小名木証言





 小名木証言は、石川さんの無実を直接証明する重要な証言です。
 小名木さんは、警察が作り上げた殺害現場と称する場所のわずか数十メートルのところで、農作業をしていました。そのとき、悲鳴も、人影も見なかったと言う証言を一貫してしています。
 警察は、何とかしてこの小名木証言をねじまげ、殺害の間接的な目撃者にしようと策動しましたが、小名木さんは、一貫してはねつけました。


捜査報告書
昭和三十八年五月三十日

狭山警察署助勤
深谷警察署勤務
司法巡査 水村菊二 印
本庄警察署勤務
司法巡査 諸田満 印

狭山警察署長
竹内武雄殿
警視
強盗強姦殺人死体遺棄並びに恐喝未遂被疑事 件の捜査について

狭山市上赤坂一〇〇番地中田善枝十六年の被害に係るみだしの事件について(現場を中心とした戸別聞込み)捜査した状況は別紙のとおりであるから報告いたします。

別紙
一、現場付近で目撃した自動三輪車の捜査
(1)本年五月一日午後二時頃
狭山市入間川○○○○番地
  無職○○○○  六十八歳
が孫二人と親戚の者(八十歳の女と二十歳の娘)と山に遊びに行った時、死体埋没地点の東側山林の端の道で肥桶を積んだ自動三輪車を目撃した。
(2)右につき狭山市役所で土地台帳を調査し、所有者、狭山市大字○○○○番地、農業○○○○(三十九歳)より聞き込みしたところ左記事実が判明した。


桑園耕作者
川越市大字○○○○番地
農業○○○○(三十五歳)
右の者の言によると、
本年五月一日午後一時二十分頃、自家用軽三輪自動車に肥桶に入れた除草剤を積み、妻○○(三十三歳)を同乗させて家を出発し、途中入間川菅原四丁目庚神様のところで妻を下車させ、午後二時一寸前頃、現場東側の桑園に到着し、一人で桑園に除草剤散布の仕事をした。すると間もなく、子供を連れた年寄の女二人と若い娘が通った。午後三時半頃から午後四時頃の間のことであるが、方向、男女の別は判らないが、誰かが呼ぶ様な声が聞えたので、親戚に立寄っている妻がお茶を持って来ながら、誰かに襲われた様な感じがしたので、親戚の方向を見たが誰の婆もないので、雨が少し降っていたので急いで任事を続行し午後四時三十分項除草剤が終ったので仕事をやめ、妻が立寄っている親戚
狭山市入間川○丁目○○○○番地
工務店勤務○○○○(三十七歳)
方に立寄り、其の後五時三十分頃帰宅した。

捜査報告書
昭和三十八年五月三十一日

狭山警察署助勤
深谷警察署勤務
司法巡査 水村菊二
本庄警察署勤務
司法巡査 諸田満

狭山警察署長
竹内武雄殿
警視

強盗強姦殺人死体遺棄並びに恐喝未遂被疑事件の捜査について
狭山市上赤坂一〇〇番地中田善枝十六年の被害に係るみだしの事件について(現場を中心とする一般聞込み)捜査した状況は別紙のとおりであるから報告します。

別紙
一、現場付近で仕事をしていた者についての聞込み
(1)住所 川越市大字○○○○番地
農業○○○○ 三十四歳
右の者は前回報告の通り本年五月一日午後二時頃より同日午後四時三十分頃の間死体埋没現場の東側約一〇〇メートル
狭山市入間川字東里二九四三番地
桑園
で除草剤散布の仕事をしていたものであるが、本日更に聞き込みしたところ次の通りである。


(イ)作業をしていた桑園の面積は、約一反歩(一〇アール)であり、散布のために持って行った薬剤の量は約四斗であった。噴霧器は約四升位入るものであり、自動車及び薬剤は畑の東側山林の端の道のところに置いた。散布を始めてから終る迄約一〇回位畑より自動車迄薬剤補給に往復し、其の間周囲を見廻したが人影を見なかったとのことであった。
(ロ)誰か呼んだ様に聞えたので見た方向は仕事をしていた桑園側の雑木林の方である。その雑木林は冬季、妻の兄である○○○○より借り受け落葉をかき集めた時、近くに住む妻の実兄○○○○方よりお茶を持って来てくれたので、その方向より妻がお茶を持ってくるのかと思い見たのだが、誰の人影もなかったと申し立てた。
(ハ)畑に往復する時、庚神様のところを通ったが、行く時庚神様には祭りの見物人が居り、峯方面から祭りに行く人が居た。而し、旭団地の南の山道方向から来る人はなかった。又、帰りに通った時は雨のため人出はなく、露店商が店をたたんでいたと申し立てをなした。

捜査報告書
昭和三十八年六月二日

    狭山警察署助勤
    深谷警察署
    司法巡査 水村菊二
    大宮警察署
    司法巡査 谷山菊未
狭山警察署長 警視 竹内武雄殿
強盗強姦殺人死体遺棄並びに恐喝未遂被疑事件の捜査について
狭山市上赤坂一〇〇番地、中田善枝、十六年の被害に係るみだしの事件について(死体発見現場附近について)捜査した状況は別紙のとおりであるから報告します。

別紙
一、本年五月一日現場附近の畑で作業をしていた小名木武の聞込み捜査
住居 川越市大字増形三〇九番地
農業 小名木武 三十四才
右者は、前回報告通り本年五月一日午後二時頃より同日午後四時三十分頃の間、死体埋没現場より東約一五〇メートルの桑畑で除草剤散布の仕事をしていたものであるが、本日第四回目の聞込みをしたるところ次の通りである
 記
(1)作業状況、通行人目撃状況等は前回報告の通りである
(2)現場から見透しの状況であるが、西側菅原四丁目方向は良く見透しはきくが、共の他の視界は、雑木林のため悪く、特に東側旭住宅団地より南に通ずる道路は低く作業中通行人の姿は見られないものとのことである。
(3)作業中時間は判らないが旭住宅団地より南に通ずる道路を北より南にオート三輪車が通った音を聞いた
(4)作業を始めてから終る迄、降雨のため軽三輪車の中に入り南やどりをしたのは一回、約五分位.それは妻が洋傘をとりに来た後(午後二時半頃より午後三時頃の間)とのことである
(5)其の他は前報告の通りで特異な聞込みはなかった

捜査報告書

昭和三十八年六月四日

狭山警察署勤務
深谷警察署
司法巡査 水村菊二
狭山警察署長
 竹内武雄
警視
強盗強姦殺人死体遺棄並びに恐喝未遂被疑事 件の捜査について萩山市上赤坂一〇〇番地中田善枝十六年の被告に係るみだしの事件について(死体埋没現場付近の作業者)捜査した状況は別紙のとおりであるから報告いたします。
別紙
本年五月一日午後一時五十分頃より同日午後四時三十分項の間、現場付近の畑(死体埋没現場の東約一五〇メートルの桑畑)で作業をしていた
川越市大字増形三〇九番地
 農業   小名木武
      当三十四年
より、別添参考人供述調書を作成した。
尚、同人より作業をしていた畑の位置を示す略図を作成して貰ったので、報告書の末尾に添付し、共に報告する。

供述調書 

住居 川越市大字増形三〇九番地
   職業 農業
   氏名 小名木 武
   昭和三年八月十三日生(三十四歳)
右の者は昭和三八年六月四日、住居地において、本職に対し任意次のとおり供述した。
一、私は、本年五月一日、狭山市入間川菅原四丁目、狭山女子高枚生殺人事件の死体埋没現場近くの畑で、仕事をしていたことがあります。その時のことについて御尋ねがありましたから申し上げます。
二、仕事をしていた時間ですが、時計を見ていなかったので正確ではありませんが、五月一日午後一時五十分頃より同日午後四時三十分頃の間と思います。
三、仕事をしていた畑ですが、借りている畑なので正確な地番は判りませんが、
  狭山市入間川字東里二九四四番地
と思います。此の畑の面積は約一〇アール(約一反歩)で桑園です。畑の所有者は妻薫江(三十三歳)の実兄
  狭山市大字峯一九七〇 水森典男
です。私は昨年の春頃より、所有者
(注:以下一枚欠落している)
  小さい子供の五人連れが出て来て、私の自動車の脇を通り、旭団地の方に向かって歩いて行きました。
七、仕事を約半分位した時のことですから午後二時半頃か、又は午後三時頃だったと思います。雨が少し降り出して来たのです。雨が降り出すと間もなく妻、薫江が自転車に乗り畑にやって来て、
自動車の中に洋傘を忘れたから
と言って洋傘を持ってすぐに帰りました。
八、仕事を続行していると雨が一時強く降って来たので、自動車の運転台に入り、五分間位雨やどりしたことがありましたが、間もなく弱くなり、仕事に差支えなくなったので、続いてやりました。
九、其の後時間は判りませんが、午後三時半頃から午後四時頃の間の出来事でした。私が畑で仕事をしていると、
誰かが呼んだ様な声
が耳に入ったのです。此の時私は直感で、妻が親戚の水森典男方より私のところへ、お茶でも持って来る途中誰かに襲われ大きな声を出したかと思い、思わず親戚の方向に通じる山道の方を見ました。而し、誰の姿もなく、又人影も見当らず、続いて何の声も致しません。其処で私はそのまま仕事を続行していたのでありました。
一〇、此の時耳に入った声ですが、男の声だったか、女の声だったか判りませんでした。勿論年齢の区別も判らず、又どちらの方向だったか、それも判りませんでした。ですから近い場所ではなかったと思います。
尚私がその時親戚の方向を見た理由ですが、冬の頃畑の北側、親戚(水森典男)の方向に当る雑木林の落葉を掃いた時、水森典男方でお茶を持って来てくれたことがあったので、見た訳です。
一一、午後四時半項薬剤が終ってしまったので仕事をやめ、それから三柱神社の交叉点に出て水森典男方に行きました。水森方でお茶を御馳走になり、妻を自動車に乗せ、午後五時十五分前項出発し、自宅に婦ったのでした。
一二、畑で薬剤散布の仕事をやった状況ですが、約四升位入る半自動噴霧器を背負い、畑一面に薬剤を散布するのですから下ばかり見て居り、四方を見廻すことはありません。而し肥桶二本に入れた約四斗の薬剤を散布したのですから、薬がなくたると補給するための約十回位、畑より自動車のところに戻ったのです。ですからその時は東西の畝を往復し歩き、菅原四丁目方向と東側山林は視界に入ったのですが、近所に人影は見ませんでした。只、時間は覚えて居りませんが、旭団地の東側より南に通ずる雑木林の道を北より南に向い、オート三輪車が通った音を聞きました。尚北の道は低いので私の畑からは通る人を目撃することは出来ません。
一三、畑で作業中、以上申し上げた外、見聞したことはありません。
一四、三柱神社の御祭りですが、私が畑に行く時は、女、子供が遊んでいるのが眼に止まりました。其の後畑伝事をしていると、三柱神社でやっている拡声器から歌等が聞えました。
私が帰る時御祭りは人出がなく、露天商が店を閉じている様な状態でした。
一五、当日の降雨状況ですが、畑仕事がどうやら出来る位で畑から帰る迄、そんなにひどく濡れませんでした。而し親戚から帰る頃は強く降り出したのでした。
一六、尚妻にも洋傘をとりに来た状況を聞きましたが、畑及び山道付近では誰にも逢わなかったとのことです。
         供述人小名木武 印
右の通り録取して読み聞かせたところ誤りないことを申し立て署名押印した。
   前同日
   狭山警察署助勤
   深谷警察署
   司法巡査   水村菊二 印

供述調書

住居 川越市大字増形三○九番地
職業 農業  電話 局  番
氏名 小名木武
昭和三年八月十三日生(三十四歳)

右の者は昭和三十八年六月六日、供述人自宅において、本職に対し任意次のとおり供述した。
一、私は前回警察の者に本年五月一日、
狭山市入曾川菅原四
丁目の桑畑に除草剤散布に
行き、其の仕事中誰かが呼
んだ様な声を聞いたと申し上げ
ましたが、聞いた声について
本日( )お尋ねですから申し上げます。
二、前回も申し上げた通り私は午
後三時頃から四時頃の間と思
いますが、私が一人で桑畑に
除草剤を故布していますと、
オーイと言ったのか
ホーイと言ったのか
あまりはっきりしませんで
したがあまり高くもない声で
誰かが呼んだような声
がしたのです。
私は時間的からして妻薫江
が近くの兄、水森典男方
へ行ってるのでそこから
お茶でも持って来た
のではないかとも思いましたので、
何時かその畑にお茶を持って
来たりする水森さんの方の
山道を見ましたが、妻( )誰
もの姿が見えませんでした。
私はこの時お茶を待って来た
んでもなさそうだ( )この辺は
人が襲われたりする事もある
と言う話を聞いたことがあり
ますが、今聞いた声は妻でも
襲われたときの声ではなかっ( )た
ろうなあと思ったのですが、
私の見える所では人影も見
えないし、又、続いて声も聞き
ませんでしたから、私はその
( )仕事を続けて仕舞いま
した。
この様なわけで前回申し上げ
た通り男の声か女の声か区別
もつきませんでした。
声のした方向についても除草
剤散布していたときだったので、
どっちの方から聞( )て来たか
と言われても全然判りません
でした。
それから何日か過ぎてからですが、
菅原四丁目の畑から女子高校
生の死体が発見されたと言う
発表があってからの事で、五月
五日頃と思いますが、私が
奥村の○○○○さん(注:友人)
の弟○○○○さん
が東村山の久米川で
大工さんをして居りますが、
そこえ手伝いに行き○○○○
さん(注:奥村の○○○○さんのこと)
とも一緒に( )狭山女子
高校生殺し事件の話が出て
菅原四丁目の畑から死体が
出た話が出ました.この時私は
五月一日コージン様の祭りの日に
四丁目の畑に仕事をしに行って居り、
誰かが呼んだ様な声を
聞いた事を思い出して、
そう音えば
変な声を聞いた
事を○○さん(注:奥村の○○○○さんのこと)に言った事があります。
私は○○さん(注:奥村の○○○○さんのこと)からあまり人にも
言わない方が良い( )と言われた事があります。

           小名木武
右の通り録取して読み聞かせたところ誤りない旨申し立て署名押印した。
前同日
県警察本部捜査第一課
司法警察員
巡査部長       石川金吾

供述調書 

住居 川越市大字増形三〇九番地
   農業  小名木武
      当 三十四歳
右の者昭和三十八年六月二十七日入間川第一駐在所において本職に対し任意左のとおり供述した。
一、私は川越市増形で農業を
やっている者だが今年の
五月一日狭山市入間川の桑畑
で変な声を聞いた状況につ
いては警察で話した通り
です。
私が働いていた桑畑の位置
について図面を書いたから提出します。
この時供述人は見取図と題する図面一( )を作成提出したので本
調書末尾に添付する。
私がその日その図面の
私の桑畑で仕事を始めた
時間は午後一時半頃から
二時頃造の間だと思います.
それは私はいつも12時頃
昼飯をやるのだが、その
日昼食後畑に行こうか
どうか迷って少しぐずぐず
していたので、家を出たのが
多分一時過ぎから一時半頃だと思うからであり、家から畑まで車で十五分位です。
二、変な声を聞いた時間だが
大体午後三時半頃から
四時頃までの間だと思い
ます。
それは私の畑が一反歩
あり、それ全部に除草
剤をまくのには約三時間
かかり、声を聞いたのが
大体半分まき終って間
もなくの事だったから
です。
私が東の方を向いて薬を
まいていると、どちらの
方向からだかはっきりし
ないが、約百メートル位
離れていると思われる辺
りで悲鳴とも呼び声とも
つかない声が聞こえたのです。
何を言ったのか、男女いずれ
の声か、声が長かったのか短
かかったのか、というような点
は仕事に夢中になって
いたので、はっきりしない
のです。
ただ全体の感じとして
或いは女の悲境のように
聞えたのかも知れません。
それは私がその声を
聞いた瞬間、とっさに畑
から( )方にあたる( )野
方の方を見て或いは( )
野方からお茶を届け
に私の所へ来た妻が
途中で変な奴におそわ
れたのではないのかと感じ、
よほど行ってみようかと
思いまして、しばらく仕
事の手を休めた事か
ら、そう思われるのです。
なお私は警察で話した
お婆さん達の他、人影は
全く見ておりません。
こうして私はそれ以上変
な声もしないので、何んでも
なかったんだろうと思い、
仕事を続けたのです。
なお私の乗って来た事
は、私の桑畑の東側の
農道に南に頭を向けて
停めておきました。

      供述人 小名木武
右の通り録取し読み聞かせたところ誤りのない旨申し立て署名押印した。
前同日
浦和地方検察庁
検察( )換事  河本仁之
検察庁( )   橋上 英

小名木第一弁面 八一年
供述調書
住所 埼玉県川越市大字増形三〇九番地
職業 農業
氏名 小名木武
昭和三年八月一三日生(五三歳)

右の者は、昭和五六年一〇月一八日住居地において、当職らに対し、任意次のとおり供述した。
一、私は昭和三八年五月一日発生の中田善枝さん殺し事件の死体埋没現場近くの桑畑で、同事件当日除草剤散布の仕事をしていたことがありますので、その時の状況について申し上げます。
二、事件当日の事については当時警察官から何回も事情をきかれ、供述調書が作成されていますが、それは当時の記憶に基づいて述べたものです。

この時当職らは、昭和三八年六月四日付司法巡査水村菊二に対する同人(小名木武)の供述詞書を示したところ同人の署名捺印であることを認めた。
次に同日付右水村菊二作成の捜査報告書に添付された小名木武作成名義の図面を示したところ、同図面も同人が作成したものであることを認めた。

三、私が事件当日農作業をしていた畑は、狭山市入間川字東里二九四四番地の桑園で、その面積は約一〇アール(約一反歩)で、所有者は妻の実兄の水森和夫です。
畑には自動三輪車に除草剤を積んで行きましたが、車を停めていた位置は、桑畑東側の農道で、畑の入口から雑木林入口に至る道の丁度真中附近に頭を南に向けて停めておきました。
桑畑の位置及び停車位置については略図を書きましたので提出します。

この時同人は、見取図と題する図面を作成提出したので、当職らは同図面を本調書末尾に添付する。

四、当日は昼食後妻を自動三輪車に乗せて、自宅を出発し、途中庚神様のところで、妻を下車させ、桑畑に行きました。
桑畑ではうねにそって東西に除草剤を撒きながら、順次北から南の方向に散布していきました。散布に使用した噴霧器は手動制です。噴霧器の除草剤がなくなると畑から車のところへ行き薬剤を補給しました。
桑畑は約一反ですから、散布作業には大体三時間から四時間かかったと思います。北の方から南の方に向って作業をすすめ、南側約三畝を残したところで、薬剤がなくなりましたので当日の農作業を終りました。
警察官からの事情聴取の際に私が当日の農作業の状況について説明したところ、警察官も現場に行ってそれを確かめ、
草が約三畝枯れずに残っていた
と私に言っておりました。
畑から帰る時は停止場所から一旦車をバックさせて出ましたが、そのころはけっこう雨が降っておりました。
五、右の作業中にきこえた声のことですが、作業中ホーイともオーイとも、誰か何んか言ったかなと思うような気がしたのです。はっきりした悲鳴というものではありませんでした。確かに人の声でしたが、オーイとか助けてとか悲鳴だとかいうふうなものではありませんでした。いつも畑にいくというと女房がお茶なんかもってきてくれるし、誰か何か言ったみたい気がしたのでいつも来る山の方を見たけれど誰も来なかったので作業を続けました。
六月二七日付の検察官に対する供述調書のなかに一〇〇米位離れたところで声をきいた旨書いてあるとのことですが、私はそれは言わなかったと思います。むこうが書いたのだと思います。また女の悲鳴のようだとも言っておりません。
六、一週問程前の一〇月一〇日夕刻に私が右の桑畑へ先生方をご案内し停止位置などを指示しておりますが、犯行現場とされている場所は右の桑畑の南側と接する雑木林内で、しかも境界の近傍ということですが、私は事件当時から本当にそこで犯行があったであろうかと疑問に思ってきました。
もしそこで被害者が悲鳴を上げたのならば私はきいた筈ですがそのような悲鳴はきいておりません。
また犯人の方でも私が農作業をしている音をきいていると思います。

供述人 小名木武  印

右の通り録取して読み聞かせたところ、誤りのない旨申し立て署名押印した。
昭和五六年一〇月一八日
東京都港区西麻布一丁目十一番一〇号ビルマーサ一F
弁護士 中山武敏  印
同 中央区銀座六−四−一二岡田ビル
同 横田雄一    印

小名木第二弁面(部分) 八五年   引用 狭山差別裁判198号
「それは、悲鳴とかはっきりした人の声だとかいうものではなく、特に気をとめていませんでした。作業終了後、自宅に帰ってからも、そのことについて夫婦で話したりしたこともありませんでした。五月頃になって、警察の方が毎日のように聞き込みに来られ、人の声を開かなかったかと尋ねられ、五月一日作業中、誰かが何かいったかなあという話をしたのです。
それが悲鳴でなかったことは断言できますし、人が襲われたような気持ちで開いたものでもありません。人が襲われた感じがしたのであれば、その時、周囲を見まわしたり、付近を探したりするはずですが、そういうことはしていません。
警察の方が聞き込みに来られるまでは、まったく気にもとめていなかったのですから、私の桑畑の南側と接する雑木林で事件が起こったような状況は全くありませんでした。私は、当日、私の桑畑の南側と犯行現場とされている雑木林との境界付近まで散布作業をしているはずですし、境界付近の桑畑は、雑木林の日陰となって生育も遅く、桑の木も低くなっているのですから、もし雑木林に人がいたのであれば私の作業している姿は見えたはずです。
雑木林は毎年下草を刈り取っていましたから、雑木林のほうからも、私の桑畑のほうからも、見通しは悪くありませんでした。境界付近からは雑木林の真ん中付近まで見えるような状況でした。
私は当日作業中、悲鳴も聞いていませんし、人影も見ていないことは間違いありません。」






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