大野鑑定の解説 



狭山事件の脅迫状は誰が書いたか
 国語学的方法による文字分析の試み

〔注〕講談社学術文庫より著者の了解のもと転載



 私は友人大田信男の依頼によって狭山事件の石川一雄被告が書いたとされる脅迫状の文字を調査した。そして事件当時の被告人はその脅迫状を自分で起草して書くことはできなかったという結論に達した。すでにそのことは昭和四七年(ママ)二月号の雑誌『世界』に書き、弁護人の依頼をうけて正式に裁判所に同趣旨の鑑定書を提出した。これによって被告は誤って罰せられることを当然免れるであろうと私は思っていた。
 ところが第二審において、逆にその脅迫状は有罪の重要な証拠として用いられた。私の見解は、とるに足りないものと判断された。
 私が鑑定書を書いた時点では、私は脅迫状の実物を見ることができなかった。しかし、その後、私は脅迫状だけでなく、被告人の当時の上申書、地図などの証拠物を、実物について見ることを得た。それによって、私は、前よりも一層明らかに、確信をもって私の見解を述べることができる。
 私はそれをここに書いて、裁判所の判断が正しいか、私の判断が正しいかについて世人に訴えたい。誤った判断によって人を罪に陥れてはならないと思うのである。


「極めて大雑把」だった取り調べ
 第二審の判決を読むと非常に不思議なことがいろいろ書いてある。その一例をあげる。以下に記すところは、弁護人の主張ではなく、裁判所の判断である。
「被告人が自白するようになってからも、被告人を事件の関係現場に連れて行って直接指示させること、いわゆる引き当たりという捜査の常道に代え、取調室において関係現場を撮影した写真を被告人に示して供述を求めるという迂遠な方法を採ったことは、その間どのような障害があったにせよ、不十分な捜査といわざるを得ない(下略)」「殊に最も重要と思われる脅迫状・封筒についてさえ、被告人に原物を示したことがあるのかどうか疑わしく、むしろその写真を常用していたことが窺われるのであり、そのため、当審に至って鑑定の結果明らかになった脅迫状等の訂正箇所の筆記用具は、ペン又は万年筆であって、被告人の自供するボールペンではなかったことにつき捜査官が気付いた形跡がないこと、そのため被告人のボールペンを使って訂正したという供述をうのみにし、このことがひいて犯行の手順に関する原判決の認定の誤りを導いているのである」「脅迫状に使用されている漢字等についても、被告人に脅迫状を示して逐語的にこの字は前から知っていた字であるかどうか、『りぼん』(大野注。被告が読んだとされた雑誌の名)その他の本から拾い出して書いたものであるかどうか、若しくは被告人がテレビ番組を知るために買っていたという新聞のその欄から知るようになったものであるかどうか。(中略)など綿密に質問すべきであったと思われるのに、極めて大雑把な質問応答に終始している」判決文の中で裁判所側の見解として右のように書かれている以上、基本の取り調べがはなはだ杜撰であったことは容易に推知せられる。
 この杜撰な捜査段階でなされた被告人の供述には当然、種々の食い違いがある。裁判所も供述の矛盾や混乱を認めているが、被告人が無実を主張するに至った以上、その真偽取りまぜた供述の中から、真実と真偽とを判別する作業を裁判所が行わなければならないという。
 しかし混乱した捜査段階における供述によって、犯罪の進行を推定し構成することは、極めて主観的な作業たらざるを得ない。それよりも、残された確実な証拠物を詳細に吟味し、明確に推理できることの範囲内で、ことの黒白を明らかにすることが必要である。私は、いわゆる脅迫状と被告人が警察に提出した上申書と、逮捕後、脅迫状を写した文書と、警察で書いた地図との四点について、文字の面からこれを国語学的に考察を加えることとする。

文字使用の基本技能に欠けていた
 私は直ちに脅迫状の問題に入る前に、被告人の学歴及び学校での成績を見ておく。
 被告人は埼玉県入間郡入間川町立入間川小学校に入学し、同校を卒業している。昭和二〇年四月六日入学。昭和二六年三月二八日卒業。その出欠・成績・知能指数は別表(次ページ)の通りである。
 知能検査は昭和二四年一二月八日に実施し、小学校用B式標準知能テスト一〇〇。
 これで注目すべきは被告人の欠席日数の多さである。ことに二年、五年、六年は家事手伝いなどのために実に多く欠席している。これが当然学業成績に影響している。「書く技能」が四・五・六年とも-2であることは、被告人の文字使用の基本的技能の欠乏を示している。
 脅迫状に関係ある書字技能については控訴審二四回公判での戸谷鑑定人の被告人質問によって具体的に知られる。そこで、その記録を以下に引用する。
「被告人の学歴は」「名目は中学校二年まで行ったことになっていますが、実際は小学校五年の終り位までしか行っておりません」
「それ以後はどうしていたのか」「方方に勤めていました」
「勤めていたとき、帳簿をつけたりしたことがあるか」「半年位、夜だけ字を習ったことがあります」
「それは何歳位の頃か」「十五歳位の頃です」「一日何時間位習ったか」「仕事が終ってから毎日一時聞か一時間半位そこのねえさんから知らない字の読み方やそれの書き方を教わったりしました」
「被告人がいつも家でつかう鉛筆とかボールペンとか万年筆とかいうものは決まっていたか」「うちで字を習うのは、選挙に行く前位で、後は字を書いたことはありません」
「選挙に行かれる前に自分のうちで候補者の氏名を練習していたのか」「そうです」
「後はうちでは殆んど字を書いたことはなかったのか」「そうです」
「(前略)なお私は川越の個人のプレス工場に約一年半位勤めていたことがありますが、そこでは毎日帳簿をつけていました」「川越のプレス工場ではどういう帳簿をつけていたのか」「そこの奥さんが、その日各自がやった仕事のことや、十二時と三時の休に休んだかどうかをつけておけと言われたので、つけていました」
「すると字を割合に書かれたのは字を習った十五歳位の時か」「そうです」
「被告人が読んでいたものは、主にどういうものか」「時代もののちゃんばらがのっている本は読んだことがあります。そのほかは漫画位のものです」
「被告人は本件で逮捕されてから後、字が非常に上手になっているが、それは逮捕されてから字を練習したのか」
「別に練習したことはありませんが、原検事にセルロイドのケースに入っていたこの事件の脅迫状かどうかわかりませんが、それを見せられ、それをみながら、書けといわれて書いたことは何回かあります」
「何回というと何回位か」「留置されてから直ぐですが、調べに来る都度書かされました」「その日数は何日位になるか」「それはちょっとわかりません」

取り調べのなかで「漢字の練習」
 右の脅迫状の練習の問題に関して、六六回公判における被告人の、検察官とのやりとりを次に引用する。
「何んで脅迫状を一生懸命にだね・・・」「脅迫状だか何だかわからなかったですよ」
「見ればわかるでしょう」「見てもわからないですよ。これ見て書けというから」
「読めばわかるでしょう。字は読めるでしょう」「字なんかわかんないですよ」
「字は読めなかったの」「そうですよ。だから自分が事件起す前に字がありますか。殆どないでしょう。東鳩(大野注。被告人が勤めていたことのある会社の名)にある早退届だって、人から書いてもらったのを写したんです。(中略)自分がこの事件起る前は自分が字を書くなんてことないと思いますね。早退届以外には」
「脅迫状のひらかなの部分も何かいてあったのかわからなかったというのか」「ええ、ただ夢中だったからね当時は、そういうのを書くのに。まして河本検事なんてすごかったからね。おっかなくて当審でも清水警部も述べてるけどね。毎日わら半紙に書かされたからね、殆ど。ただひとつね証拠として出てないのが不思議だと思うけれども、自分が漢字を習わされたような気がするんですよ。原検事は、自分が逮捕されて五、六日たってから、殆ど漢字ばかりだったようですね。それを書けといって、そうですねえ、それ二日問ばかり書かされたんですねえ。それがでてるわけなんですけれども、拇印押せというので押したんですけど、それも出ていないのが不思議なんです」
 右の記録に関連して、被告人が勤めていた先の、石川茂夫妻の言葉がある。石川一雄氏が勤めていた期間、茂氏の夫人一枝氏が石川一雄氏に字を教えたということで、「ひらがなをいろはから教えたが、漢字には及ばなかった。役に立つところまではゆかなかった」ということである。
 また、被告人は平仮名の「あ」の字をうまく書くことができなかったという。それについて次の記録があるので引用する(これは二審の三〇回公判において、中田弁護人の問いに対する答えである)。
「自分(被告人)は前はこういう『あ』という字を続けて書けなかったのです。書けないからかまわずへんな『あ』を書いちゃったら、こういうふうに書くんだと怒られました」
これは取り調べに当たった遠藤警部補に叱られたことを指しているものだ。
 さて、右の供述の中から、次の諸点が注意される。
1、被告人は逮捕後、脅迫状を見せられて何回も書かされたが、脅迫状であることも十分認識できなかったこと。
2、書かされたのは漢字らしいが、それも十分認識できなかったこと。
3、当時の被告人は平仮名の中に書けない字があったこと(「あ」のごとき)。
4、特定の漢字以外(選挙の候補者名など以外)漢字は概して書けなかったこと。
 こうした状況にあった被告人が書いた上申書、脅迫状等はいかなるものであるか。凸版によっては十分その実際を再現することは困難であるが、以下の文章と別掲の上申書等の写真の文字とを見較べて頂きたい。

漢字を使いこなすのは不可能
 まず上申書から吟味することとする。この上申書なるものは、被告人が逮捕される前の昭和三八年五月二一日に、自分が事件に無関係であることを警察当局に対して申し立てた文書である。この上申書の漢字について調査した結果は次の通りである。
 誤らずに書けた漢字が次の一七種、三三字ある。これを小学校学年別配当(旧)表によって整理すると、およそ一年程度の漢字は普通に書けていることが分かる。三年程度の字は、すべて字画や構造の簡単なものに限られている。
一年程度 一、五、六、日、月、山、川、水、石、上
二年程度 入、村
三年程度 才、市、申、和
右の他「狭」がある。これは教育漢字の中に入っていない文字であるが、自分の住所である「狭山」の文字として記憶されていたものであろう。
 次に正しく書けなかった漢字は次の八種、一二字である。それを小学校学年別配当(旧)表によって整理すると次の通りである。
一年程度 右(左の「誤字」一覧表のうち@)
二年程度 書(同A)、問(同B)、年(同C)、時(同D)
三年程度 昭(同E)
五年程度 造(同F)
「造」は兄、六造氏の名であるが正しく書けていない。また、自分の名の「一雄」も、「雄」の字画が複雑であるため、簡単な「一夫」に改めて常用していた。これらの文字を見ると被告人の当時の書字技能の程度を推測できる。小学校一年生程度の文字は大体書けるが、一年で学習する「右」、二年で学習する「書」「間」「年」「時」、三年で学習する「昭」を正しく書けていない(なお、漢字の誤りについては、逮捕後狭山警察署で書いた地図に、「五月ツ24日」と「月」に「ツ」を送った例が二つあることを言い添えておく)。
 これによれば、被告人の書字技能は、極めて低かったということができる。
 元来、小学校における漢字学習は、四年生までに約六〇〇字が提出される。この六〇〇字は大人の日常生活における漢字使用度数の約七割を占める基本的漢字である。それゆえ、四年生程度までの学習を達成しないならば、普通の雑誌とか新聞とかを読むのに困難をきわめ、普通の文字生活に加わることができにくくなる。そうした人々は字画の多い字を弁別し、書くことが不可能となる。これは経験ある小学教員の一般に認めるところである。
 それゆえ、右に見たように、平仮名の一部や小学校二年生程度の漢字が正確に書けない状態は、漢字使用の基本的技能に欠けている状態なのであって、漢字を自由に駆使することは不可能である(これは脅迫状の漢字使用の状況を理解する上で極めて重要な点であり、後に詳しく述べる)。
 さて次に上申書の仮名使用について調査し、これに国語学的な解釈を加えれば、次の通りである。
@すでに述べたように、上申書の中に仮名の字形そのものが正しく書けないものがある。それは「ま」の字である。上申書の中には六っの「ま」がある。
申し上ます
四晴ごろまでしごとをしました
どこエもエでません。でした
ねてしまいました
ところが「しました」「エでません」「しまいました」の四字の「ま」は、その形がページの図の「誤字G」「同H」のごとくになっており、一般的に書かれる「ま」とは全くことなっている。つまり被告人は「ま」を正しく書くことができなかったのである。
A「は」と「わ」との混用がある。
はたくしわ
五月一日わ
この日わ
 右の四例を見ると、被告人は、この時点では、「は」と「わ」とが別字として区別されるべきことを知らなかったもののごとくである。「は」を助詞のワのところに書くところから、一般的にワの仮名として「は」を使ってもよいと考えていたものと判断される。この誤りは一般的に言って書字技能の低い人において見られる事実である。
B次に方言的発音をそのまま書いたところがある。
エでません
 このようにイとエとを混同するのは、埼玉県では一般的なことである。「エでません」の「エで」は「行って」の意である。このように、促音を書くべきところに、濁音の仮名を書くことは、文字生活に馴れたものには奇異に見えるかもしれない。しかし、促音の表記と濁音の表記とを混同することは、日本の古い仮名文書、例えば平安、鎌倉時代の文書を見ると、しばしば見出されることである。

文字生活に馴れていない被告人
 つまり、仮名によって日常の言語を表記することに不馴れな段階では、促音と濁音とは混同して意識されることがよくあるものなのである。被告人は、自分は字を余り書いたことがなかった旨を証言しているが、上申書の、この表記は被告人の言をよく裏づけている。
C仮名の脱落がある。
にさの
なし
「にさの」とはniisannoのつもりで書いたものと判断されるが、「にいさ」を「にさ」とするのはniisaのように同じ母音が二つ連続するので、その一方を脱落したものである。また、「さの」は「さんの」の意である。これはsannoとnが二つ連続するので、その一方を脱落したのである。
なしは、「なおし」の「お」の脱落である。つまりnaosiの「o」を脱落させたのである。日本語の音声史を見ると、母音が二つ重なる場合、狭い方の母音を落とすことが古来存在しており、ここにも、極めて自然な形でそれが行われたものである。
 右に見た三つの仮名の脱落は、偶然、字を書き落としたというものではない。発音と仮名との対応のさせ方に習熟していない者において、古来極めて自然に起こっていた表記の仕方が、故意でなく、作為なしに被告人の場合にも起こったものとして、国語学的に容易に理解しうるものである。
 これらの、仮名使用の状況は、当時の被告人が、文章を読み、書きする生活習慣をほとんど持っていなかったという事実と照応する。


 自筆と脅領状の運筆速度に大きな差
 次に、この上申書の表記では、句読点が打ってないことに注意しなければならない。実は、句読点は全然無いのではなく、一箇所存在するのであるが、
どこエもエでません。でした
というように、句切るべきところでない所に打ってある。つまり、この当時被告人は、句読点を打つ習慣も技能も身につけていなかったと判断される(この点は後述するが、脅迫状との明瞭な相違点である)。
 なお、句読点については、脅迫状を、拘留後、昭和三八年七月二日に筆写させられた文書が資料となる。その文書では被告は句読点を全然打っていない。つまり被告人は、句読点をつけるという技能を逮捕の前後において身につけていなかったことが明白であり、句読点の意味を正しく読み取ることもできず、従ってそれを使用することもできなかったのである。
 以上の諸点を総合するに、被告人は当時小学校一年生程度の漢字は、比較的書き得たけれども、二年生程度の漢字のうち画数の多いものは書き得ず、句読点の意識は明確でなかった。また平仮名の中にも正しく書けない字が二字以上はたしかに存在した。つまり、被告人が当時身につけていた書字技能は、かろうじて小学校二年生程度のものであったことは確実である。四年、五年、六年を通じて、「読む」と「書く」が常に-2という最低の評価を得ていることと相応する事実と考えられる。
 なお、上申書の文字について極めて重要なことがある。それは上申書の文字の、運筆速度が極めて遅いことである。すでに右に見たごとく被告人は、小学校二年生程度の書字技能しか持たなかったのであって、運筆もまた極めて遅く、たどたどしいことは、上申書の実物を見ることによって確かめられることである。  ●ページの写真に見られる被告人の文字もまた運筆速度が遅い。
 この遅さは、漢字や仮名の使用の状況と考え合わせるならば、技能としてこれ以上は速く書くことができない遅さである。高度の文字技能、書字技能を持ちながら故意に遅く書いたものではない。
 運筆は、速い者が意図的に遅く書くことはできるが、運筆の技能の低いものが、字形を乱さずに速度を速くすることは不可能なのである。この点をあらかじめ注意しておく。これは脅迫状との比較によって意味を持ってくる。
 さて次に脅迫状を吟味することとする。これは自白調書によれば、被告人が一生懸命作成し、それを持ち歩き、訂正を行い、被害者の家のガラス戸の前でもう一度封筒を破って中身を点検したとされているものである。
 この脅迫状の本文用紙表面からは、二つの対照可能な指紋が発見されている。一つは狭山警察署巡査木村豊氏の、右手示指に符合する指紋。二つは被害者の実兄中由健治氏の右手拇指に符合する指紋。この他には無く、被告人の指紋は一つも発見されていない。昭和三八年六月二五日付青木調書によれば、被告人は「私は五月一日には手袋を使いませんでした。鳶職は余り使いません」と述べた旨の記録がある(なお、昭和五〇年秋にこの脅迫状を私が実見したところ、中央の二行分が切りとられてなくなっていた。この紙面の文字を書くに用いたボールペンの色の鑑定のためということであったが、重要な物証の取り扱いとしては極めて乱暴な処置と思われた)。

漢字能力は小学校二年生程度
 さて脅迫状の文字と文章とについて調査した結果を述べることとする。
 まず使用された漢字の一覧表を作れば次の通りである(小学校の漢字学年別配当〈旧〉表による)。
一年程度 一、二、十、人、中、子、女、月、日、小
二年程度 円、友、西、少、時、前、夜、門、車、地、分、気、出、名、知
三年程度 万、死、園
四年程度 命
五年程度 武
六年程度 供
教育漢字外 刑、札、江
 脅迫状には右に見るような三四種、七五字の漢字が使われている。それは一年程度の漢字から、六年程度のものにわたり、教育漢字外の「刑」「札」「江」という三字までを含んでいる。
 既述のように被告人の供述によれば、被告人は逮捕されて間もなく、脅迫状を写して書くことを命ぜられ、何度かそれを実行したという。その文書の一つ、昭和三八年七月二日付、川越警察署分室において書写された文書がある(ページの写真。以下『写し』とする)。そこでこれを、脅迫状と比較しながら記述することとする。
 脅迫状には三四種の漢字が使われているが、七月二日の『写し』に使われたのはその半分、次の一七種である。
一年程度 一、二、十、人、中、子、女、月、日
二年程度 円、友、西、少、時、前、夜
三年程度 万
 これを見ると脅迫状の中の一年程度に属する漢字一〇字のうち九字、二年程度の一五字のうち七字、三年程度の三字のうちの「万」一字が『写し』の方にも書かれている。この中で、「夜」の字は正しく書くことができず、しかも「夜る」と「る」を送り仮名のように添えてある。これは被告人が「夜」だけでヨルと読むことを知らなかった結果と判断される。
 三年程度としては「万」が使われているが、これは字画も少なく、記憶しやすく、書きやすい文字だからであろう。
 脅迫状に使われた漢字のうち、二年程度の中の、画数の多い「門」「車」は、『写し』では「もん」「くるま」と仮名で書かれている。また「池」は『写し』の方では「辺」と書かれており、脅迫状を見て書きながら、しかも被告人はその形を正しく書けなかったことを示している。「時」という文字は、上申書では「晴」のように書いていたが、ここではそれと異なった字体で、脅迫状に近い形になっている。それは脅迫状、またはその写真を見ながら書いた結果と判断される。しかし「時」は、依然として正しくは書けていない。
 右の他、三年、四年、五年、六年程度及び教育漢字外にあたる「死」「園」「命」「武」「供」「刑」「札」「江」は、『写し』の方では、「し」「エん」「いのち」「ぶ」「ども」「けい」「さつ」「エ」と、仮名で書かれている。
 およそ漢字の習得の初歩においては、一字一字を丁寧に読み、意味を理解し、筆順に従って運筆の練習を繰り返さない限り、漢字を理解し、読み、書くことはできないものである。小学枚四年生程度までは一字一字に個別に習得して行き、五〇〇字、六〇〇字くらいを記憶し、書き得る技能を獲得して後に漢字の全体的な構造が理解できるに至り、偏や旁の役割が分かるようになる。そこに至ってはじめて未知の漢字を見た場合にもそれを構成要素に分解することが可能になる。その上であらためてそれを全体として組み合わせ、その未知の字を理解し、記憶し、それを書くことが可能となる。

作為的技巧にみちた脅迫状
 しかし、小学校二年生程度の書字技能も覚つかない状態では、突然、程度の高いむつかしい漢字を見せられても、それの形を分析的に把握して正確に書写することは不可能なものである。
 脅迫状に使用された「死」「園」「命」「武」「供」「刑」「札」「江」が『写し』に用いられず、仮名で書かれているのは、右に述べたような事情によって被告人がそれらの多くの漢字を模写し得なかったものと判断される。
 被告人は警察官の前で、脅迫状を模写させられたから、故意に、原文の漢字を仮名で書くようなことは許されがたいことであったに相違ない。しかし被告人は原文のうちの右にあげた漢字を含む部分をよく理解もできず、漢字として形づくることも不可能だったものと考えざるを得ない。『写し』の文字の状態は、前述のように、六六回公判において被告人が「脅迫状だか何だかわからなかったですよ」「字なんかわかんないですよ」と述べていることと照応するものである。
 なお、脅迫状には極めて特殊な用字がある。それは、平仮名の「で」「き」「な」「し」「え」を書くのが通常である個所に「出」「気」「名」「知」「死」「江」を用いていることである。
「出」の例。七。
車出いくから(車でいくから)
一分出もをくれたら(一分でも)
車出いッた(車でいった)
死出いるから(死んでいる)
車出いッた(車でいった)
車出ぶじに(車でぶじに)
死出死まう(死んでしまう)
「気」の例。三。
か江て気名かッたら(帰ってきなかったら)
かえッて気たら(帰ってきたら)
気んじょの人にも(きんじょの人にも)
「名」の例。二。
は名知たら(はなしたら)
気名かッたら(きなかったら)
「知」の例。二。
ほ知かたら(ほしかったら)
は名知たら(はなしたら)
「死」の例。一。
死出死まう(死んでしまう)
「江」の例。三。
か江て気名かッたら(帰ってきなかったら)
そこ江いッてみろ(そこへ行ってみろ)
くりか江す(くりかえす)
 これらの漢字使用について考えられることは次のごとくである。
 およそ、漢字を記憶して誤らずに使用することは、小学校、中学校などの初等の学習において、かなりの負担であって、用字法上の全体的傾向としては、漢字を使用するのが普通である場合にも、書字技能の低いものは、仮名を用いてしまうものである。仮名を用いるのが普通である場合に、誤って一つ二つの漢字を書くことはあっても、繰り返し、多数の漢字を仮名の代わりに使用するごときは、極めて不自然であって、漢字、仮名使用上の全般的傾向に逆行するものである。
 たとえば平仮名の「し」などは最も簡単な仮名で、これに代えて「知」「死」という漢字を用いるごときは、作為以外の何ものでもない。
 また、「で」の仮名として「出」、「き」の仮名として「気」という、画数の多い文字を多数用い、「な」に「名」を用いるのも、極めて不自然であり、故意の用字である。被告人は五月二一日の上申書において、「で」「き」「な」「し」「エ」の仮名をすでに書いており、これらの仮名が書けない結果、右にあげたような漢字をあて字に使ったのではない。
 なお注意すべきは「江」という仮名である。これは脅迫状において三回も使用されているが、本来この字は当用漢字表の中にある文字で、教育漢字の中には入れられていない漢字である。そして大学生でも「江」を「え」の仮名として用いるものは絶無である。「江」を「え」の仮名として用いるのは、古い教養であり、また、造花の花環を人に贈る場合などに「………さん江」と書く習慣が一部に存在するが、それは極めて特別な場合であって、それを記憶しているのは、むしろ今日の中年層、老人層である。そのような文字が脅迫状に混用されているのは、この脅迫状の筆者が標準以上の文字技能に達し、当時すでに、かなりの年配のものであったのではないかという推測をさせる。
 「え」に「江」を用いることは小学校二年生程度の書字技能の持ち主の到底なし得ない作為的技巧である。

句読点の使い方に決定的違い
 脅迫状の起草者は、右のような、通常でない用字法を脅迫状に持ち込むことによって、むしろ、学力の低い人間を犯人像として描くことを期待したものと思われる。しかし、作為には作為の弱点が伴うのであって、脅迫状における漢字使用の不自然さ、そして学力の高さは、作為の仕方において打しろ逆に顕在化しているのである。
 また、脅迫状の筆者が、高い文字技能を持っていたことは、脅迫状における句読点の打ち方によく現れている。句読点を正しく打つことは、かなり正確な文章技能を持ってはじめて可能なことなのである。ところが、脅迫状には一三個の句読点が打ってある。脅迫状は一〇個のセンテンスから成っているが、そのうち九個のセンテンスに句点が正しく打ってあり、一個だけに句点がない。読点が他に四つある。
 ところが、被告人の上申書には、ただ一つ句点があり、それも誤ってつけられていることは前述した。また、警察官の前で書写させられた七月二日の『写し』には句読点は全然ない。
 これは、被告人が脅迫状の句読点について認識が及ばなかった結果であり、被告人は句読点を打つ技能を持たなかったのであって、これは脅迫状の筆者と、被告人との書字技能の格段の相違を明示する事実である。
 また、脅迫状の第一二行目に、
気んじょの人
という表記がある。脅迫状の筆者は、「近所」をわざわざ仮名で書き、「き」に故意に「気」の字をあてたが、同時に「じょ」の「よ」を小さく書いた。これは拗音の仮名は小さく書くという高度の用字の知識を脅迫状の筆者が持っていることの現れである。
 ところが、上申書にも「近所」という単語があり、被告人はこれを「きんじよ」と「よ」を大きく書いており、「にさの六造といッしよ」の場合も「よ」を大きく書いている。他方、七月二日の『写し』において被告人は「きんじょ」を「きんじ」と書いている。これは被告人の書字技能では、「よ」を小さく書くという知識がない結果であり、小さく書いた脅迫状の書き方の持つ意味を被告人が理解できなかった結果である。
 このような拗音の場合に「よ」を脱落させるのは、仮名と発音との関係の固定しなかった鎌倉、室町時代などの文書にはいくらも見出される事実である。被告人が文字に習熟していない結果、それら過去における仮名文の未発達の時期の用字と同じ状態を示しているわけであって、被告人みずから脅迫状を起草したならば、拗音「よ」を小さく書くことは不可能であったと考えられる。
 なお、脅迫状の第一一行目一二行目一三行目には、大きな字で次の通り書いている。
くりか江す刑札にはなすな。
気んじょの人にもはなすな
子供死出死まう。
 この三行は文字表現上極めて注目される所である。何故ならば、この三行は脅迫状の中の眼目となる部分であって、そこを筆者は、わざわざ大きな字で書いている。またその文章も、「くりか江す刑札にはなすな。子供死出死まう。」と、力強く相手を脅迫し、警察への通報を禁止している。この文章は凡庸なものではなく、それを大字にして訴えている点に、文章作法上、また文字表現の技能上かなり高度な力が示されていることは、多少なり文章に心を致したもののすべて認めるところである。そして、この部分などは運筆の速度がはなはだ大であって、このような運筆速度は、上申書にも『写し』にも全く見られないものである。
 このように見るときに、この脅迫文の、「出」「気」「名」「知」「死」「江」という漢字の宛て字は、書字能力が乏しい故の宛て字ではない。高度の文字能力を持っものの、故意の作為的用字と判断するのが正当であり、句読点の使用、教育漢字外の「刑札」「江」という宛て字の使用等、すべて高度の知識ある者の作為の結果であると見るのが至当である。このように見るときに、脅迫状を小学校二年程度の技能もおぼつかなかった被告人が、みずから起草し、みずから書いたということはあり得ない。つまり脅迫状は被告人が書いた物ではないと判断される。

見落としが多い検察側の鑑定
 これに対し裁判所はどのような判断を下したか。旧来の筆跡鑑定の方法にたより、平仮名「ら」などに類似の文字があることをあげて、これを被告人の書いたものと断定し、裁判所は次の通りに述べている。
「いわゆる伝統的筆跡鑑定方法に従った三鑑定(大野注。いずれも二審に提出された検察側の鑑定)は、多分に鑑定人の経験と勘に頼るところがあり、その証明力には自ら限界があることは否定できないが、そのことから直ちに、三鑑定の鑑定方法が非科学的であるということはできない。また伝統的筆跡鑑定方法は、これまでの経験の集積と専門的知識によって裏付けられたものであって、鑑定人の単なる主観に過ぎないものとはいえない」
 しかし鑑定人の一人である戸谷鑑定人は、「同一人(の筆)と直ちに判定することには理論的に同意しがたいように思う」と述べている。
 また、判決文では大野晋、磨野久一、綾村勝次の被告人の文字書記能力についての三鑑定書について「これらの鑑定書の説くところは、一言にしていえば、不確定な要素を前提として自己の感想ないし意見を記述した点が多く見られ、到底前記三鑑定を批判し得るような専門的な所見とは認め難い」と述べている。
 被告人がいかにして前記の、彼にとってむつかしい漢字を書き得たかという点については、「雑誌『りぼん』(昭和三六年一一月号)には、被告人のいう二宮金次郎の像の写真があり、そこには脅迫状に使われた漢字が『刑』及び『西武』を除いてすべて振り仮名つきで使われている。従って、被告人は『りぼん』から当時知らない漢字を振り仮名を頼りに拾い出して練習したうえ脅迫状を作成したものと認められる」「『刑』の字についてはテレビその他で覚えていた可能性も考えられる」という。
 また「被告人は漢字の正確な意味を知らないため、その使い方を誤り、仮名で書くべきところに漢字を充てるなどして、前記脅迫文のとおり特異な文を作ったものと考えられるのである」と述べ、裁判所では、前述のように、特異な仮名が脅迫文だけに整然と使用されている点を看過している。
 そして大野鑑定などは「所詮単なる臆断の域を出ないものといえる」として、「以上の次第であるから本件脅迫状及び封筒の文字は被告人の筆跡であることに疑いがないと判断される」という。
 しかし、この判決文には、何故脅迫文にだけ多数の句読点が正しく打ってあるのか、上申書や、脅迫文の『写し』に何故句読点がないのか、『写し』には何故、むつかしい漢字がすべて仮名書きになっているのか、等について何の判断も示されず、故意か偶然か何の言及もない。
 以上私が実際に用いて来た文字分析の方法は、従来のいわゆる筆跡鑑定の方法によるものではない。
 この方法は国語学的方法であり、それと国語教育、文字教育に知識ある者が使いうる方法である。そしてまた、本件の被告人のごとき特別な状態にある文字技能の保持者と、作為に富んだ脅迫文との関係であるからこそ用い得る方法である。
 従って、過去にこのような方法によって文字の筆者を考究した例が無いことはやむを得ない。ただ前例の乏しいことのみをもって、私の論証そのものを無視することは許されないであろう。私がここに開陳したところは、国語学者のうち、国語史学的に、また方言学的に文書を取り扱ったことのある研究者ならば容易に理解しうるところである。
 これらの事柄について私はひたすら平静な吟味と判断とを求めたい。私のいう所には十分の根拠があると私は信じるからである。

 以上の大野氏の説明で、石川さんは、逮捕当時、脅迫状を書く能力がなかったことは明らかになっています。石川さんが、犯人ではないということに不動の確信を持つことができます。







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