石川さんの久永裁判長への陳述書

   陳述の趣旨
一、私は昭和三十九年九月十日午後二時より開廷された東京高等裁判所第一号法廷に於て、第二審の第一回公判に於て裁判長裁判官久永正勝殿より人定尋問を受けて被告席に着座して中田、石田、橋本の三人の弁護士さんの控訴趣意書の陳述が終わると同時に弁護士さんにも何の話もせず、被告席から右手を高く上げて立上り大きい声で「裁判長殿に申上げます」と言いながら裁判長の真正面に立って直立不動の姿勢を採り、顔を上げて裁判長殿の目を見ながら「裁判長殿又世間を騒がせるようで誠に申訳ありませんが、私は中田善枝さんを殺してないのです。私は犯人ではありません。」と力強く真実のことを申上げ、以て今まで浦和地裁に於て第一回の罪状認否の公判から第十二回の結審に於て死刑の判決書渡しを受けるまで真犯人として中田善枝さんを殺したと言う虚偽に満ちた嘘の犯罪の容認を断々平として全面的に明確に否認致しました。
 二、私が昭和三十八年九月四日浦和地裁に於ける第一回の公判以来昭和三十九年三月十一日の最終回第十二回の公判に於いて死刑の判決言渡しを受けるまで、裁判長裁判官内田武文の尋問に対して何んでもかんでも聞かれること間れることを否認することなく、低く頭を下げたまま後の傍聴席に坐っている人達には聞えないカの泣くような小さい声で「はいそうです、その通りです」と答え、声を出さない時は頭を下にさげて容認の形容を示し、又は犯罪を容認しないかと聞かれた時には答えないで首を横に左右に動かして犯罪を容認すると言うことを形ちで現わしました。昭和三十八年十一月十三日第六回の公判に私が昭和三十八年五月一日の夕方午後六時前後に中田幸枝さんの自転車を持って、中田善枝さんの家から百三十米東の方へ離れている内田幸吉さん方へ物凄く雷の鳴る大雨土砂降の中を全身雨のためびしよぬれしずくだらだらの姿で、中田善枝さんの家はどこですかと善枝さんの家を尋ねるために私が家に立寄ったと言う嘘の造りごとの証言、埼玉県警に頼まれて私を何が何んでも真犯人にでっち上げて仕舞わなければならぬと言う埼玉県警のテロ行為埼玉県警の手先となって嘘の証言をするために虚偽と欺まんに満ちた嘘の証言をして居たと言うことは、此の日証言台に立った内田幸吉の挙動不審の態度、言っている言葉に明瞭性なく、答える証言はことごとく曖昧にして真実性、信びよう性は薬にしたくもなく、埼玉県警の手先となって現れたカイライの証人であること、人を見ることのできるけい限、活眼の鋭い観察力を持っている人であったなら良くわかって、内田幸吉は私を真犯人にするために埼玉県警の手先、虚偽の証言を演ずるカイライ証人役者であったとんだ曲者と見抜けたことと思います。埼玉県警に頼まれて嘘の証言をするために証言台に立った憎みて余りある曲者。
 此の時私がなぜ内田幸吉の証言はからうそで、私は五月一日午後四時頃から珍らしい大雷りの土砂降りなので自宅でテレビを見ていたので、此のインチキ野郎奴デカに頼まれてよくもでたらめ極まる嘘八百が言えたものと私の全身の血潮は逆流したのですが、此の時私が内田幸吉の言ったことは全部嘘です、造りごとです。埼玉県警に頼まれて私を真犯人にするためのお芝居です。と言うことは簡単ですが内田幸吉の証言を皆んな嘘だと言うことを言えば私は裁判が終らない途中で、殺されるかも知れない。私が昭和三十八年六月十七日午後三時狭山警察署の留置場から一且釈放されて五月二十三日午前四時四十甘分逮捕されて二十六日間と言う永い間世話になったので、大勢の刑事さんに.永々お世話になれましたとお礼を申上げて留置場の廊下を五足六足歩いた途端私を再逮捕して川越警察署の分室に私が留置されて六月二十一日に関源三にダレス鞄の捨てた場所を地図に書いて示したと言うでたらめインチキからその発表がされるまで、私は五日間と言う永い間毎日飯も水も喰せられず与えられずそして毎日毎夜寝されず長谷部梅吉警部を始め三十人以上のねえ猛極まる残酷残忍な拷問、自白強制を平気でやるさい狼に捉らわれた小羊小鹿として毎日毎夜休息させられることなく散々振舞された挙句、土間に蛙を打ちつけられたと同様打ちつけられて今にも息がなくなって死んでしまうと言う地獄の責苦を受けて長谷部梅吉警部を始め十数人の残虐ねえ猛極まる拷問のベテランから「石川毎日毎夜五日間も飯も水も呉れられず又寝されないで地獄の責苦を受けるより善枝さんを殺したと言え、石川おまえが善枝さんを穀したと犯行を自認して裁判となってもお前の罪はせいぜい永くて懲役十年だ、そしてお前がおとなしく刑務所に務めていれば五年位で釈放となるのだから善枝さんを殺したと言えそして後は我々の言うなりになってその通りにしているのだ。どうしても善枝さんを穀したと言わなければ此処でお前を殺して片づけてしまうぞ、お前のようなものは此処で殺して片づけてしまってもお前を殺した我々は何んの罪にもならず殺されたお前だけが馬鹿を見るのだ。此処で殺されたくなかったら虐殺されたくなかったら生きて助かりたかったら、善枝さんを殺したと言え」とあの恐ろしい責苦を受けると思ったから憎みて余りある内田幸吉の嘘八百の証言を否認しなかったのです。
 昭和三十九年十月三十日午前十一時に現場検証が行なわれます。此の検証には何が何んでも私も必ず立会って国民の皆様の前に立って堂々と高らかに元気のある態度で私が犯人でないことをよく見て戴く覚悟です。十月三十日の現場検証に私を真犯人にしてしまうために埼玉県警に頼まれて手先となり嘘八百の証言をした内田幸吉にあって内田幸吉の反省を促がしたいと思っております。昭和三十九年九月二十九日午前十時三十分、内田幸吉に荻原佑介さんがあって此の話にふれるや内田幸吉はとんだ申訳ないことをしてしまって実に弱ったなと言う口振り態度で、埼玉県警に頼まれてかいらいの証人となったことを認められたそうです。
身に覚えのない私がなぜ善枝さんを殺した犯人だと自供したか、浦和地裁での裁判で否認しなかったかは簡単ですが右の通りです。
 又私を真犯人に仕立るべく裁判所に提出された物的証拠はダレス鞄、万年筆、時計等々全部埼玉県警が造って取揃えた偽物の証拠品であります。国民の皆さん来る三十日の現場検証には私も立会って私が犯人でないことを見て戴き度く思いますから何卒十月三十日の現場検証の状況を国民の皆さんの賢明なる良識と冷静なる判断力に依って良く観察して、如何に私に死刑の判決言渡しをした浦和地裁の審理がでたらめであったかを篤と見て下さるようお願いします。埼玉県警が私を再逮捕して犯行を自供自認しなければ留置場に於て私を虐殺して処置すると言う拷問、自白強制の事実は私のように地獄の責苦を受けた人でなければとてもわかりません。五日間も絶食、絶水、絶寝、絶休の地獄へ陥されてみなければわかりません。十月三十日の現場検証に於て犯人でないことを立証するに先だち、此の陳述書を提出します。又私が九月十日に否認したことについて浦和地検の次席鈴木寿一検事が私を犯人と決める新らしい証拠がまだいくらでもあると新聞にでたそうですが、偽物の証拠品なぞ誰にでも何千何万と取揃えられるでしょう。私はもうそう言う恐迫の手には乗りません。此の陳述書は私が直接書いて差出すことができませんので荻原さんから元気のある大きい声で読んできかせてくれたものを私の父兄に認めて貰ったものを私の真実の陳述として提出します。。
 昭和三十九年十月                              1
 署名捺印も私の父兄が私に代ってして戴きます。