求で提出され、その請求棄却決定の理由中で判断を経たこと(なお、再審請求棄却決定に対する異議棄却決定、特別抗苫棄却決定の各理由中でも判断されている。)が明らかであり、本再審請求の審理にあたり、右鑑定書の作成者を証人として加えてみても、実質上、証拠は同一であるに等しいから、所論は、本件玉石に関して、第一次再審請求におけると同一の理由により再審を請求するものであって、刑訴法四四七条二項に照らし不適法である。
 そして、念のため検討するに、関係証拠によれば、付近農地の開墾の歴史は古く、本件死体埋没現場は造成された農道であるから、以前に持ち込まれて付近に存在し、死体埋没の際に、たまたまその側に土砂と共に埋められたとしても不自然ではない。さらに所論援用の証拠を併せ見ても、犯人が死体埋没に当たって、本件玉石をわざわざ死体の傍らに置いたと認めるべき証跡があるとは言い難く、確定判決の認定に影響を及ぼすものではない。

第一三 車両との出会いについて
 所論は、新証拠として、@大沢徳太郎の昭和三八年六月二五日付司法警察員に対する供述調書、A松本里次の同日付司法警察員に対する供述調書、B吉田ミツノの同日付司法警察員に対する供述調書、C石井義雄の同月二四日付司法警察員に対する供述調書、D弁護人中山武敏作成の大沢徳太郎移動図、E同年五月六日付毎日新聞夕刊記事、F司法巡査ないし司法警察員作成の同年六月二四日付(四通)、同月二五日付(二通)、同月二六日付(五通)、同月二七日付(三通)各捜査報告書等を援用して、これらを確定判決審の証拠と併せ判断すると、捜査当局は、昭和三八年五月一日夜に本件脅迫状が中田栄作方へ届けられた直後から、当日の同人方付近における人や車の動きについて聞き込み捜査を実施して、本件脅迫状が中田栄作方へ届けられた時刻の前後ころに、吉沢栄の自動三輪車が鎌倉街道を通行し、また、大沢徳太郎の自動車が右中田方付近路上に駐車していた事実を、早い時期に把握していたことが裏付けられるから、その後、自白の中で、本件脅迫状を中田方へ届ける途中、鎌倉街道で追い越していった自動三輪車があったことや中田方付近路上に停まっていた車両のことが述べられているのは、捜査官が、既に聞き込み捜査で把握していた事実に合致するように暗示を与え、誘導して請求人に供述させたものであり、犯人でなければ知りえない事実を請求人が自ら進んで捜査官に暴露したものとはいえないから、右の点について、いわゆる秘密の暴露があったとして、自白の信用性を肯認した確定判決の認定には合理的な疑問のあることが明らかになった、というのである。
 所論援用の証拠と確定判決審の関係証拠を総合すると、
(1)捜査官の取調べを受けていた請求人は、昭和三八年六月二一日に至り、本件脅迫状を中田栄作方へ届けに行ったときの状況について供述し、途中、川越街道に出る五〇〇メートルくらい手前で自動三輪車が追い越して行ったこと、中田方隣家前付近の路上に小型貨物自動車が停まっていたことなどについて供述するとともに、司法警察員に対する同日付供述調書(第一審記録二〇〇四丁)添付第一図のとおり、通った経路を赤線で図示し、鎌倉街道の途中に赤丸印を付けて「をいこされたところ」と説明文を記載したこと、
(2)他方、捜査当局は、多数の捜査員を動員して聞き込み捜査を行ったところ、請求人が中田方へ赴く途中、鎌倉街道を通行した時間帯に、中田方の近隣に住むY・Sが、友人方へ選挙の当選祝いに行くため、自分の運転する自動三輪車(ダイハツ五九年型)に友人を同乗させて鎌倉街道を南進した事実が明らかになり、また、肥料商店員O・Tが、車で得意先回りをして、中田方へ本件脅迫状が届けられた前後の時間帯(午後七時二〇分ころから七時四〇分ころまでの間)に、中田方の一軒おいた隣家に立ち寄り、家人と肥料の話などをする間、付近路上に小型貨物自動車(ダツトサンのライトバン)を停めていた事実も確認されたこと、
が認められる。
 したがって、右各時間帯に、鎌倉街道を南進した自動三輪車があった事実及び中田方付近に小型貨物自動車が駐車していた事実がそれぞれ確認されていることは、自白の信用性を裏付ける根拠の一つになり得るのであって、確定判決の認定に誤りは認め難い。
 所論援用の証拠を確定判決審の関係証拠と併せ検討しても、捜査官が暗示や誘導によって、鎌倉街道で自動三輪車に追い越されたことや被害者方付近に小型貨物自動車が駐車していたことを、請求人に供述させて、あたかも、その供述にいわゆる秘密の暴露があったかのように作為したと疑われる事跡は窺われない。このような次第で、所論援用の証拠は、確定判決の認定に影響を及ばすものとは言い難い。

第一四 被害者宅の所在探しについて
 所論は、新証拠として、内田幸吉の昭和三八年六月五日付司法警察員に対する供述調書(内田員面)を援用し、本件犯行日の昭和三八年五月一日午後七時半ころ、内田幸吉方へ中田栄作方の所在場所を尋ねに来た男の人相等が請求人に似ているとする第一審での内田幸吉証言は、証拠価値の高いものとはいえないことが裏付けられ、これを、請求人の自白を補強する証拠の一つとして評価する確定判決は正当とはいえないことが明らかになった、というのである。
 検討するに、所論援用の内田員面の内容は、「昭和三八年五月一日午後七時三〇分ころから四〇分ころまでの間に、降雨の中、傘もささずに自分方を訪れて、中田栄作方の所在を尋ねた男がいた、その後、中田方の善枝が殺害されたことを知り、その男が本件と何か関係のある人物ではないかと思ったものの、警察に届けて係わりを持つと多勢で押し掛けられたりして怖いと思い、直ぐに届け出なかったが、結局思い直して届け出た、その男は年齢二三、四歳、背丈五尺一、二寸、面長、長髪であり、一、二分の短い時間ではあったが、電灯をつけ正対して話したので、今でも顔は覚えている、会えば判ると思う」というものであるが、第一審での内田幸吉の証言(昭和三八一一月一三日施行の第五回公判)は、概要、「五月一日の午後七時三、四〇分ころ、戸口の上にある電灯をつけて、ガラス戸を開けて外の九尺から一丈離れたところに立っている年齢二二、三歳、身長五尺一、二寸くらい、着衣はよくわからないが、襟の折れたジャンパー様の服を着ていた男に応対した、外は真っ暗であったが、電気をつけたので見えた、当時、雨が降っていたが、男は雨具を持っておらず、中古の自転車を立て、ハンドルを持っていた、中田栄作さんのうちはどこかときいたので、指さして裏から四軒目だと教えた、男は何とも言わずに自転車のハンドルを持って帰った、石川一雄が逮捕されて後、入間川の警察署で見たが、大体、顔かたちが似ていると思った、(公判廷で請求人を見て)そうです、この人です、この人と思います」というものであって、右員面は、内田証言と内容同旨であり、実質的にみて新証拠といえるか疑問であるのみならず、これを確定判決審の関係証拠と併せ検討しても、内田証言の信用性に疑問を抱かせる点は見出せず、確定判決の認定を揺るがすものではない。

第一五 万年筆について
 一 本件万年筆発見の経緯
 所論は、新証拠として、@内田雄造作成の昭和五四年五月一〇日付報告書(内田報告書)、A内田雄造作成の昭和五八年六月四日付万年筆認知に関する鑑定書(内田鑑定書)、B弁護人中山武敏作成の昭和五八年六月二二日付調査報告書(中山報告書)、C昭和三八年六月二七日付朝日、産経各新聞記事、D弁護人細川律夫ほか作成の昭和六一年一一月三日付請求人方の捜索に従事した警察官に対する捜索状況調査報告書(録音テープ原本八巻とその反訳共。細川ほか報告書)、E弁護人中山武敏ほか作成の昭和六一年一一月三日付請求人方写真撮影報告書(中山ほか写真撮影報告書)、F石川六造、高松ユキヱ、石川清、市村美智子の同日付弁護人に対する各供述調書、G弁護人青木孝作成の同月九日付家族(静江こと足立ヒサイ)に対する請求人方捜索状況調査報告書(青木報告書足立分)、H榎本の平成三年七月一三日付、同年一二月七日付、平成四年五月一六日付弁護人に対する供述調書計三通(榎本弁面)、I弁護人青木孝作成の平成四年七月四日付元狭山警察署巡査榎本に対する捜索状況調査報告書(青木報告書榎本分)、J弁護人青木孝作成の同日付写真撮影報告書(青木写真撮影報告書)、K請求人宅の現場検証と焼失後復元された勝手場出入口鴨居の検証、I証人小島朝政、M同高島泰造、O同福島英次、O同榎本二郎、P同吉沢実、Q同梅沢茂、I同春山菊夫、S同足立ヒサイ(静江)、○21同石川六造、○22同高松ユキヱ、○23同石川清、○24同荏原秀介、○25同内田雄造、○26同小堀二郎等を援用して、昭和三八年五月二三日、同年六月一八日、同月二六日の三回にわたり行われた請求人宅の捜索のうち、第三回目の捜索の際に勝手場出入口鴨居の上から発見、押収されたとされている万年筆(浦和地裁前同押号の四二、本件万年筆)は、捜索に先立ち、予め捜査官が請求人宅に持ち込んで、密かに勝手場出入口の鴨居の上に置いておき、あたかも請求人の自白に基づいて右捜索を行った結果、初めて発見したかのように仕組まれたものであって、もともと請求人宅には存在していなかったことが明らかになったと主張し、このような捜査官の作為を看過して、請求人の自白によって初めて万年筆の隠匿場所が明らかにされ、自白どおりの場所から本件万年筆が発見押収されたと認定した確定判決は、もはや維持できないことになった、というのである。なお、右@は、第一次再審請求手続でも提出され、判断を経ている。
 検討するに、内田報告書と内田鑑定書は、いずれも、どの位置から、どのような条件の下で、鴨居の上に置かれた万年筆を認識できるかを調べたものであって、その結果、調査時より暗い状況下でも万年筆を認知することが十分可能であり、鴨居前に置かれた「うま」に乗れば、万年筆を見落とすことはあり得ないことが判明したというのである。しかしながら、第一次再審請求手続における特別抗告審の決定も指摘するとおり、第三回目の捜索は、万年筆の隠匿場所について自供を得た捜査官が、右自供に基づいて隠匿場所を捜索したものである点で、捜査官に何ら予備知識のなかった第一回、第二回の捜索の場合とは、捜索の事情や条件を異にするのである。このような前提の違いを抜きにして、鴨居の上に本件万年筆があったのなら、第一回目ないし第二回目の捜索時に発見できなかったはずはなく、見つからなかったのは、当時、請求人宅に本件万年筆が存在しなかったからであると結論するのは、当を得ないというべきである。
 中山報告書は、請求人宅の捜索の状況について、請求人の母リイと同胞から、昭和五八年六月二日当時に聴取した結果をまとめたものであり、石川六造、高松ユキヱ、石川清、市村美智子の弁護人に対する各供述調書及び青木報告書足立分も、請求人の同胞から、昭和六一年一一月当時に供述を得てその内容を録取したものである。これらのうち、兄六造の述べるところは、同人の確定判決審での証言(第一六回公判)とほぼ同旨であり、所論援用のその余の証拠と共に確定判決審の関係証拠と併せ検討しても、その評価は、確定判決が右証言について判示したところを出るものではない。また、請求人の母、姉妹、弟の述べるところも、第一回、第二回の捜索時に、捜査官が、後に本件万年筆が発見されたという鴨居の上を調べていたなどというものであるが、請求人宅の捜索が行われてから二十年余も後になされた肉親のこのような供述が確かなものといえるか、にわかに首肯し難いといわざるを得ない。確定判決審の取調べた関係証拠と併せ検討しても、確定判決の事実認定を動揺させるまでの内容を持つものとは言い難い。
 細川ほか報告書は、請求人宅の捜索状況につき、昭和六一年一〇月から一一月当時、請求人宅の捜索に従事した元警察官等から事情聴取した結果をまとめたものであるが、「右各捜索当時の具体的な状況についてはよく覚えていないが、不十分な捜索であった。」などとするもので、総じて、各人の記憶が相当あいまいで、いずれも、所論を裏付ける証拠としての内容に乏しい。
 榎本弁面は、請求人宅の第一回捜索に参加した元警察官の榎本が、平成三年から同四年にかけて、大要、「勝手場の捜索を担当し、その場にあった「うま」を利用して鴨居の上を捜した、そのとき鴨居のところにボロがちょっと見えたのを記憶している、ボロを取り出して中をいろいろ見たが、暗くてよくわからなかった、手の届く範囲の鴨居のところをずっとなでるように捜したが、何も発見できなかった、目でもよく見たが何もなかったことは間違いない。」などと供述し、これまでこれらの事実を他言しなかった理由については、「大きな事件でさしさわりがあると思ったのでいままで言えなかった。」旨述べたというものであるが、右供述は、捜索から約二八年も経って行われたものであるばかりでなく、前掲細川ほか報告書によれば、右榎本は、右弁面が録取された四年余り前の昭和六一年一〇月には、弁護人から請求人宅の捜索の模様を問われても、「昭和五四年に退職してまもなく、脳血栓を患って以来、長患いしており、昭和三八年五月の請求人宅捜索の模様については、古いことで忘れてしまった。」などと述べ、具体的な捜索の状況を供述しなかったというのであるから、榎本弁面が、確かな記憶に基づくものか、甚だ心許ないといわざるを得ない。
 このような次第で、これら証拠に所論援用のその余の証拠をも併せて、確定判決審の関係証拠と総合検討しても、確定判決の事実認定に合理的な疑問を抱かせるものとはいえない。

 二 本件万年筆と被害者の万年筆との同一性
 被害者善枝が所持、携帯していた万年筆であるとして押収されている本件万年筆にはブルーブラックのインクが在中しているところ、所論は、新証拠として、@科学警察研究所警察庁技官荏原秀介作成の昭和三八年八月一六日付、同月三〇日付各鑑定書、A右同技官粕谷一弥作成の同年九月九日付鑑定書、B被害者の当用日記、受験生合格手帳、ぺん習字浄書、学級日誌、C小谷野憲之助の司法警察員に対する同年一〇月三日付供述調書、D中根敏子の検察官(同年五月二九日付)及び司法警察員(同年七月二七日付)に対する各供述調書(中根検面、中根員面)、E弁護人横田雄一作成の昭和六一年七月一九日付調査報告書(横田報告書)、F指田定一の司法警察員に対する昭和三八年五月七日付供述調書(指田員面)等を援用して、これらの証拠により、被害者が自分の万年筆で記載した当用日記、受験生合格手帳、学級日誌、昭和三八年五月一日午前のペン習字浄書等はすべてライトブルーのインクで記載されており、しかも、被害者が本件発生前に郵便局に備付のインク瓶からブルーブラックのインクを自分の万年筆に補充してはいないことが裏付けられ、これらの事実から、被害者の万年筆にはライトブルーのインクが入っていたはずであり、ブルーブラックのインク在中の本件万年筆は、本件当時被害者が所持、携帯していた万年筆ではないことが明らかになったから、仮に本件万年筆が、捜査官の作為なしに、第三回捜索の際に請求人方から発見押収された事実があるとしても、これをもって請求人が本件の犯人と断定する根拠とすることはできない、というのである。なお、右@ないしDは、第一次再審請求手続でも提出され、判断を経ている。
 検討するに、被害者がライトブルーのインクを常用しており、当日午前のペン習字の授業でも同種のインクを用いているが、本件万年筆に入っていたインクは、ブルーブラックであって、被害者の常用していたインクと異なることは、所論指摘のとおりである。しかし、この事実から直ちに、本件万年筆が被害者の万年筆ではない疑いがあるということはできないのであって、請求人提出の横田報告書、S員面等の証拠資料を検討しても、右当日午前のペン習字の後に、本件万年筆にブルーブラックのインクが補充された可能性がないわけではない。被害者の兄中田健治、姉中田登美恵、学友山下富子の第一審における各証言、中田方に保管されていた万年筆の保証書(浦和地裁前同押号の六二)により、本件万年筆は被害者の持ち物で当時被害者が携帯して使用していた万年筆であると認められる。就中、健治の右証言によれば、本件万年筆は、昭和三七年二月に、同人が西武デパートで買って被害者に与えたパイロット製の金色のキャップ、ピンク系の色物のペン軸、金ペンの万年筆で、その後も、自宅で書きもの仕事をするとき、被害者から借りて使っていたことがあり、外観、インク充填の様式、捜査官から被害者の持ち物か確認を求められて試用した際のペン先の硬さ具合などから、被害者の万年筆に間違いないというのであって、本件万年筆に被害者が平常使用しないブルーブラックのインクが入っていた事実を踏まえて慎重に検討しても、健治の右証言の信用性は左右されない。このような次第で、所論援用の新証拠を確定判決審の関係証拠と総合して検討しても、本件万年筆が被害者の持ち物である旨の確定判決の認定を揺るがすまでには至らないといわなければならない。

第一六 学用鞄について
 所論は、新証拠として、@関源三の昭和三八年七月七日付検察官に対する供述調書(関検面)、A狭山市入間川**番所在の山林に関する公図及び不動産登記簿謄本、B昭和三六年一一月五日撮影の現場付近航空写真、C昭和二二年二月八日撮影の現場付近航空写真、D宮岡貞男の昭和三八年七月三日付検察官に対する供述調書(宮岡検面)、E多田敏行作成の「狭山事件とポリグラフ検査」と題する論文(多田論文)、F弁護人中山武敏作成の鞄発見現場関係見取図等を援用し、これらを確定判決審の証拠と併せ見ると、被害者が所持、携帯していた学用鞄(浦和地裁前同押号の三〇、本件鞄)は、その埋没場所を予め知っていた取調官が請求人の供述を誘導し、あたかも請求人が自発的にその埋没場所を自供したかのように作為した疑いが強く、請求人の自白に基づいて捜索した結果として発見されたものとはいえないことが明らかであり、請求人が本件鞄の隠匿場所を捜査官に打ち明けて秘密の暴露をしたことはないことが裏付けられるから、右自白に依拠した確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じた、というのである。
 検討するに、請求人が新証拠として提出する証拠は、本件鞄に関する自供状況、教科書類発見地点と本件鞄発見地点との地理的関係、本件鞄発見時の捜索立会人の立会い状況、請求人の本件鞄に関するポリグラフ検査結果等に関するものであるが、確定判決審の関係証拠と併せ見ても、所論主張のような事情は窺われない。
 すなわち、これら関係証拠を併せ検討すると、
(1)昭和三八年五月三日、佐野屋付近に現われた犯人の逮捕に失敗した捜査当局は、大掛かりな捜索活動を行って被害者の遺留品等手掛りとなる証拠の発見に努め、同日午後二時半ごろ、狭山市入間川**番地の雑木林から被害者善技の自転車の荷掛け紐が発見押収されたが、同月四日に善枝の遺体が発見された後も、右発見現場を中心に広く被害者の所持品など収集のための捜査が行われ、同月二五日には右現場からやや離れた同市入間川字**番地の雑木林と桑畑の境の窪んだ溝で、善枝の所持していた教科書、ノート類等が発見押収されたところ、教科書などが入れてあったはずの鞄、万年筆、腕時計などは依然として未発見であつたこと、
(2)同年六月二〇日に至り、請求人が関源三巡査部長に対して、三人共同して犯行した旨を自供する際、「鞄は俺がうっちゃあったんだけど今日は言わない。今度関さんが来た時地図を書いて教えるよ。」などと供述し、翌二一日、右関に対して、中田栄作方へ本件脅迫状を届けに行く途中で、本件鞄を山の中へ捨てた旨自供するとともに、その場所を示す略図を書いて提出したこと、
(3)そこで即日、関らが、右略図を頼りに捜索を実施したけれども、鞄の発見には至らず、空しく引き上げて来たため、同日午後五時ころ、青木一夫警部が再度請求人に鞄の捨て場所を尋ねたところ、よく考えてみたら思い違いであった、山と畑の間の低いところへ捨てたが、わかりにくい場所なので略図を書いて説明すると述べて、改めて略図を書いて提出したので、二度目の略図に基づいて右関ら警察官数名がM・Sら付近住民の立会いで、同市入間川字**番地桑畑と同**番地雑木林との境界地付近の溝を手分けして捜すうち、午後六時四〇分ころ、雑草の生い茂った溝の中に、埋没して端の方が少し表面に覗いている本件鞄を発見し、これを領置したこと、
が認められる。
 このような経緯に徴すると、本件鞄は、請求人の供述に基づき捜索の結果、請求人が捨てたと図示した場所から程遠からぬ地点で発見押収されたものと認めることができる。
 所論は、本件鞄の発見地点は、先に発見された自転車の荷掛け紐と教科書類の各発見地点の中間に位置し、場所として大して隔たっておらず、埋められていた状態が共通しており、請求人の自供や図示を俟つまでもなく、捜査当局において当然捜索すべき場所であり、現実にも既に捜索されていたと考えられる場所であって、請求人が描いた当初の図面によっては発見できなかったのなら、二度目に描いた図面の記載内容も当てにならないと考えるのが自然であるのに、民間の立会人まで準備して鞄の発見に先立って実況見分を開始し、しかもその二度目の図面添付の供述調書には、録取の時刻まで記載したのは不自然であって、捜査当局は、大掛かりで、綿密な捜索活動によって、予め本件鞄の埋没場所を発見していたのに、取調官が、請求人の供述を誘導して、あたかも自発的に鞄を埋めた場所を自供したかのように作為した供述調書を作成し、図示させた疑いが裏付けられると主張する。
 本件鞄の発見場所は、所論指摘のとおり、遺体発見以来、捜査当局が、それまでに幾度か証拠物捜索の対象とした地域であったけれども、司法警察員清水利一作成の昭和三八年六月二二日付実況見分調書(第一審記録一三五七丁)添付の図面によれば、本件鞄の発見地点は、荷掛け紐発見地点の略西方五六メートル、教科書等発見地点の略東方約一三六メートルに位置するのであって、いずれの場所とも道路を隔てており、五月から六月という時節柄、本件鞄は、草木の繁茂する雑木林の端付近(当時の現地付近の模様は、右実況見分調書の添付写真、司法警察員伊藤操作成の同年五月二五日付実況見分調書(第一審記録一三四八丁)の添付写真等から窺われる。)の溝の中で泥に覆われていたのであるから、以前の捜索の際に必ず発見できていたはずであるとは言い得ない。請求人援用の証拠を確定判決審の関係証拠に併せ検討しても、本件鞄の発見押収の過程に、所論のような捜査官の殊更な誘導や悪質な作為の介在を窺わせる事跡は見出せないのである。
 また、所論は、請求人の図示した鞄の投棄場所と実際の発見場所とは、かなり離れており、投棄の場所についての自白は、内容のないものであったことが裏付けられ、請求人の自白に基づいて本件鞄が発見されたとする確定判決の事実認定には、合理的な疑問があるというのである。しかし、確定判決審の関係証拠に徴すると、現場は、当時、畑と雑木林が混在し、そこかしこに点在する集落間を結ぶ未舗装道路や、地図上に載らない、狭くて曲折した農道が幾本も走っているような場所であり、後に投棄地点を特定する目印になるようなものもほとんどなかったのであるから、投棄場所を図示(請求人の描いた略図は、六月二一日付青木警部に対する供述調書添付のもの(第一審記録二〇〇三丁)か、あるいは、これと同程度のものであったと考えられる。)するについても、勢い、およその特定にならざるを得なかったと察せられるのであって、中田栄作方へ脅迫状を届けに行く途中で、鞄や教科書を捨てた請求人の図示が、ある程度不正確なものであったとしても不自然とは言えないし、請求人の描いた略図を見た警察官の側においても、場所の特定としては、その程度のものとして受け止めて、捜索に当たったものと認められるのである。このような事情を考慮すると、請求人が図示した場所と現実の発見場所との間に、ある程度の齟齬があっても、それをもって請求人の本件鞄投棄についての自白が、実体のない、内容虚偽のものであったとするのは当を得ないというべきである。
 所論を検討し、その援用の証拠を確定判決審の証拠に併せて、投棄物発見の経緯について吟味しても、確定判決の事実認定に疑いを生じさせるには至らないというべきである。

第一七 腕時計について
 所論は、新証拠として、@司法警察員遠藤三ほか作成の昭和三八年五月八日付捜査報告書(遠藤ほか報告書)、A小川松五郎の同年七月二日付司法警察員に対する供述調書(小川員面)、B前記多田論文、C昭和三八年五月二八日付日本経済新聞朝刊記事等を挙げ、これらの証拠を確定判決審の証拠と併せ見ると、本件当時善枝が所持していた被害品の腕時計であるとして押収されているシチズン製ペット六型金色側女持ち腕時計一個(浦和地裁前同押号の六一、本件腕時計)が発見されたについては、あたかも、これが請求人の自白に基づいて発見されたかのように見せかける捜査当局の作為が介在する疑いがあり、また、被害者の所持していた腕時計はシチズン製コニー六型金色側女持ちであるのに対し、本件腕時計は、同じシチズン製の金色側女持ちでも、ペット六型であるから、被害品とはまったく別物であることが明らかであり、したがって、被害者から本件腕時計を奪い取り、一旦自宅に隠匿した後に投棄した旨の自白が虚偽であったことも確認されたから、確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じることが明らかになったと主張する。
 検討するに、所論援用の証拠を確定判決審の関係証拠に併せ見ると、
(1)昭和三八年五月四日に被害者善枝の死体が発見されたが、その携帯していたはずの腕時計(兄健治が、昭和三七年三月下旬、都内台東区御徒町所往の金栄社で購入して、善枝に与えたシチズン製金色側女持ち)が見当たらないことから、犯人に奪われた疑いが持たれたため、被害品特定のため、捜査官が購入先などを捜査した結果、被害者の腕時計は形状等の特徴からシチズン製「コニー」六型金色側女持ち腕時計であると思料されたので、参考のため右と同種の腕時計一個を業者から借受けて持ち帰り、公開捜査のための品触れにも、被害品としてシチズンコニー六型金色側女持腕時計を掲載し、しかも、品触れに当たり、この持ち帰った参考品の腕時計自体の側番号を被害品そのものの番号であるかのように取り違えて、その旨掲載するという、二重の過誤を犯してしまい、後になるまでその過誤に気付かなかったこと、
(2)そのうち、自白を始めた請求人が、昭和三八年六月二四日以降、青木警部に対して「時計は家に帰って風呂場の出入口の内側の敷居の上へかくして置いたけれども五月一一日頃の夜七時頃に狭山市田中あたりで捨ててしまいました。」、「五月一一日の夕方七時頃捨てたことに間違いありません。きっと朝の早い新聞か牛乳の配達が拾ったか、その夜そこを通りかかった人が拾っていると思うから新聞にでも出してみんなにそのことを知らせてみて下さい。」などと供述し、投棄場所の略図を描いて提出したので、六月二九日及び翌三〇日の二目間、捜査員が右略図に指示された場所付近の捜索をするとともに、付近住民等に対し拾得者がないかなど、聞込み捜査を行ったが、発見には至らなかったこと、
(3)ところが、被害品の腕時計投棄の話を聞知していた小川松五郎が、同年七月二日午前一一時ころ、自宅付近の道端を注意して見ていて、茶株の根元の落葉や古いビニール袋の陰に金色に光る腕時計(本件腕時計)を発見し、駐在所へ届け出たこと、
(4)この腕時計は、シチズン製「ペット」一七石角六型中三針金色側(側番号六六〇六、一〇八五四八一)であって、被害者に腕時計を買い与えた兄健治、・右時計を被害者から時々借用して使用していた柿登美恵らの見分の結果、本件腕時計には、シチズン製金色側六型中三針裏蓋ステンレス、黒バックスキンのバンドという被害者の腕時計の形状、材質等の特徴に加え、バンドの複数の穴のうち、手首の細い姉(手首回り一六・五センチメートル)が使用するときのバンド穴と手首の太い被害者(手首回り一七・五センチメートル)の使用するときのバンド穴の二か所が連続して、普段止め金を通さない他の穴より穿れてやや大きくなっているという、被害者の時計バンド固有の特徴が認められ、姉登美恵の確定判決審での証言によれば、これを試着してみたところ、バンドの大きくなっている穴二つのうちの、内側の穴(手首の細い方の穴)に止め金を通したとき、自分の腕に丁度具合よく合致したと述べていること、
が認められる。
 これらの事実から、前記小川により発見された本件腕時計は、被害者の持ち物であることが、確認されたということができる。
 所論は、本件の特別重要品触れ(確定判決書記録一三二丁)として、写真入りで被害腕時計とその側番号が掲載されて広く配布されたものが、実は過誤により、参考品とその側番号を掲載していたなどということは、あり得ないことであり、そこに掲載されている側番号の腕時計が本当の被害品に違いないとして、捜査当局の作為を疑うのであるが、本件腕時計が被害者のものであることは、兄、姉の前記のような確認の結果により明らかであるばかりでなく、関係証拠によれば、押収にかかる本件腕時計とは別に、業者から借りて右品触れに写真入りで掲載された商品名コニーのシチズン製金色側女持ち腕時計そのものが現に存在するのである。本件腕時計は被害者の腕時計ではないとする所論の主張が当たらないことは、明らかであるといわなければならない。
 所論はさらに、本件腕時計の発見場所が、捜査官によって既に捜索済みの地域であることから考えて、事件発生から約二か月も経ってから、付近の住民によって道端の土の表面で視認、発見されたのは不自然であり、捜査官の作為の疑いがあるというのであるが、関係証拠から認められる本件腕時計の発見現場の状況に照らし、先に大掛かりな捜索が行われながら発見できなかったことは、必ずしも不自然な事態とは言い難い。
 畢竟、所論指摘の証拠は、確定判決審の関係証拠と併せ見ても、確定判決のこの点に関する事実認定を揺るがすものとは言えない。

第一八 指紋について
 確定判決審で取調べた埼玉県警本部刑事部鑑識課員斎藤義見ほか二名作成の昭和三八年五月一三日付捜査報告書(確定判決審記録三九四六丁)によれば、同月二日に、本件脅迫状、その封筒並びに被害者の身分証明書につき、指紋の検査を行った結果、封筒から対照不可能な指紋三個が検出され、脅迫状から対照可能な指紋二個(一個は、狭山警察署の木村巡査の右示指、他は被害者の実兄健治の右拇指)及び対照不可能な指紋二個が検出されたが、被害者の身分証明書からは検出されなかったこと、すなわち、脅迫状と封筒に対照不可能な指紋の付着があったが、請求人の指紋と同定できるものは検出されなかったことが認められる。
 所論は、新証拠として、@奥田豊作成の平成一〇年一〇月五日付意見書(奥田意見書)、A斎藤保作成の平成一一年四月一三日付鑑定書(斎藤鑑定書)、B証人奥田豊、C同斎藤保を援用して、本件の脅迫状作成時に、請求人が指紋付着を防ぐ処置をあらかじめ講じたことを窺わせる証拠はなく、また確定判決の認定によれば、昭和三八年五月一日の犯行は偶発的なものであったのであり、当時、指紋付着を予防していたとは考え難いから、請求人が本件脅迫状とその封筒並びに同封した身分証明書について、自白どおりの取り扱い方をしたのであれば、これらには当然に請求人の指紋が付着しているはずであるのに、同月二日に行った鑑識検査でも請求人の指紋が検出されなかったのは、請求人がこれらの物に手指で触れたことがないからであり、したがって、「脅迫状を作成し、善杖の身分証明書を同封して中田方へ届けた」旨の請求人の自白は虚偽であることが明らかになり、確定判決の認定は動揺を来した、と主張するのである。
 検討するに、所論援用の斎藤鑑定書は、(1)請求人の自白によれば、手袋などで指紋付着を予防していたことはなく、(2)当時は若く、新陳代謝も盛んで、特異体質のために手指からの分泌物が検出試薬に反応しにくかったと見るべき合理的理由はない上に、自白から認められる脅迫状の作成態様、時間などから考えて、脅迫状の用紙や封筒に対する手指の押圧力は高く、また、手指の分泌物の付着も十分であったはずであり、(3)鑑識係官の指紋検出方法や、その技術に問題とすべき点はなかったことなどを理由に、本件脅迫状、その封筒、被害者の身分証明書から請求人の指紋が検出されなかったのは、すなわち、請求人がこれらに手指で触れなかったからであるとしか言いようがないと結論するのであり、奥田意見書もこれに沿う内容である。しかし、右鑑定書の結論には疑問がある。本件では、前記のとおり、鑑識係官により、本件脅迫状から、狭山警察署員の右示指の指紋、被害者の兄の右拇指の指紋各一個のほかに対照不可能な指紋二個が、その封筒からは、対照不可能な指紋三個がそれぞれ検出されているのであるが、一般に、手指で紙などに触れた事実があり、その分泌物の付着も十分であったはずでも、その触れた個所から、異同の対照が可能な程に鮮明な指紋が必ず検出されるとは限らないことは、確定判決が判示するとおりであり、裁判所に顕著な事実である。
 所論援用の証拠を、請求人が提出したその余の新証拠及び確定判決審の証拠と併せ検討しても、請求人のものと同定できる指紋がこれらの対象物から検出されなかったことが、即、請求人が本件脅迫状、封筒並びに善枝の身分証明書などに手を触れた事実がないことを意味するとは言えず、この点に関する確定判決の事実認定を動揺させるものとは言い難い。
 なお、斎藤鑑定書は、鑑定資料として請求人の弁護人から提供された、指紋検出用の試薬で処理する以前の、本件脅迫状とその封筒の拡大白黒写真(これは、埼玉県警察本部刑事部鑑識課員作成の昭和三八年九月二七日付写真撮影報告書(第一審記録三七八丁)添付の写真を拡大複写したものと思われる。)には、軍手様の手袋の痕と思料される布目痕の一部が、脅迫状に一個所、封筒に計三個所存在するところ、これらは、被害者の家族や警察関係者によって付けられたとは考え難いことから、犯人が印象した可能性が極めて高いと判定し、所論は、これを援用して、犯人は軍手様の手袋を着用して、本件脅迫状とその封筒を取扱ったもので、請求人は犯人ではないと主張する。検討するに、斎藤鑑定書指摘の写真には、縞模様らしいものがその指摘の個所に薄ぼんやりと印象されているかに見えるが(所論にかんがみ現物を検しても、現在では判然としない。)、これを犯人の用いた軍手様の手袋の汚れが付着したものであるとする右鑑定書の指摘は、一つの推測に過ぎないというほかない。そして、所論援用の証拠を確定判決審の証拠に併せ検討しても、右推測を支持すると認めるべき証跡は見出せず、確定判決の事実認定に疑いを生じさせるには至らない。

第一九 佐野屋付近での体験事実について
 所論は、要するに、佐野屋付近へ身代金受取りに赴いた際の状況に関する請求人の自白は、犯人がたどったのとは異なる往復経路を述べ、身代金の持参を待つ間に、佐野屋の前の県道を通行した人や車には気付かなかったと述べるとともに、さらに、中田登美恵(身代金持参者の役をした被害者の姉)と現場で問答するに当たり、相互の位置関係や、明るさの点から、実際には同女の姿は見えたはずがないのに、その姿を現認したと述べるなど、客観的事実に反する不自然な内容であって信用できず、虚偽供述であると主張し、このことは、新証拠として援用する@増田直衛作成の昭和五八年一〇月一二日付夜間の恐喝未遂犯行現場における人物通行車等の視覚的認知に関する鑑定書(増田鑑定書)、A藤井弘義、小林總男作成の同日付恐喝未遂犯行現湯近傍における足音自動車音等の伝搬と認識に関する鑑定書(藤井・小林鑑定書)、B弁護人中山武敏、同横田雄一作成の同年七月一五日付地下足袋装着魚の目についての調査報告書(中山はか魚の目報告書)、C中田登美恵の昭和三八年五月三日付司法警察員に対する供述調書(登美恵員面)、D増田秀雄の同年六月一一日付司法警察員に対する供述調書(増田員面)、E佐野良二の同月五日付司法警察員に対する供述調書、F司法巡査小川実作成の同年五月三日付恐喝未遂被疑事件捜査に関する嘱託犬の使用状況についての捜査報告書、G司法巡査鹿野茂作成の同日付嘱託犬の使用状況についての捜査報告書、H石田義雄の同年六月四日付司法警察員に対する供述調書、I証人増田直衛、J同藤井弘義等により明らかになったから、このような虚偽の自白を根拠にした確定判決の有罪の事実認定は誤りであると主張する。
 そこで検討する。
 増田鑑定書は、本件当時の佐野屋付近現場の自然環境に近似して、人工照明の影響を受けることの少ない実験場所において、本件当夜の晴れの天候、月齢(昭和三八年五月三日午前○時に、八・八)に見合う日を選定して、犯人と登美恵にそれぞれ見立てた被験者について実地に視認実験を行い、佐野屋の北東側の畑地に潜んでいた犯人が、県道の通行車両や通行人を認知できたか、約三〇メートル離れた佐野屋前にいた登美恵を認知できたか、さらに、佐野屋前付近にいた登美恵が、前掲畑地にいた犯人を認知できたか等を調査した結果、(1)請求人が自白供述にいう待機位置に居ながら、県道上を通行する車両や通行人に気付かなかったはずはなく、右待機位置から登美恵が当初立っていた佐野屋の前は直接に見通すことはできないが、仮に見通せたとしても、せいぜい人の姿、形が認識できる程度で、その性別まで見分けることは困難であったこと、(2)また、登美恵の立っていた位置からは、犯人が移動して行く様子を白っぽい姿として認めることは可能であったこと、(3)請求人が自白どおりの経路を佐野屋付近まで往復し、道路の要所で張込んでいた警察官から数メートル程度の至近距離を走歩又は徒歩で通過したとすれば、当然警察官に見付かったはずであること、が判明したというのである。
 藤井・小林鑑定書は、前記増田鑑定書と同一の実験場所において、砂利道上の自動車、バイク、自転車の各走行音、犯人に見立てた男性(地下足袋着用、体重六五キロ)の走行音及び登美恵に見立てた女性(長靴着用、体重四九キロ)の歩行音をそれぞれ音源として、音圧を測定して各種の分析を行うとともに、ヒアリングテストも行った結果、犯人は、音源から五メートルないし一〇メートル離れた地点で、自動車、バイク、自転車の各走行音は十分認識でき、人の歩行音は、極度に神経を集中し砂利との接触音があれば十分認識できたこと、各張込地点の警察官らも、二〇メートル程度離れた人の走行音は、砂利との接触音があれば十分認識でき、二〇メートル先の歩行音についても注意していれば認識できたし、一〇メートル先であれば十分認識できたことが、それぞれ明らかになったというのである。
 しかしながら、一般に、真犯人でなければ認識し得ない事象を記憶していて、後に捜査官に対して、これを的確に再生して供述する場合がある反面、確定判決も指摘するとおり、真犯人であれば当然自分の行動にまつわる周囲の状況の詳細を認識、銘記しており、自白する以上は、捜査官の取調べに対して、その記憶どおりに率直に供述するはずであるとは、必ずしもいえないのであり、本件においても、請求人が佐野屋前の県道の通行車両や通行人には気付かなかった旨述べているからといって、そのことから直ちに、それが犯人ではない者の行った内容虚偽の供述であるということはできない。
 当時は、深夜のこととて、佐野屋前の通行は疎らであったのであり、車両や人がその付近を通行した時点において、請求人がどのあたりにいたのか、その位置関係は、当夜の行動状況について述べた請求人の昭和三八年六月二四日付司法警察員に対する供述調書、同月二五日付検察官に対する供述調書(第一審記録二一八八丁以下のもの)などによっても判然としないというほかない。また、身代金受取りを目的に現場に赴いた者としては、佐野屋付近の人の動静とわが身の安全について、注意力を集中していたであろうことは察するに難くなく、格別異常な動作のあったわけではない通行車両や通行人につき記憶に留めていないからといって、請求人の供述内容が不自然で、虚偽であるとは言えないというべきである。
 また、所論は、請求人の自白する待機地点からは、佐野屋の前にいた登美恵の姿を認めることはできなかったはずであり、たとえできたとしても、月光が樹木に遮られてその陰に入っていたから、女性であることまで識別できたはずはないと主張し、請求人が、「街道端の茶株のところへ出て佐野屋の方をみました。その時何時の間に来たのか知りませんが佐野屋のところに小母さんのような人が来ていました。何処に電気がついていたか覚えて居りませんがそこはうす明るくて小母さんは白っぽいものを着ていました」「その話をしている時私は女の人の姿はみましたが、その時の明るさは男か女の見分けがつく程度の明るさであったので姿から女の年を判断することはできなかったが・・・」(前記司法警察員に対する供述調書)などと述べているのは、客観状況にそぐわない不自然な供述であると指摘する。右は、事件当夜の佐野屋付近の現場で、対象となる車や人物を一定の場所、一定の距離から認識可能であったか否かについて実験を行って検証し、そこで得られた実験結果と請求人の自白内容とを対比して、自白供述が実験結果に符合しないことを明らかにすることにより、その虚偽であることを主張しようとするのであるが、本件当時の天空の雲のかかり具合、月光の当たり具合、現場の明るさの程度、請求人と登美恵相互の位置関係等がすべて明らかとはいえないのであり、所論援用の両鑑定書の実験が、これら前提条件の多くを推定に頼っていることを考慮すると、このような実験の結果が、所論の主張を裏付けるに足る程に、事件当時の状況を再現し得たものといえるか、甚だ疑問であるといわざるを得ない。そして、所論が新証拠として援用する証拠資料を確定判決審の関係証拠と併せ検討しても、請求人が、街道端の茶株のところから佐野屋の方を見た時点には、登美恵は請求人から見える位置にはいなかったはずであると断定すべき根拠は認められない。当夜の請求人にとって、脅迫状で指示したとおりに身代金が持参されたか否かは、重大な関心事であったのであるから、身辺の安全を気遣いながら、できるだけ佐野屋付近の様子を窺おうと注意力を傾注したであろうことは容易に察せられるのであり、他方、佐野屋の前付近に、その側の大きな樹木の陰ができていたとしても、昭和三八年五月二日は陰暦四月九日に当たり、当夜の月齢は八から九になろうとするところで、幾分雲はあったが晴れていたのであるから、増田鑑定書が推定しているとおりに佐野屋の前に佇んだ登美恵の身体がすっぽりと木陰に入り、木の間洩れの月光すらまったく同女を照らさなかったといえるか、大いに疑問であるというべきである。このように検討してくると、目を凝らして佐野屋の前を窺った請求人が、「佐野屋のところに小母さんのような人が来ていました。(中略)そこはうす明るくて小母さんは白っぱいものを着ていました」(前記司法警察員に対する供述調書)などと認識したことが、現場の客観的状況にそぐわない内容虚偽の供述であるとは言い難い。木立の陰になって、登美恵の身体には月光がまったく当たっていなかったことを前提にする増田鑑定書の視認実験は、当夜請求人が登美恵を最初に視認した時の状況を如実に再現したものとは、必ずしもいえないというべきである。
 所論は、また、請求人が犯人であって、自白どおりの経路をたどって佐野屋付近まで往復したのだとすると、その経路の道路には警察官が張り込んでいた個所が複数あったので、増田鑑定、藤井・小林鑑定の各実験結果に照らしても、容易に警察官らに発見されたはずであるのに、実際には犯人が発見されなかった事実は、経路に関する自白が虚偽であったことを示していると主張する。しかしながら、請求人が佐野屋へ身代金の受取りに赴くにあたり、人目に付きやすい道路上を終始歩行したとは必ずしも考え難いばかりでなく、捜査官の側にも手違いが重なったことが認められるのである。すなわち、確定判決審の証人大谷木豊次郎の供述するところによれば(第四五回公判)、同証人は、当時、県警本部捜査一課の課長補佐で、本件当夜、佐野屋付近の張り込みの指揮を命じられ、自分自身佐野屋の間近で張り込みをし、登美恵と犯人との間で交わされた問答も直近で聞いた者であるが、当日の張り込みは、犯人が自転車、バイクなど乗物を利用して佐野屋へやって来ることを想定し、主な道路沿いに行うことになっていたところ、要員配備の直前になって、県警察本部派遣の応援要員が到着したため配備が急遽変更され、本部から派遣された地理に暗い者も重要地点の張り込みにつくことになったため混乱を生じ、計画どおりに張り込みが行われなかった地点があったうえ、予想に反して、犯人が畑地の中を徒歩で現われたため、道路沿いに展開していた張り込みはほとんど用をなさず、指揮連絡の不徹底、照明器具や携帯無線機の不備なども重なって、犯人を取り逃がしてしまい、張り込みは失敗に終わったというのであり、現に、同証人は、佐野屋付近で張り込み中、犯人が接近してきたとき、ガサガサという音で気が付いたが、犯人が現場から立ち去ったときはその気配すら察知できず、気付いた時には逃走の方角もわからずに追跡できない有様で、間もなく試みた警察犬による追跡も不成功に終わったというのである。このような捜査側の混乱した張り込みの事情に徴すると、請求人の自白した経路をたどれば、必ず張り込みの警察官に発見されたはずであるとは言い得ないのであって、所論指摘の点は、請求人の自白の信用性を疑わせるものとはいえない。
 次に、中山ほか魚の目報告書は、昭和五八年七月一日の時点で、請求人の右足裏の踏付部拇趾球に魚の目を除去した痕跡を認めたというもので、所論は、請求人は本件当時、この魚の目のために、地下足袋を履いて敏捷に行動することはできなかったから、当夜、佐野足付近に赴いたならば、無事逃げ果せることはできずに、当然張り込み中の警察官に発見されていたはずであり、その点からも請求人の自白の虚偽であることが裏付けられるというのである。しかしながら、右報告書が、それより二〇年前の本件当時の請求人の足裏の状態をそのまま推認させるものとは言い難いのみならず、当時、足裏に魚の目があったからといって、地下足袋を履いて身代金を受取りに佐野屋へ赴き、張り込みの警察官をまいて逃げ帰ることが必ずしも困難であるとは言い難い。
 そのほか、所論は、請求人の佐野屋付近に赴いたことについての自白内容の変化、登美恵員面、M員面など関係者の供述との細かな不一致点などを指摘して、自白は虚構であると主張するのであるが、所論の指摘にかんがみ、前掲の所論援用の証拠に所論援用のその余の証拠をも併せて、確定判決審の関係証拠と総合検討しても、確定判決の事実認定に合理的な疑問を抱かせるには至らないというべきである。

第二〇 佐野屋付近の畑地内の地下足袋の足跡痕について
 確定判決は、佐野屋付近の畑地の中に印象された足跡のうちの三個(左足跡一個及び右足跡二個の現場足跡)にそれぞれ石膏を流し込んで保存した石膏成型足跡三個(浦和地裁前同押号の五の1ないし3、現場石膏足跡1号ないし3号足跡)と後日請求人宅から発見、押収された地下足袋五足のうちの一足(右同押号の二八の1、押収地下足袋)との関連につき判定した関根政一・岸田政司作成の昭和三八年六月一八日付鑑定書(関根・岸田鑑定書)の鑑定結果は信用できるとして、押収地下足袋と現場石膏足跡とは、「自白を離れて被告人と犯人とを結び付ける客観的証拠の一つであるということができ、原判決(第一審判決)がこれを被告人の自白を補強する証拠として挙示したのはまことに相当であって・・・」と判示する。
 これに対して、所論は、新証拠として、@井野博満作成の昭和五〇年一二月一三日付鑑定書(井野第一鑑定書)、A警察技師関根政一作成の昭和三八年五月四日付「恐喝未遂被疑事件捜査について」と題する捜査報告書(関根足跡報告書)、B渡辺毅作成の昭和五四年四月二〇日付意見書(渡辺意見書)、C吉村功作成の同年六月一五日付意見書(吉村意見書)、D弁護人深田和之作成の同年五月二三日付「破損痕に関する実験結果(一次)」と題する書面(深田実験報告書)、E井野博満作成の昭和五五年九月二〇目付鑑定書(井野第二鑑定書)、F弁護人安養寺龍彦作成の同日付報告書(安養寺報告書)、G井野博満、湯浅欽史作成の昭和五八年九月二六日付鑑定書(井野・湯浅鑑定書)、H弁護人中山武敏、同安養寺龍彦作成の同月三〇日付足跡に関する重ねあわせ検査報告書(中山・安養寺報告書)I証人井野博満、J同渡辺毅、K同吉村功、Q同湯浅欽史等を援用し、これらにより関根・岸田鑑定書の鑑定結果は誤りであることが裏付けられ、延いては、押収地下足袋と現場石膏足跡とが請求人と佐野屋付近に現われた犯人とを結びつける客観的証拠の一つであるとした確定判決の事実認定は疑問であって、請求人の無罪が明確になったと主張するのである。なお、右のうち、@、BないしE、Gは、いずれも第一次再審議求審査手続にも提出され、判断を経たものである。
 そこで検討する。
1 確定判決の依拠する関根・岸田鑑定書の鑑定結果第一審証人関根政一、同岸田政司の各証言によれば、県警本部刑事部鑑識課の技師である右両名は、現場足跡を石膏で保存した石膏足跡三個(1号足跡ないし3号足跡)と請求人方から押収された地下足袋一足(前同押号の二八の1)を鑑定資料にして、現場足跡が押収地下足袋により印象されたものか否かの鑑定を行ったのであるが、右両名作成の関根・岸田鑑定書によれば、
(一)現場石膏足跡1号足跡ないし3号足跡は、いずれも縫付地下足袋(職人足袋とも呼称されるもの)の足跡であり、足袋底に泥土が相当付着した状態で印象されたために、底部のデザイン模様の大部分は不鮮明で、顕出されていないが、印象面に大きな移動変型は認められない、
(二)そのうち、地下足袋の右足により印象された2号足跡は、足長約二四・五センチ、足幅約九・二センチで、細部の模様特徹は顕出していないが、足弓部を頂点として蹠部側、踵部側両面に傾斜し、拇趾と踵部が最も深く印象されており、第一趾側に比して拇趾先端が深く印象されていて両者に著しい差があり、同じく右足の3号足跡は、足長約二四・五センチ内外、足幅約九・二センチ内外、全般的に横線模様が不鮮明で、はっきり顕出しているのは足弓部左側の三本の横線であるが、足弓部の面を頂点として蹠部側、踵部側両面へ徐々に傾斜して低くなり、特に拇趾が深く印象されて、第一趾側と著しく食い違いを生じているところ、2号、3号足跡とも、地下足袋底面のほぼ固有の破損痕跡が顕出していて、特に、3号足跡には、竹の葉型模様後部外側緑に著明な破損痕跡、踏付部前端外側縁部に特有な損傷痕跡が、それぞれ存在することが認められ、2号足跡には、拇趾先端部と踏付部前端外側縁部に損傷している部位が認められる、
(三)また、地下足袋の左足によって印象された1号足跡は、足長約二四・五センチ、足幅約九・五センチで、全般的に底面の模様は不鮮明であり、踏付け部が最も深く、足先部、足弓部に向けて傾斜した印象状態を示し、拇趾と第一趾側の深さは同じである点は3号足跡と対照的であるが(関根・岸田鑑定書の鑑定経過の項、6の(五)(2)の末行に、「鑑定資料(一)(1)と対照的である」とあるのは、「鑑定資料(一)(3)と対照的である」の誤記と認める。第一審記録一〇四二丁表)、決定的な異同識別の基礎となるべき損傷等の痕跡は認められない、
(四)他方、押収地下足袋は、使い込んだ金壽印の縫付地下足袋で、九七の文数マーク入りのゴム底が付いており、(1)右足用の足長は約二四・五センチ、足幅は約九・二センチ、底面の竹の葉模様のほぼ左端溝部外側緑を基点として、約三八ミリ程度の間、厚さ約一ミリないし二ミリ程度ゴム縁が剥がれ、外側に弓状に屈曲した損傷があり(「あ号破損」)、また、拇趾先端から数えて横線凸起模様の六線目と七線目の右端が欠落し(「い号破損」)、拇趾先端外側縁のゴムが一部剥がれており(「う号破損」)(同鑑定書第三図、第八図)、底面は歪みがあって、踏付け部を頂点として前後へ徐々に傾斜しており、また、拇趾側が下方へ、第一趾側が上方へそれぞれ屈曲している、(2)左足用の足長は約二四・五センチ、足幅は約九・五センチ、底面足弓部右側の縫目外側縁が切れ、後端は約一・四センチ、前端は約五ミリ程度剥離してやや外側に折り曲がっており、踵部左後端の縫目外側縁に約一センチ程度の欠損がある(同鑑定書第四図)、
(五)これらの特徴点を中心に、現場石膏足跡、押収地下足袋により採取した石膏足跡(対照用足跡)の各底部の印象状態の比較対照を行って検討したところ、結論として、(1)1号足跡は、押収地下足袋の左足用と同一種別、同一足長と認められ、(2)2号足跡は、押収地下足袋の右足用によって印象可能であり、(3)3号足跡は、押収地下足袋の右足用によって印象されたものと認められる旨の結果を得た、というのである。
2 井野第一、第二鑑定書の鑑定結果
 所論援用の井野第一、第二鑑定書は、現場石膏足跡三個と押収地下足袋の対照用足跡それぞれの大きさに注目して、その縦の最大長(足長の最大値)等の値をノギスで正確に計測し(左足の1号足跡は不鮮明であるとして計測対象から除外し、右足の2号足跡、3号足跡につき最大誤差プラス・マイナス一ミリ以内で計測したという。)、統計的解析を行って比較した結果、現場足跡は、押収地下足袋(九文七分)によって印象されたものではあり得ず、十文三分の地下足袋によって印象されたことが明らかになった、というのである。
 しかし、現場石膏足跡三個「1号足跡ないし3号足跡)を子細に観察すると、現場足跡は、いずれも地下足袋に付着した泥土(足跡の底面、輪郭とも全般的に印象状態が鮮明でないことから、単に足袋底のみならず、地下足袋の周囲にも相当に付着していたことが察せられる。)、踏み込みによる移行ずれ等の影響を受けて、地下足袋の本来の底面よりも全体的にやや大きく印象されたと認めて誤りないというべきであって、このようにして印象された足跡から採取された石膏足跡の計測値が、泥土が付着していない状態の押収地下足袋から採取した、輪郭鮮明な対照用足跡の計測値よりやや大(井野第一鑑定書によれば、縦の最大長平均値の差は八ミリであるという。)であるからといって、そのことから直ちに、現場足跡を印象した地下足袋の方が、押収地下足袋(九文七分)よりも文数(サイズ)が大であると結論することは相当ではない。井野鑑定では、現場石膏足跡の計測値と、押収地下足袋の対照用足跡の計測値とを、前記のような印象条件の違いの点を等閑視したまま対比している嫌いがあるのであって、このようにして導き出された井野第一、第二鑑定書の前記の鑑定結果は相当とは言い難く、これが確定判決に影響を及ぼすものとは認め難い。
3 井野・湯浅鑑定書の鑑定結果
 所論援用の井野・湯浅鑑定書は、
(一)未使用で、底部に破損個所のない地下足袋で印象した足跡に石膏を流し込んで石膏足跡をとる実験を繰り返した結果、地下足袋底面に破損個所がなくとも、地下足袋により圧迫された地面に生じたひび割れに石膏が入り込み、往々にしてこれがみだれ模様となって石膏足跡上に出現することが明らかになった、
(二)3号足跡及び関根・岸田鑑定書が押収地下足袋の対照用足跡のうちで3号足跡に印象状態がよく近似しているというA15、A16の石膏足跡につき、各足跡に顕出されている足弓部左側の三本の横線模様、3号足跡の竹の葉型模様後部外側縁の破損痕跡といわれる部分、A15とA16に印象されている「あ号破損痕跡」付近の各等高線図、横断面図等を作成して比較、解析したところ、3号足跡の竹の葉型模様後部外側縁の破損痕跡とされる部分とA15、A16の「あ号破損痕跡」は、平面的観察では類似しているように見えるが、立体的に観察するとその断面の形状は全く異なっていることが判明し、石膏成型時のみだれ模様出現に関する(一)掲記の事情と併せ考えると、3号足跡上に現われている破損痕跡といわれるものは、地下足袋の「あ号破損」部分が印象されたものではなく、成型のため石膏を現場足跡に流し込んだ際に偶々できたみだれ模様であると考えるのが妥当であり、また、押収地下足袋の右足用の底面に見られるその余の特徴点「い号破損」、「う号破損」に照応する破損痕跡は、右足の現場石膏足跡(2号足跡、3号足跡)上で確認できない、
(三)現場石膏足跡(1号ないし3号足跡)と請求人に押収地下足袋を履かせて印象させた対照用足跡(関根・岸田鑑定書が、B1ないしB14と特定する石膏足跡)につき、その縦断面の形状を比較検討した結果、(1)現場石膏足跡と請求人による対照用足跡とは、左右の足跡とも、断面の形状において、それぞれに相違性が見られる、(2)現場石膏足跡の左足(1号足跡)と右足(2号足跡、3号足跡)とでは、底面の屈曲ぐあいに顕著な相違がみられる(このことは、足跡を印象した者の歩行の特徴を示している可能性がある)のに対し、請求人による対照用足跡の左足と右足とではそのような相違はない、
と結論する。
 所論は、この鑑定結果を援用して、前記関根・岸田鑑定書において、押収地下足袋の右足用の「あ号破損」に照応する3号足跡の特徴点として指摘された、竹の葉型模様後部外側緑の破損痕跡といわれる部分の石膏の状態は、このみだれ模様と類似しており、右の特徴点と指摘されるものが、果たして地下足袋の破損部が印象されたものなのか、それとも、成型時に石膏が地面のひび割れに入り込んで偶々足跡上に形成されたみだれ模様に過ぎないのかは判然とせず、前記「あ号破損」に照応する破損痕跡であるとは言い難く、その他、関根・岸田鑑定書が現場足跡と押収地下足袋との符合を指摘する特徴点は、いずれも存存が否定されるだけでなく、現場足跡は押収地下足袋によって印象されたものではないことが明らかになったと主張するのである。
 検討するに、石膏成型足跡を作る過程で、地面のひび割れに石膏が流れ込んで足跡上に不定形の模様(井野・湯浅鑑定書の言うみだれ模様)を形成することがあり、3号足跡にもこれが見られることは、関根・岸田鑑定書も認めるのであるが(同鑑定書の鑑定経過の項、6(三)(7)にいうJ点等。第一審記録一〇四〇丁)、同鑑定書が、3号足跡について、破損痕跡であると指摘する竹の葉型模様後部外側縁の部分は、これを押収地下足袋の右足用に存在する「あ号破損」及びその対照用足跡の「あ号破損痕」と対比照合しつつ検討すると、3号足跡の印象状態が粗いにもかかわらず、その形状、大きさ、足跡内の印象部位(3号足跡に顕出している三本の横線模様との相対位置から、押収地下足袋の「あ号破損」、対照用足跡の「あ号破損痕」との対比が可能である。)等の諸点で、まことによく合致しているのであり、これが偶然の暗合とは考え難く、3号足跡により保存された右足の現場足跡が、押収地下足袋の右足用によって印象された蓋然性は、すこぶる高いということができる。井野・湯浅鑑定書は、3号足跡の竹の葉型模様後部外側縁にある弓状にゆるく膨らんだ屈曲部分は、一見、外側縁のゴムの剥がれと見えるが、これを立体的に観察すると、一本の線として連続せずに途中で分断しており、高さ、幅とも一ミリ以下で凹凸が激しく、A15、A16に見られる「あ号破損痕」の剥がれた外側縁のゴムの痕跡とは形状をまったく異にするから、外側縁近傍の地面のひび割れに入った石膏のみだれ模様に過ぎないと見られるというのであるが、3号足跡は、A 15、A16に比して、全体的に底面の印象状態が劣悪であることは明らかであって(関根・岸田鑑定書第六一図、第六二図参照)、井野・湯浅鑑定書の指摘する立体的形状の違いは、このような足跡の印象状態の差異に由来すると見ることができるのであり、右鑑定書指摘のような形状の相違が認められるからといって、そのことから直ちに右を「あ号破損」に照応する破損痕跡ではないとする見解には与しかねる。
 また、関根・岸田鑑定書は、現場石膏足跡の底面の傾き、歪みには特徴があり、これが押収地下足袋、請求人に押収地下足袋を履かせてとった対照用足跡(関根・岸田鑑定書のいうB1ないしB14)の底面の状態と共通すると判定するのに対し、所論援用の井野・湯浅鑑定書は、これと相容れない判定をしているので案ずるに、関根・岸田鑑定書と右鑑定に携わった岸田政司の確定判決審における証言(第四六回、第四九回公判)によれば、一般に、縫付地下足袋は小さなメーカーの手作業の製品で、足袋の木綿甲布に、一枚ずつ型枠に焼き込んで作った薄手のゴム製底板の周辺部を糸で縫い付けた、職人用の履物である。したがって、製品の出来具合にはばらつきがあり、厚手の木綿布と薄手のゴム板という異質の素材の縫い合わせの具合によっては、ゴムの底板に、当初から疲れや歪みが生じていることも、そう稀なことではないと察せられ、また、ゴムの底板は薄く、弾性があるため、比較的自由に撓み、捩れて地面になじむように作られているものと認められる。他方、鑑定資料に供された現場石膏足跡は僅か三個で(左足跡は1号足跡一個、右足跡は2号、3号足跡の計二個)、石膏足跡の基となったこれら現場の足跡は、泥土が底面と周囲に付着した地下足袋によって、畑地に印象されたものである。このように見てくると、本件の足跡は、その地下足袋の底面自体の捩れや撓み、履く者の歩行上の習癖、地面の状況など、様々な要素が複雑に絡み合い、影響し合って印象されていると認められるのであって、現場石膏足跡の印象状況の検討から、これを印象した地下足袋固有の底面の捩れや歪みの傾向、更には、履いた者の歩き癖などにつき有意の推断を下すことは、実際上困難であるというほかない。現場石膏足跡の底面の傾き、歪みなどに、一見、特徴らしいものが認められても、それが果たして、足跡を印象した特定の地下足袋の底面固有の特徴、あるいはこれを履いた者の歩行上の習癖の顕現と推断することができるか甚だ疑問であって、犯人ないし犯人が覆いた地下足袋の同定に稗益するものとは断じ難い。
4 検討の総括
 以上検討したところから、3号足跡の竹の葉型模様後部外側縁に存存する弓状にゆるく膨らんだ屈曲部分は、関根・岸田鑑定書が指摘するとおり、押収地下足袋の「あ号破損」が印象されたものである蓋然性がすこぶる高いと認められるのである。この意味において、関根・岸田鑑定書の鑑定結果に依拠して、押収地下足袋と現場石膏足跡の証拠価値を認め、「自白を離れて被告人と犯人とを結び付ける客観的証拠の一つであるということができ(る)」と判示した確定判決の判断に誤りは認め難い。そして、関根足跡報告書、渡辺意見書、吉村書見書、深田実験報告書、安養寺報告書、中山・安養寺報告書等を援用して所論が主張する点についても、これまで検討したところが妥当するのであって、その余の所論援用の証拠をも併せて、確定判決審の関係証拠と総合検討しても、地下足袋の足跡痕に関する確定判決の事実認定に合理的な疑問があるとはいえない。

第二一 供述調書添付図面の筆圧痕について
 所論は、新証拠として、@荻野晃也作成の昭和五〇年一二月二〇日付鑑定書(荻野鑑定書)、A弁護人大野町子ほか作成の昭和五三年五月二三日付報告書(大野ほか報告書)、B検証(確定記録に編綴の請求人の司法警察員に対する供述調書類添付の図面を対象とする。)、C証人荻野晃也等を援用して、請求人の捜査官に対する自供調書に添付の図面の中には、捜査官が予め用紙に印象しておいた筆庄痕を請求人に筆記具でなぞらせる方法で作成されたものもあることが裏付けられ、請求人の自白の任意性や信用性に重大な疑問があり、ひいては請求人の有罪を認定した確定判決の事実認定にも疑問の生じることが明らかになった旨主張する。
 しかしながら、右@、Aは、所論と同旨の主張を裏付ける新証拠として、既に第一次再審請求で提出され、その請求棄却決定、請求棄却決定に対する異議棄却決定の各理由中で判断を経た(なお、@については、特別抗告棄却決定の理由中でも判断されている。)ことが明らかであり、本件再審請求の審理にあたり、これらに所論指摘の自白調書添付図面の検証と右鑑定書の作成者である証人荻野晃也を加えてみても、実質上、所論が依拠する証拠は第一次再審」請求の場合と同一であるに等しいから、所論は、畢竟、本件自白調書添付図面の鉛筆線と筆圧痕の関係につき、第一次再審請求におけると同一の理由により再審を請求するものであって、刑訴法四四七条二項に照らし不適法である。
 なお、所論にかんがみ、念のため検討するに、荻野鑑定書は、確定判決の依拠する宮内義之介作成の昭和四五年七月二三日付鑑定書及び上野正吉作成の昭和四六年六月三〇日付鑑定書につき、事前のモデル実験と本実験との間に飛躍があり、判定対象も恣意的に選択されているなど、有効、妥当な鑑定とは言い難く、右宮内、上野両鑑定書が鑑定対象としなかった筆圧痕をも含めて、いわゆる中抜け現象の有無の判定を行い、走査型電子顕微鏡を用いれば、筆圧痕と鉛筆線との先後関係が正確に判定され得るはずであるなどと述べるもので、第一次再審請求に対する各審級の棄却決定がつとに説示するとおり、筆圧痕と鉛筆線との先後関係を判定するについての一つの方法論を提示するにとどまるものであり、大野ほか報告書は、報告者が請求人の捜査官に対する供述調書添付の各図面を逐一肉眼で見分した結果、確定判決審で行われた検証の際に確認された以外にも筆圧痕が存在することを報告するものであるが、所論援用の各証拠を、確定判決の依拠する関係証拠と総合考察しても、確定判決の事実認定に合理的な疑問を生じさせるまでの具体的内容を持つものとはいえない。

第二二 自白の心理学的分析について
 所論は、新証拠として、@浜田寿美男作成の昭和六一年一〇月二〇日付「自白供述の心理学的分析」と題する意見書(浜田意見書)、A山下恒男作成の昭和六三年一二月五日付「自白の『不自然さ』についての心理学的検討」と題する意見書(石川自白再現実験ビデオテープ(当庁昭和六二年押第四二八号の九)を含む。山下恒男意見書)、B証人浜田寿美夫、C同山下恒男等を援用して、本件犯行の自白に合理的な疑問のあることが裏付けられ、右自白を採用して請求人を有罪とした確定判決の事実認定は誤りであり、請求人の無罪が明らかになった、というのである。
(一) 浜田意見書は、捜査官に対する請求人の供述の総体を一つの流れとして捉え、その変遷を心理学的に分析・検討することにより、供述内容の真偽を判定しようとするものであって、請求人の供述調書を分析した結果、身柄拘束から約一か月続いた否認が、三人共犯の自白、それと基調を同じくする強姦・殺人・死体遺棄をメーンテーマ、恐喝未遂をサブテーマとする単独犯行の自白へと変遷し、更に、最終的に恐喝未遂をメーンテーマ、強姦・殺人・死体遺稟をサブテーマとする単独犯行の自白へと内容が変遷したが、このような変遷は、請求人が、真犯人として、取調官の追及を受けて徐々に真実を吐露したものではなく、無実でありながら否認に徹しきれず、自らを真犯人に擬することにより犯行の筋書を演繹供述したものの、矛盾に逢着して、変転させなければならなかった過程として理解するほかなく、供述の大きな変遷に呼応して生じた小さな変遷の過程も、取調官の誘導に従って、架空の経験を供述したものの、他の証拠との矛盾に逢着し、これを整合させようとした過程として観察されるのであり、請求人の自白が真犯人の体験を述べたものではないことは、「もはや一点の曇りもなく明らかである」(同意見書四九九頁)というのである。右意見書は、右の結論に到達するにつき、「供述が供述者の口から発せられたものである以上、変遷・変動・矛盾・欠落などの問題をすべて含めて、その供述全体は、必ず整合的な形で了解できるはずである。これが私たちの供述分析の大提である。」(同一四五頁)、「人間の行動・言葉に意味のないものはない。(中略)供述調書のように一連の流れを形づくるものについては、そのひとつひとつの言葉をかなり正確に読みとることができるはずである。供述調書は(被疑者の言葉そのままを記録したものではなく、取調官の尋問に対する応答として発せられたものではあるが、そのことを考慮に入れておけば)その言葉のひとつひとつをほぼ一義的に理解することができるはずである。」(同四九七頁)との考え方に立って、「具体的に、請求人の供述を、まるごとその請求人自身の心性の一貫性において理解しようと努めてきた。」(同四九八頁)というのであるが、自白変遷の背景事情の解釈、意味付けについて、同意見書の説くところは、一つの仮説としては成立し得ても、確定判決審の関係証拠に照らして、必ずしも、妥当なものとはいえないばかりでなく、その拠って立つ前提自体、供述心理の分析のあり方を説く一般論としてならば兎も角、心中葛藤し、懊悩しながら逡巡を重ねた末に、捜査官に対し行った強姦、強盗、殺人など重大犯罪に関する表白について、常に妥当するとは考え難く、請求人の自白は犯人の実体験を述べたものでないことが「一点の曇りもなく」解明できたとする同意見書の見解は、容れ難いといわなければならない。畢竟するに、右は心理学の立場からの一個の見解であるに止まり、確定判決の証拠判断、延いては事実認定に影響を及ぼすに足る証拠であるとは認め難い。
(二) 次に、山下恒男意見書は、犯行の動機、準備、実行過程、盗品等の処分など全過程にわたり、請求人の自白内容を分析した結果、その述べるところは、臨場感に乏しく、客観的証拠から形成される犯人像と一致しないばかりか、請求人自身のパーソナリティや行動傾向とも一致せず、人間の行動法則や犯行心理に反する不合理な点が多いほか、認識や記憶の誤り、意味付けの欠落等があり、不自然であって、信用性に乏しいと判定する。思うに、右意見書の見解は、犯罪を行う者は、第三者が納得できるような合理的な行動をとり、しかも、その行動と四囲の状況の一部始終を冷静に認識、記憶していて、いったん自白を始めたら、犯行状況等を忠実に脳裡に再生し、これを包み隠さず、的確に表現し、供述するものとの考え方に立っているように見受けられるが、そのような前提が常に成り立つとは言えない。同意見書が、犯人の行動として犯罪者心理に悖り不合理であることの一つとして指摘する、脅迫状持参の経緯について考えてみるに、女子高校生である被害者の帰宅が遅いのを心配しているであろうことが明らかなその自宅へ、午後七時過ぎに、被害者の持ち物である自転車を持って脅迫状を届けに赴き、玄関の戸に脅迫状を差し込み、右自転車を前庭に面した物置の自動車の脇に置いてくるという犯人の行動(第一審証人中田健治の供述、第一審記録二二三丁。第一審の検証調書、同一五六丁。司法警察員作成の昭和三八年五月四日付実況見分調書、同五一七丁。)は、それ自体、もし家人に出会い、被害者の自転車を持っているところを見られたならば、たちまち不審に思われることは必定で、極めて危険であるのに、犯人は敢えてそのような危険を冒したのであるが、犯人が誰であるにせよ(たとえ、仮に犯人が家人と親しい者であったため、見咎められた際に、その場を取り繕うことができたとしても、間もなく、捜査当局から嫌疑をかけられ、追及されることは、容易に予測することができる。)、このような行動をとった理由を、同意見書の納得が得られるような形で合理的に説明することは困難であろう。このように、右意見書が不合理、あるいは不自然であると指摘するものを逐一検討してみても、必ずしも、直ちにそれが請求人の自白内容を疑わせるものとは言い難いのである。また、自白の一部に、認識、記憶の誤りなどがあるからといって、その内容全体が疑わしいとは限らないのである。結局、右意見書は、確定判決の証拠判断、延いてはその事実認定に疑いを生じさせるものとは認められない。
(三) このような次第で、両意見書に所論援用のその余の証拠を併せ、確定判決審の関係証拠と総合検討しても、確定判決の事実認定に合理的な疑問を抱かせるものでないことは、明らかであると認められる。


第二三 結び
 以上、所論にかんがみ、請求人が新規、明白な証拠として援用する証拠資料を、その立証しようとする事項毎に、確定判決審の関係証拠と総合して考察し、確定判決の事実認定の当否を検討したのであるが、さらに、これら所論援用の証拠資料を、確定判決審の全証拠と併せて総合的に評価判断しても、請求人が本件強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂につき有罪であるとした確定判決の事実認定に合理的な疑いを抱かせ、その認定を覆すに足る蓋然性ある証拠とは認められないのであって、畢竟するところ、刑訴法四三五条六号所定の「無罪を言い渡すべき明らかな証拠をあらたに発見したとき」には該当しないといわなければならない。
 よって、本件再審の請求は理由がないことに帰するから、刑訴法四四七条一項によりこれを秦却することとし、主文のとおり決定する。
平成一一年七月八日
 東京高等裁判所第四刑事部
        裁判長裁判官 高木俊夫
           裁判官 久保眞人
           裁判官 岡村 稔

別紙
弁護人目録
 主任弁護人  山上 益朗
   弁護人  佐々木哲蔵
    同   和島 岩吉
    同   井関 安治
    同   松本 健男
    同   藤田 一良
    同   深田 和之
    同   西川 雅偉
    同   中北龍太郎
    同   在間 秀和
    同   桜井 健雄
    同   倉田 哲治
    同   中山 武敏
    同   横田 雄一
    同   青木  孝
    同   大川 一夫
    同   井上 英昭
    同   石丸 悌司
    同   浦   功
    同   大澤 龍司
    同   菅  充行
    同   北村 義二
    同   北本 修二
    同   木下  肇
    同   岡田 義雄
    同   小林  寛
    同   里見 和夫
    同   澤田  脩

  
同 下村 忠利
同 武村二三夫
同 仲田 隆明
同 西岡 雄二
同 前川 信夫
同 正木 孝明
同 美並 昌雄
同 井上 豊冶
同 金臺 和夫
同 細川 律夫
同 安養寺龍彦
同 北村 哲男
   以上
別紙二 再審請求書類目録
 ○ 主任弁護人山上益朗はか作成の昭和六一年八月二一日付再審請求書(同年一二月二三日付正誤表二枚綴りを含む。)、同年一 一月一二日付再審請求補充書、同六二年一一月一〇日付再審議求補充書、平成二年一二月二〇日付再審請求補充書(和島岩吉作成の「脅迫状の作成者」と題する添付書面を含む。)、平成四年七月七日付再審請求補充書、同年九月二九日付再審請求補充書、同年一一月二四日付再審請求補充書、平成一〇年六月一九日付再審議求補充書、同年一二月八日付再審議求補充書、平成二年六月一〇日付再審議求補充書
 ○ 弁護人和島岩吉作成の昭和六一年一二月二三日付再審請求補充書の追加意見書
 ○ 弁護人西川雅偉作成の平成一〇年五月二九日付(第一分冊、第二分冊)、同年七月九日付(第三分冊)、同年八月四日付(第四分冊、第五分冊)、同年九月一日付(第六分冊)、同年一〇月二日付(第七分冊)、同月二九日付(第八分冊)、同年一二月一八日付(第九分冊)、平成一一年二月一二日付(第一〇分冊)、同年四月一三日付(第二分冊)各再審議求補充書

 

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