獄中からの手紙




はじめに

 ここに、狭山差別裁判糾弾闘争の原点とも言うべき、石川一雄さんの「萩原佑介さんへの手紙」と「朝田善之助さんへの手紙」を掲載します。萩原佑介さんは、川越市に住む部落出身者で、事件当初より石川さんの無実を信じ、石川さんの逮捕と起訴、第一審の裁判が、国家権力による部落民にたいする差別的デッチあげであることを暴き、鋭く弾劾してきた人物です。石川さんと萩原さんとの手紙のやりとりは、古川泰龍さんとの手紙のやりとりとほぼ同じ時期に行なわれています。石川一雄さんが、控訴し、第二審の冒頭で「俺は殺していない」という無実の叫びをあげてからおよそ一年半後の時期です。朝田善之助氏は、周知のとおり部落解放同盟が第二十回大会(六五年)で「公正裁判要求の決議」をだし、狭山闘争に組織的に取り組みはじめた当時の委員長です。
 これらの手紙が出された時期の石川一雄さんの状態を、石川さんじしんは第二審の最終意見陳述のなかで、つぎのようにのべています。
  「私はこうして東京拘置所へ移ってきて、多くの死刑囚と接することによって自分のおかれている現実の立場を知り、たいへんな成り行きに気づき、おどろきと同時に爆発しそうな怒りをおさえつつ、当審第一回公判において無実を訴えたものの、当時の私はまだ弁護人を憎んでいた時期でもありましたことから、拠り所は皆無の状態で、しかも無学ゆえにこの狭山事件の真相をどうやって外部の人に訴えるべきか、そのすべを知らない私は途方にくれ、一時は絶望の淵におちいってしまったこともあったのです」
 この「絶望の淵」から、まったくの独学で文字を覚え、手紙の書き方を覚えて、必死の訴えとして出した手紙が、ここに掲載したものです。それゆえにこそ、ここにはまったく飾り気のない、ストレートな、石川さんの生々しい怒り、悔しさが、たたかいへの熱い情熱がこめられています。そして、だからこそ、ここには万人をつき動かす力があると確信します。第二次再審の重大な局面が到来しているいま、いや、戦争と深刻な失業時代のなかで部落差別が吹き荒れ、部落民が再び虫けらのように扱われようとする時代がはじまっている、まさにいまこそ、石川一雄さんの主張が万人のものとならなくてはならないと考えるのです。

  

 内田武文、長谷部、関源三を死刑に!
               −萩原佑介さん(注)への手紙より−
萩原様
 私にかわって、内田武文(第一審の裁判長)を綿密にお調べの上、裁判をして、私同様に死刑にしてください。理由は、次のことからご説明しないとおわかりにならないと思いますので、簡単に。
 私は、「死刑」を言い渡されたとき、善枝さんを殺していないことを即座に訴えれば良かったのですが、長谷部課長さんが「一〇年で出してやる」と約束までしていたので「まさか」と思いましたし、長谷部さんは裁判長よりエライ方だと思っていたので、必ず一〇年で出してくれるものと信じておりました。
 拘置所へ帰ってきても笑っていたら、同房の人が、「石川さんは、今日死刑にされたそうだが、おっかなくないのかい」と言うので、「警察の人が一〇年で出してくれるから平気だ」と言ったのです。そしたら同人が、「一〇年だなんて嘘だよ、死刑にされちまうど、俺たちが嘘だと思うなら、明日運動に出たら聞いて見ろ」と言うので、翌日に皆に聞いてみたら、「本当に死刑になる」と言うので、霜田区長さんに、皆に言われた通りのことをありのまま話たら、「そんなことはない」と言いながら、私に「死刑になる」と教えた人は四、五人とも転房させられてしまいました。なので、同房の人が「そうれ見ろ、刑務所と検察官はグルだからな」と言うので、「それなら東京に行って、警察に騙されていたことを言うから、○○さんたちも出たら俺の裁判を見にこいよ」と、このような訳で、無実を訴えるようになったのです。
 また、内田武文は、私が中田善枝さんを殺していないことを知っていて、検察とグルになって裏で小細工して、いかにも私の「自供」にもとづいて何でも見つかったように見せ掛けたことがバレてしまったのです。また、私は、川越署では、口ではあらわせない程のひどいめにあいました。萩原様にはご存じと思いますが、国民のみなさまにこの文面を見せてください。
 そして、内田武文を絞首台にあげてください。また、長谷部(警視)、関(巡査部長)の両人も死刑にしてもらいます。この二人は、私がでてからやりますから、取り調べにあたった人の写真を全部送ってもらいたいのですが、警察に頼んでみてください。
 勝手なことばかりで申し訳ございません。内田武文は、ぜひ死刑に。できたら父にも見せてください。なお、この内田武文の書面の理由がおわかりできませんでしたら、ご面倒でもお手紙ください。そうすればその時書きます。
 では、右のことをぜひお願いいたします。

    昭和四一年十一月二二日午前七時発
                               石川一雄
 萩原佑介様


 この煮えたぎる怒りは、
         どこからくるのか
              −朝田善之助さん(注)への手紙より−
−なぜ嘘の「自白」をしたのか−
 ご存じのように、私が別件で逮捕されましたのが、昭和三十八年五月二十三日の朝で、それ以降の取り調べでは、逮捕事由の容疑ではほとんど調べられず、もっぱら中田善枝さん殺しについての質問責めの連続で終始しておりました。それから丸一ヵ月の間、嘘発見器にもかけられたり、検事が雑談のなかで殺人事件の犯人は何人ぐらいだろうと様子をうかがったり、入れ代わり立ち替わりの調べ官の緩急自在な威し、甘言などで疲労困憊にあった私でありますが、その間をときどき関さんが顔を見せては優しい言葉をかけてくれたり、心配している様子などを見せていましたので、まったくの恐怖のなかにある私にとって、そんなときの関さんがとても安らぐ思いであったのです。
 私が「自白」をさせられた経緯としての長谷部課長との約束、すなわち「殺人を認めれば十年でだしてやる」につきましても、それを言い出す前に「認めなければお前を殺して善枝のように埋めてしまう」と言ったり、「認めなくても、どうせ別件の悪事で十年はでられない」などと、あらゆる言葉を使って私の恐怖心をつのらせるようにしていたのです。
 そして私が恐怖のどん底にある時に、タイミングよく関さんがあらわれては、「石川君、打ち明けてくれ、善枝さんを殺したのだな、話してくれなくてはわしは帰ってしまうぞ、それでもいいかい」というようなことを、手をとって涙を流して申すのでした。そして私が感情的に困惑しているのを見て、他の警察官たちは「われわれがここにいたら話づらいだろうから、皆さん外へでましょう」と言って出ていってしまったのです。すると関さんは泣きながら、「わしがいない間は淋しかっただろう」と、手を握ったり、肩をなぜたりしながら優しい言葉をかけてくれ、私もつられて泣きだしてまったのです。そして更に「打ち明けてくれ」と言い続けていましたので、私も長谷部課長の言葉のように約束してもらえると思い、どうせ認めなくても十年は出られないなら、認めることによっていまの責め苦から解放されて楽になりたいと思い、関さんに「三人でやった」と認めたのでした。

−なぜ関源三を信じたのか−
 わたしが殺人事件の容疑をかけられ、連日の取り調べの責め苦にあっているなかで、家族とも会えず、だれとも面会できなかった折りに、警察官であった関さんが私に会いに来てくれたことは大きな喜びでありました。野球をしていた仲間が、苦しみの最中に
私の目の前に来てくれたのですから、警察官という意識いじょうに喜びのほうが大きかったのであります。関さんを信用するしない、という問題にしても、野球を指導してくれた人として、また一緒に子どもたちのプレーを見守ってきた仲間のひとりとして、何らかの連帯意識こそあれ、疑うべき材料は一つとしてなかったのです。親兄弟のように、または親しい友人に対するような、腹をわって話ができるほどの親しみはありませんが、孤立無縁のなかでの私にとって、関さんが来てくれたことが、どんなに割り増しされて親しく感じられたかはおわかりいただけるものと思います。
 私が「自白」させられたのは、再逮捕され、川越署に移されてからのことでありましたが、まだ狭山署にいるころは関さんが、私の係みたいになってくれており、夜も泊まっていくことなどもあり、何かと心配してもらっていただけに、狭山署から川越署に移されてからは、会うこともできなくなり、厳しい責め苦になやまされていた時だけに、たとえその目的が私をうまく騙すための警察の手段であったとは申せ、私にとっては地獄で仏の顔を見たように、なつかしいものとして映ったのでした。責められるだけ責められ、誰一人としてやさしい言葉ひとつかけてくれるわけでないなかで、たったひとり関さんが私の身を案じ、家族のことを伝えてくれたりして、私を励ましてくれるのでした。しかも、その人が私と一緒に野球をしていた人なのですから、どうして疑ったりできましょうか。私にはそれほど考える余裕も知恵も当時はありませんでした。

−私を犯人にするためのやり方−
 関さんの前ではじめて「三人でやった」と認め、他の二人はどこに住んでいるのかと聞かれたので、いい加減に「入曽と入間川」と答えましたら、「わしもその入曽の人が石川君がつかまる前から臭いと思っていたし、課長さんたちきっと石川君が犯人だなんて思っていないと思う。石川君が法廷に出ているときに捕まえるのではないかな」などと私の方こそびっくりすることを言うのでした。もしかしたら真犯人を警察ではすでに知っているのかと思ったほどでした。
 六月二十四日になって朝から関さんがやってきましたが、私が関さんに、昨日「三人でやった」と認めたのは、長谷部課長に「何時までも認めないでいるならお前を殺してしまう」と言われたので、殺されては大変だから「三人でやった」などと言ったのですが、その時関さんは犯人は別にいるようなことを言いましたが、その人の居所は確かめたのでしょうか、と言ってやりましたら、「昨夜は入曽の人が真犯人ではないかと思うことを言ったが、石川君が入間川の人のことを言っていたので、その人のことを聞いてから捕まえるつもりでいる」などと言うのでした。そして、そばで聞いていた長谷部課長が、私に「わたしは認めなくては殺すなどとは言っていない、他の人にも聞いてみろ」と言い、他の刑事たちも「課長はそんなことは言わない」と、口をあわせてしまうのでした。
 その後の調べは、もうまるでデタラメでありました。殺人を認めたのだから善枝さんの鞄などの捨て場所も知っていない訳がないと言い、私に自分の思うところの図面を書いてみろとか、狭山市の地図を前にだして、この辺を地図にしろ、とか私が書けないで
いると、「死刑にされるかも知れないぞ」と言って無理やりに書かせるのでした。そして教えてもらった場所の図面を書いて渡したら、三十分ほどしたら発見されたことを電話で知らせてきたので、更にびっくりしてしまったのです。
 いまにして思うと、何もかも最初から発見されてあったのを、有罪にするための証拠の裏付けとして、私の自筆の図面を書かせたのだったと思うのです。時計にしても、万年筆があったという場所にしても、まったく不思議でなりません。要するに、関さんは、私が厳しく責められている最中に折々顔をだし、私を心配している様子を示したりし、また「課長さんの言うとおりにした方が、石川君のため」とも教えてくれたりして、私も忍耐しきれない頃に、「どうせ『やった』と言わなくてはならないのなら、少しでも知っている関さんに言った方がいい」と思わせたのでした。
 それからの調べで、結局なんだかんだと脅かされながら、「独りでやった」ことにされてしまったのですが、私に図面を書かせたり、他の調書などもある程度そろったので、いままで以上に高圧的になり、私が質問されることに「わからない」と答えると、「何時までも世話をやかせると、裁判官に頼んで死刑にしてもらう」と言って脅かすのでした。

−弁護人よりも長谷部と関を信用した−
 私は、自分が逮捕され、警察に拘留されている時に、自分のために弁護人がついてくれたことがどういう意味があるのか、本当にわかっていなかったのです。どういう仕事をする人で、極端な言い方をするならば、自分にとっては敵なのか、味方なのかさえしばらくはわからなかったような状態にいたのです。
 さて、そのような私の、漠然とした気持ちのなかで、はじめに別件逮捕された容疑について、中田弁護人が六月十三日ころ狭山署に訪ねてきて、六月十八日に裁判が開かれるということを教えて下さったのであります。私の乏しい知識のなかにも裁判所というところは、正しい人のために味方になってくれ、力になってくれる所だという印象がありましたので、私が警察にいた時に申し上げた窃盗などの件について、ありのままを話し、また常に責められ通しであった中田善枝さん殺しの容疑についても、はっきりと私でないことを申し上げ、そのことで受けていた警察での責められ方を申し上げようと心に期していたのでしたが、その裁判が開かれる前日の六月十七日に、あろうことか、こんどは本当に中田善枝さん殺しとしての容疑で逮捕状が出て再逮捕され、狭山署から川越署に移されてしまったのです。そして、つぎの日の十八日がきても、開かれる予定だった裁判は、ついに開かれずじまいに終わったのでした。
 私はその裁判において、自分のしてきたこと(窃盗など)を詫びて、身も心もきれいに裁いていただきたいと願っていただけに、とても失望し、どうしてなくなってしまったのか、腹立たしい思いでいたのです。いまにして思えば、再逮捕された容疑とともに、最初の窃盗などが併合されてしまい、まとめて裁かれることになっていたのでしょうけれど、当時の私にそんなことがわかろうはずもなく、私が「なぜ裁判がないのか」と長谷部課長に聞いても、「俺たちはそんなことは知らん、弁護人が言ったことではない
か」と言って、取り合ってくれないのでありました。その裁判に私は期待していただけに、弁護人のいい加減な言葉を恨めしくさえ思っていたのです。
 そうこうしているうちに、私の川越署における善枝さん殺しの責めはつづき、六月二十三日に関さんに「自白」する少し前に、長谷部課長から「われわれはお前を犯人と断定している、殺しを認めるまでは一歩も出してやらん、どのみち九件もの事件があるのだから十年はでられない、どうだ、認めても全部の罪を併せても十年で出られるようにしてやる、俺は中田弁護人と違って嘘はつかん、中田弁護人は六月十八日に裁判があると言っていたが嘘をついたではないか、俺は嘘をつけば警察官だから首になるんだ、だから嘘はつけん、お前もいつまでもここにいたくないだろう、十年で必ず出られるように男同士の約束をするから認めてしまえ」と言われ、「なる程、中田弁護人は私に嘘をついていた、弁護人なんて嘘つきだ」と思い込むようになってしまったのでした。そして、常に近くにいる警察官の方がより信じられるようになっていたのでした。(いまにして思えば、中田先生は、会いたくとも接見禁止などによって、いつでも自由には会えなかったのです)

−警察がニセの弁護士をさしむけた−
 私が弁護人に対して不信をいだくようになった理由に、もう一つ関連して申し上げなくてはならないことがあります。それは私が再逮捕される前の六月二日ころのことで、狭山署にいる時に、つぎのようなことがありました。
 いつものように調べ室に連れていかれますと、「お前に弁護士があいに来たから次の部屋で会ってこい」と言われたのです。その次の部屋というのは、鏡のついている所謂マジックミラーになっている部屋で、中に色の青黒い五〇歳前後の眼鏡をかけた人がいて、優しそうな声で「私は、石川君、あなたのために弁護をまかされた者です。私たち弁護人はみんな石川君の味方なのですよ、依頼人の秘密は絶対に守りますから、何でも話してくださってもかまいません。良いこと、悪いことも石川君のためになるように計るのが私の役目なのです」「聞くところによると、中田善枝さんが殺された当日に、石川君が東島君(狭山市柏原・部落出身で、私の友人)と一緒に花嫁学校(通称「山学校」)付近にいるのを見たと届けた人がいるそうだが、その人がまさか嘘をついているとも思えないし、石川君たちは善枝さんと会うまでは学校のどのへんにいたのですか、それにもし善枝さんを殺しているのでしたら、その対策をかんがえなくてはなりませんので、戸外に絶対漏らしませんから話してくれませんか」などと言われたのです。
 その人にはもちろん初めて会ったのであり、いつもはたくさんの刑事たちに囲まれていたのに、その時はその人だけと二人きりになっていたので、何かホッとする気持ちも抱きましたが、私に殺してもいない善枝さんのことをひつこく聞こうとするので、私もいやになり、「私は殺していません」と、はっきりと申し上げたのです。後になってでありますが、この人のことを中田弁護人に話してみましたが、「まったく知らない」と言うのでした。その人は二度と私の前に現われませんでしたが、そのことも弁護人への不信を抱く遠因の一つにもなっていたのでした。


−警察は、ニセの市長までつかった−
 さらに、これは弁護人ではありませんが、その二、三日後に、こんどは「狭山市長の石川求助」と名乗る人が私に会いにきたのです。やはり、先の「弁護人」と名乗った人と同じ面通しの部屋で、五、六〇歳ぐらいの人と会い、三〇分ぐらいにわたって、「あたくしは石川君と同じ石川という姓で、名前は求助といい、狭山市の市長を務めている者です。石川君が中田善枝さん殺しの容疑で逮捕され、善枝さんを殺しているのに、未だ自白していないようなことを新聞で読んだが、もし善枝さんを殺しているのなら、私からお父さんや家の人たちによく話してあげましょう。私は市長だから、決して石川君の不利になるようなことはしません、だから話してくれまいか」などと言われたのです。私は、「自分で犯した悪事は全部警察の人に話してしまっており、これ以上は何もしていませんし、ましてや善枝さんなどは殺してなんかおりません」と、はっきりと申し上げたら、「本当に石川君は殺していないのですか」と、念を押して帰っていったのです。
 ところで、この「石川求助」さんと狭山署で会った件を、昭和四〇年一〇月ころの萩原さんとの面会で話ましたら、萩原さんは狭山市長の石川求助さんに会い、私に会った経緯について問いただしましたら、市長は「私は石川一雄と会ったことはない」と、狭山署での面会を否定したそうでした。ですから、私に会いにきた人も、実は市長と偽って私の心のなかをさぐりにきた警察の手先だったのです。私もお恥ずかしいことに、狭山市に住んでいながら市長の名前も、顔もまったく知らないほど無知だったのです。
 弁護人だと言ってみたり、市長だと言ってみたり、警察では私の心のなかに何か隠しているものがあるのではないか、中田善枝さん殺しを認めるきっかけができるのではないかと、私が字も満足に読み書きができないのを利用し、また世間的な常識もないことから、あらゆる騙し方を試みたのでした。でも、もちろん、それはいますべての経緯を省みて、事件の全貌を通して苦しんだ末に、やっとわかりかけてきたカラクリなのでありますが、その当時の私には、すべてが知らないこと、新しいことばかりで、そのような裏のあることはわかりようのなかったことなのです。

−本当に「一〇年で出られる」という約束を信じた−
 さて、私は、自分がいよいよ中田善枝さん殺しの犯人として、警察で全面的に認めさせられ、男同士の約束によって「一〇年で出られる」という思いで起訴され、浦和拘置所に移され、裁判を待っていた訳でありますが、その間、裁判がはじまっても、ほとんど弁護人との親密な交渉もなく、また警察での約束事なども明らかにすることなく、警察で教えられたとおりの態度(注)でいた事情を少し申し上げてみたいと思います。
 私は、中田弁護人が私にたいして、「嘘をついていた」ということにとてもこだわり、腹を立て、警察でもさんざんに中田弁護人のことを悪く言われたので、なぜか会うことも嫌で、浦和拘置所に移されてから一〇数回の面会がありましたが、いつも短い時間で帰ってもらうように仕向けていました。弁護人と会うときは拘置所の職員の立ち会い
がありませんので、私は面会所に行く途中で、係の職員の人に「弁護人とはあまり会っていたくないから、できるだけ早く帰るように伝えてください」と頼んだ程でしたが、「われわれは弁護人に早く帰れなどと言うことはできない、あいたくない時は石川君から言えばいい」と言われてしまったのでした。
 そのようにして、私は弁護人を避けていたのでしたが、裁判においても、また嘘の「自白」を一審の終わりまで維持しつづけるのに、何ひとつも弁護人と相談しなかったのも、このままにしていれば、長谷部課長との約束の通り一〇年で出られるのに、なまじ弁護人に警察での約束を話してしまえば、どんなことから裁判が崩れてしまうかわからないという恐れを抱いておりましたし、第一、一度あれだけ期待していた裁判(六月一八日)がなくなってしまったりして、弁護人にたいする不信感もありましたので、じっとこのまま自分の殻に閉じこもっていた方が、自分自身のためであると思っていたのでした。
 しかし、このことが結果的に私の立場を現在の窮地に追い込む最大の原因となってしまった訳であります。「嘘をついていた」と思い込んでいた裁判は、検察と警察の都合で一方的に中止させられたのであり、中田弁護人の責任ではまったくなかったのでありましたが、それが当時の私にはわからず、ただ警察の言う言葉をそのまま信じ、一途に弁護人にたいする不信感を抱きつづけていたのでした。


  ※石川さんは、第一審の法廷では、下をむいたままじっとしており、何が審理されているのかもわからず、裁判長の質問にもほとんど答えられなかった。裁判長に呼ばれてもわからず、看守から「石川、呼ばれているぞ」と言われて気付くということもしばしばであった。
 この背後には、「長谷部との約束」を信じこませるために、あらゆる手段が動員されていたのだ。関源三は、石川さんが拘置所に移ってからもたびたび面会し金品を差し入れするなどで、あくまで石川さんの味方であるかのようにふるまいつづけた。この、関は、第二審において、石川さんが無実を主張しはじめるや、手のひらを返したように、面会にもこなくなり、手紙もださなくなっている。
 拘置所での石川さんの担当看守であった森脇は、六法全書のような本をめくっては、「一〇年で出所できる」と石川さんに言聞かせ、拘置所の教育課長や教戒師は、「裁判のあいだじゅうは、一から十まで数を数えていたらいいのだ」と教えていた。しかも、ていねいに石川さんに法廷までつきそってきた看守が、公判が終わるたびに「今日は一から十まで、何回数えたのか」と質問していたというのだ。

−真実を知ったときの悔し涙−
 そして、一審の判決で「死刑」を言い渡され、浦和拘置所の同囚に、はじめて、私が騙されているらしいことを教えられたのでありますが、そうなっても、私はまだ長谷部課長が嘘をついているなどとは考えられなかったのです。一緒に野球をしていた関源三さんまでが一緒にいたことですし、第一、「警察官であるゆえに嘘はつけない」という
ことを私は一も二もなく信じていたのです。
 ところが、どうもみなさん(拘置所の同囚)の話を聞いていると、変なことばかりですので、これではいったい誰を信じたらよいのかわからなくなり、最後の頼みの綱である裁判所の判事さんに直接、私が犯人でないことを申し上げる以外にないと思うようになり、第二審の最初の公判廷で、事前に誰とも相談せず、自分の考えだけで、手をあげて無罪を訴えたのでありました。(注)
 私は、自分の受けてきた警察での仕打ちや、中田善枝さん殺しの犯人に仕立てあげられてきた経緯を、苦しんで、苦しんで、苦しんだ末に理解し、警察の恐ろしさを知らされた時、そして、中田先生以下の弁護団にたいして抱いていた私のまちがった考えがわかった時、私は、この独房のなかで声をあげて泣きました。後から、後からつのりくる口惜しさにあふれる涙は止まらず、これほどまでに見事に、警察のワナに陥ってしまった自分の無知を恨みました。誰を対象に恨めることではありませんが、神や仏の存在すら、私は怒りをもって否定しました。
 そして、少しづつ事件のカラクリがわかってくるにつれ、また事件の真相が広く国民の前に知られるようになるにつれ、私も一つ一つ利口になり、自分じしんを取り戻すことができるようになったのであります。私も、もう迷うことなく、これからは着実に事件の真相の伝達に、訴えに、筆を走らせてゆくことに専念してゆく決意であります。


  ※第二審は、一九六四年九月十日、久永裁判長のもとで第一回公判が開かれた。新聞の報道によると、弁護人による控訴趣意説明が終わるや否や、石川さんが突然立ち上がり、裁判長の制止にもかかわらず、「俺は善枝さんを殺していない。このことはまだ弁護士さんにも話していない」と発言。久永裁判長はびっくりして「なになに、中田善枝を殺していない、いま何を言ったのか、もういっぺん言ってみろ」と聞き返した。この間、検事はうつむいて顔色はなく、三人の弁護団もあっけにとられ、満員の傍聴席は、あぜんとして息をのみ、やがてためいきのようなざわめきが生じたと言います。


 解説 狭山闘争の原点を復権せよ

−なぜ、石川一雄さんは「自白」をしたのか−
 狭山事件−狭山差別裁判の根幹にあるものは石川一雄さんの「自白」である。これによって、石川さんは犯人にされた。この「自白」によって、第一審では「死刑」を言い渡され、さらには第二審でも「無期懲役」にされ、そしていまなお「殺人犯」の汚名を着せられつづけている。
 しかし、この「自白」そのもののなかに、石川さんの無実がもっとも鮮やかに示され、国家権力による悪辣な差別犯罪の原点がもっとも鮮やかに刻印されている。なぜ石川さんが、この「自白」をしたのか、なぜ裁判のなかでも維持しつづけたのか、どのようにして「自白」をひるがえしたのか、これが本書のなかで、石川さんじしんの文章によ
って明らかにされているのである。そして、それが、いま、この文章を復権する理由でもあるのだ。狭山事件にかかわる<無実と差別>の原点とは、客観主義的な証拠論議のなかにではなく、この石川さんの、生々しい、血と涙の告発のなかにこそ存在しているのだ。
 文中にあるように、石川さんは、「長谷部との男同士の約束」を最後まで信じた、本当に信じたのだ。関源三による「情け」に接し、これが警察によって仕組まれたものであることを知らずに純粋に涙し、これに答えることが、自分を守る唯一の手段であると思い、信じ、決断した。そして、決断したら、最後までつらぬき通した。国家権力の奴らは、川越分室の特設とそこへの幽閉による拷問、脅迫にもかかわらず、一ヵ月にもわたって否認しつづけた石川さんの不屈さに驚愕し、暴力による「自白」の強要が無理だと判断するや、部落差別によって奪われた情愛への渇望、差別の苦しさゆえの人を信じたいとする石川さんの純粋な心に付け入り、悪用し、巧みにあやつって暗黒のワナに陥れた。その立役者が長谷部と関であった。
 これが、たんに暴力による「自白」の強要であるなら、あるいは、これまで語られてきたように、石川さんが部落差別の結果として、裁判の制度や法律などについて無知だったことによって「自白」してしまったとするなら、「死刑」判決後にまでいたる、石川さんの頑固なまでの「自白」の維持の理由は決して説明することはできない。そして、それゆえにこそ、無実の叫びを発して以降の激しい怒りと、「復讐」と言っても言い過ぎではない、石川さんのたたかいの意志は決して理解することはできない。しかし、ここにこそ、この激しい怒りと、自分をワナにかけた者どもにたいする復讐の意志のなかにこそ、狭山闘争の原点があるのである。
 この、心から信じたものが、自分を死刑にするためのワナだったことを知ったときの、石川さんの絶望、怒り、悔しさは、いったいどれほどのものだったろうか。とめどもなく流れ出た涙は、悔しさの涙であるとともに、石川さんの生まれ変わりの涙でもあったに違いない。自分を取り戻すことが、同時にこの差別のワナの全貌を告発し、断罪し、これを裁くことなしには不可能なことであった。まさに、石川さんの無実の訴えとたたかいは、国家権力の差別犯罪にたいする告発であり、石川さんによる「裁き」そのものなのだ。

−石川さんが国家権力を裁くたたかい−
 「内田、長谷部、関らを絞首台へ送ってほしい」この、冒頭の石川さんの叫びは、まったく当然のものである。いや、「長谷部と関だけは、自分の手で裁きたい」と言っているのだ。これこそ、石川さんの主張とたたかいをつらぬく原点なのである。三百万のきょうだいたちには、この石川さんの気持ちはストレートに通じるに違いない。いや、それは、労働者階級にとっても、ひとりの人間として、石川さんと同じように涙し、この悔しさを同じように感じ、この怒りとたたかいの意志を共有できるに違いないと確信する。この戦闘宣言こそ、狭山闘争の魂でなくて何であろうか。
 少し長くなりますが、第二審の石川さんによる最終意見陳述を紹介します。ここには
この原点が、実に強烈につらぬかれているのです。
 「部落民の私を犠牲に選んで、権力の威信回復をはかろうとした、まさに天人ともに 許されない悪逆非道なやり方に鋭く批判をくわえ、国家権力の自己批判を迫る」
 「完全無罪判決を受けるのは当然のこととしても、私は加害者としての国家権力に何 らかの制裁がくわえられないのは不合理だと思います。もちろん、実際問題として、私が無罪になっても、私に一審死刑を科した判事(内田武文)には法律によって罰す ることがかないません」
 「しかし、これは私にかぎらず、あの真昼の暗黒で有名な八海事件にせよ、二転三転 と死から生、生から死へと振り回され、結局無罪が確定したものの、その過程で死を 科した判事たちは、かりにあのまま被告人の精神がくじけてしまって、刑が確定して いたら、法律による完全な殺人事件が成立してしまうことになり、いくら法律の名のもとに決定したとは申せ、その宣告した判事は殺人者に違いないのであります。

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 解説 狭山闘争の原点を復権せよ

−なぜ、石川一雄さんは「自白」をしたのか−
 狭山事件−狭山差別裁判の根幹にあるものは石川一雄さんの「自白」である。これによって、石川さんは犯人にされた。この「自白」によって、第一審では「死刑」を言い渡され、さらには第二審でも「無期懲役」にされ、そしていまなお「殺人犯」の汚名を着せられつづけている。
 しかし、この「自白」そのもののなかに、石川さんの無実がもっとも鮮やかに示され、国家権力による悪辣な差別犯罪の原点がもっとも鮮やかに刻印されている。なぜ石川さんが、この「自白」をしたのか、なぜ裁判のなかでも維持しつづけたのか、どのようにして「自白」をひるがえしたのか、これが本書のなかで、石川さんじしんの文章によ
って明らかにされているのである。そして、それが、いま、この文章を復権する理由でもあるのだ。狭山事件にかかわる<無実と差別>の原点とは、客観主義的な証拠論議のなかにではなく、この石川さんの、生々しい、血と涙の告発のなかにこそ存在しているのだ。
 文中にあるように、石川さんは、「長谷部との男同士の約束」を最後まで信じた、本当に信じたのだ。関源三による「情け」に接し、これが警察によって仕組まれたものであることを知らずに純粋に涙し、これに答えることが、自分を守る唯一の手段であると思い、信じ、決断した。そして、決断したら、最後までつらぬき通した。国家権力の奴らは、川越分室の特設とそこへの幽閉による拷問、脅迫にもかかわらず、一ヵ月にもわたって否認しつづけた石川さんの不屈さに驚愕し、暴力による「自白」の強要が無理だと判断するや、部落差別によって奪われた情愛への渇望、差別の苦しさゆえの人を信じたいとする石川さんの純粋な心に付け入り、悪用し、巧みにあやつって暗黒のワナに陥れた。その立役者が長谷部と関であった。
 これが、たんに暴力による「自白」の強要であるなら、あるいは、これまで語られてきたように、石川さんが部落差別の結果として、裁判の制度や法律などについて無知だったことによって「自白」してしまったとするなら、「死刑」判決後にまでいたる、石川さんの頑固なまでの「自白」の維持の理由は決して説明することはできない。そして、それゆえにこそ、無実の叫びを発して以降の激しい怒りと、「復讐」と言っても言い過ぎではない、石川さんのたたかいの意志は決して理解することはできない。しかし、ここにこそ、この激しい怒りと、自分をワナにかけた者どもにたいする復讐の意志のなかにこそ、狭山闘争の原点があるのである。
 この、心から信じたものが、自分を死刑にするためのワナだったことを知ったときの、石川さんの絶望、怒り、悔しさは、いったいどれほどのものだったろうか。とめどもなく流れ出た涙は、悔しさの涙であるとともに、石川さんの生まれ変わりの涙でもあったに違いない。自分を取り戻すことが、同時にこの差別のワナの全貌を告発し、断罪し、これを裁くことなしには不可能なことであった。まさに、石川さんの無実の訴えとたたかいは、国家権力の差別犯罪にたいする告発であり、石川さんによる「裁き」そのものなのだ。

−石川さんが国家権力を裁くたたかい−
 「内田、長谷部、関らを絞首台へ送ってほしい」この、冒頭の石川さんの叫びは、まったく当然のものである。いや、「長谷部と関だけは、自分の手で裁きたい」と言っているのだ。これこそ、石川さんの主張とたたかいをつらぬく原点なのである。三百万のきょうだいたちには、この石川さんの気持ちはストレートに通じるに違いない。いや、それは、労働者階級にとっても、ひとりの人間として、石川さんと同じように涙し、この悔しさを同じように感じ、この怒りとたたかいの意志を共有できるに違いないと確信する。この戦闘宣言こそ、狭山闘争の魂でなくて何であろうか。