最高裁上告棄却の問題点

 

 

 

〔上告審までの経過〕
一事実の概要は次のとおりである。
昭和三八年五月一日埼玉県狭山市で、女子高校生中田善枝さんが下校ののち行方不明になった。犯人と思われる者から、身代金を要求する脅迫文に、彼女の身分証明書が同封されて家族のもとに届けられた。三日午前零時過ぎ、犯人は指定場所に現われ、善枝さんの姉・登美恵さんと暗闇の中で言葉を交しながら、張り込み中の捜査陣に気付いて逃走してしまった。その後善枝さんは強姦のうえ殺害された状態で土中から死体となって発見された。
脅迫文の文字や文章から、警察は、犯人を「知能程度が低く、土地の事情にくわしい者」と判断し、また身代金の要求額が二〇万円であることから、生活程度の低い者という見込みで捜査を開始した。
脅迫状の筆捗等の情況事実から、被告人が犯人として疑われ、身代金を要求して未遂に終わったとの恐喝未遂事件の容疑のほか、暴行、窃盗の容疑で、警察は五月二三日被告人を逮捕した。暴行は同・年二月接触事故を超した相手を殴ったというもの、窃盗は同年三月友人の作業衣を無断で持ち帰ったというもので、いずれも本件とは全く関係のない事件である。この第一次逮捕とそれに引き続く勾留により、二三日間身柄拘束下で取調べがなされたが、この間には恐喝未遂や強姦、殺人に関する被告人の自白はえられなかった。
そこで、検察官は、孝枝さん殺しや恐喝未遂とは無関係な暴行、.窃盗等の軽徽犯罪の起訴をし、起訴後四日目に被告人が保釈で釈放されるや、直ちに孝枝さんに対する強盗強姦殺人、死体遺棄を理由とする逮捕状により再逮捕し、勾留期間中に被告人から自白をえて、さらに勾留延長による取調べを経たうえで、強盗強姦、強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂等を理由に被告人を起訴した。
ニ第一審では、被告人は法廷でも公、訴事実を全部認めでいたが、弁護人らは、本件自白ほいわゆる別件逮捕、再逮描による逮捕、勾留のむし返しによる違法・不当の拘禁中になされたものであるから証拠能力がなく、自白内容についても客観的事実に反する点が多く、物証の発見経過に捜査機関その他の作為が窺われるとして、自白の信憑カを争い、結局本件犯行は証明されていない旨を主張して争った。
これに対し、第一審裁判所は、第一次の逮描、勾留の期間中において、善枝さんに対する強盗強姦殺人、死体遺棄についても取調べをしたことが窺われるとしながらも、「恐喝未遂に関連する右殺害等について、〔被告人から煙草の吸殻と血液の任意繰出を求めて血液型の鑑定の嘱託をする〕程度の取調べをすることは何等法の禁ずるところではない」とし、したがって、第二次の逮描、勾留も、逮捕、勾留のむし返しにはあたらないとした。
自白の償潰力については、被告人は捜査の当初恐喝未遂や善枝さん殺し等について全面的に否認していたが、自白して後は「捜査機関の取調べだけではなく起訴後の当公判廷においても、一貫してその犯行を認めているところであり、しかもそれが死刑になるかも知れない重大犯罪であることを認致しながら自白していることが窺われ、特段の事情なき限り措信し得る」としたうえで、第一審浦和地方裁判所は、昭和三九年三月一一日被告人に死刑判決を言い渡した(判例時報三六九号六貫)。
三控訴審の冒頭、被告人は「お手数をかけて申し訳ないが、私は孝枝さんを殺してはいない。このことは弁護士にも話していない」と述べて、自白を撤回し、これまでの自白は捜査官の誘導・強制にもとづく嘘の自白であると申し立てた。これを転機として、弁護団からも、控訴極意の内容を越えて多岐にわたる事項について主事がなされ、事実の取調べが行なわれた。当初は第二九回公判で結審となる予定であったが、その直前、被告人が書いたという調書添付図面の筆圧痕の問題が生じ、弁護団はこれをきっかけに、これまでの審理のうえにたってあらためて無罪を主張するとともに、再び広範な証拠調べ請求を行った。この弁論を通じて、弁護団はとりわけ「自白によつて」発見されたという三つの物証の発見経過、足跡の鑑定、筆跡鑑定など、これらがいずれも自白が嘘偽であることを裏付けていることの論証を試みた。審理は一〇年の歳月に及んだのであるが、この間、弁護団は一貫して本件が部落差別にもとづく冤罪事件である旨を主張して争った.これに対し、控訴審裁判所は、部落差別の問題には全く触れることなく、法律問題としては、別件逮捕勾留の適否、自白の任意牲、第一審における審理不尽の三点につき判示し、判決理由の大部分は、事実誤認の控訴趣意に対する判示となっている。
まず別件逮捕勾留についてほ、第一次の身柄拘束の基礎とされた恐喝未遂の事実と、強盗強姦、強盗殺人等の事実とは社会的に密接な関連があり、一つの社会的事実とみられるから、前者の取調べが後者に及ぶのは自然の成り行きであり、ことさらに無関係な軽微事件によって、重大事件の捜査に、その身柄拘束を利用する意図や危険は見出し得ないとの理由から、本件における別件逮描勾留の適法牲を承認している.被告人の自白の任意性については、本件捜査活動がとかく統一性を欠き、物的証拠その他の情報を捜査官のもとに集中させる体制が不十分であったこと、犯罪の現場、物証の現物を利用して被疑者の取調べをすすめるいわゆる「引き当たり」という捜査の常道をとらなかったこと、そのため脅迫状等の訂正がペンまたは万年筆でなされているのにボールペンでなされているとしたため原判決における犯行の手順認定に誤りを来したこと、無学の被告人がなぜ漢字を含む脅迫文を書き得たかについて綿密な取調べが行なわれていないことなどを挙げ捜査の欠陥を指摘したうえ、被告人の多数に上る供述調書は拙劣、冗漫、矛盾に満ちたものとなっているとしながら、これは、捜査官が、「被告人がその場その場の調子で其偽を取り混ぜて供述するところをほとんど吟妹しないでそのまま録取していつたのではないかとすら推測される」とし、しかし、「それだけに、その供述に所論のような強制・誘導・約束による影響等が加わつた形捗は認められず、その供述の任意性に疑いをさしはさむ余地はむしろかえつて存在しない」と判示した。また、捜査官により供述内容に作為が施されたとする弁護団の主張、就中筆圧痕については詳細な理由を示して捜査官による作為を否定した。第一審の審理不尽の点については、当時被告人が自白を維持していたという事情があったとはいえ、重大事件の審理としてはやや軽率であったと批判しながらも、審理不尽があったとまではいえないとした。・事実誤認の控訴趣意に対する判示は本判決の中心部分であるが、論点も多岐にわたるばかりでなく、事柄の性質上からも簡潔に判示を紹介することは不可能である。大要を示すと、「原判決の事実認定の当否を審査するに当たつては、むしろ視点を変え、まず、自白を離れて客観的に存在する物的証拠の方面からこれと被告人との結びつきの有無を検討し、次いで、被告人の自供に基づいて調査したところと自供どおりの証拠を発見した閑係にあるかどうか(いわゆる秘密性の暴露)を考え、さらに客観性のある証言に及ぷ方法をとる」としたうえで、犯人と犯行を綻びつける最も決定的な証拠は指紋であるとし、本件においては、脅迫状、封筒、身分証明書、万年筆、腕時計、教科書、自転車等物的証拠のいずれからも指紋が検出されなかったことを認めながら、「しかし、指紋は常に検出が可能であるとはいえないから、指紋が検出されないからといつて被告人は犯人でないと一概にはいえない」と判示した。
判示は、被告人と犯行とを結びつける靖橿的な証拠のうち、「自白を離れて客観的に存在する証拠」として、脅迫状及び封筒の筆跡、被告人宅から押収された地下足袋・足渉、血液型、手拭・タオル、スコツプ、内田幸吉証言、犯人の音声を挙げ、「自白に基づいて捜査した結果発見するに至つた証拠」として、鞄、万年筆、腕時計、青沢栄証言とを挙げている。弁護団は、右のうち血液型以外の全ての証拠について争ったのであるが、東京高等裁判所は、弁護側の反証や鑑定結果のほとんどを拝借せず、昭和四九年一〇月三一日、第一審の死刑判決を破棄して被告人に無期懲役の判決を下した(判例時報七五六号三文)。
四上告趣意書は、「第一、憲法違反、判例違反」、「第二、客観的証拠の不存在」、「第三、三物証、自白の虚偽架空性、事件の基本的性格」の三巻一五〇万字におよぷ魔大かつ詳細なものである。
そのうち第一の憲法違反、判例違反に関する部分は、捜査に関する総括的批判、アリバイと部落差別、原判決が憲法第一四条、第三一条に違反すること、別件逮描・勾留、再逮捕・再勾留の違麗性及び違法性、自白は捜査官の約束によってなされたこと、自白は強制・脅迫・誘導によるものであること、原判決は有罪を前提とする予断と偏見にもとづき憲法七六条三項に違反すること、原判決の判例違・反、事実誤認の主張とから成っている。
〔決定要旨〕
上告棄却。
一 被告人が部落出身であることから、捜査官の予断と偏見にもとづく差別的捜査が行なわれ、かつこれにより得られた証拠により事実認定をしたことは憲法一四条に違反し、また、アリ.ハイ等の事実認定に際しても、被告人が部落差別を受けていたことから有利な事実を明らかにすることが困難であったことに思いを致すことなく、さらには、被告人の自白維持と部落問題との関係について審理、判断を欠いたとする憲法一四条、三七条一項違反の点については、「記録を調査しても、捜査官が、所論のいう理由により、被告人に対し予断と偏見をもつて差別的な捜査を行つたことを窺わせる証跡はなく」、原審の審理および判決は「積極的にも消極的にも部落差別を是認した予断と偏見による差別的なものではないことは、原審の審理の経過及び判決自体に照らし明らかである。」


ニ 自白の任意性等に関する憲法三八条一項、二項違反の主張のうち、取調べにあたった捜査官から「善枝さん殺しを自白すれば一〇年で出してやる」と約束され、被告人はこれを信じて自白したものであるという点については、このような「約束があつたということは、原審において初めて被告人が述べたことであつて、被告人は、捜査段階で自白して以来、捜査段階、第一審の審理を通じて自白を維持し、検察官から死刑の論告求刑を受けた後の被告人の意見陳述の機会においても争わなかつた事実等に照らせば、被告人の原審における右供述は真実性のないものであり、その他、所論のいう約束があつたことを窺わせる証跡はみあたらない。」不当に長く勾留された後の自白かどうかという点については、第一次の逮捕・勾留、第二次の逮描・勾留と一連の逮挿・勾留により引き続き身柄の拘禁をうけ、最初の逮捕の日から二九日目に三人共犯に関する一部自白、三二日日に単独犯行の全面自白をしたものであるが、「事件の性質、規模、証拠収集の経過や取詞状況等に照らせば、不当に長く抑留又は拘禁された後の自白とは認められない。」片手錠をかけられたまま連日連夜苛酷な取調べを受けたという点については、「片手錠による場合は両手錠による場合に比して、一般的に心理的圧迫の密度は軽く、記録にあらわれた被告人に対する取調状況を併せ考察しても、自白の任意性を疑わせる状況はみあたらない。」「記録を調べても、捜査官による強要、強制、脅迫、帯革等が行なわれたと信ずるに足りる証跡を発見することができない。」

三 別件逮捕・勾留、再逮描・勾留については、「『別件』中の恐喝未遂と『本件』とは社会的事実として一連の密接な関連があり、『別件』の捜査として事件当時の被告人の行動状況について被告人を取調べることは、他面においては『本件』の捜査ともなるのであるから、第一次逮捕・勾留中に『別件』のみならず『本件』についても被告人を取調べているとしても、それは、専ら『本件』のためにする取調というべきではなく、『別件』について当然しなけれはならない取調をしたものにほかならない。」「更に、『別件』中の恐喝未遂と『本件』とは、社会的事実として一連の密接な関連があるとはいえ、両者は併合罪の関係にあり、各事件ごとに身柄拘束の理由と必要性について司法審査を受けるペきものであるから、一般に各別の事件として逮描・勾留の請求が許されるのである。しかも、第一次逮捕・勾留当時『本件』について逮描・勾留するだけの証拠が揃つておらず、その後に発見、収集した証拠を併せて事実を解明することによつて、初めて『本件』について逮捕・勾留の理由と必要性を明らかにして、第二次逮描・勾留を請求することができるに至つたものと認められるのであるから、『別件』と『本件』とについて同時に逮捕・勾留して捜査することができるのに、専ら、逮捕・勾留の期間の制限を免れるため罪名を小出しにして逮描・勾留を繰り返す意図のもとに、各別に請求したものとすることはできない。」


四 原審が、検証およぴ部落差別問題の専門家その他の証人についての弁護人の事実取調請求を却下したほか、採証法則に違反し、経験則、科学法則を無視し、推認、推謝等によって事実を認定し、被告人は自白した場合にも虚偽の事実を主張するものであるとの独断に立って事実を判断するなど、被告人は有罪であるとの予断と偏見にもとづいて証拠を評価し、事実を認定したものであって、憲法三一条、七六条三項等に違反するという主張に対しては、そのような事実はないとしてこれを全て否定した。


〔評釈〕
最高裁の姿勢
一 本件の特異性は、被告人が捜査段階だけでなく第一蓉の公判終結まで自白をつづけ、死刑の言渡しを受けても平然としていたものが、控訴審の冒頭以後一転して全面否認に変あり、これまでの自白は、警察官に崩されて虚偽の自白をしたものだと主張するに至ったという点にある。これは決して、「(死刑だけは免れたいとの願いがかなわず控訴するや、一転して無実を叫び…・・・)」(控訴審の判決理由)というような説明で納得することはできない。被告人が死刑判決にも平然としていて、何ら感度を変えなかった事実は、当時被告人と同房にいた人、拘置区長、弁護人らが証言しているところである。控訴も、被告人は弁護人と相談のうえで行なったものではなく拘置所の職員から「控訴しない者は、ぱかだ」といわれたことに対し、「俺はばかじゃない」と反発して申し立てたもので、死刑を免れようと意図して控訴したものではなかった。当時、被告人は、一審の死刑判決についても、控訴の意味についても、全く認識を欠いていたと考えられる。
控訴審後半において、弁護団は、被告人がなぜ虚偽の自白を行ない、一審の公判中それを維持し、しかも死刑判決に驚きもしなかったかということを解明することに全精力を傾けた。それは全て被告人の社会的無知に基困する。このような社会的無知がなぜもたらされたのか。それは決して被告人の個人的資質の問題や単なる貧困といった環境の問題でほない。被告人の生いたちをつらぬく部落差別の問題に目を向けることなしには、本件の正しい解決はあり得ないというのが弁護団の基本主張であった。原判決は、この基本主張には一切答えなかったのである。


二 アメリカでは、アメリカ社会の最も困難な問題といわれる人種問題の解決に、行政部や立法部でなく、ほかならぬ連邦最高裁がイニシアティプをとってきたことは夙に知られるところである。とくにウォレソ・コートは、司法積極主義の立場に立って、数多くの悪法判例や刑事手続に関する判例の発展において、平等主義への強い志向、少数者保護への積極的態度を打ち出した。勿静、わが国の最高裁をアメリカの連邦最高裁と同一に論ずることはできない。国家構造上の差もあり、また、わが国の最高裁には統治機構の一翼を担うという意識はない。わが国では、係属中の事件を解決することが裁判所の任務であって、それを越えて、あるいは、それを手段として社会に存在する不正義や矛盾の解決を任務と考える如きは、司法の独立と中立を守るゆえんでほないとする伝統的な司法消極主義の考え方が支配的である。
本件の場合、広範な人びとにより裁判支援の活動が展閑されたことは周知の事実である。とくに最高裁に対する口頭弁論・事実審理の要求は、裁判史上例をみないほどの規模と高まりをみせた。このような国民的要求をも含めて、裁判批判が大衆運動によって担われることをもって、最高裁がかたくなに殻を閉ざすのだとしたら、それは、非政治性を標榜することによって、むしろ一定の政治性を示したことにほかならない。
本件が部落差別の問題と深いかかわりをもっているということは、弁護団の基本主張であったばかりでなく、国民的関心事でもあった。原判決がこの問題に答えなかった以上、国民的視野に立って、最高裁は、すくなくとも口頭弁論・事実審理を行ない、この問題に答えようとする積極的な姿勢を示すべきであったと思われる。

差別的捜査の問題
一 最近は捜査に対する学問的関心が高くなっている。しかし「捜査構造論」などの理論的分析の華やかさにくらべ、事実行為として行なわれる個々の捜査活動に対して、学問的関心が未だ十分に行きわたっていないことも事実である。
捜査は、性質上隠密・果敢・自由なものでなけれはならないとされている。しかし、それが司法活動である以上、捜査機関の活動という側面ばかりでなく、これを受忍する市民(被疑者を含む)の立場から、救済・権利の体系として法的コソトロールのもとにとらえられなけれはならない。ただ、法的コントロールの対象となるためには、捜査官の単なる内心や主観の段階では不十分で、それが合法性のわくを越えた捜査行為として表出されてはじめて可能となる。その意味では、捜査官の予断、偏見なども、単なる内心にとどまるかぎり問題とはなり難いといえよう。また、聞込み、内偵等による情報収集活動となれば、それはすでに外部的に表出された捜査行為であるが、直接的な強制をともなわないためもあって、ほとんど捜査機関の自由な判断にまかされている。しかし、それが市民の側に多大の迷惑や権利侵害をもたらすことはいうまでもない。
これまでの法の体系は、市民生活の自由権的な保障に対しては比較的供重な配慮を払ってきた。.捜査活動に対しても同様である。特定の人びとに聞込みや、筆跡を集める等の捜査活動が集中しても、最終的に拒否の自由が保障されているかぎり不問に付されてきた。しかし、たとえ拒否の自由があり、協力するか否かは当人の意思にまかされているとしても、そのような捜査活動の対象とされるだけで、彼等の平和な日常生活ほ乱され、有形無形の不利益を受けなけれはならない。それが受忍されうるのは、合理的な理由にもとづく場合にかぎられる。何ら合理的理由もなしに、特定の人びとだけが捜査の対象とされることは、まさに平等権の侵害である。捜査活動にかぎらず、刑事手続全体について、平等樺的保障という観点から見直す必要があるのではなかろうか。

二 決定は、差別的捜査に関して、法律的な観点からは一切触れていない。事実問題として、「記録を調査しても」「差別的な捜査を行つたことを窺わせる証跡」はないとしたのである。
しかし、控訴審の公判記録によれば、事件発生二日後、警察官が狭山市堀兼で養豚業を営む石田氏宅を訪れ、出入りの人びとの住所氏名を問いただしている。
石田氏は被告人と同じ菅原四丁目の出身であり、出入りの人びとの大方は部落出身の青年であった。聞込みに引きつづいて、狭山市の二つの被差別部落の青年約一ニ○人が、捜査令状なしに筆跡捜査の対象とされている。また、石田養豚所に関係する者二八名が血液型検査をされたが、このうち被告人ほか二名を除いてはすべて無令状でなされている。
農村では往々にして被差別部落に対する偏見が強く、何かよくないことが起ると被差別部落に疑いの日が向けられる。.本事件でもこれと同じような状況があった。事件直後、付近の人びとは、何の証拠もなく「あんな悪いことをするのはよそ著しかいない」と考えたという(新開報道)。捜査の重点地区であった堀兼地区で「よそ者」とは、被差別部落から堀兼に移転してきた養豚業者の石田氏と、そこに出入する部落出身者であった。捜査本部が、このような住民の差別意識のうえに、当初から石田氏とその周囲にいる部落出身者に集中的に見込み捜査を行なったという経過は、記録のうえからも親うことができるのである。

別件逮捕の問題
−本件決定は、原審の立場を全面的に認め、「別件」中の恐喝未遂と「本件」とは社会的事実として一連の密接な関連がある以上、「別件」によって「本件」を取り調べても違法な別件逮捕には当たらないとした。事件単位説を徹底させるならは、令状記載の事実以外の事実については一切取調べを許さないことになって、全ての別件逮描が否定されることになる。しかし、別件逮捕について比較的厳格な立場をとる学説・判例も、実際問題として、この原則に何らかの修正を加え、.どこまでが許される別件逮捕となるかという基準を見出そうとしている。たとえば、令状記載の事実よりも軽微な事実、令状記載の事実と同種事実もしくは密接な関連性がある事実について取り調べることは許されるとし、また、被疑者が進んで令状記載以外の事実を自白した場合も許されるなどとされてきた。たしかに、令状記載の事実について取調べをすれば、それと密接に関連する事実に質問が及ぷことまで禁止することはできない。しかし、通説や判例にいう「取調べ」は、決して、関連事実について質問したり弁解を聴取したりすることではなく、証拠収集の手段として自白獲得に向けられた尋問なのである。あからさまな暴行や脅迫は別としても、ある程度強制的な内容をもつものである。
本事件の捜査は、当初から強盗強姦殺人、死体遺棄、恐喝未遂という一連の被疑事実についての総合的な捜査であり、第一次逮捕の時点で、すでに捜査官が被告人に対し強盗強姦殺人、死体遺棄の嫌疑で捜査を進めていたことは本件決定も認めるところである。してみると、当初から殺人等の相当な嫌疑で、殺人等を取り調べていながら、当初の身柄拘束の理由が恐喝未遂で殺人ではないとの理由で、今度は殺人等を理由として身柄拘束が認められるということになる。被疑事実が社会的に一個の事件とみられる場合であっても、観念的に複数の事件として構成することが可能であれば、その事件の数だけ逮措・勾留することができ、身柄拘束に閑する令状主義や法定期間は、いとも簡単に潜脱されることになるであろう。決定は、それが専ら法定期間の制限を免れるという「意図のもとに」行なわれたものではないとして、捜査機関の主観的意図を問題にしている。しかし、そもそも捜査機関がそのような意図を告白するはずはない。そのような意図があったか否かは、取調べの状況から判断するほかはないであろう。
被告人は、第一次逮捕が行なわれたその日にポリグラフ・テストを受けている。その検査承諾書には、「私はただいま云はれましたような女の人を殺したことなどは知りませんから、本日ボブグラフ検査をすることを承諾致します。」と書かれており、逮描は当初から殺人等の取調べの目的であったことが歴然としている。このことは、第一次逮捕期の警察官調書の内容からも明白である。本件は当初から殺人等に対する取調べ目的を有しながら、恐喝未遂で身柄を拘束したのであって、このような状況は、捜査機関の令状主義や法定期間潜脱の意図を十分に推認せしめるものといえよう。


ニ さらに、第一次逮捕の時点では、
恐喝未遂についても、「被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」はなかったと考えられる。上告趣意事に詳しく述べられているところであるが、五月二二日逮捕状が発付された時には、被告人の筆跡と脅迫状の筆跡とが同一だとする鑑定書は存在していない。すなわち、県警鑑識課に対して被告人の筆跡鑑定が求められたのが五月二一日で、鑑定書が作成されたのは六月一日である。逮捕状の疎明資料として、被告人が犯人であることを疑わしめるものはこれだけなのであるから、控訴審判決が、適法な逮捕が行なわれたことの理由として存在しない「鑑定書」を挙げていることは明らかに誤りである。本件決定では、この点「鑑定の中間報告をえて、被告人が有力な容疑者として捜査線上に浮かんだ」とし、逮捕の時点では「被告人自筆の上申書、その筆跡鑑定並びに被告人の行動状況報告書を資料とし」て逮捕状を請求し、その発付を受けたとしている。しかし、中間報告があったという記録上の根拠は認められていないしまた、筆跡の鑑定はそれ程簡単なものではない。仮に類似のものが提出されていたとしたら、それは捜査機関による意図的な作為を疑わしめるものですらある。してみると、
恐喝未遂に関するかぎり、被告人には「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」はなかったのであり、したがって、その逮捕・勾留は違法であったといわざるをえない。


自白の任意牲
一 決定は、約束による自白の法律問題には触れず、「約束があつたということは、原審において初めて被告人が述べたこと」であるから、その供述は真実性がなく、その他「約束があつたことを窺わせる証跡はみあたらない」として、弁護側の上告趣意をしりぞけた。捜査の経過を明らかにするという立証趣旨のもとに、原審でも多くの警察調書等が取り調べられている。しかし、捜査官が違法な約束をした事実を記録にとどめるとは到底考えられない。控訴審第二回公判で被告人が述べているところや、第九回公判で証人(約束をしたといわれている長谷部警視)に対し被告人自身が尋問している言葉から察すると、たとえ警察官が約束しても、普通の人ならば信用するはずのない幼稚な約束に被告人がひっかかったことが容易に窺われる。決定要旨とは逆に「約束があつたことを窺わせる証跡」ほむしろ明白なのである。
さらに、「約束があつたということは、・原審において初めて被告人が述べたこと」であるから真実性がない、という決定要旨は全く理解することができない。
約束があった(と認められる)からこそ被告人は一審で自白を維持したのであって、一審の期間中にその事実を述べるはずはないのである。控訴審になってからの供述であるから真実性がないということは、被告人が無罪を主張するようになってからの供述は一切信用しないということであろうか。もし然りとすれは、最高裁自身が、被告人の自白維持と部落問題との関係について、ひとかけらの理解も示すことなく、「捜査官の約束を信じて行つた嘘の自白を合法化するため、殊更被告人に対し予断と偏見」をもったことにほかならない。約束による自白が、任意性に疑いがあるものとして証拠能力を欠くものであることは、すでに学説・判例の承認するところである。さればこそ、本決定は事実問題として「約束があつたことを窺わせる証跡はみあたらない」と強弁したものと思われる。


ニ 不当に長く勾留された後の自白かどうかについても、決定要旨はきわめて簡単にしか触れていない。「不当に長く」というのは、一種の価値概念であり一律に何日と定めることは困難である。事実により具体的に異なることは乗認せざるをえないであろう。具体的な判断として、供述者の心身の状況等の主観的事情と、事案の性質等を基準とした抑留拘禁の必要性という客観的事情とをともに考慮すべきだとするのが学説の大勢である。この場合、主観的事情の考慮は虚偽坪除説的な見地からのものであり、客観的事情の考慮は人権擁護説的見地からのものといわれている。
決定は、主観的事情には全く触れていない。本件の場合、被告人は数日間にわたる「拒食」状態ののち最初の自白をしたことが窺われる。また、被告人は第一次逮捕・勾留ののち別件で起訴され、勾留理由開示公判が予定されていたのであるが、保釈、再逮捕によってこの勾留理由開示公判が取消しとなってしまった。
被告人はこれを通常の公判と誤解していた模様であるが、これに期待していたため精神的打撃を受け、この時点を境に以後控訴審の初期に至るまで、弁護人に対、する信頼を完全に失ってしまった(弁護人が嘘をついたと思い込んだ)。家族との面会を禁止され、さらに弁護人に対する信頼感を失って、被告人は文字どおり孤立無援の状況におちいり、この間きわめて不安定な精神状態にあったことが窺われる。これらのことは上告趣意審にも述べられているところであり、決定がこうした主観的事情を全く無視している点は妥当性を欠くものといえよう。


三 手錠をかけたままの自白については、最高裁は、被疑者が「手錠を施されたままであるときは、その心身になんらかの圧迫を受け、任意の供述は期待できないものと推定せられ、反証のない限りその供述の任意性につき一応の疑をさしはさむべきである」としていた(最判昭和三八・九・ニ刑集一七巻八号一七〇三文)。本決定は、片手錠に関して判断を示した最初の最高裁判例である。事の当否は別として、本決定が判例としての意味をもつ唯一の箇所といえよう。
しかし、片手錠の場合、「一般的に心理的圧迫の程度は軽」いとすることによって、不任意の推定を受けないとする趣旨なのかどうかきわめてわかり難い。
「取調状況を併せ考察」することによって、場合によっては任意性に疑いをさしはさむ理由となるのかどうか、この点も甚だ曖昧である。前記最高裁の判決は、両手錠の場合に限定されるいわれはなく、片手錠の場合も同様に考えるべきであろう。いっそう基本的には、黙秘権の保障されている被疑者に対して、「手錠」という強制的手段を用いながら「任意の」供述を求めることの異常さを考えるべきである。本件被告人の場合、逃走、暴行、自殺などさし迫った危険があったわけでなく、取調状況などは、むしろ任意性を疑わせる状況の方が著しい。これについて具体的に述べることは、すでに紙幅の関係上無理であるが、施錠と「併せ考察」するなら、すくなくとも自白の任意性を疑わせる状況を認めることができる。おわりに本決定は、これまでにみたように、法律問題についてはほとんどみるべき判断を示していない。決定要旨の大部分は、原判決の事実認定についての職権による調査及び判断によって占められている。
論点は多岐にわたっているが、ほとんど全ての点で原判決の事実認定を肯定した。判例評釈という制約から、本稿ではこれらの点についてほとんど触れることをしなかった。
最後に自白と客観的証拠との関係に一言触れておこう。控訴審は、自白に述べられている事実を、自白以外の証拠で確証するという方法をとったことを述べ、本決定もこの方法を肯定したうえで職権による調査を行なっている。「自白は証拠の王」という考え方が排斥されなければならないことはいうまでもない。しかし、本件では身柄の拘束や自白がえられた過程に適正手続の違反があったのではないかという問題が問われていたのである。控訴審や上告審は「自白を離れて客観的に存在する証拠」を検討するというかたちでこの問題を回避し、「自白に基づいて捜査した結果発見するに至つた証拠」の検討では、伝統的な虚偽排除説へ回帰することによって自白法則の発展に背を向けてしまったというべきであろう。

(もりい・あきら=関西大学教授)