異議申立書

 

 

 
                                     請求人 石川一雄


請求人石川一雄に対する強盗強姦・強盗殺人、死体遺棄、恐喝未遂等再審請求事件につき、東京高等裁判所第四刑事部は一九九九年七月八日本件(第二次)再審請求を棄却する旨の決定をなした。
これらについては、全面的に不服であるので、刑事訴訟法四五〇条、同四二八条により、原決定の取消と再審開始の決定を求めて本異議の申立をする。

申立の理由は左記のとおりである。
一九九九年七月一二日
右主任弁護人山上益朗

弁護人松本健男
同藤田一良
同深田和之
同西川雅偉
同中北龍太郎
同中山武敏
同横田雄一
同青木孝

東京高等裁判所御中

目次

第一、原決定が最高裁判所判例である白鳥決定(昭和五〇年五月二〇日第一小法廷決定。判例時報七七六号)と財田川決定(昭和五一年一〇月一日第一小法廷決定。判例時報八二八号)ならびにこれまで積み重ねられてきた再審各判例に違反していることについて
第二、脅迫状についての原決定の誤り
一、筆跡についての原決定の誤り
(一)、神戸鑑定書の新規明白性と原決定の誤りについて
(二)、山下意見書の新規明白性と原決定の誤りについて
(三)、木下第一次意見書の新規明白性と原決定の誤りについて
(四)、日比野鑑定書、T・S、S・Kの各供述調書の新規明白性と原決定の誤りについて
(五)、宇野鑑定書の新規明白性と原決定の誤りについて
(六)、大類鑑定書の新規明白性と原決定の誤りについて
(七)、江嶋ほか意見書の新規明白性と原決定の誤りについて
(八)、戸谷意見書の新規明白性と原決定の誤りについて
(九)、大野第二鑑定書の新規明白性と原決定の誤りについて
まとめ
二、脅迫状の記載訂正前の金員持参指定の日付に対する原決定の判断の誤りについて
三、封筒の宛名の筆記用具に対する原決定の判断の誤りについて
四、雑誌『りぼん』に対する原決定の判断の誤りについて
五、脅迫状の用紙に対する原決定の判断の誤りについて
第三、殺害の態様に関する原決定の誤り
第四、姦淫の態様に関する原決定の誤り
第五、血液型についての原決定の誤りについて
第六、血痕等の痕跡の存否について第七、「被害者の死亡時期」に対する原決定の誤りについて
第八、手拭いに対する原決定の判断の誤りについて
第九、殺害現場付近で農作業中の者の存在についての原決定の誤り
第一〇、死体の運搬方法についての渡邊謙、中塘二三生共同作成の意見書の新規明白性と原決定の誤りについて
第一一、死体の足首の状態についての原決定の誤り
第一二、スコップに対する原決定の判断の誤りについて
第一三、死体埋没現場の玉石の存在に対する原決定の判断の誤りについて
第一四、車両との出会いについての原決定の判断の誤り
第一五、U・K証言に対する原決定の判断の誤りについて
第一六、万年筆についての原決定の誤り
第一七、鞄に対する原決定の判断の誤りについて
第一八、腕時計に対する原決定の判断の誤りについて
第一九、指紋に対する原決定の判断の誤り
第二〇、佐野屋付近での体験事実についての原決定の誤りについて
第二一、佐野屋付近の畑地内の地下足袋の足跡痕についての原決定の誤り
第二二、供述調書添付図面の筆圧痕についての原決定の誤り
第二三、自白の心理学的分析に関する原決定の誤り
第二四、結び



第一、原決定が最高裁判所判例である白鳥決定(昭和五〇年五月二〇日第一小法廷決定。判例時報七七六号)と財田川決定(昭和五一年一〇月一日第一小法廷決定。判例時報八二八号)ならびにこれまで積み重ねられてきた再審各判例に違反していることについて。

一、白鳥決定は、明白性の程度と判断の方法について、「『無罪を言い渡すべき明らかな証拠』とは、確定判決における事実認定につき合理的疑いをいだかせ、右の明らかな証拠であるかどうかは、もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば、はたして確定判決においてなされたような事実認定に到達したであろうかどうかという観点から当の証拠と他の全証拠とを総合的に評価して判断すべきであり、この判断に際しても、再審開始のためには確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りるという意味において『疑わしきは被告人の利益に』という刑事裁判における鉄則が適用されるものと解するべきである」とした。
原決定は、右判例にいう「総合評価」ならびに「疑わしきは被告人の利益に」の原則の適用を放棄しているところの、きわめて違法・不当の決定と断ぜざるをえないのである。
とくに、「総合評価」の放棄は必然的に、自白をふくむ旧証拠の再評価を放棄することに帰し、ひいては確定判決の証拠構造と切り離した上で各新証拠をそれが対応する旧有罪証拠と個別的に対比検討して明白性を否定しているのである。これを換言するに、個々の新証拠のみで有罪認定を覆すことを要求する孤立評価説に堕落していること明白である。その違法性、不当性にてらして、それが再審の門の閉塞をねらつてあえて打ち出されたものとしかとらえようがないほどで、きわめて遺憾の極みといわざるをえないのである。
二、また原決定がこれまでの再審判例のなかで確立してきた各法理に敵対していることは、確定判決における証拠構造の分析を全くやつていないことに徴してあきらかである。
再審受理裁判所がまず、確定判決の証拠構造の分析から再審理由の検討に入ることはすでに定着、確定した審理の方法といえる。
たとえば、
昭和五四年一二月六日仙台地方裁判所における松山事件再審開始決定書をみると、「第二、確定判決の証拠構造」という項を起こし(判例時報九四九号)、有罪認定の有機的関連を検討している。このような審理方法は昭和五五年一二月一二日徳島地方裁判所、徳島ラジオ商殺し事件第六次再審開始決定(判例時報九九〇号二〇頁)において、昭和五七年一二月二〇日釧路地方裁判所網走支部の梅田事件再審開始決定(判例時報一〇六五号三四頁以下)において、昭和六一年五月二九日静岡地方裁判所の島田事件再審開始決定(判例時報一一九三号)において、平成四年三月二二日福島地方裁判所いわき支部の日産サニー事件再審開始決定(判例時報一四二三号)において、あるいは棄却決定の場合においてさえ、たとえば平成六年八月九日静岡地方裁判所袴田事件の決定(判例タイムズ八五六号)においても、右各再審先例は、再審請求の理由の審理にあたつては、まず確定判決の証拠構造を分析し、そこでの有罪認定の強度と質を再評価し、そののちに新証拠による総合評価をなしている。
原決定は、確定判決の証拠構造の分析を全くなさず、したがつて総合評価をオミットする。すなわち、各論点の判示の結びに、おまじない的に、「総合評価するに」とか、あるいは「関係証拠と併せ考えても」とか、「第二三結び」においては、「新規明白な証拠として採用する証拠資料を、その対比する事項毎に確定判決の関係証拠と総合して考察し、」などという文言を、一行挿入することで能事終われりとしている。
いうまでもなく上記各先例が再審理由の審理にあたつて、まず確定判決の証拠構造を分析した理由は、有罪認定の質を再評価するためであるが、加えて、再審請求審の弾劾の対象(審判の対象)を確定するためである。
財田川決定が「申立人の自白の内容には数々の疑点があり、ことに犯行現場に残された血痕足跡が自白の内容と合致しないこと、その他の疑点を併せて、(中略)考えるときは、審理を尽くすならば、再審請求の事由の存在を認めることになり、確定判決の事実認定を動揺させる蓋然性もありえた……」との右判示を導き出した契機は、その前提に確定判決の証拠構造の分析がなされていたからこそである。すなわち「本件有罪判決の証拠としては第四回検面調書に録取されている自白と証拠物として国防色ズボンの存在が重い比重をしめている。そして申立人の手記五通は、右の自白の任意性、信用性を担保する意味合いをもつものである。ところが右自白の内容には数々の疑点があることは、さきに指摘したとおりである。ことに(中略)犯行現場に残された血痕足跡が自白の内容と合致しないこと、その他の前記指摘の観点を併せて考えるときは、被害者の血液型と同じ血液型の血痕の付着した右国防色ズボンを重視するとしても、確定判決が挙示する証拠だけでは、‥‥‥早計に失する」旨、まさしく証拠構造を分析し、ついで旧証拠の再評価をなしたものであつた。前記各先例の証拠構造分析論は、右財田川決定に従ったものであることは明白である。
すなわち財田川決定は、明白性判断を、証拠構造の分析を通じて旧証拠を再評価し、この審査により確定判決における有罪認定の破綻すなわち合理的疑いの存在を把握したわけである。
原決定は証拠構造の分析を欠落させたことにより、特筆すべき欠陥を露出させた。
すなわち自白を統一的に把握しようとせず、個々の論点に分解解体し、自白全体の信用性判断を全く考慮せず、証拠の孤立評価説に堕しているということである。
三、原決定は刑事訴訟法四四七条二項の解釈を誤り白鳥決定が示した総合評価を拒否している。
たとえば雑誌『りぼん』が本件当時請求人方に存在していなかつたことを示す新証拠である石川美智子らの司法警察員に対する供述調書の存在について原決定は、刑事訴訟法四四七条二項にてらして新規性がないとし、あるいは第一次再審の判断に覇束されると判示して右石川員面調書と他の新証拠との総合評価を拒否した。
また原決定は、脅迫状の訂正前の金員持参指定日付に関する各新証拠についての判断の中で、「新聞記事の写しが加わつただけで、第一次再審請求で新証拠として提出され、その請求棄却決定の理由中で判断を経た証拠と実質的に同じと認められる」から、「所論は実質上同一の証拠に基づく同一主張の繰り返しというほかなく、刑事訴訟法四四七条二項に照らし不適法である。」と判示する。
ところで右各判示は、再審各先例が積み上げてきた取り扱いに敵対し、これを揉繍するものである。
たしかに再審申立てが数次にわたる時において、同一の理由と同一の新証拠にかぎられている時は、前の棄却決定の内容、確定力が拘束力を持つとはいい得ても、一部において従前の請求と重複するようにみえても、今回の再審請求が別個の理由と新たな証拠方法、証拠資料をもってする請求(たとえば、一つの例にすぎないが、本件における指紋鑑定書などの発見提出)であるときは、従前とは別異の理由にもとづく再審請求といえ、刑事訴訟法四四七条二項の禁止にはあたらないというべきである(徳島ラジオ商殺し事件第六次再審開始決定。判例時報九九〇号五四頁参照)。
原決定の判示は、あるいは、松山事件再審開始決定(判例時報九四九号二四頁)にいう「覇束力」に従つたのであろうか。しかし同決定も「特段の事情のないかぎり」というのであつて、本件での有罪の主軸とされる脅迫状と請求人との結びつきについては数々の合理的な疑点が客観的証拠によってあきらかにされている時に(この点は従前何回となく指摘してきたが)、前記石川員面調書など五通があきらかにした、新たな証拠資料を自白の信用性吟味に際して総合評価から外すなどとは、一の暴挙とさえいえる。
原決定は「自分は『りぼん』をみながら自宅で脅迫状を作成した。」旨の自白の信用性を、指紋鑑定、日付訂正の問題、さらには、殺害方法における新証拠とこれに関連の「タオルで絞殺した」などの自白の変遷の問題などと統一的に把握し、自白の信用性を吟味しようとする姿勢を頭から放棄している。
弁護人・請求人が自白の信用性を全面的に弾劾していることは、弁護人らの各補充書において、とくに平成二年一二月二〇日付、平成一〇年六月一九日付の、あるいは指紋についての二通の補充書において明白である。すなわち指紋の未発見の事実、殺害方法についての自白の不合理的な変遷、日付訂正と日付の原記載の問題における自白誘導の疑いの発見、脅迫状訂正筆記用具と自白との食い違い、万年筆奪取時期の自白の矛盾と不合理性、雑誌『りぼん』の未発見の問題、本件当時『りぼん』が請求人方に存在しなかつた事実、脅迫状用紙綴目数についての食い違い、あるいは自供された事実が、のちに発見の客観的証拠によりくつがえされている事実(木綿細引紐の間題)などを指摘し、自白の内容が不自然、不合理であり、本件自白は体験にもとづかない虚偽のものと主張してきたのである。
松山事件再審開始決定は自白の信用性の吟味について、「請求理由の実質が請求人の自白の真実性を弾劾するものである」ときには、「自白の内容をなす個々の供述は特段の事情がない限り相互に有機的に関連を存するものとして統一的に把握されるべきものであることに鑑み、自白の内容をなす個々の供述部分の逐一について新証拠がなければその供述部分の真否ないし合理、不合理の検討をなしえないものではないと解する。」(前掲二四頁)と判示している。
右判示は当然の事理をのべたものにすぎないが、本件においては、自供で重い比重をしめる、「手袋を使用していない」という自供にもかかわらず、脅迫状の作成者という請求人の指紋が一つとして発見されていない事実、手本にしたという『りぼん』の請求人自宅からの未発見の事実、鑑定であきらかとなつた脅迫状訂正筆記用具と自白との食い違い、殺害方法にみられる自白の変遷とこれに関する自白と客観的事実との食い違いは、本件の場合、逐一新証拠による裏付けを得ている。しかるに本件決定はいわゆる総合評価からの自白の信用性の吟味を全くオミットした。あるいは信用性吟味に触れた場合も、たとえば殺害方法に関する自白の不自然な変遷について、「捜査官の取調べに対して強姦と殺害の犯行の一部始終をありのまま供述したとは考え難く、供述時に、多少とも記憶が混乱、あるいは一部亡失し、またあるいは意識的に供述を端折るなどしたにちがいない」とし、よって、「いずれかが客観的事実に合致し、他は誤りであるという二者択一の関係にあると考えることは必ずしも当を得ない」旨、結論として、「自分の経験していない虚構の事実を自白したとはいえない。」と判示している。
右判示の誤りは、証拠構造の分析をせず、すなわち審判の対象を確定しなかつたことに起因しているものであるところ(振殺が確定判決の認定である。)、総合評価に名をかり、再審請求人にかえつて不利な認定をひき出した場合であつて、その違法性、不当性は厳しく弾劾されねばならない。

四、原審裁判官らが以上のごとき違法、不当の審理に終始しえたのも、再審の理念である無事の救済に背をむけたことにあった。すなわち原審裁判官らは不遜にも白鳥決定 以前の再審閉塞の状況のもとでこそ許される審理方法にもどつて、確定判決絶対護持に終始したわけである。
 再審の理念が、無事の救済にあることは白鳥決定が 「疑わしきは被告人の利益に」 の原則が再審請求の場合にも適用されることを宣明したことに発し、弘前事件再審開 始決定は 「当裁判所は『無事の救済』という基本理念を前提として最高裁判所の白鳥 決定に示されたところの見解に賛成する」と判示し (高等裁判所刑事集二九巻三号三 二三頁)、あるいは松山事件の再審請求の仙台高等裁判所抗告審決定が「再審が個々 の裁判の事実認定の誤りを是正し、有罪の言渡しを受けた者を救済することを目的と するところから、再審請求人の意見を充分酌んだ上で再審請求の理由の有無を判断す ることが望ましい。」 と判示したのも、再審の理念が無季の救済にあることをあきらかにしたものである。
五、弁護人・請求人らは、右無事の救済の理念のもと、刑事訴訟法第一条にいう「事案 の真相の解明」により、再審請求審において審理を尽くすべきであるとの法理にたって、有罪証拠の主軸とされる脅迫状やその他の新証拠につき、鑑定人を証人として公判廷で取り調べるよう証人尋問請求してきた。右証人尋問請求は本件記録にあきらかなように、提出の新証拠については漏れなく及んでいる。しかるに、原審は、公判廷における事実取調べをせず単なる書面審理のみで、本件請求を棄却した。
 再審における狭義の事実取調べが、「裁判所の合理的な裁量」にゆだねられているとはいえ、一応証明力のある新証拠が提出され、これによって確定判決の証拠構造が動揺している場合、受理裁判所としては、弁護人の請求にかかる各鑑定人を公判廷において証人尋問すべきであり、そうすれば、一層確定判決に存する合理的疑いが鮮明となり再審開始決定に至りうるのである。原審が狭義の事実取調べをしなかつたのは、再審の理念にもとるというだけでなく、審理を尽くすべき義務に違反しているというべきであつて、その裁量を著しく誤つた場合にあたり、その審理不尽の違法もまた明白である。

第二、脅迫状についての原決定の誤り             .

一、筆跡についての原決定の誤り

 原決定は、確定判決を支える筆跡三鑑定の証拠価値を大きく減殺せしめた弁護人提出の各筆跡鑑定書について、鑑定人尋問も一切実施せず、新旧証拠の総合評価にもとづく公正な判断をおこなわなかつたものとして、ただちに破棄されるべきである。
 以下に、脅迫状に関わる各鑑定書に対する原決定の誤りを指摘する。

 (一)、神戸鑑定書の新規明白性と原決定の誤りについて
1、原決定は、伝統的筆跡鑑定方法による神戸鑑定書の詳細なる分析の結果、すなわち 「鑑定資料印 (脅迫状)と鑑定資料(2)(上申書) の筆跡は異筆と判断する。」 旨の鑑定結果について、「異筆性を裏付けるものとはいえない。」 旨認定し、その明白性を否定した。
 ところで原決定を繰り返し検討するに右認定を支えているのは、単に、「な」、「す」 の平仮名について請求人の手になる接見等禁止解除請求書にも、「す」の一筆書きがみられるとし、「な」の字についても関宛昭和三八年手紙の「な」の運筆に同様形態の字が散見されている点につきる。しかし関源三あて手紙中にも「な」字の一筆書きでないものも多く散見されるし、一画、二画が同様の形態をとる「た」字についても、一筆書きでないものも多く散見されている。
 もっとも右一筆書きの形態は、警察署で勾留中に脅迫状をみて書写の練習をさせられたことから習得した書き癖でないとはいいきれないのであって、原決定も引用する戸谷鑑定人もまた、脅迫状の書写練習の結果として請求人の字の形態が脅迫状の字に似てくることがありえる旨、専門家の立場からこれも認めている。
原決定は戸谷鑑定人や、請求人公判供述がその通りだとしても、「練習の期間は短か」いので「筆跡が脅迫文に似てきたなどということは考え難い。」というが、右判断は専門的知見によるものではなく、単なる推測にしかすぎないものであつて、専門的知見を批判しうる力はないこと明白である。
 なお原決定は早退届、通勤証明願などにも脅迫状との書字、書き癖の類似があるというのであるが、弁護人は同意できない。同文書を請求人が自書したことに ついては、同人の公判供述にてらして大きな疑いがのこるし、全部の早退届が検討の対象となつているわけでもないので、右判断も単なる憶測を出るものではな
いからである。
2、神戸鑑定書が図示のうえ詳細に論証している脅迫状と上申書の各文字の差異の 存在については、原決定は頬被りして直正面から検討していない。
  脅迫状と上申書の間に、歴然たる差異のあることを原決定も認めながら、この間題を「(これらの差異は)当時の請求人の書字・表記能力の常態をそのまま如実に反映したものとみるのは早計に過ぎ、相当でないことは明らかである。」との一言で始末している。原決定の右論旨が、なぜ弁護側だけの鑑定書にだけ適用されるのか、大きな疑問である。つまり、なぜか捜査側三鑑定書については「その類似性として指摘するところも被告人の書字、表記能力の常態をそのまま如実 に反映したとみるのは早計であつて、脅迫状筆跡と上申書などの筆跡の一部が類似するということだけで直ちに書き手の同一性をみちびくのは早計にすぎる。」ということにならないのか。不思議なことである。
3、原決定は、「上申書、中田宛手紙と関宛の手紙との書字の差異は、身柄拘束中の練習の影響も幾らかはあるとしても、主として、書き手である請求人の置かれた四囲の状況、精神状態、心理的緊張の度合い、当該文書を書こうとする意欲の度合い、文書の内容・性格など、書字の条件の違いに由来するとみて誤りないものと認められる。」と判示している。また書字形態の稚拙さなどは、「捜査官の目を強く意識しながら書いたので生じたもの」とも判示する。
 これを要するに、通常人の書字形態は、その度毎の環境と心理状態の変化により、稚拙とも、あるいは正字となり誤字を生じるもので、一定不変とはいい難いというのであるが、他方、原決定は「書き癖」とも表現する。「書き癖」を認めることで請求人に不利に認定し、他方、その時々の環境、心理的状態の変化を持ち出すことによって書字の形態上の差異の対比を誤魔化す。これを要するに融通 無碍ともいえるし、他方、ただただ請求人を脅迫状の筆者と認定せんがための、下心あっての、ためにする論旨ともいえる。いずれにしても、公正かつ合理的な推測・論旨とはとうていいえないのである。
4、原決定の結論は、「所論援用の証拠を確定判決審の証拠に併せ検討しても、本件脅迫状、本件封筒と各対照文書にみられる書字の書き癖、形状、筆勢、運筆状態等を仔細に対比検討した三鑑定の判定が説得力(註。弁護人提出の、原決定もあげる、新証拠C、F、H、さらには一九九七年二月一八日付追加意見書に明示の異筆性についての説得性について原決定は全くふれない。これらと神戸、大野各鑑定書などを総合評価する時には、請求人が本件脅迫状の筆者でないことは、明々白々たる結論となるのである。)を持ち合理性が認められることは、確定判決、さらには第一次再審請求審査手続において検討されたとおりと認められる。」というところに示されているが、右結論を支えている論旨内容は、神戸鑑定書に対してなされた融通無碍の、伸縮自在どうにでもなるゴムの定規によるもので、説得力を欠き、かえって神戸鑑定書の明白性を浮き彫りにしている。原決定の判示の誤りであることは明白である。
 神戸鑑定書それ自身において、また他の新証拠とこれを総合的評価することにより、上申書と脅迫状の異筆性は明白になる。
(二)、山下意見書の新規明白性と原決定の誤りについて

 原決定は、山下富美代意見書について、「筆跡の特徴点を捉えるについて判定者の主観が入ることは避けがたいであろうから、これが、異同比率の算出にも影響する」として、「右意見書の価値は、限定されたものといわざるを得ないのであって、三鑑定の判断を揺るがすには至らない」と述べているが、原決定が「筆跡の特徴点を捉えるについて判定者の主観が入ることは避けがたい」として鑑定の価値を限定されたものとするならば、まさに「筆跡の特徴点についての判定者の主観」のみにもとづいた三鑑定の証拠価値こそ限定されたものと言うべきである。
  山下意見書は、警視庁科学捜査研究所で文書鑑定実務に従事していた経験を持つ 本鑑定人が、従来の筆跡鑑定方法の問題点をふまえて、本件における筆跡鑑定の対照条件を検討した上で、異同比率を用いて脅迫状と上申書を資料として鑑別するとともに、あわせて、漢字の出現率、誤用・当て字と誤字、漢字の熟知性、筆勢・筆速などの諸点における相異をも検討し、「同一筆跡と断定することは不可能である」と結論しているのであつて、原決定は山下意見書の評価を誤ったものである。
 また、原決定は 「異同比率算出の基礎にし得たのは、『月』『日』『時』『五』の四個に過ぎず、量的に問題がある」とするが、山下意見書は、鑑定資料の適格性について厳密に検討した上で、脅迫状と上申書に共通する漢字四字(および『ツ』)を用いて異同比率を算出しているのであつて、鑑定の結論の妥当性を何ら左右するものではない。
 山下意見書が述べ福ように、「形態上の相違の有無と程度を経験的帰納法によって行っていた」従来の筆跡鑑定方法に対して、異同比率に.もとづく鑑定方法は、「筆跡において恒常性のあるのは、文字の絶対的大きさではなく、字画相互の大きさの比率、すなわち相関数値であることが、実験的にも証明されており、このような客観的手法を筆跡鑑定に取り入れ」たものであり、「字画構成、字画形態、筆順特徴を中心においた特徴の対照方法をとっているため」に共通同一漢字を資料としているのであって、むしろ、山下意見書の科学的客観性を示すとともに、山下意見書が指摘する資料の妥当性、筆跡の恒常性および時系列的変化を無視した三鑑定の証拠価値こそ大きく揺らいでいることは明らかである。
 原決定は、山下意見書の指摘する諸点にもとづいて、三鑑定とその証明力を減殺させている山下意見書の評価を完全に誤つたものと言うほかなく、破棄されなければならない。

(三)、木下第三意見書の新規明白性と原決定の誤りについて


 原決定は、「三鑑定が単に共通文字の類似性のみから筆跡の同一性を判定したものでないことも、各鑑定書の記述内容に照らして明らかであり、三鑑定が判定根拠を示していないという論難は当たらない」と述べるが、木下意見書をはじめとする各鑑定書および弁護人の指摘する三鑑定の具体的問題点、とりわけ顕著な筆跡の相異について三鑑定が恣意的に無視している点について、何ら述べていない。
 原決定は、木下意見書が「『ツ』については、その第二筆と第三筆の長さの比だけを問題とし、……『に』についても、専ら第二筆と第三筆を結ぶ連続線が第二筆と作る角度だけを問題にして、その余の要素は取り上げないまま、異筆を結論づけるその手法は、‥‥‥余りに単純直裁で、その妥当性には疑問がある」と述べるが、木下意見書は、三鑑定が対照文字とした「ツ」「に」について統計的検定(平均値 の差のt検定)を実施し、「ツ」については過誤の危険率〇・三%以下で、「に」については過誤の危険率〇・三%以下で、それぞれ「同一人の筆跡でない」と言明できることを証明したものであって、原決定の述べるところは、木下意見書の近代統計学的方法を適用した厳正な証明に基づく指摘に対する無理解と言うほかない。
 原決定は、三鑑定とその証拠価値を減殺させた木下意見書の指摘するところについて、新旧証拠の総合的評価に基づく判断を誤つたものとして破棄されなければならない。

(四)、日比野鑑定書、l・S、S・Kの各供述調書の新規明白性と原決定の誤りについて

 1、日比野鑑定書は 「『江』、『刑』、『札』などの三字は小学校の一年から六年までに配当された教育漢字にはなく、当時の当用漢字(今日の常用漢字)において初めて出てくるものなのである。これは筆者の漢字能力がある程度高度なものであって、雑誌『りぼん』によって幾つかの漢字を知ったというが如きは到底信ぜられない。」と鑑定している。ところで右鑑定意見の正鵠を突いていることは、請求人の当初の自供では『りぼん』から援用したという右「刑」、「札」の二字が遂に『りぼん』からは発見されなかつたということにてらして、あらためてその指摘の重要性を浮き彫りにする、原決定は「刑」、「武」について字画もすくなく容易に見覚えることができ手本がなくとも書写し得たと認定する。しかしこの筆法でいけば、テレビをみていれば書写能力が自然と身につくことになるが、決してそうではないのである。これも公正なる想像力の問題であるが、原審裁判官らの想像力の涸渇にはあ然たらざるをえない。まことに日比野鑑定書がいうように、そもそも 『りぼん』から漢字をおそわった旨の自供の架空であることは大野鑑定においても同旨の結論を得ているのであって、右国語学上の権威が一致して認める所見にはそれなりの証拠価値を付与されるべきである。
2、大野鑑定書も指摘し、日比野鑑定も同旨の結論をみちびいている事項につぎの問題がある。つまり、「当然平仮名で書くべきものを、その音によって無理にあてている漢字が死−し(死出死まう)、知・し(ほ知かたら)、出−で(車出いく)、名−な(は名知たら)、江−え(ぶじにか江て)、気−き(か江て気名かッたら)など六種類がある。このような不自然な用法は、きわめて作為的であり、故意的であるといわざるを得ない。当然漢字で書くべきものを仮名書きにすることはあっても、その逆(当然、仮名で書くべきを漢字をあてる)は普通にはありえないのであって、筆者が特殊の目的をもってこの脅迫状にのみ使用したものと認められる。」(日比野鑑定書)という問題がある。
 右論旨は一般人の経験則からもきわめて説得的である。また仮りに普通にはみられないこのような用法(大野鑑定書は『万葉仮名的用法』という)について、請求人が、真実、体験しているのであれば、なぜ、かかる困難かつ作為的な方法によったのか、その動機などを、自供において説明し得た筈である(とくに強盗強姦、殺人を自供したうえでかかる点を隠すなどということは考えられないのである。)。しかし自供はこの作為性については全くふれていない。請求人が体験していない特異な状況、そして一般の経験則からも推知しえない事項については捜査官も誘導のしようがなく、おとぼけ捜査に終姑し、自供を求めず、また求め得なかったと推認される。
3、日比野鑑定書は脅迫状に誤字はすくないのに対比して、上申書における誤字は、正字がみあたらないはどに溢れているのであつて、この点を「非常な相違点」となっていると指摘している。右事実は、筆跡に関する新証拠のほとんどが一致して指摘している事実である。その実際は、日比野鑑定書にゆずるとして、原決定のいうように、この相違点は書写する際の心理状況、あるいは作成の目的、場所などによって説明しうるような相違点ではないのである。「捜査官に目撃」されていることによって誤字が生じ、誰も見ていなければ正字で書けるなどという経験則はどこにもありえない。
4、日比野鑑定書は書き癖について、字の形態の差異を除けば「平仮名の『つ』と書くべきところに片仮名の『ツ』を用いている点では上申書と脅迫状と共通しているが、脅迫状には『○月ツ○日』(供述調書添付図面参照)のように、余字『ツ』を用いた例はなく、脅迫状の筆者の書き癖とは異なつている」旨指摘するが、無視できない相違点といえる。また「脅迫状では『え』と『江』が混用されているが、上申書では『エ』に統一されており両者の相違点として注目される。」旨の本鑑定書の指摘もまた無視できない。
 日比野鑑定書は「片仮名のツは脅迫状の中には九箇所も見られるが、字形は殆ど正しくツと書かれている。ところが上申書では三箇所に出てくる片仮名のツはすべて縦に三本引いた川のごとき文字になつていて、この筆癖は筆者本人の姓である石川の川と無関係ではないと考えられる。」 旨の考察はまことに肯緊にあたるものと評価できる。
5、『りぼん』を手本に、脅迫状を作成し得たかの問題については日比野鑑定書は不可能と認定し、大野鑑定書と同一結論に達している。すなわち「短時日の間に『りぼん』の如き雑誌から、たとえ振仮名が付されてあったとしても必要となる漢字を音訓によって拾い出すことは不可能である。」とし、「又は自ら発見しえたとしてもそれらを正確に写しとることができたとは考えられない。上申書に書かれた漢字が殆ど誤っていることからしても、この想像は裏付けられるはずである。」というのであつて、まことに説得的である。 そして、「もし筆者が初めから知らなかつた漢字を、少なくとも平素から見慣れていなかった漢字を、雑誌『りぼん』のごときものから捜し出し書写したとすれば、その筆跡は必ずたどたどしい自信のないものとなり筆勢に著しい渋滞が生じ誤字が続出したであろうことは言うまでもないところである。」と断じている。
  本件脅迫状が請求人によって書写されたものでないことは、日本漢字能力検定協会長としての長年の経験の集積から出た結論であつて高い証拠価値を有すると判断される。
 以上の次第であって、本鑑定書が請求人の能力では『りぼん』を手本としても本件脅迫状を作成することは不可能であるとの結論は正確といえ、原決定が本鑑定書の明白性を否定したことの誤りであることは明白である。

(五)、宇野鑑定書の新規明白性と原決定の誤りについて


 原決定は、宇野鑑定が、脅迫状には、「え」の表記について「江」と「え」が使われ、「エ」はまったく使われていないのにたいして、請求人の上申書等においては、すべて片仮名の「エ」が使われているという指摘(同様の相異点の指摘は弁護人提出の日比野鑑定等でもなされている)に対して、「本件脅迫状の書き手は、『え』と表記すべき場合に、音の共通する『え』『江』『エ』のうちから思いつくまま用いる傾向があるところ、本件脅迫状では、偶々『エ』は用いずに『え』『江』を用いたとも考えられる」として、宇野鑑定の指摘をしりぞけているが、何ら証拠にもとづかない決めつけというほかない。
 脅迫状の筆者が、「え」と表記すべき場合に片仮名の「エ」も用いる傾向があるが偶々用いなかっただけだなどということは何の根拠もない推測である。この論理でいけば、筆者は「え」と表記すべきところに、「ゑ」「恵」などから思いつくままに用いる傾向があるが、たまたまそれを用いなかっただけだと言うことも可能である。このような詭弁で、脅迫状と請求人自筆の上申書等の表記の相異点をごまかすことは許されない。
 また、六月二十七日付の中田宛手紙については、原決定自身も引用するように、検察官原正が控訴審第一七回公判で「脅迫状を見せたことはあると思う」と認めているところからしても、作成された状況について種々の問題があり、逮捕後一ヵ月を経て、請求人自供後の取り調べ段階で作成された中田宛手紙を、表記の類似を示すものとしてとりあげることは適格でなく、原決定が、中田宛手紙に「中田江さく」との表記が見られることをもって、脅迫状との類似点があるとすることは誤りである。
 また、宇野鑑定は、脅迫状が「や」の音に、すべて片仮名の「ヤ」と表記している(「さのヤ」「ころしてヤる」)のに対して、上申書が平仮名の「や」を用いている点に注目し、「一般に、平仮名を使っているところに、特定の文字だけ片仮名にするのは、普通には考えにくいこと」であり、「特殊な表現効果を狙う場合か、……用字の癖のような場合に、そういうことが現れる」として相異点を指摘している。
原決定は、この点について、「二個の用例だけでは、宇野鑑定書が指摘するように書き手の用字癖であるとか、特殊な効果を狙つた用字であるとか、ただちに決めてかかることはできない」としているが、片仮名「ヤ」の使用は、確定判決が依拠する三鑑定の一つである関根・吉田鑑定自身も「固有の特徴」としたものであり、請求人の供述調書添付図面中においても、すべて「や」が使用されていることからしても、原決定が仮名使用における重大な相異について判断を誤つたことは明らかである。
 さらに、宇野鑑定が片仮名「ツ」の使用について、催音に「ツ」と書く例は相当数見出されることを具体例を示して指摘した(同様の指摘は、弁護人提出の新証拠の一つである戸谷克己意見書も具体例を示して指摘した)のに対して、決定は「このような見解には与することはできない」と述べるだけで、促音の「ツ」の表記に稀少性があるとは言えないとの指摘に何ら答えていない。脅迫状においてはすべての促音の表記に 「ツ」が使用されているのに対して、上申書には三箇所のうち一箇所だけ促音が見られ、脅迫状写しにおいてはまったく促音の表記が見られないことからも、事件当時の請求人が促音の表記が身についていなかったと判断され、この点も筆跡が異なることを示す相異点であるが、その点について決定はまったく無視する誤りを犯している。
 このように、原決定は、三鑑定およびその信用性をつきくずした宇野鑑定について判断を誤つたものであり、新旧証拠の総合評価を正しくおこなつたものとはとうてい言えず、破棄されなければならない。

(六)、大類鑑定書の新規明白性と原決定の誤りについて


 原決定は、大類鑑定について、「本件脅迫状の句読法の誤りを、高度の句読法を身につけた者の作為の仕業と推測することには、疑問がある」として、「鑑定の結果に疑問がある」と述べるが、大類鑑定は、文末にダッシュ、マルダッシュという特異な句読法を使用していること、十二の文末のうち八か所まで正しく句点を打っていることを指摘した上で、請求人の手になる文章の句読点の使用状況を分析し、「脅迫状の句点は、誤用もあるが、行末に置こうとしている意図が見られる。そのうえ、突然の断止で、マルとダッシュを用いているのは、高度な句読法であり、石川一雄請求人のものとは考え得ない」と結論しているのであつて、原決定は、大類鑑定が指摘した点を正しく判断したものとは言えない。
 また、原決定は、「本件脅迫状の後半部分には、三行にわたり文字凌大きく表記した個所があり、これは強調の意味があると思われる」としながらも、「これをもって、詩文に精通した者でなければ書けない筈などという大類鑑定書の見解は穿ち すぎの感を免れない」と述べるだけであつて、こうした強調の意味をもつ表記を当時の請求人がなしえたことに合理的疑いがあるという点(弁護人提出の大野鑑定等 が指摘する)については何ら触れていない。本件脅迫状の句読点の使用状況と本件 当時の請求人の句読点使用の状況から見ても、請求人が本件脅迫状を書いたとする ことに合理的疑いがあることは明らかであり、その判断を誤つた原決定は破棄され るべきである。

(七)、江嶋ほか意見書の新規明白性と原決定の誤りについて


  原決定は、江嶋ほか意見書について、「請求人が義務教育として十分な国語教育を受けることができず、社会生活上読み書きの体験も乏しかったことは確定判決審 の関係証拠から明らかである」としつつも、一方で「ある程度の国語知識を集積していたことを窺うことができる」と述べるだけで、具体的に国語能力の程度と格差について厳密に検討せず、「本件脅迫状作成者と請求人のそれとの間に格差がある と結論するのは、必ずしも当を得たものとは言い難い」としている。江嶋ほか意見書は、学校での教育の状況、社会に出てからの仕事関係など、請求人の生活史における読み書き体験についての全般的調査に基づいて、事件当時の請求人が脅迫状を書くことができなかつたことを解明しており、原決定は、意見書の指摘を正しく評価・判断したものとは言えない。

(八)、戸谷意見書の新規明白性と原決定の誤りについて

戸谷意見書は、請求人自筆の文書と脅迫状について、平仮名・片仮名・漢字の能力、句読点の使用の能力、単位文の構成と文章全体の構成についての能力、指示語・接続語の使用の能力、文章思考能力と文章構成能力、客観的描写・叙述の能力などの作文能力について、学校現場で使用されている「学習指導要領」も参考にしながら、請求人の受けた教育の状況もふまえて分析・検討し、「その能力において両者の間には厳然たる差が存在するのであり、脅迫状は、能力的に見て、石川一雄とは別人の手になるものである」と結論しているのであつて、原決定が、戸谷意見書について、その一部をとりあげて、「筆跡対照資料を検討するに当たつては、文書作成の背景事情を看過することはできない」などと言うだけで、その指摘する点を十分に検討しなかったことは、新旧証拠の総合評価を怠つた誤つた判断であり、破棄されなければならない。

(九)、大野第二鑑定書の新規明白性と原決定の誤りについて

1、原決定の大野第二鑑定についての批判の骨子は要するに
@大野鑑定のいうところの「当時の請求人の書字能力はかろうじて小学校一年生程度のものであつたことは確実である。」など小児同然に近いものと評価しているが、右は正鵠を得ていない旨、
Aその理由について、「書字習得に必要な知的能力においては、通常人になんら劣るところはなく、他家に奉公し、工場勤めを経験するなど、社会経験もある程度は積んでいたのであるから、(中略)ある程度の書字・表記を独習し、これを用いていたことは、確定判決審の関係証拠から虜われる」としたところにつきる(右「書字習得に必要な知的能力」とは何をさしているのか?)。
これを要するに、大野第二鑑定についてその内容を事実にもとづいて批判したものではなく、単に当時の請求人の書字能力でも脅迫状は書き得たとし、それは『人は大人となり、経験を積めば字が書けるようになるものだ。』という一般論をのべることによって、同鑑定書の明白性を否定したにすぎないのであつた。説得力を欠き、それは単なる推測にしかすぎなく、とうてい同鑑定書の明白性を否定しうる力はないのである。
ところで五才当時から子守奉公に出され、小学校も欠席がちで、長じてのちひたすら労働に従事してきたものが、大人になっていくというだけで書字能力が身につくにちがいないとの考えは、高学歴社会を歩み、文字の世界に身をおく職業裁判官の狭い知見、独断にしかすぎないのである。
公判実務において裁判官、弁護人らが度々目撃してきているように、立派な大人(証人)が、証人宣誓書(決して字画の多い漢字がならんでいるわけではないのである。)を読み上げることができず、廷吏に代読してもらい、あるいは氏名住所さえ書けずに代筆してもらうことは、今日においても、決して珍しい情景ではなく、いまから三六年前の請求人の場合には一層のこと、脅迫状作成にみあう書字能力の全くなかつたことは容易に推測できる.
問題は想像力であるが、このことに思いつかないとはまことに情けない。もっともこれが刑事裁判の場においては情けないではすまず、誤判の恐怖の日常性にはぞっとさせられる。
原決定頂、大野鑑定人による実証的検討からの(さすがに、確定判決のいうよぅに、「不確定な要素を前提として、自己の感想ないし意見を記述した点が多くみられ、到底前記三鑑定を批判しうるような専門的な所見とは認めがたい。」との勇み足はひつこめられているが。)国語学上の結論をあえて無視した。
2、大野鑑定書は被告人の公判供述を引用して、つぎの結論を合理的に引き出した。
@平仮名についても正しく書けない字があつた。
A恋人との手紙のやりとりも、他人の助力によってはじめて行ない得たこと。
つまり手紙も読めず書けなかつたこと。
B選挙の際には投票すべき候補者の名前を練習して行ったこと。
C被告人は逮捕後、脅迫状を見せられて何回も書かせられたが、脅迫状であることを十分認識できなかつたこと。
D書かせられた漢字について十分認識できていないこと。これは脅迫状の中の万葉仮名が理解できなかったからである。と各分析している。右各分析は正鵠を得ている。
右鑑定儲果について原決定は、原検察官の証言を引用し、請求人のいうところが真実とはうけとりがたいというのみで右鑑定結果を黙殺した。
原審としてはいずれが事実であるのかに疑点があれば、公判廷において請求人本人尋問を実施してその真相を確かめることもできた筈である。刑事裁判官の想像力は、常に、被告人側に不利に働くとしかいいようのないものであろうか。この姿勢は、原決定の随所にみられる。
3、ところで大野鑑定書は前記したように、当時の請求人の書字能力を「小学校一年程度であることが明らかである。」旨評価しているが、右判断は同鑑定書二三頁以下に示されているように実証的検討の結果なされたもので、原決定のいう、『大人になれば書字能力はつくもの』などという、浅薄な独断をもとにしたものではないのである。
また大野鑑定書は七月二日付請求人筆記の脅迫状写しについて検討を加え、「脅迫状に使われている漢字のうち、小学校二年程度の中の、画数の多い『門』、『車』は、写しでは『もん』、『くるま』と仮名で書かれている。また三年、四年、五年、六年程度及び教育漢字外にあたる『死』、『園』、『命』、『武』、『供』、『刑』、『札』、『江』は『写し』の方では『し』、『エン』、・『いのち』、『ぶ』、『ども』、『けい』、『さつ』、『エ』と、仮名で書かれている。」と各指摘し、請求人逮捕後である昭和三八年七月ころにおいて、同人の漢字書字能力のきわめて低劣なことを立証している。論より証拠というのはこのことであって、事実(真実)は細部にこそ宿るという命題を如実に顕現したのである。
また同鑑定書は、脅迫状における万葉仮名的用字法を逐一検討し、確定判決が認定したところの、「被告人は漢字の正確な意味を知らないため、その使い方を誤り、仮名で書くべきところを漢字を充てるなどして前記脅迫文のとおり特異な文を作ったものと考えられる。」旨の認定の誤りであることを指摘している。すなわち、当時の請求人が「で」、「き」、「な」、「し」については平仮名で書くことが可能であつたのに、「その仮名をすてて『出』、『気』、『名』、『知』などの漢字を用いるのはきわめて作為的であること明白である。」とし、脅迫文は、確定判決のいうような、「単なる漢字仮名の混用ではない」とし、「今日の日本人の書字行為としては、このような文章を書くためには、一度、漢字平仮名混じり文として普通に文章を書き、その中から右の『で』、『き』、.『な』、『し』、『え』の部分を囲出して、そこに『出』、『気』、『名』、『知』、『死』、『江』という字をあらたに書き、さらにそれを清書しないならば、このように書くことは、不可能である。このような不自然な仮名使用は右のような経過を経ずには書き得ないことも、鑑定人は、仮名研究者としての長年の経験から断定するものである。」と述べている。大野晋鑑定人の国語学上における研究実績、その碩学であることを裁判官はご存知ないのであろうか。
4、大野鑑定書は確定判決の「『りぼん』その他の補助手段を借りれば作成が困難であるとは認められない。」旨の認定をつぎのように批判する。
「しかし実際に、『りぼん』を手にして、脅迫状に使われた漢字のうち、(中略)『門』、『車』、『死』、『園』、『命』、『武』、『供』、『刑』、『札』、『江』、『出』、『気』、『名』、『夜』、『池』をその二五〇ページの中から拾い出す作業を一度でも試みたものならば、『りぼん』から漢字を拾い集めたという説明が、いかに無理なものであるかを経験し、理解することができるであろう。」とし、「(判決や自供では)いかにして『りぼん』から文字を拾い出したかの経過を明確にし得ていないが、それは、『りぼん』のごとき雑誌によって、漢字を集めて使用したという推定そのものが根本的に無理な推定だからである。」との判断を示している。同鑑定書が指摘するところは我々の経験則にてらして容易に推察できる。
たとえば二〇字ばかりの漢字を与えられて、「これで適当に手紙文を作れ。」と指示され、はたして何人がこれをよくなしうるのであろうか。ましてや、文章作成能力が低くかつ当時書字能力の低級であつた請求人においては全く不可能であることは容易に想像しうる。大野鑑定書が指摘するように、右に関連の自供部分を丹念に検討しても、脅迫状作成の実際をリアルに認識することができないのは、まことに、請求人が体験のない架空の事実をのべたことの証左なのであつた。
5、その他大野鑑定に示される、脅迫状と上申書などとの比較検討における句読点の用い方の差異、運筆速度の問題、拗音の書字の差異をめぐつて、国語学上の知見をふまえた鑑定結果が示すとおり、詳細は同鑑定書にゆずるとして、その結論としての、「被告人は『りぼん』によって脅迫状の文面を作成することは不可能である。」旨の鑑定結果の証明力は、同鑑定人が記載しているように、自ら、最高裁判所資料室において実物を検証した上での判断であって、きわめて正鵠を得たものといえる。これについての原決定が判示するところの誤りであつて、大野鑑定書の新規明白性はまことに明らかである。

まとめ

以上、確定判決が有罪証拠の主軸とした脅迫状に関わる原決定の判断の誤りを指摘してきた。原決定は、それ自体が極めてあいまいな「文書作成の経緯、環境、書き手の置かれた心理的立場、状況の違い」の影響を持ち出して、請求人自筆の文書と脅迫状との間に見られる相異点をごまかし、また、脅迫状の書写による請求人の筆跡の変化を否定しようとしているが、このような論旨は不当である。原決定が、文書作成の経緯、環境、書き手の置かれた心理的立場、状況の違いの影響を言うならば、確定判決の依拠した三鑑定をこそ再検討しなければならないはずであり、筆跡の相異点をごまかし、弁護側鑑定を否定するためにだけ、このような論理を持ち出すことは許されない。また、原決定は、弁護人提出の筆跡新証拠に対しても、個々に切り離して評価し、しかもその主張・指摘するところの一部を取り出して否定するというやり方を取っており、新旧証拠の総合評価をおこなつたとは言えない。
弁護人は、一九八八年一〇月一五日付「筆跡鑑定に関する調査結果について」(弁護人松本健男、青木孝外三名作成の調査報告書)、一九九六年四月一三日付追加意見書、一九九七年二月一入日付追加意見書等において、確定判決が依拠した筆跡三鑑定には、鑑定方法、資料の適格性、文字選択の窓意性の問題があるとともに、相異性の無視、常同性・稀少性の検討の無視など重大な欠陥があり、鑑定結果が誤りであることを明らかにし、三鑑定によっては、脅迫状の筆跡を請求人の筆跡とは認定しえないこと、あわせて、請求人と脅迫状・封筒との結びつきを否定する状況証拠が多数存在することを指摘した。しかしながら、原決定は、右弁護団調査報告書にも触れず、弁護人の指摘に従つて、三鑑定の内容を検討することも怠って、「三鑑定の判定が説得力を持ち、合理性が認められる」と結論しただけであつて、弁護人が再三にわたつて主張したところの鑑定人尋問も実施せず、三鑑定の再評価と新証拠との総合評価をしなかったのであり、再審の法理に反したものとして原決定を破棄し、ただちに本件再審が開始されるべきである。


二、脅迫状の記載訂正前の金員持参指定の日付に対する原決定の判断の誤りについて

原決定は、右論点に関する大塩達一郎作成の昭和五四年三月二〇日付写真撮影報告書外三点の証拠について新規性を否定し、明白性については具体的な検討経過を述べることなく、「所論援用の前掲証拠を確定判決審の関係証拠に合わせ検討しても、確定判決の事実認定に合理的な疑問を抱かせるには至らない」と結論を述べるにとどまつている。
しかしながら、脅迫状の筆記用具に関しては、秋谷鑑定によって原二審において、金員持参指定の日付および場所の訂正用具は万年筆またはペンであつて、これをボールペンとする自白の誤りが明らかとされていた。このため確定判決は被害者所持の万年筆奪取の時期と場所について原一審の認定を訂正し、右の点に関する自白を意識的虚偽に基づくものと断定したくらいであった。さらに原決定の出される直前の時期に提出された齋藤保作成の鑑定書は、封筒表側の「少時様」のうち「少時」は、万年筆によって書かれたものであって、ボールペンで書いたとする自白の誤りを明らかにした。すなわち、脅迫状・封筒をめぐる筆記に関し三度も科学的鑑定によって自白の誤りが明らかにされたのであり、とくに最後の点は自白の一部を読みかえることによって自白の基本的なストーリーは維持できるというレベルを越えて本件自白の信用性を根幹から動揺させるものであつた。
原決定のように関連する他の新旧の証拠と切断して個別的に証拠の新規性・明白性を判断する方法は決して正当な事実認定ではなく、関連証拠を加えた総合評価がなされるべきである。右論点に関する原決定の判断は、白鳥決定にいう旧証拠と全証拠との総合評価に背を向けた違法な決定であり、取消しを免れない

三、封筒の宛名の筆記用具に対する原決定の判断の誤りについて

原決定は、封筒表側の「少時様」の「少時」と「様」とが別種の筆記用具で書かれたとする斎藤保鑑定の判定にはにわかに与し難いとし、その理由として、@封筒現物の観察によれば、「中田江さく」の文字は橙色はあるものの、はつきり読みとれるのに対して、「少時」の文字は消滅していて読みとり不可能であり、「様」の文字も溶解していて読みとり不可能状態にある、A塚本昌三作成の写真撮影報告書添付写真の観察によれば、「少時」と「様」の文字がそれぞれ別異の筆記用具を用いて書かれたとするのはいかにも不自然であるとしている。
しかしながら、「少時」の文字は「様」の文字と同様、ボールペンで書かれたとみられるとの原決定の判定は、以下述べるとおり正鵠を失しており、むしろ「少時」の文字は「中田江さく」の文字と同質であり、ひとり「様」が異質なのである。
すなわち、齋藤鑑定が判定の対象とした資料は、「指紋検出作業及び他の鑑定作業後の写真を弁護団側が公判記録からカラー複写したもの」であるが(鑑定書一六頁)、右複写は一〇数年前になされたものである。その後の経時的変化により現時点で観察され得る封筒の文字の状況とは異なり、右カラー複写の方がより原形に近いという点が看過されてはならないのである。
万年筆のインクは橙色という経時的変化が著しく、ボールペンのインクの色調はほぼ保存されるものとされている。串部宏之および北田忠義作成の一九七九年五月一五日付意見書は次のとおり述べている。
鉄系ブルーブラック万年筆インキで記載された文字は、記載時から時間が経過すると、タンニン酸及び没食子酸の第二鉄塩の形成にともなつて、色調が変化する(黒化する)ことはよく知られている。文字の黒化は、その保存状態によって顕著な影響を受けるが、数週間から数ヶ月にわたって進行する。更に長時間に及ぶ色調の変化については、充分な研究は行われていないが、一般に明度の増加(橙色、色が薄くなっていく)が進行すると考えられる。橙色は光の照射がある場合に進行が早い。
これに対して、ボールペン用ブルーブラックインキについては、記載時後の時間変化が、鉄系ブルーブラックインキに比して乏しく、染料の色調がほぼそのまま保存される。
すなわち、万年筆インクは褪色し、ボールペンインクの色調は保存されるという相違が存するのである。前記添付写真の観察により齋藤鑑定人は、封筒の「少時」および「中田江さく」は溶解していないが、「様」様の文字は他の文字と違ってはつきりにじんで溶解しているのが解ると指摘している(斎藤鑑定書一七頁)。
封筒に記載された文字の現状について原決定は、「中田江さく」の文字のうち「く」の文字ははっきり読み取れないとしている。しかしながら、前記添付写真を見れば、「く」の文字も読み取れるのであり、そこに経時的変化−橙色の現象が介在したことが窺われるのである。この点は「少時」の文字についても同様であり、経時的変化以前の「少時」の文字は「中田江さく」の文字と本質的に同質といわなければならない。・これに反し現物における「様」の文字は溶解し、現在でもボールペンの色調を留めており、明らかに「少時」の文字および「中田江さく」の文字とは異質である。
原決定は「少時」の文字の「完全消滅」がアセトン溶液による溶解に由来するものと考えているが、これは万年筆インクの経時的変化−褪色を看過するものであり、誤って齋藤鑑定書の証拠価値を否定するものである。
なお、原決定は秋谷鑑定の内容を検討すると「封筒に記載された文字の筆跡」とは、「中田江さく」の文字を指していることは明らかであるとしている。
しかしながら、秋谷鑑定の主文は「封筒に記載された文字の筆跡を弱拡大で観察するに万年筆を使用した公算大なり」としており、「中田江さく」の文字を特定してはいない。原決定が右のようにいうのは、右鑑定書に添付された封筒の写真5、6の「中田江さく」の文字に○印が付せられ「○印は字を弱拡大で観察すると二條の線が認められる」と説明しているところからと解されるが、右○印は「中田江さく」の文字の全部に付されている訳でもなければ、そのうちの一字全体に付されているものでもなく、一文字のうちの一画に付されているに過ぎず、要は二條の線が認められる箇所を強調したものであり、観察の対象が「封筒に記載された文字の筆跡」のうち「中田江さく」に限定されていたことを示す資料とはなり得ない。その他「中田江さく」に限定されていたことを示す資料は何も存しない。
したがつて、秋谷鑑定における右鑑定主文と齋藤鑑定書の判定は封筒の「少時」に関して一致しているのであり、右鑑定書に対する原決定の判断は誤つており、この点だけでも原決定は取り消しを免れない。

四、雑誌『りぼん』に対する原決定の判断の誤りについて

原決定は雑誌『りぼん』が本件当時請求人方に存在していなかつたことを示す証拠について新規性を否定している。
しかしながら、右についても二項で述べたことがそのまま妥当するので、これを援用する。

五、脅迫状の用紙に対する原決定の判断の誤りについて

原決定は、関根報告書について、右報告書は本件脅迫状用紙と請求人方で発見押収された用紙との間には綴目の数が相違しているという事実を明らかにしたにとどまっているとし、したがつて、右報告書は確定判決審の関係証拠と併せ考えても、自白の信用性を揺るがし、確定判決の事実認定に疑いを生じさせるものではないとしている。
しかしながら、ここでも原決定は確定判決以後の諸証拠を加えて総合評価することなく当該証拠を個別評価して証拠価値をなべて消極に判断するという誤りを犯している。

第三、殺害の態様に関する原決定の誤り

一、原決定は殺害の態様に関する五十嵐鑑定人の鑑定について

死体発見時の様子を聞知していた同鑑定人としては、絞頸の可能性をも十分念頭に置いたうえで、頸部の創傷や変色部分について生活反応を調べ、生前の索状痕跡、表皮剥奪等の微細な変化がないか慎重に見分し、検討したであろうことは、容易に察することができると推測したうえで弁護人提出の上田第二鑑定書、木村意見書、青木意見書、上山第一鑑定書及び同第二鑑定書についていずれも五十嵐鑑定書の所見の記述及び添付の写真(略)を主要資料にしているところ、五十嵐鑑定人が具に観察した皮下、皮内の出血の範囲、色調及び周辺部の輪郭、表皮変色部の色調変化、その周辺部の輪郭、褪色部の色調、剥脱変化の模様等々の微妙な点についてまで、五十嵐鑑定書の記述あるいは添付写真の印影として、すべて的確に表現されているとは言い切れないことは自明であり、したがつて、これらを基になされた請求人提出の鑑定書、意見書の判断は、その基礎資料において既に間接的・二次的であるという大きな制約を免れないといわなければならない。
と述べ右の点を前提として、殺害の態様に関する弁護人らの主張を却けた。
しかしながら、これは上山鑑定等によって既に誤りであることが明らかにされた従前の裁判所の諸決定をそのまま繰り返しただけであり、原決定は従前の諸決定の理由欠落=不備の違法を引き継ぐものである。
五十嵐鑑定の頸部外表所見の内容と添付写真のそれとを比較検討した結果、前者の内容は後者のそれに比して、「かなり劣つたものである」と指摘する上山鑑定は、写真による再鑑定の証拠価値を解剖鑑定人による鑑定のそれよりも一概に低くみなす見解について以下のような批判を加えていることが想起されなければならない。
実際に剖検を行った鑑定をただそのことだけで上位に据え、添付写真を基礎にして行った鑑定をそのことだけで下位に据える裁判所の考え方は、果たして妥当な考え方と言えるだろうか。それぞれの内容に深くメスを加えた検討こそ望まれるのである。
原決定は、写真による再鑑定の証拠価値を一概に低くみたため五十嵐鑑定書の頸部外表所見について、なされるべき批判を欠落させ、ひいては重大な事実認定の誤りを犯している。
したがつて、弁護人らは本異議申立の理由として、本件再審において主張した、再審請求書、同補充書、鑑定書、意見書等において論述した殺害の態様に関する主張をまずそのままここに援用する。

二、索条物による絞頚の痕跡の存在について

原決定は、本屍の前頸部を横走する帯状の索条痕跡の存在について、これを索条による絞頸の痕跡であるとする弁護人ら提出の鑑定書、意見書を却け、「五十嵐鑑定書の所見に照らして、これを索条による絞頸痕であるとすることには、納得し難い」としている。その理由としては、後頭部には索条の痕跡が何ら認められないということを強調している。
しかしながら、原決定も認めるように後頸部の皮膚には圧痕が生じにくいことのほか、重要なことには本屍の後頸部にはそれでも索条物による圧痕が認められる。すなわち、まず上山第二鑑定は左後頸部に縞模様が存在することについてつぎのとおり指摘している。
なお、前頸部から左右側頸部にかけての蒼白帯]に連続する左後頸部にも、不明瞭ながら、上下に走る数条の縦縞模様が存在することも、これらが軟性索条によって形成されたことを強く示唆している。
さらに上山第二鑑定は、後頸部の写真を観察した結果をつぎのとおり述べている。
後頸部の写真をルーペで観察すると、上・中・下の3部分から成っている、すなわち下の部分は色調の最も濃い部分であり、それより上部と区別できる。左右に伸びる中間部分は、それより上部と比べると、色調の差こそ認められないが、この帯状部分は、まだら・粗造にみえ、ここには何らかの力が作用した痕跡(被圧迫部)であることを示唆している(とくに左後頸部)
以上のとおり本屍後頸部においても幅広い軟性索条物による圧迫があったことが認められるのであり、原決定は誤つた前提に立って判断しているものと言わなければならない。
さらに原決定は「褪色帯」は、頸部に緩やかに纏絡されていた一条の細引紐などによって不定形の帯状に死斑の出現を妨げられて形成されたとしている。上山第二鑑定も同鑑定人の摘出した前頸部の蒼白帯]には死斑の出現が認められないことに着目し、その理由として「蒼白帯]が生前の絞痕であり、死亡直近のかなりの期間、仰臥位に放置されていたこと」をあげている。原決定のいう「褪色帯」の形成は、死斑の出現が妨げられた死後現象と解されている。これに反し、上山鑑定は、蒼白帯]を生前の絞痕としている。右の争点は、つぎに述べる前頸部の赤色線条痕の成因をめぐる見解の対立にそのまま連なるものである。

三、前頸部において斜走する赤色線条痕の成因について

原決定は、右赤色線条痕の成因について五十嵐鑑定に従い、これを死斑とし、生前の絞痕であることを否定している。その理由の一は右線条痕の色調が赤色であることのみをもって生前に生成されたとは言えないということである。
しかしながら、前頸部における他の損傷の色調についての五十嵐鑑定の記述は以下のとおりである。
左前頸部Lの色調は「暗赤紫色」、中頸部C2の色調は「暗紫色」、前頸部C3の色調は「暗紫色」、前頸部C4の色調は「暗赤紫色」とそれぞれ識別されており、原決定のいうように赤色に「実際上相当の幅がある」としても、生前生成の可能性は否定し難い所である(C1ないしC4はいずれも生前の損傷である)。
さらに原決定は右線条痕は木綿細引紐による死斑であるとする五十嵐鑑定書の見方に賛意を示している。
しかしながら、五十嵐鑑定書添付の第五号写真が前頸部の皮膚面を体軸方向に伸展した状態を撮影したものであっても、少なくとも縞模様相互の間隔自体は影響を受けないのであるから、線条痕相互の間隔と木綿細引紐の山(谷)と山(谷)との間隔とが一致していないことは、右線条痕が木綿細引紐によって形成されたものではないことの証左である。
何よりも決定的なのは「木綿細引紐の外側に位置する皮膚部にその外郭を示すような死斑が出現してしかるべきなのにごく一部分にせよ全く認められない」(上山第二鑑定)ことである。もしも右線条痕が木綿細引紐の網目の谷部に対応する皮膚面の非圧迫部に形成された死斑であるとすれば、同じく非圧迫部である細引紐の外線付近に対応する皮膚面に死斑が例え一部でも出現しなければならない。これが全然認められないということは右線条痕が木綿細引紐による死斑ではありえないことを何よりも示している。
さらに左側頸部にも線条痕が存在しているが、もともと死斑の形成される部位ではなく、これもまた右線条痕が死斑ではありえないことの証左となつている。
原決定は、右の点につき何ら反論を加えておらず、理由不備の違法を犯している。

四、前頸部の手掌大の皮下出血について

原決定は前頸部の手掌大の皮下出血の存在を疑問視する弁護側鑑定書、意見書について、もっぱら黒白写真からの判定の困難性を理由としてこれらを却けているが、問題はそもそも前頸部という部位に二個の手掌面大の皮下出血を容れる余地があるのか・否か、鑑定人の「皮下出血」という所見は正確には筋肉内出血ではないのかという法医学上の基礎的理解にかかわることであつた。原決定が右の論点において全く失当であることは多言を要しない。

五、検討の結論について

原決定は、本件を振頸による窒息死と判定した五十嵐鑑定の証拠価値を維持した。
五十嵐鑑定書第四章説明倒殺害方法についての項は、「前頸部には、圧迫痕跡は著明であるが、爪痕、指頭による圧迫痕、索痕、表皮剥脱等が全く認められないので、本屍の殺害方法は加害者の上肢(手掌、前脾或は上勝)或は下肢(下腿等)による頸部拒圧(振殺)と鑑定する」と記述している。
しかしながら、五十嵐鑑定のいう上肢或は下肢による頸部指圧によっては前頸部の損傷C1のような著名な皮下出血痕は形成され得ない(上田鑑定その他)。
ちなみに自白を離れて石山鑑定が着衣の襟絞め、原決定がタオルを凶器として想定するのはまさにこれに起因している。なお、五十嵐鑑定書の上記所見は原決定によれば、「前頸部の圧迫痕跡(手掌面大の皮下出血二個など)が著明であるのに、頸部に索条痕、表皮剥脱はないことなどから、窒息は絞頸ではなく、扼頸によると認められ、また、その方法は、頸部に爪痕、指頭による圧迫痕が存在しないことなどから、手掌、前膳、下肢、着衣等による頭部拒庄による他殺死と推定される」となつており、五十嵐鑑定書に記述されていない「着衣等」が付加されている。これは原決定が石山鑑定の「着衣の襟絞め」に事実上影響された疑いがあること、「着衣等」とすることによってタオル導入に道を開いたことを示唆している。これは頸部扼圧の具体的方法に上肢および下肢以外の凶器を含めることによって、五十嵐鑑定の所見との整合性を維持しょうとしたものであろうが、五十嵐鑑定書に記述されていないものを援用せざるを得ないという自己破綻を露呈している。
赤色線条痕は頸部に纏絡された木綿細引紐の死後の圧迫による死斑であり得ないことは前記のとおりである。赤色線条痕、上山鑑定人が摘出した蒼白帯]およびその他の頸部の痕跡は、いずれも生前軟性索条物の圧迫の結果形成された索痕としてのみ説明可能であり、これによって頸部の諸所見は相互に矛盾することなく絞頸の痕跡として総合的に判定され得る。
以上の次第であつて、扼頸による他殺死とする確定判決を維持する原決定の判断は全く誤つており、取消しを免れない。

六、自白と死体の客観的状況との間の重大な敵厳

原決定は、軟性索条物による絞頸が行われたとしても、確定判決を維持すべき結論は変わらないとしている。
しかしながら、原決定は前記のとおり比較対照すべき一方である自白にはない「夕オルの上からの頭部扼圧」なる事実と五十嵐鑑定の所見を対比するという誤りを犯している。
さらに原決定は、手掌による扼頸の自白に依拠した確定判決が依拠しなかった別の自白(タオルによる絞頸)を援用するという誤りも犯している。後者の自白は六月二三日付員面調書(二回目)である。右調書はそれ以前の三人共犯説の自白を撤回し、単独犯行説に転じた当日の自白である。当日のもう一通の自白調書(一回目)には被害者殺害後現場で自力で脅迫状を作成した旨の供述がある。しかし、自力による脅迫状の作成は、補助者ないし補助手段なしには自ら文書を作成し得なかった当時の請求人の筆記能力の程度と矛盾することはあまりにも明らかであった。当然のことながら、翌日には強姦・殺害当日以前の時期に脅迫状を作成した旨の供述に変遷し、これが最後まで維持された。六月二三日の二通の調書は、大変遷の中でいわば置き捨てられた信用性のない調書である。もしも供述者が当初は全面否認し、その後三人共犯説の自白を経て、単独の強姦・殺害を遂に認めた真犯人であつたとすれば(いわゆる落ちるところまで落ちた状態にあれば)、脅迫状の作成時期という本筋以外の事実でことさらに虚偽の事実を述べる筈はないのである。したがって、右六月二三日の調書は、むしろ請求人の無罪を証する証拠である。その理由は右調書の存在によって、請求人の一連の自白は真犯人が一部虚偽の事実を述べた自白ではなく、犯人でない者がそれ故に述べた虚偽の自白であることを如実に示すからである。確定判決の維持のために例ぇ一部でも右のような信用性に重大な疑問のある時期に作成された調書の供述を援用することは本質的に自らの墓穴を掘るものといわなければならない。
なお、原決定は記憶の混乱や一部亡失などによって実際の犯行のとおり正確に供述されたとは考えられないとも述べている。しかしながら、原決定が援用している自白を通観すると、顕著な事実は検察官作成の調書においては誘導が歴然としていることである。「右手の親指と外の四本の指を両方に広げて」(六月二五日付)、「首といってもあごに近い方ののどの所を手の平が当たる様にして上から押さえつけたわけです」(七月一日付)、「右手の親指と外の指を両方に開く様にして、手の平を善枝ちやんの喉に当てて、上から強く押さえました」(七月四日付)となつており、いずれも爪痕、指頭による圧迫痕がなく、手掌による頚部扼圧の可能性を認めた五十嵐鑑定書の所見と整合するような供述内容となっている。これに反し司法警察官作成の調書においては「私の右の手で善枝ちやんの首を上から押さえつけ‥・中略‥・その時ずっと右手で善技ちやんの首を上から押さえつけていました」(六月二五日付)、「夢中で自分の右手で善枝ちやんの首を上から押さえつけてしめながら…中略‥・私は夢中で力一杯押さえつけていた」(六月二九日付)となっており、明らかに検察官作成調書との差異が認められる。すなわち、指を広げた手掌による頸部扼圧という検察官調書における自白は、五十嵐鑑定書の所見を反映した誘導の所産である。本件第一次再審請求特別抗告棄却決定以降の殺害の態様に関する裁判所の判断は、タオルによる絞頸の自白を含む当該調書の供述の信用性を何ら吟味することなく、これを援用するという基本的な誤りを犯していると言わなければならない。何故ならば、解剖鑑定書の所見と整合する自白に変遷し、かつこれが何度も確認され、その結果確定判決が死体の客観的状況と自白との間に重大な齟齬がないと認定した後で解剖鑑定書の所見が動揺した場合、確定判決が採らなかつた、また採り得なかつた僅か一回表れたに過ぎない自白を信用性の検討なく援用して、それでも客観的状況と自白との間に重大な齟齬がないとして遮二無二に確定判決を維持するのは、確定判決の内容の事実上の空洞化に目を塞ぐものであって、まさに司法に対する信頼を根底から傷つけるものと言わなければならない。

第四、姦淫の態様に関する原決定の誤り

原決定は、本件姦淫の態様が暴力的ではないとする弁護人ら提出の鑑定書、意見書等を却けたが、その理由とするところは被害者が発見されたさいの状況(両手を手拭で後ろ手に縛られ、両足を動かす程度しか抵抗できない状態)をそのまま姦淫行為時の状況に引き写したということに尽きる。
しかしながら、問題は死体自体から合理的に推認される姦淫の態様と自白におけるそれとの間に矛盾が存するか否かにある。原決定のように最初から自白と符合する発見時の被害者の状況に軍配を挙げるのでは、方法論的に矛盾の存否検討を拒否するに等しい。右のような判断方法をとる限り、外陰部その他の損傷という死体に残された客観的状況が暴力的姦淫の痕跡であるか否かの法医学的検討が全く等閑視されるのは当然である。このため例えば木村意見書における説得的な論述も全く無視されることとなり、原判決には明らかに理由欠落の違法がある。
なお、五十嵐鑑定書の外陰部所見中には「外子宮口は横裂状を呈」するとある。「学生のための法医学」(一九八〇年商山堂刊一四七頁)によれば、「産褥には必ずくるが、その他の場合にも起こりうる変化」の一つとして「外子宮口の開大裂創」が挙げられている。さらに右所見中には処女膜に遊離縁より附着基部に達する陳旧性亀裂3条が存することが記述されている。以上によれば、被害者は本件被害以前の時期にすでに性行為を体験していることとなる。本件姦淫の態様が暴力的なものではないとする弁護人らの援用する意見書を補強する事実である。

第五、血液型についての原決定の誤りについて

原決定は、五十嵐鑑定が「判定に使用した血清が、厚生省の定めた基準に及ばない凝集素価八倍であつた点に問題があることは、上山第一鑑定書が指摘するとおりである」ことを認め、「五十嵐鑑定が、凝集素価の低い血清を判定に用いたために、通常のA、B抗原の存在についてはともかくとしても……擬集反応が極めて微弱な血球抗原については、その存在を認知できなかつた虞のあることは否めない」ことをもって、「右判定用血清は、ABO式血液型検査の『おもて試験』に相応しいものであったとは言い難い」と判示した。
また、原決定は、「『うら試験』を行った事跡が窺われないことも、上山第一鑑定書が指摘するとおりであり、これが行われなかったがために、血清側からの『おもて試験』の精度の検証がないだけでなく、被害者の血液型が、『おもて試験』だけからでは判定不可能な、特殊の亜型あるいは変異型‥‥‥であることを見逃す虞もあり得た」ことを認めながらも、「対照された既知のA型、B型の赤血球は、本件判定に用いられた右の凝集素価八倍の血清に対して、いずれもあるべき凝集反応を示した」ことをもって、「通常の血液である限り、それ相応の信頼性はあると認めてよい」とし、「明らかに判定上不都合なのは、亜型ないし変異型抗原をもつ血液型であった場合である」が、「亜型、変異型の存在が極めて稀であることは、所論援用の血液型関係文献等の成書に明らかであり、上山第一鑑定も認めるところであつて、結局、被害者の血液型をO型とする判定には、総体として、相当の信頼性が認められる」というのである。
しかしながら、血液型関係文献には「日本人ではABm、特にBm型のヒトがかなり多い。唾液中のB型質の証明がきめ手になることが多い」(船尾忠孝『法医学入門』昭和五五年一七〇〜一貫)「B型変異型については、不思議にわが国に報告例が多い。A型あるいはA型の出現頻度が白人にくらべて明らかに少ないのとくらべて興味深い現象である」(国行昌頼『臨床に必要な血液型の知識』同四九年二版一九頁)ことが指摘されているのであり、「亜型・変異型」の存在が稀であるといっても、その存在が確認される以上、被害者の血液型をO型とは断定できないのである。そして、この点については、原決定が「確定判決が援用する五十嵐鑑定の血液型判定の検査方法には問題があり、被害者の血液型が確実にO型であるとまでは断定できない」と判示するところと結論を同一にする。以上の点について、上山第一次鑑定は、「それらの頻度は、比較的稀れか、きわめて稀れな血液型ではあるが、稀れだからという理由で、それらを判定の際の考慮の外に置くことは許されない。それは被害者の血液型の如何が、後述するような精液の血液型、ひいては犯人の血液型の決定に大いなる影響を及ぼすことになるからである」と指摘しているが、右指摘は正当であるといわねばならない。本来、法医学には、このような精密さが要求されているのである。
また、船尾忠孝『法医学入門』には「ABO式血液型の判定は必ずこの両者を併用すべきものでオモテ検査だけでは検査を行ったとはいえない」(一六六頁)との記述があり、「おもて試験」と「うら試験」の両者を併用すべきであることは、法医学上のみならず、医学上一般で承認されているとみられるのであつて、現に本件控訴審二五回公判で取調済の昭和四二年五月二〇日付上野正吉作成の鑑定書(申立人の血液型に関する)においても。右試験の施行が記載されている(同書第二章検査記録の項においては、むしろ「うら試験」の方が先に記述されている位であって、「うら試験」施行は当然のこととされていることがうかがわれる)。
もともとABO式血液型判定は、原決定が「右のような血液型の一致の事実は、それのみで請求人が犯人であることを意味するものでないことは勿論である」と述べるとおり、蓋然性の範疇で判断されるべきであり、「客観的な積極証拠」として評価することは誤りといわねばならない。血液型を「自白を離れて存在する、客観的な積極証拠の一つ」として評価した原決定の誤りは明らかである。

第六、血痕等の痕跡の存否について
一、原決定の前提事実の認定、判断の誤り
原決定は「殺害現場」、芋穴から出血の痕跡が確認できなかつたことに対する判断の前提として、@本件裂創は「長さ約一・三センチで、創洞内に架橋状組織が顕著に介在しており(すなわち、切断されない血管が残存している可能性を意味する。)、深さは頭皮内面に達しない程度のものである」、A「大野喜平警部補の第一審及び確定判決審における各証言、大野警部補作成の昭和三八年五月四日付実況見分調書にも、頭皮を一周して後頭部で結ばれていた目隠しのタオルや被害者の着衣に血液が付着していたことを窺わせる供述ないし記述は認められず、添付の写真を見ても、その様子は窺われない」、B被害者の頭部には毛髪が叢生し、その長さは前頭部髪際において約一三センチであるが、右鑑定書添付の頭部の写真を見ると、後頭部にもこれに近い長さの頭髪が密生していることが認められる」との認定、判断をなしている。
そして、これらの前提に立ったうえで、「右裂創の創口からの出血は、頭皮、頭毛尾に付着し、滞留するうちに糊着して凝固して、まもなく出血も止つたという事態も充分あり得ることであつて、一般に、頭皮の外傷では、他の部位の場合に比して出血量が多いことや、本件の場合、頸部圧迫による頭部の鬱血が生じたことなどを考慮に入れても、本件頭部裂創から多量の出血があって、相当量が周囲に滴下する事態が生じたはずであるとも断定し難い。したがって、自白により明らかにされた殺害場所、死体隠匿場所である芋穴に、被害者の出血の痕跡が確認できなくても、そのことから、直ちに自白内容が不自然であり、虚構である疑いがあるとはいえない。」と判示している。
しかしながら、原決定の右前提そのものの認定、判断に誤りがあるのである。
まず、@の本件裂創は頭皮内面に達しない程度のものという認定であるが、五十嵐鑑定書の外表検査頭部所見には裂創Aは「創洞の深さは帽状腱膜に達し」と記載されているし、確定判決審第五三回公判(昭和四六年九月一六日)でも同鑑定人は、鑑定書の「創洞の深さは帽状腱膜に達し、創底並びに創壁に凝血を存す」とは、「これはメスを入れたときの所見でございます。」と証言しており、本件裂創が帽状鍵膜に達していたものであることは明確である。原決定は同鑑定書の内景検査の頭皮開検の項の「(裂創Aは頭皮内面に窄通しあらず)」の記載に依拠し、頭皮内面に達しない程度のものとの認定をなしているが、上山第一次鑑定書が指摘しているように、頭皮内面を窄通してはじめて帽状腱膜に達しうるのであり、原決定の右認定は誤りである。
又、原決定は、「創洞内に架橋状組織が顕著に介在しており(すなわち、切断されない血管が残存している可能性を意味する。)」とし、このことから、「多量の出血がなかった」との結論を導き出そうとしているが、しかしながらこれは切断された血管も多数存在するということでもあるし、血管が切れれば血液は流出し、原決定の結論とは逆に、むしろ多量の出血があったことを根拠付けるものである。同鑑定書の「創洞内に架橋状組織片が著明に介在すごとの記載から、原決定は本件裂創が軽微なものであるとの判断をなしているが、右「創河内に架橋状組織片が著明に介在す。」との記載の理解を誤つているものである。本件の掃傷は「裂創」であり、「創」という場合の損傷は、皮膚の少なくとも一部が移開した状態の損傷であり、五十嵐鑑定書にも「皮膚創口は柳葉状に多開」と記載されており、強い力が皮膚に斜めに加わったときにできる創傷の一つが「裂創」とされている。皮膚の有する弾性の限界を越え引っ張られた時に裂け、皮下組織には、それに耐えた部分が架橋状に残り、この残ったものが、創洞の一つの縁から他の縁の間を橋渡ししたように認められるのである。そのような状況を「創洞内に架橋状組織片が著明に介在す。」と記載されているのであり、「裂創」の場合には、創壁内にかなりの出血が存するものであり、同鑑定書にも「創底並びに創壁に凝血を存す。」と記載されており、多量の出血があったことを裏付けるものである。
本件裂創は、長さ約一・三センチメートル、幅〇・四センチメートル、深さも頭頂部皮下の帽状腱膜に達し、一〜二針縫合すべき損傷であり、しかも皮下出血が認められるのであるから、かなりの外力が作用し、皮下の毛細血管が破れ、漏れた血液が皮下の組織の間に滲み出たことを確実に示すものであり、決して軽微な揖傷ではなく、多量の出血はなかったと原決定のように結論付けることはできないのである。
Aの目隠しのタオルや着衣に血液が付着している様子が窺われないということから、原決定のように本件裂創から「多量の出血」がなかったと結論付けることもできないのである。本件裂創の部位は、目隠しのタオルや着衣部分ではなく、後頭部に存するものであるし、出血が着衣に必ず付着するような態様で裂創が生じたものではなく、本件の裂創は「本人の後方転倒等の場合に鈍体(特に鈍状角稜を有するもの)との衝突等により生じたと見なし得る。」というものであるから、血液が着衣等には付着しないということも充分にあり得るのであり、原決定の結論には飛躍がある。
Bの頭髪の状況から「頭皮、頭毛に付着し、滞留するうちに糊著して凝固して、まもなく出血も止まったという事態も充分あり得る」としているが、血液が体外に出ると、血液中の血衆やリンパ中に含まれる血液凝固の原因となるタンパク質であるフイブリノーゲンがフイブリンに変化し、網の日のようにつながり、その中に血球が集まって血液凝固が起こり、傷口をふさいで止血するが、本件のような窒息死の場合は、血液凝固をおこすフイブリンが破壊されているので血液凝固は起こらないとされているのであり、原決定はこの点も誤っている。

二、原決定は上山第一、第二鑑定が提起している根本問題について判断をなしていない。

原決定は、前述したように「本件の場合、頸部圧迫による頭部の鬱血が生じたことなどを考慮に入れても、本件頭部裂創から多量の出血があって、相当量が周囲に滴下する事態が生じたはずであるとも断定し難い。」としているが、上山鑑定書が指摘しることなく、出血量の「多寡」の問題にしているが、原決定も本件後頭部裂創Aからの出血自体は認めているが、出血があれば、ルミノール反応検査で血液を二万倍に希釈した水準で検出可能であるとされているので、請求人の自白、確定判決の認定が事実と合致しているのであれば、「殺害現場」「芋穴」でのルミノール反応検査で必ず反応がなければならない。しかしながら、原決定請求審で検察官から開示され、新証拠として提出した昭和三八年七月五日付埼玉県警本部刑事部鑑識課警察技師松田勝作成の「検査回答書」では、「甘藷穴の穴口周囲及び穴底について血痕予備試験の内ルミノール発光検査を実施したが陰性であつた。」と記載されており、芋穴には血痕は存在していないのである。
確定判決は、芋穴から、何らの痕跡が発見されていないことについて、「血液反応検査など精密な現場検証が行われなかつたことからすると、果たして捜査官が芋穴の現状保存について慎重に配慮したかどうか疑わしい。」とし、芋穴でのルミノール反応検査は実施されなかったとの判断をなしていたものであるが、右判断が、芋穴でのルミノール反応検査回答書の存在により、議論の余地なく明確な誤りであつたことが証明されたのである。
「殺害現場」についても松田勝は弁護人山上益朗、中山武敏らとの昭和五九年一月一六日、同六〇年一〇月一九日の面接の際、「殺害現場の雑木林についても夜間にルミノール反応検査をした。検査結果については報告書もしくは実況見分の一環として提出している。」「請求人の自供後、請求人の身柄が特別捜査本部(警察)にある間に、自供の確認の為、本部の指示により、犯行現場(殺害現場)内の請求人の自供にある松の木を中心に、消毒用の噴霧器を使用してルミノール反応検査を実施したが、反応はなかった。報告書を提出していることは間違いない。東京高等検察庁の検察官からの問い合わせにもそのように回答している。」(要旨)と供述しており、右供述テープ、反訳書も原決定審で新証拠として提出しているのである。
平成一〇年一一月一七日、弁護人中山武敏、藤田一良、北村哲男、横田雄一、中北龍太郎は原決定審の東京高等検察庁の合田正和担当検事と面会し、証拠開示についての折衝をなしたが、「殺害現場」でのルミノール反応検査報告書に関し、同検事は、同年一一月五日、松田勝方を訪問し、同人と面会し、同人から「殺害現場」の松の木数本についてオキシフルを散布して調べたが、血痕があれば泡が出るが、泡が出なかったので、蛍光反応検査はしなかったとの供述を得た事を弁護人に明らかにし、「殺害現場」でも検査がなされたが血痕が発見されなかつた事実については認めたのである。.
弁護人は、原決定審で昭和六一年一一月一二日付証拠提出命令申立書を提出し、「殺害現場」でのルミノール反応検査報告書等の提出命令の申立を行い、さらに同六三年一一月一入日付未提出証拠開示勧告要請書を提出し、平成九年七月一一日付上申書においても、検察官に対し弁護人の開示請求に応ずるよう開示勧告をなされるよう求めたのであるが、原決定裁判所は何らの処置もなさず、これらの論点については、原決定は全く触れていないのである。
本件の証拠開示については、国会でも何度も取り上げられ大問題となつており、国民世論も証拠開示を求め、原決定審で一二五万を超える証拠開示を求める国民各界の署名が東京高等検察庁に提出されており、国際的にも問題となつているのである。
平成一〇年一〇月二八日〜二九日に、ジュネーブで行われた国連の国際人権B規約委員会で日本政府提出の第四回定期報告書が審査された際にも、イスラエルのクレツマー委員、オーストラリアのエバット委員、カナダのヤルデン委員が、証拠開示問題について発言され、とりわけヤルデン委員は「石川(狭山)事件についてです。支援者の人が、冤罪として殺人罪に問われたとしている事件ですが、弁護団はすべての必要な情報または証拠にアクセスできなかったと言っております。委員会におきまして過去に取り上げられていますが、もう一度提起したいと思います。クレツマー委員のコメントにも出ていましたが、私の見解でも問題が残っていると思います。私がいま述べた点、とくにいま述べた事件に関してであります」と異例にも国連の委員会で具体的に本事件の証拠開示について言及がなされている。
ヤルデン委員の言及に対し、日本政府側は酒井邦彦大臣官房参事官が本事件のこれまでの証拠開示の経過について説明し、「現在も検察官と弁護人との間において、証拠開示についての話し合いが行われていると承知しています」と回答しているが、審査の結果、規約人権委員会は、日本政府に対し、「弁護を受ける権利が阻害されることのないように関係資料のすべてを弁護側が入手することが可能となる状態を当該締約国が法律や実務によって確保することを勧告する」との最終見解を採択しているのである.
弁護人と原決定審裁判長との面会の際にも、再三にわたり、本件証拠開示問題の重大性を指摘し、提出命令、開示勧告を求めたが、原決定審はそれをなさなかったばかりか、「殺害現場」でのルミノール反応検査の問題については何らの判断もなしていないのである。再審制度の趣旨・理念に照らし、無睾の救済と真実発見のため、事実解明に関連する未提出資料の存する場合には、再審裁判所はそれを取り調べる義務があり、本件ではこれを全くなしておらず、審理不尽の違法があることは明らかである。

第七、「被害者の死亡時期」に対する原決定の誤りについて

「死体の死後経過時間についての請求人の主張は、「本件肢体の死後経過時間日数は、五十嵐鑑定書記載の角膜の混濁の度合い、死斑の出現の具合、死後硬直等々の早期死体現象の所見より推定すると、昭和三八年五月四日午後七時から九時にかけて行われた五十嵐鑑定人の剖検の時点から遡ること二日以内であることが明らかであるから、被害者が殺害され農道に埋められたのは同月二日以降であつて、同月一日に殺害されてその日のうちに埋められたことは有り得ない。」というのであり、五十嵐鑑定書の死体解剖時の死体の各部位の所見と、新証拠として提出した多数の法医学の早期死体現象からの死後経過時刻の推定に関する記述を根拠に論述したものであった。
これに対する再審棄却決定は、「死体現象の変化は様々な条件によって左右され、死後経過時間を日単位で何日と確定するのは困難であり、その推定には相当の幅をもたせることにならざるを得ないことは、所論援用の文献も認めるところであつて(前掲塩野三〇頁、勾坂一八頁、若杉第四版二○頁、何川三五頁、富田・上田一九六貢、船尾三〇頁等)、所論に鑑み検討しても、五十嵐鑑定の死後の推定経過日数の判定が疑わしいとするいわれはない。」と述べて請求の主張を却けた。
しかし、もとより請求人の主張は、死亡時刻の確定は、「死体の置かれた環境その他様々の条件の変化で左右される」ものであることを否定して述べているものではない。新証拠として提出した多くの法医学書に記載された死後硬直、死斑をはじめとする各死体現象の発現やその後の変化についての記述は、いずれも右のさまざまな条件を考慮に入れての幅、最低値・最高値・最も多い記録、が分類されて心るものであり(例えば塩野三〇貢)、「死後経過時間の推定には相当の幅を持たせることにならざるを得ない」の「相当の幅」は、すでに提出の新証拠の各記述の数値のうちに折り込まれているのである。
請求人の死後経過時間についての主張は、証拠に記述された条件の変化による最短・最長の数値のうち、いずれも最長のものを基礎として述べられているのである。判示のようにこれらの幅を前提として掲げられている数値の意味を無視して、ただ「相当の幅」という定性的な言葉だけを振りまわして論じても無意味であり、請求人の主張を否定する何らの理由にもならないことは明らかである。この点についての判示の誤りは明白である。
とりわけ例えば、死体が閉眼状態で経過した場合の角膜の混濁からの死後経過時間による変化は、外界の条件の変化を受けることが少ないので重要視されているが、いずれの証拠における記載も、「閉眼している場合は、死後一〇〜一二時間から微濁し(開眼の場合は死後一〜二時間からはじまる)、二四〜二八時間で最高に達する」というのである。
他方、五十嵐鑑定の記述による死体の角膜は、「微溷濁を呈するも‥・容易に瞳孔を透見せしむる」というのであり、条件の変化による幅を前提とした前記の法医学書の「二八時間で最高に達する」という記載から程遠い「微混濁」であるので、この点から死後経過時間は最長二日以内と推論した請求人の主張は極めて控え目で合理的なものであることは明らかである。

二、なおさらに、死後経過時間推定のもう一つの柱である、被害者の胃の内容物、その消化の度合いからの推定について、請求人は五十嵐鑑定の記述にもとづき、
「被害者の死体の胃内容物、その消化の度合いなどから推定される、生前最後の食事摂取時から死亡時までの経過時間は、約二時間以内と認められるところ、被害者が同年五月一日午前中に調理の実習で作ったカレーライスの昼食が生前最後の摂食とすると、被害者はそれから二時間以内、すなわち、下校前に死亡したことになり、被害者が実際に下校した時間と矛盾を来すから、殺害されたのは、昼食後に更に摂食して後であつたと認められる」と主張したが、これに対して、「胃の中に馬鈴薯、茄子、トマト、玉葱、人参、等が残存していたので、これらは昼食のときに食べたカレーライスの具である」と証拠もなく断定したうえで、「被害者の朝・昼食の内容に照らし五十嵐鑑定に格別の不自然さは見当たらない」と判示して、請求人の「カレーライス以後の被害者のもう一度食事説」を却けている。
しかしこの間題の核心は、胃内に残存する「軟粥様半流動性内容物二五〇ミリリットル」が何を物語るかという点にある。
判示は、
「(請求人の)所論は、本件の場合、胃腸の内容物、その消化具合などに照らし、最後の食事から死亡まで、約二時間以内しか経過していないはずであると主張し、五十嵐鑑定を誤りと断定するのであるが、食べ物の胃腸内での滞留時間や消化の進行は、食物の量や質、咀嚼の程度などによって一様ではなく、個人差もあり、さらには精神的緊張状態の影響もあり得るのであって、胃腸内に残存する食物の種類や量、その消化状態から摂食後の経過時間を推定するには、明確な判断基準が定立されているわけでもなく、種々の条件を考慮しなければならないのであるから、幅を持たせたおそよのことしか判定できないことは、所論援用の文献も認めているのである(前掲勾坂一八頁、高取五一頁等)。死体剖検の際に、胃腸の内容物を直接視認して検査した五十嵐鑑定人が、『摂食後三時間以上経過』と判定したものを、五十嵐鑑定書記載の所見を基に、一般論を適用して、『摂食後二時間以下の経過』と断定し、五十嵐鑑定の誤判定を言うことが当を得ないことは明らかである。」
と認定したが、ここに書かれている食物の量や質、咀嚼の程度などによって消化の進行が一様でないことは何ら請求人は否定していない。新証拠が示す多年の経験や統計の積み重ねによって、しかも右に述べられている消化の進行が一様でないことも考慮に入れたうえでの幅の最長時間をもとに、「最後の食事後遅くとも二時間」と請求人は主張しているのである。
判示はさらに、個人差や精神状態までもを挙げて請求人の主張を否定しようとしているが、被害者は強壮な高校一年生のスポーツ・ウーマンであり、その個人的特性を考えると、消化時間は促進的に考えられてもその逆でないことは明白である。
また被害者の「精神的緊張状態」も挙げられているが、請求人の自白や確定判決が認定したカレーライスを食べてから殺害にあうまでの過程のどこを見ても、殺害直前数分間は別として、「精神的緊張状態」が存在したようなことはどこにも窺われない。裁判所は出まかせを書かずに、記録に基づいた丁寧な判断を示すべきである。
なお念のために付け加えると、判示は「死体現象からみた死後経過時間の推定」の問題について、すでに述べたように、
「様々な条件によって左右され、死後経過で何日間と確定することは困難であり、その推定には相当の幅を持たせることにならざるを得ない」
と述べている。しかし、死後数ヵ月や数年を経過した死体の晩期死体現象からの推定の場合ならいざ知らず、本件は五月一日の午後四時過ぎの殺害とされている死体を五月四日の七時から解剖を開始したという僅か三日間の死亡時刻の推定の問題であり、このような短期間の出来事について(時間単位ではなく)、日単位の推定すらも法医学ができないと判示は主張していることになるが、これは法医学がこれまで蓄積されたデータや多様な経験に基づく成果を無視していることを公言していることにほかならず、驚くべきことと言わなければならない。法医学を馬鹿にするにもほどがある。
また判示は、五十嵐医師の現場を踏まえた判断を絶対視しようとしているが、同医師としてもこれまでの法医学の成果を考慮に入れずして死後経過時間の判定ができる筈はなく、もしこれらの成果が示す経過時間をあえて否定して別の結論を出そうとするならば、当該死体現象において通常導かれる判断を否定する根拠を示すのでなければ、単なる恣意・独断による根拠のない記載と見傲さざるを得ない。判示の五十嵐医師の示した判断の押しつけは、法医学の成果を無視したものであることは疑問の余地はない。
なお更に付け加えると、五十嵐鑑定書における死後経過時間の推定結果は、「死後二日乃至三日間」というものであり、二日を否定していない。
二日間というのであれば、五月一日犯行説は完全に否定される。判示はこの点について何らの判断を示さず、沈黙のままであるが赦されることではない。五十嵐鑑定書は他の多くの疑問があるが、この点に着目するだけでも、鑑定書が請求人の五月一日犯行説を裏付ける証拠とはなっていないことは明白であるが、裁判所はこれを無視しているのである。

三、死体埋没時刻について
判示は証人S・YやA・Sの証言を援用して、五月二日の朝には「農道上に大きく土を掘つて戻し平にならした跡があった」ことを認定し、それまでに被害者の死体が発見された農道に埋められていたことを認定した。
同証人の最初の農道上の土の変異について気づいたとする発見時刻が果たしていつであり、また正確な記憶に基づいて述べられたものであるか否かについての疑問は請求人が具体的に詳しく述べてきたところである。五月二日朝の何時頃に右の異常に気づいたのかは明確ではないが同人の言うところに従えば、「農協で開かれた総会が九時四〇分ころ終了したあと現場に行つた」とのことである。そもそも繁忙期における農協総会が朝の九時四〇分に終了するものとして開かれることは常識上あり得ず、同人の証言がまずこの点において措信しがたいものと言わなければならない。
しかし判示はこの点について、「農協総会を朝のうちに行うことはあり得ないことではない」と判示して請求人の主張を却けた。
通常、農協職員の出勤は朝の九時頃からであり、繁忙時にこの時間帯から多数の組合員が参加して総会を開くことなど、余程の緊急事態の発生以外にはあり得ないことは世の常識である。判示が言うように通常行われる筈のない総会を「あり得ないこととは言えない」という一言だけで開催を認めるという論法が認められれば裁判所の認定は「何でもあり」ということになり、問答無用の世界になつてしまう。到底健全な裁判官が判示する論法とは言えないと断ぜざるを得ない。
また降雨後の牛蒡の種蒔きについてのS証言の信憑性についても、「ごぼうを雨降りの翌日に播種することをあり得ないこととは言えない」という判示にしても、これまた常識に反する「雨の翌日の種蒔きもないことではない」という論法で切り捨てようとするもので、赦すことができない。
裁判所は雨のあとの関東ローム層地帯の畑に、一度でも足を踏み入れた経験があるのであろうか.この付近に住む農民は、ぬるぬると粘り、土さばきが困難になった畑に、種播きの実行はおろか、そうしようという考えすら起こさないのである。裁判所のお公家さん的な物知らずが、世の物笑いになるだけの判示と言わなければならない。

第八、手拭いに対する原決定の判断の誤りについて

原決定は、捜査当局は犯行に使われた本件手拭いの出所を特定するため、昭和三八年度手拭いの回収に努め、全部で一六五本配布されたうち、配布先の明らかでない手拭いは一〇本であることが認められるとしている。そして、上告審提出のT・S、T・Kの供述詞書を根拠に、M・S方に一本、石川仙吉方に二本の手拭いが配られたことは肯定できると考えられ、関係資料を検討してもTメモが捜査当局の都合のよいように改竄された疑いは認め難いとしている。
しかし、これまで弁護人が新証拠および関係証拠によって立証してきたとおり、石川仙吉の二本のうち一本およびM・Sは、配布されていないにもかかわらずTメモに氏名が記載されていること、したがつて確定判決認定の配布経路による請求人の本件手拭いの入手可能性はあり得ないことが明らかである。
本件手拭い捜査は、Tメモに氏名が記載されているにもかかわらず未提出の者について全く不問に付すなどのことをするとともに、捜査はしたが未提出の理由について裏付けがなく嫌疑が消失しないままになった者も残されるなど、およそ客観的証拠の指向するところに従ったところ請求人に到達したと言い得るものではない。本件手拭いの出所としては、特定の者に到達することは到底不可能な状況が残されているのである。原決定は捜査過程への疑問について何ら検討しておらず、新旧証拠を併せた判断をなしたものということはできない。
原決定は、石川仙吉及びM・Sの両家と隣人ないし近い親族として日頃から親しかった請求人方では、請求人方に配布された手拭い一本の他に、M方あるいは石川仙吉方から同年度の手拭いを入手し得る立場にあったと認めた確定判決に合理的疑いがあるとはいえないとしている。しかし、右論旨は、家人の工作という何の根拠もない予断にもとづいて本件犯行に使用された手拭いが請求人方に存在したとするものであり、それ自体において重大な欠陥を有している。
確定判決の判断の前提となる、T米店の手拭いが石川仙吉ならびにM・S方から各一本未回収であるという事実そのものが否定されていることは明らかである。請求人方からは配布された昭和三八年度手拭いが提出されている事実を軽視し、新旧証拠の総合評価にもとづく公正な判断を行わなかった原決定は完全に誤りであり、棄却されるべきである。

第九、殺害現場付近で農作業中の者の存在についての原決定の誤り

一、原決定は小名木武の供述を正当に評価していない。

弁護人は原決定審段階で提出した「殺害現場」付近で農作業していた小名木武関係の新証拠によって「殺害現場」に関する請求人の自白の信用性は崩壊していると確信するものであるが、原決定は同人の供述を正当に評価しなかったばかりか、「小名木が除草剤撒布作業中に人の声を聞いたという右の経験は、請求人の自白供述に沿うものと見ることができる。」との強引にねじ曲げた判断をなしている。
原決定は、同人の員面、検面調書の供述内容と弁護人に対する二通の供述内容との相違点を取り上げ、「弁面二通は、殊更に虚偽を述べたとは考えられないけれども、事件からそれぞれ一八年、二二年の歳月を経てから、求めにより、当時を思い起こして供述したものであり、前記捜査官に対する供述に比して、より正確であると認め難いものといわなければならない」としている。
しかしながら小名木武関係の四通の捜査報告書、同人の員面、検面調書の供述内容と弁護人に対する供述内容とは基本的部分においては一致しているのである。同人が、請求人の自供に基づいて確定判決が認定した「犯行時間帯」に「殺害地点」から、約三〇メートルの至近距離で除草剤撒布の農作業を行っていたにもかかわらず、同人は、請求人・被害者の姿を見ておらず、請求人の自供にある悲鳴も耳にしていないし、請求人も小名木の存在について何も供述していない。これらは動かすことのできない事実である。
原決定は、同人の捜査官に対する供述中、「声の方向や男女の別などは分からないが、誰かが呼ぶような声が聞こえ」たという供述を、「請求人の自白に沿うものと見ることができるのであって、これと相容れないものではない」と強引にねじ曲げての判断をなしている。同人が「誰かが呼ぶような声」を聞いたのは、原決定の認定している犯行・殺害時間帯以前の「午後三時半から四時頃の間」のことであるし、男女の別も方向も分からないものであり、「キャー」「助けてー」という三〇メートルの至近距離のものとは全く異質のものである。五月三〇日付捜査報告書には、「午後三時半から午後四時頃の間のことであるが、方向、男女の別は判らないが、誰かが呼ぶような声が聞こえ」、「誰かが呼ぶような声」を聞いたとき、「雨が少し降つていたので急いで仕事を続行し午後四時三〇分頃除草剤が終わつたので仕事をやめ」た旨の記載がなされている。六月二日付捜査報告書には「作業を始めてから終わる迄、降雨のため軽三輪車の中に入り、雨やどりしたのは一回、約五分位、それは妻が洋傘をとりに来た後(午後二時半頃から午後三時頃の間)のことである」と記載されている。当時の降雨状況についての入間基地からの回答書では、午後三時二六分から午後三時三九分の間に降雨が記録されているのであり、同人の「誰かが呼ぶような声」を聞いたのは「午後三時半から四時頃の問」であり、それを聞いたとき、「雨が少し降っていた」という供述は、右降雨状況とも付合しており、確定判決の認定している犯行・殺害時間帯とは重ならないことは証拠上明白であるのに、原決定はこれらを無視し、強引に「誰かが呼ぶような声」を「悲鳴」と結び付けているのである。
殺害場所とされた四本杉から約三〇メートルの至近距離で、桑畑に除草剤を撒布する農作業に従事していた小名木武の「事件当時から、本当にそこで犯行があったのだろうかと疑問に思ってきたが、もしそこで被害者が悲鳴をあげたのであれば、私はそれを聞いた筈であるが、そのような悲鳴は聞いていないし、犯人の方も私が農作業をしている音を聞いた筈である。」との供述は、本来は請求人の犯行現場に関する自白が虚偽架空であることを証明する新規明白な証拠であるのに、原決定はこれを正当に評価せず、予断と偏見により強引にねじ曲げた判断をなしているものである。

二、原決定が条件の相違を理由に、識別鑑定、悲鳴鑑定等の新証拠の明白性を否定したのは不当である。
内田雄造ほか作成の昭和五七年一〇月一二日付鑑定書(第一次識別鑑定書)は、犯行が行われたとされた時刻、当時の天候、桑畑・雑木林の状態、犯人・被害者・小名木の服装等の与条件の下で、@雑木林内の犯人・被害者の位置から、農作業中の小名木及び自動三輪車を見通し、識別することが可能かどうか、A桑畑内の小名木から雑木林内の犯人・被害者を見通し、識別する事が可能かどうかを明らかにするため、現場において再現実験を行い、得られたデータを分析、解明したものである。
内田雄造作成の昭和六一年七月二〇日付鑑定書(第二次識別鑑定書)は事件当日と同様の天候条件のもとで事件現場において照度測定を行い、@実測データーに基づく一九六三年五月一日の午後四時から四時半にかけての「事件現場」(小名木の位置、犯人・被害者の位置)の照度の推定、A同推定値のもとで、雑木林内の犯人・被害者の位置から、農作業中の小名木及び自動三輪車を認知することが可能か、B同条件下で桑畑内の小名木から雑木林内の犯人・被害者を認知することが可能かについての鑑定を行ったものである。識別鑑定の結論は、事件当日の犯行時間にあっては、犯人・被害者と桑畑内の小名木とは十分な明視環境にあり、犯人・被害者は、とくに努力することなく、農作業を行っている小名木を当然に認知したはずであり、小名木も十分に犯人・被害者を認知しうる状況であるというものである。
安岡正人ほか作成の昭和五七年一〇月九日付鑑定書(悲鳴鑑定書)は、小名木供述、請求人自白に基づく音の発生等を前提条件として「犯行現場」の松の位置での被害者・犯人との会話、姦淫・殺害地点とされている杉の位置での被害者の悲鳴と犯人の命令・脅迫の声、小名木の噴霧器音と自動車の発車音の四つの音が、それぞれの位置で聞こえるかどうかの実験を行い、その実験結果に基づいて鑑定がなされたものである。
被害者の悲鳴音の小名木による聴取についての鑑定結果は、「女性の悲鳴は、意識がなくても耳に飛び込んで来る大きさであり、その特殊な音色や情報(音声の意味内容)からすればどの地域にいても証人の知覚に訴えたものと断定できる。」というものである。
これらの鑑定書のはかにも弁護人中山・横田現場検証報告書、横田現場調査報告書、中山・横田悲鳴実験報告書、昭和三八年五月四日撮影の航空写真等の新証拠を原決定裁判所に提出し、もし、本件犯行が確定判決認定の時間と場所で行われたとすると、小名木は、当然に犯人・被害者に気づいたはずであり、犯人・被害者の方でも農作業中の小名木を至近距離で認識したはずであるのに、そのような状況が全くなく、請求人の殺害現場に関する自白は虚偽架空であることを明らかにしたのである。
しかしながら原判決は、「所論が援用する鑑定書、報告書等は、いずれも昭和五六年から六一年にかけての現地調査に基づくものであるが、事件当時から二〇年近くを経て、現場とその周辺が大きく変容したことは察するに難しくなく、事件当時のままに地形、気象、地上物等の条件を設定しあるいは推測により近似の条件を設定して、近くで悲鳴がおこることなどまったく予期せずに、除草剤撒布の作業に集中していた小名木の心理状態を含め、当時の状況を再現することは、非常に困難なことであるといわなければならない。」として明白性を否定している。
犯行現場周辺が事件当時とは変容していることは原決定の指摘するとおりであるが、事件当時の雑木林の松の木の樹齢は二十年余りであったが、実験・鑑定時は、それから十九年経過しているので幹の大きさは当時の二倍近くになっており、事件後伐採された雑木も残存している切り株および実況見分調書添付写真をもとに復元したうえで、識別実験を行ったもので、実験時の方が見通しの条件は悪くなっているし、全ての再現条件について、請求人側に不利な条件をとった場合にもどのような結果が得られるかについて分析、解析しているのである。悲鳴鑑定も、音源条件や環境条件を、事件当時の条件と相似させ、実験上の安全率を厳しくとってなされているのである。地表条件の違いについても、鑑定書は「この程度の樹木の密度や伝搬距離ではその影響は無視できる程度」であることを資料により根拠を示しているし、気象条件についても、犯行時と実験時は「大略同等」であり、地表面からの温度勾配や風などの伝搬性状に与える影響も、実験の伝搬距離程度では極めて小さいものであることが資料を示して説明されているのである。
事件当日の気象状況は、確定判決審で取調済の入間基地からの回答書、気象庁の記録により確認されているのである。原決定は除草剤撒布に集中していた小名木の心理状態も問題にしているが、小名木は作業中に「旭住宅団地より南に通ずる道路を北より南にオート三輪車が通った音」(昭和三八年六月二日付司法巡査水村菊二作成報告書)を聞いているし、荒神様(三柱神社、小名木畑より約五〇〇メートル北西方向)の拡声器から歌等が流されているのも聞いており、農作業に集中していても種々の音を聞き分け、記憶しているのであるし、鑑定は、環境工学・心理学等の研究をもとに視覚的認知の諸条件についての分析を進め、請求人の自白、小名木供述に基づいて、条件を設定し、実験と測定を行い、すでに解明されているデーターをもとに考察をなしたものである。
原決定は、事件当時の雑木林周辺の地形、地表の状況、事件当日の気象状況から、小名木が犯人と被害者の姿に気付かず、被害者の悲鳴も「誰かが呼ぶような声が聞こえた」と感じたものであるとしているが、悲鳴鑑定書には、人の声が、麦畑、桑畑、雑木林に吸収されて聞こえにくいという点については、犯行現場程度の樹木密度や伝搬距離では、その影響は無視できる程度のものであることが資料を示して説明されているし、事件当日の「毎秒四・一メートルないし六・七メートルの北風」についても、同鑑定書の気象条件の項に記載されているように、事件当日の風等の音の伝搬性状に与える影響は、本件の伝搬距離では極めて小さいものであるし、事件当日の風は、風力3(細かい小枝が動き、軽い旗がヒラヒラする)乃至風力4(砂ぼこりが立ち、紙屑がまい上がる)程度の風なのである。
原決定は、識別鑑定、悲鳴鑑定等の新証拠について、内容に立ち入り、具体的検討をなすことなく、一般的、抽象的に条件の違いを持ち出すのみで、その明白性を否定しているのである。原決定は「その援用する証拠をすべて併せて、確定判決審の関係証拠と総合検討しても、確定判決の事実認定に合理的な疑問を抱かせるには至らないというべきである。」と判示しているが、「犯行現場」に関する請求人の自白を裏付ける客観的証拠は何一つ存在せず、自白が真実であれば当然に血痕が発見されなければならないのに、ルミノール反応検査がなされたのに反応はなかつたものであるし、請求人の「引き当たり捜査」さえもなされていないのである。請求人の「犯行現場」に関する自白はそれ自体不合理であり、出会い地点、連れ込んだ動機、犯行順序についての供述も変転定まらず、事実と多くの点で齟齬している。これらに加え、小名木武関係の新証拠により、「犯行現場」に関する確定判決の認定には合理的疑いがあることが益々明らかになつたにかかわらず、原決定はこれらの新証拠を真剣に検討することなく、その明白性を否定したものであり、とうてい容認することはできない。


第一〇、死体運搬についての、渡邊謙、中塘二三生共同作成の意見書の新規明白性と原決定の誤りについて

一、原決定は、死体運搬方法に関する自供を引用したのちに、右自供の中には運搬の途次、「持ち替えて担いだり、小休止を取ったか否かについては記載がないが、記載のないことからその途中で持ち替えや小休止が全くなかったと解するのは必ずしも当を得たものとはいえない。」とし、「右意見書はこれらの各事情を考慮していないので、請求人の自白の真実性を疑わせるとは言い難い」(要旨)と結論づける。
ところで右原決定が、運搬の困難性を感じとったうえでの結論であることは右論旨.からもあきらかであつて、念頭にいれておくべきことである。
ところで前記各自供からうかがわれるように、自供を引き出した捜査官らは請求人を、大変な力持ちに仕立てあげている。
なぜか。捜査官もまた、きわめて困難な作業であることを、経験則上知り得て、請求人にここで躓いてもらっては困るからであつた。
二、死体運搬についての前記自供の量から推して、それの何倍かにわたって、捜査官は請求人に質問をつみ重ねていると推測される。
あるいは「小休止したであろう」とか、あるいは「肩にさげて運搬したのではないか」などである。
もし請求人が真実善枝の死体運搬を体験しているのであれば、なぜに、「小休止」の事実を隠す必要があろうか。既に重大なる犯罪を告白していることに徴して、一層このことは強調されてよいであろう。被告人が死体を運搬していないことは、右自供と捜査過程ならびに本意見書を総合評価してあきからというべきである。
原決定は、「小休止したことを自供していないから小休止していないとはいえない。」というのであるが、捜査過程を逐一、まじめに、公正に検討すれば、右判示が屁理屈にしかすぎないものであることを知りうるのである。
新証拠である渡邊他一名の共同意見書が、請求人の、「死体を運搬した」旨の自供の真実性に合理的疑いを生ぜしめていることはあきらかである。
第一一、死体の足首の状態についての原決定の誤り
原決定は真実究明を放棄している。
弁護人は原決定審で木村康作成の平成元年一二月七日付「芋穴への逆さ吊り」実験報告書(木村実験報告書)、井野博満の同月六日付「逆さ吊り」における荷重の測定および損傷についての実験報告書(井野実験報告書)、大西徳明作成の同年三月一〇日付「芋穴への逆さ吊り」実験被験者の筋力検査報告書(大西検査報告書)等の新証拠を提出し、請求人の自白のように、死体を逆さ吊りして芋穴への隠匿を行えば、死体足首に痕跡が残らないことはありえないことを明らかにした。
しかしながら、原決定は、これらの新証拠の内容を全く検討することなく、「死体の吊り下げ、吊り上げの態様に関する自白内容は、ありのままを述べた正確なものとは、必ずしもいえないと認められるのである。したがつて、自白内容に相応する事態を想定して再現実験を行い、その実験結果から、芋穴への一時死体を隠匿した旨の自白内容の真偽を論定することは、ほとんど不可能に近い難事であるといわざるを得ない。所論援用の各報告書が実験の基とした自白内容自体、実際の状況を細部にわたるまで如実に述ベたものとは必ずしも言えない以上、これらの報告書の実験結果から、発見された死体の足首に痕跡ないし損傷がないのは不自然であると結論し、そのことから直ちに、本件芋穴に死体を一時隠匿した旨の自白は虚偽の疑いがあり、確定判決の事実認定に合理的疑問が残るとまでは言えない」と判示している。.
原決定のこのような姿勢は、無事の救済と真実の究明という再審裁判所の使命を放棄した不当なものである。
原判決は「自白内容の真偽を論定することは、ほとんど不可能に近い難事」との不可知論に立っている。請求人の供述を前提として、その信用性を検討するための再現実験は有意義なものであり、それを無意味とする判断は極めて不当である。
原決定は「死体の吊り下げ、吊り上げの態様に関する自白内容は、ありのままを述べた正確なものとは、必ずしもいえないと認められるのである。」としているが、それでは、請求人が何故にそのような自白をなしたのかが検討されなければならないし、そのような自白に信用性はないとされなければならないはずである。死体の足首の状態の問題は、自白内容の細部までが事実と合致しているかどうかではなく、芋穴へ逆さに吊して隠匿したのかどうかの根本的なところが問題とされているのである。
しかも、請求人は、「私は善枝さんの足をしばると、足から一米位の長さのところの縄を自分の右手にまきつけて、あなぐらの北側から善枝ちやんの頭の方から先に穴ぐらの中へ入れましたが、自分の右手へ縄を一巻まいたわけは善枝ちやんをどすんと落とさないようにその右手でしっかりと押さえておくためでした。そして善枝ちやんの重みが右手にかかつた時に巻いた縄を手からほどきだんだんに縄をのばして行ってその端を桑の木にしばりつけた‥…・」(六月二八日付員青木調書)
「私は縄を両手でしっかりと握り、善枝ちやんを藷穴の壁の方をずらす様にして縄を少しずつゆるめて穴の中に降ろしました。その時も雨は降り続いており、吊るした縄は藷穴の口の角の所にくっつけて少しずらしたので割合い楽に降ろす事が出来ました。」(七月一日付検原調書)
「引き上げる時は、縄の端は桑の木にゆわえた儘穴倉の入口の桑の木の方に立って縄をたぐりながら少しずつ引上げました。それで、善枝ちやんの体は穴の壁にすれながら引き上げられたわけです」(七月八日付検原調書)と、具体的・詳細に供述しているのである。
これらの請求人の供述を前提として、その信用性を検討するための再現実験は有意義なものであり、内容を全く検討することなく、結果を否定するやり方は許されることではない。
原決定審で提出した芋穴への死体の逆さ吊りに関する各新証拠は、第一次再審請求審提出の司法警察員大谷木豊次郎作成の昭和三八年七月五日付実況見分調書(芋穴のルミノール反応検査)、弁護人中山武敏作成の昭和五三年一二月二四日付報告書(中山実験報告書)、木村康・弁護人倉田哲治作成の昭和五四年五月二二日付「芋穴逆さ吊り」実験についての報告書(木村・倉田実験報告書)の各新証拠、死体処理に関する第一審、確定判決審での取調済の旧証拠と相まって、確定判決における事実認定につき合理的な疑いをいだかせ、その認定を覆すに足りる蓋然ある新規・明白な証拠である。
原決定は、弁護人提出の新証拠について具体的に検討することなくその価値を無視した違法なものである。

第一二、スコップに対する原決定の判断の誤りについて

判示は、「星野鑑定書の検査が、採取資料間の土質比較のために必ずしも十分なものではなかったことは、既に第一次再審請求の特別抗告棄却決定が指摘するとおりである」としながら、「スコップ付着土壌のサンプルの一つと類似する」ことが明らかにされたとして、この事実は生越鑑定書も否定していないことを主とした理由として本件スコップが犯行に使用された「蓋然性」は高いと述べている。
しかし、付近一帯の土壌は広く関東ローム層が積み重なり覆われているものであり、これらの土壌が相互に類似していても、判示のスコップが死体埋没のために使用されたものとは、とうてい言えないものであることは、あらためて言うまでもないところである。
星野鑑定の手法は、スコップ付着土壌や死体埋没付近の土に種々の検査を実施して、その結果の記録はあるものの、肝心の類似性、異質性の判断のメルクマールについては何らの基準を示さないもので、無意味な作業報告であつた。
他方生越鑑定書は、土壌分析の結果、異質性の判断の最重要の基準は、砂・シルト・粘土の混成割合であり、この点からみると、スコップから採取された(一)Pの土壌は他の如何なる資料とも著しく異なつているので、スコップが他の場所を掘ったときに右の土壌が付着したものと考えるほかなく、かえって本件スコップは、死体埋没に使用されたものでないことを示すことになることを明らかにした。
この点については、各審理の段階を通じて明確な判断が下されていないことを指摘しておく。

第一三、死体埋没現場の玉石の存在に対する原決定の判断の誤りについて

判示は、玉石についての請求人の主張を却けたが、その理由として、
「関係証拠によれば、付近農地の開墾の歴史は古く、本件死体埋没現場は造成された農道であるから、以前に持ち込まれて付近に存在し、死体埋没の際に、たまたまその側に土砂と共に埋められたとしても不自然ではない。さらに所論援用の証拠を併せ見ても、犯人が死体埋没に当たって、本件玉石をわざわざ死体の傍らに置いたと認めるべき証跡があるとは言いがたく、確定判決の認定に影響を及ぼすものではない。」と述べている。
しかしこれまた、農業の実体を知らない常識外れの言と言わざるを得ない。
そもそも農業は、特に伝統的に鋤・鍬等の農具を用いて行われるのが通常であるが、これらの器具にとって石とくに本件の玉石のような大きな石は、農具に損傷を与える天敵である。他方、死体穴付近は関東ローム層地帯で、火山灰の堆積土壌であり、このような玉石は人為的な持込みがなければ存在しない。判示はこともなげに、「以前に持ち込まれて付近に存在し」と述べるが、農道の所有者であるA・Sもまたその先祖の耕作者たちも付近に存在しない農道に、天敵の玉石をわざわざ持ってきて、しかもそのまま放置しておくことなど決してないのである。判示の誤りは、明白と言わなければならない。

第一四、車両との出会いについての原決定の判断の誤り

原決定は、新証拠を確定審の関係証拠と併せ検討しても、捜査官が暗示や誘導によって、鎌倉街道で自動三輪車に追い越されたことや被害者方付近に小型貨物自動車が駐車していたことを請求人に供述させて、あたかも、その供述にいわゆる秘密の暴露があったかのように作為したと疑われる事跡は窺われず、弁護人援用の証拠は確定判決の認定に影響を及ぼすものとは言い難いとしている。
しかし、確定判決は、「被告人の自白に基づいて調査した結果」「被告人が五月一日中田家へ脅迫状を届けに行く途中鎌倉街道で追い越されたという自動三輪車はY・S運転のものであったこと、また被告人が中田方近くの路上に駐車しているのを見かけたという自動車はO・Tの車両であることが判明し」たというのであるが、捜査当局が捜査の常道に従い、事件当日の被害者宅周辺の人および車の動きについて聞き込み捜査を行えば、本件発生後間もなく知り得たはずの事実である。捜査当局が聞き込み捜査をしなかったとするほうが甚だ不自然であり、現に確定審においても、捜査官の証言(第四三回公判斉藤留五郎、第四九回公判福島英次)によって、事件発生直後から聞き込み捜査がおこなわれたことが明らかにされている。
そして、O・T関係の新証拠は、いずれもO・Tの事件当日における動きが、当然捜査当局の聞き込みの範囲内にあつたことを示している。特にO・Tが路上に駐車をしてから訪れたM・S方は被害者方より東へ一軒おいた至近距離にある。
また、Y・S関係の新証拠である捜査報告書はいずれも請求人の自供後に作成されたものであるが、Y・Sとその同乗者O・Y、T・Sに到達した経緯が記載されておらず、自供前から捜査当局に判明していた事実を示している。すなわち、一連の捜査報告書の内容は、自供後の裏付け捜査の結果はじめてこれらの事実が発見されたとするには、捜査過程に飛躍があり過ぎてきわめて不自然な経緯を示している。Y等の供述調書は、作成日付のみを見れば請求人の供述後であるが、事件発生直後の聞き込み対象者となつていたと考えざるを得ないというところにこそ証拠としての意味があることは明らかである。
被害者宅へ脅迫状を届けたことに関する請求人の供述自体も不自然な点が多く、真犯人が自らの記憶を進んで供述したものとは到底思われない。そもそも、鎌倉街道を経由するよりもはるかに早くかつ安全なコースをとらず、最も人目につきやすい道路をわざわざ選び、被害者の自転車に乗って走るなどということはいかにも不自然である。また、なぜそういうルートをとったのかについて、請求人はその理由をのべることさえできていない。しかも右供述は、請求人が三人共犯を述べていた六月二一日になされたものであつて、被害者宅へ脅迫状を届けたコースに関する供述のみが真実であったとは到底考えられない。この時期に出された事実が自白の信用性を裏付ける根拠になるとすること自体が、捜査当局があらかじめ知っていた事実を請求人に供述させたという合理的疑いを導き出している。
Oの駐車状況に関しても、六月二一日付員面調書には小型の貨物自動車が東向きに停まっていた旨の記載があるが、まさに犯人が脅迫状を差し入れようとする際の精神的緊張や雨中であつたこと、暗くなっていた客観状況からいつて、直接関係のない周辺に対する知覚はきわめて不十分なものに止まった筈である。停車車両に気付き人に見られる可能性から動揺した等、真犯人であれば当然に配慮するべき事柄に関してリアリティを感じさせる内容がまったく述べられていないにもかかわらず、停車車両の状況に関してのみ詳細な供述がなされているのはかえって不自然であり、捜査官の暗示誘導の介在を強く疑わせる。
以上述べたとおり新旧証拠が総合評価されるならば、O・T、Y・S証言がいわゆる秘密の暴露にあたるものとすることには重大な疑問がある。聞き込み捜査の経過を一切検討することなく、これらを自白の信用性を裏付ける根拠の一つとなり得るものとし、捜査官による暗示や誘導の存在を否定した原決定の誤りは明らかである。

第一五、U・K証言に対する原決定の判断の誤りについて

原決定は、新証拠であるU・Kの昭和三八年六月五日付司法警察員に対する供述調書は第一審第五回でのU・Kの証言と同旨であり、実質的にみて新証拠といえるか疑問であるのみならず、これを確定判決審の関係証拠と併せ検討してもじ証言の信用性に疑問を抱かせる点は見出せず、確定判決の認定を揺るがすのものではないとしている。
しかし、U証人は、公判廷において、五月一日同人宅に現れた人物と請求人の顔かたちが似ていると思うと証言したに過ぎない。その上、同証人は、右の事を事件の発生後一ヵ月以上も後になってようやく警察に申告したのであり、しかも、その際にいわゆる面通しによって人物の同一性を確認するについても、多人数の中から特定の人物を抽出するという方法さえとられていないのである。したがって、仮に事件当日じ証人方へ中田宅の所在を尋ねてきた人物があったとしても、明かりの十分でない所で、極めて短時間の接触をしたに過ぎないのであるから、面通しの方法・時期を考え合わせると、目撃証言としての証拠価値は認められないことが明らかである。
U証言については、まず何よりも、これから被害者宅に脅迫状を届けに行こうとする真犯人が、被害者宅の所在が分からず、顔を覚えられる危険を犯して、適当なところで被害者宅の所在を確認したということの不自然性・非現実性という観点から検討されなければならない。このようなことが現実に起こり得るとするのは、明らかに一般的な常識に反することと言うほかない。
前記U員面調書は、事件発生後一ヵ月以上もたってからの供述であり、人物描写はきわめて不十分で、目撃した人物の顔についても、唯一「面長」であることしか印象に残っておらず、具体的なことは何一つ述べられていない。同調書によれば、同人が目撃したのは「二間位」離れた位置から、「四十ワットの電球」の下で、「一、二分の短い間」であり、同人の供述に信用性がないことを自ら語っているのである。このことを否定しようとする決定の判断は、経験則を無視したきわめて不当なものである。
U証言は、現実の問題として成立する余地もない。そして、内田証言に沿うような内容を含む請求人の自白もまた非現実的なものといわざるを得ない。請求人の自白の中にU証言に沿う供述があるということは、かえって、自白に不当な誘導のあつたことを示しているのであり、ひいては請求人が真犯人であり得ないことを明らかにしているのである。原決定は破棄されなければならない。

第一六、万年筆についての原決定の誤り

一、本件万年筆発見の経緯
1、決定は内田報告書と内田鑑定書につき、いずれも、どの位置から、どのような条件の下で、鴨居の上に置かれた万年筆を認識できるかを調べたものであって、その結果、調査時より暗い状況下でも万年筆を認知することが十分可能であり、鴨居前に置かれた「うま」に乗れば、万年筆を見落とすことはあり得ないことが判明した、との趣旨を認めながら、第一回、第二回の捜索と第三回の捜索は捜索の事情や条件を異にするので、このような前提の違いを抜きにして、鴨居の上に本件万年筆があったのなら、第一回ないし第二回の捜索時に発見できなかったはずはなく、見つからなかったのは、当時請求人宅に本件万年筆が存在しなかったからであると結論するのは当を得ないとする。
しかしながら、これは明らかに曲解である。そもそも第三回目の捜索は第一回目、第二回目の捜索に比して「捜索」になど該らない。第三回目の捜索は、もともと自白を得たとして、当初から場所を特定して、それを取りに行ったにすぎず、何らかの捜索活動をした上で発見したわけではない。第一回目、第二回目の捜索と第三回目の捜索を比較して主張しているわけではない。第一回目の捜索差押調書の写真によれば、万年筆が発見された鴨居のすぐ前に「うま」(脚立)が置かれており、その場所、捜索状況からして、これが第一回目の捜索に使用されていたことが明らかである。万年筆が発見された鴨居は、背が低い人であっても、鴨居のすぐ前に置かれた「うま」に少しでも足をかけてその周囲を見回すだけで、その(鴨居の)奥側まではっきり見通すことができる。そして、第一回目の捜索には捜査員一二名、第二回目の捜索には捜査員一四名が従事し、それぞれ一部屋に二名宛ずつ配置された上でそれぞれ二時間一七分、二時間八分にもわたってなされたもので、第三回目の捜索と比べようもない。まして、各捜索に参加した捜査官は、捜索訓練を受けている埼玉県警下全域から選び抜かれた刑事であり、通常捜索すべき場所は当然に捜索する訓練を受けており、吉展ちやん事件の直後でもあり、重大事件であることを自覚し、落ちがないように、捜索しているものである。内田報告書と内田鑑定書は右のような捜索であれば、第一回、第二回のいずれの捜索にあっても、仮に万年筆が存しているとすれば、問題の鴨居から発見されないはずはないことを証明しているのであり、決定はこの判断を誤っている。
2、決定は中山報告書、石川六造、高松ユキエ、石川清、市村美智子の弁譲人に対する各供述調書及び青木報告書足立分についても、単に供述までに期間が経過していること、肉親の供述であり、もともと信頼できないことを前提にしているかのごときである。
しかしながら、特に兄六造の述べるところは、同人の確定判決審での証言(第一六回公判)とほぼ同旨であることは明らかであり、だからこそ一層の証拠価値を持つものである。即ち、細川ほか報告書のうち、捜索責任者小島朝政の新供述は、第二回目の捜索に当たり「松のふし穴」があって、その部屋の捜索を担当していた捜査官に、「松のふし穴」の捜索をしたかを、小島が問い質し、その「松のふし穴」にあるポロを取り出すなどして捜索したことを明らかにしており、そしてこのポロの存在からしても、「松のふし穴」は、後に万年筆が発見された鴨居がある場所であることが明らかである。小島は確定判決審で、上の方は捜索しなかったかのごとき証言をしていたが、細川ほか報告書の小島新供述では「松のふし穴」の捜索を認め、その小島がその部屋の捜索担当の捜査員を質している光景を、右兄六造が目撃していたことが明らかになつたところに意義がある。即ち、確定判決審においては捜査主任小島が上の方は捜索していなかつたなどと偽証していたことが明らかである。
また、右小島新供述が存しなかった確定判決審での右兄六造の供述は、確定判決において裏付けのない身内の証言であって、一蹴されていたものが、第二次再審において小島供述が発見され、これが、兄六造の供述を裏付けたという点でも絶対的な意味を有したものである。第二次再審での小島新供述が確定判決審での兄六造の供述の信用性を裏付けているのに、決定はことさら、これを避けている。とうてい新旧証拠を総合評価したとは言えない。
また、その余の請求人の母、姉、妹、弟の述べるところも、決定は、時間の経過や家族だからといって否定するが、家族だからといって否定されるべきいわれはない。捜索に立ち会った家族は多数の捜査員が作業をし、混然となった現場の状況であったとしても捜査員の一挙手一投足を、怒りを込めて、見つめていたのである。
第三回目の捜索で万年筆が発見された直後から、家族のはぼ全員から、第一回、第二回目の捜索のときにすでに、問題の鴨居は捜査官が捜索していたことが語られ始めており、それぞれが一生に一度の大事件に巻き込まれた者の明確な記憶として持ち続けているのである。
3、決定は細川ほか報告書について「右各捜査当時の具体的な状況についてはよく覚えていないが、不十分な捜索であつた。」などとするもので、総じて各人の記憶が相当あいまいであるとする。
しかしながら、右報告書は第一回目、第二回目の請求人宅の捜索に従事した元警察官等から事情聴取したものであり、直接争点となっていた部分について明言していない部分があるものの、後に大問題となった万年筆が発見された、お勝手鴨居を含む捜索について、捜索に従事した捜査官で、第一回目の捜索に従事した捜査官としては、後に決定的ともいえる供述をすることになるEについては、捜索した場所こそ明言することを避けたものの、「なげし」(鴨居)を捜索し「何も押収したものはなかった」こと自体は、すでにこの弁護人の事情聴取時にも認めていたのであり、更にFは、自分の捜索担当であった玄関を入ってすぐのテレビのある和室の捜索を終えて、お勝手の捜索に加わり、その際自分(一六八センチ)よりも「背の大きい人」が、後に万年筆が発見される鴨居に手を入れて、捜索しているのを目撃していた。(この捜査官は、捜索の仕事が徽底していなかったかのごとくを弁解するかのような意図もあったようであるが、)万年筆が発見された鴨居は少し背が高い人にとっては「うま」を使用しないでも十分に捜索可能であるし、その鴨居を正面から見るだけでも、もしそのとき万年筆が鴨居上にあれば当然に発見される位置にある.この「背の大きい人」はTであり、Tも、お勝手の問題の鴨居を捜索していることを認めている。Tは背の高さが一七三センチメートルであり、右Fは一六八センチメートルであり、仮に「背の低い人には見えにくく」という確定判決の立場に立っても、TやFなどには見えるのであり、その弁解も通らない。
そして第二回目の捜索に当たった元警察官についても元警察官の供述及び当時の請求人宅の間取り等からすれば、お勝手の捜索担当者は一人はY、もう一人はUまたはHである。Yは、お勝手の担当であり、台に乗って(お勝手を)捜したことを.明言し、Hにあっては当時吉展ちやん事件の失態に次ぐ大事件であり、警察学校等でも教えられたように捜索についての基本を忠実に守り、一生懸命に捜索した旨を供述している。そして、第二回目の捜索にも参加していた小島は「ポロがつまっている『ふし穴』」の捜索をし、自身もそのポロを取って捜索し担当者にも捜索させているのである。小島は第二回目の捜索について、「いやねーもう、死ぬ前と思うと全部話すけど、もう力が、体力が続かないですよ。バチあたつちやった。バチあたっちやったよね。全く‥‥‥。」「何にもねえけどなー。ふし穴があつたんですよね。かなりでっかいね。なんちゆうかこんなでっかい松のふし穴あってね、おわりしに『終わったか』っていつたら『終わりました』って言って、こうやって見たらね、ふし穴に、軍手だの、陸足袋のね、親指がぬけちやったのにね、親指ぬけちやったんで寒いもんだからふし穴をふさいであったんですよ、寒いからね。そうすると、捜索が終わったっていったって、『おめえ、こういうとこ捜索したかよ』ってね、私がいったら、『あっ、やってねえ』っていって、それでね、そのふし穴からね、陸足袋のね、足袋の親指ののびちやつたポロだとか、軍手の古だとか、ひっぱってね、こんなして、こんな松の穴っこがあったやつをのぞきこんでみて『捜索が終わったって、こういうところやんなきやだめじやねえか』って、それで『天井なんかやったか』って、私がおこつたの記憶があるんです。」と供述している。そして、おそらく、このとき小島におこられたのは、このお勝手担当であったYとUまたはHの二人であり、右三名はいずれも小島より背が低く、この小島の光景を兄六造が目撃していたのである。兄六造は、お勝手鴨居のところで小島が小島より背の低い捜査官に対して、やりとりしていることを確定判決審ですでに供述していたものである.右捜査員の背の高さは、細川ほか報告書で明らかにされているものである。決定のように、細川ほか報告書の一体どこが「右各捜査当時の具体的な状況についてはよく覚えていないが、不十分な捜索である。」などとするものと理解されるのか全く不当という他はない。
4、決定はE弁面についてその供述自体については大要、「勝手場の捜索を担当し、その場にあった『うま』を利用して鴨居の上を捜した。そのとき鴨居のところにポロがちよっと見えたのを記憶している。ポロを取り出して中をいろいろ見たが、暗くてよくわからなかった。手の届く鴨居の範囲のところをずっとなでるように捜したが、何も発見できなかった。目でもよく見たが何もなかったことは間違いない。」などと供述していることを認めた上で、右供述は捜索から約二八年も経って行われたものであるばかりでなく、前掲細川ほか報告書で右Eは「昭和五四年に退職して間もなく、脳血栓を患って以来、長患いをしており、昭和三八年五月の請求人宅捜索の模様については、古いことで忘れてしまった。」などと述べて、具体的な捜索の状況を供述しなかったのであるというのであるから、E弁面が確かな記憶に基づくものか心許ないとする。
しかしながら、E弁面は三通にわたるものであり、一通目は平成三年七月一三日付弁護人一名他一名に対するものであり、二通目は平成三年一二月七日付弁護人一名他二名に対するものであり、三通目は平成四年五月一六日付弁面は主任弁護人山上益朗、弁護人中山武敏、弁護人青木孝の三人の弁護人他二名計五名に対するものである。右三通の弁面は約一〇ケ月間の間になされたものにもかかわらず、供述は安定しており、矛盾するものはない。約一〇ケ月にわたり、弁護人が慎重に調査し、確信をもったものである。まず、平成三年七月一三日付弁面においてEは「当時、狭山事件は新聞等で騒がれた大きな事件でしたので、まだ印象は残っています。」とし、「当日は、朝早く警察の本部に集まり、上司からその場で順次番号をふって捜査場所を割り当てられ」「すぐに石川さんのお宅に捜索に行」き「私が割り当てられた捜索の場所は、いわゆるお勝手といわれるところで、あとでそのお勝手口の上の鴨居の所から万年筆が発見されて、大騒ぎになった場所である」ことをはっきりと供述するとともに、「お勝手入口の上の鴨居の所にポロがつめてあったのを覚えている」「私はその場所を捜すのに踏み台のようなものを置いてその上に登り捜索しました。」「ポロを取って中も捜しました」「穴の中には何もなく何も発見できませんでした。」「そして、そのポロがあった鴨居のところも手を入れたり見たりして、ていねいに捜しましたが何もありませんでした。」「私は背の高さが一五八センチメートルで」「踏み台のようなものに乗って捜したので鴨居の中の奥の方まで見えますが、そのとき中を見ても何もありませんでしたし、手袋をした手でも、鴨居の部分をよく捜しましたが、何もありませんでした。」「私の記憶に今も残っており、まちがいありません。」「私達が捜したずっと後になって、私が今日お話ししたお勝手出入口上の鴨居のところから万年筆が発見されたと言われ、全くびっくりしました。発見されたところは私が間違いなく捜して、何もなかったところなのに本当に不思議に思いました。」としている。
 平成三年一二月七日付E弁面も具体的であり、「お勝手の出入口の鴨居のところにポロがちよつと見えたのを発見しました。三センチ位ポロが見えたのを記憶しています。」 「三センチくらい出ていたポロを、私が取り出して、中をいろいろ見ました。中は暗くてよくわかりませんでした。そしてそのあたりから手の届く範囲の鴨居のところをずっとなでるように捜しましたが、何もありませんでした。目でもよく見ましたが何もありませんでした。」「私がポロを取り出した様子や、手で鴨居をなでた様子は、私の自宅のところで、実際に今、やってみたところです。」 と供述するとともに、Eは弁護人らの面前で自宅の和室を請求人宅お勝手に見立てて、台に乗って捜索状況を実演している。そして、Eは自らポロの大きさまで親指と人差し指で指し示し、三センチ位などと具体的である。そして右Eは「捜索した時、私は頼まれごとではないので人より遅れをとらないよう一生懸命にやったつもりです。これは大きな事件ですので、責任と自覚を持って間違いなくやりました。」 として、刑事としてのプライドをもって、真剣に捜索した態度が伝わってきている。
 そして、平成四年五月一六日付E弁面でも同様に、万年筆が発見されたお勝手鴨居を捜索した旨を供述した上「裁判所がきていただければ、いつでもお話しする」と言明している。右E弁面はEが、当時大きな事件であるとの認識のもとに落ちのないように刑事のプライドをかけて、責任と自覚をもって捜索し、確かにお勝手鴨居の部分のポロがあった穴や、その鴨居を手を入れて捜したのに何も発見されなかったのに、同じところから後に、第三回の捜索で万年筆が発見されたことから大騒ぎになり、強く印象されたものである。責任と自覚を持った刑事としてのプライドをかけて大事件の捜索に従事した元警察官が、供述調書の重みを警察官として十分に理解した上で、供述に応じ、指印捺印までしている事実はあまりにも重い。決定のように心許ないというのであれば、右Eはいつでも裁判所が来れば話すと言明し、弁護側も証人尋問の申請を何度となく繰り返していたのに、それを一方的に拒否しておきながら、「E弁面が、確かな記憶に基づくものか、甚だ心許ない」などと決めつける原決定はとうてい受け入れられない。特に本件のような大事件にあつて、現場の捜索に責任と自覚を持って実際に従事した捜査官が、自分の記憶にないにもかかわらず、意に反する供述調書の作成に応ずるなどとは、とうてい考えられない。
 右Eはその後も現場の捜査官として、その職務を全うし、警察関係の功労者として勲章まで受けている。
 前掲細川ほか報告書における、昭和六一年一〇月の供述の一部の中に 「長患いしており、古いことで忘れてしまった。」 などと述べていても、右同日の供述全体も、忘れたというよりも、なるべく触れたくない、話したくないとの程度の受け答えに過ぎない。決定が指摘する、昭和六一年一〇月二日付E供述は、弁護人青木孝らがはじめてEの所在を確認し、初対面のときのものである。
 そして、右供述日において、弁護人が弁護士である旨、狭山事件を調査しており、その件で事情聴取に伺つた旨を述べたときのEの驚きの対応から、はじまっている。
即ち、弁護人が 「夜分申し訳ありません。あの私ですね弁護士の青木といいますが。」 というと、驚いたようにEが 「えっ。」 と答え、更に弁護人が「あの実は、狭山事件を調査しておりまして、ちよっとお話をうかがわせていただきたいんですが。」といい、これに対しEが、「もう忘れちゃったよ、脳血栓でここ休んでんだからね。脳血栓。右半身きかなくなって、あんまり。それでももう七年になんだ。」と反応したことからはじまっている。 Eはこの日の事情聴取では、何度も何度も「忘れちゃった。」を連発する一方、弁護人らが請求人宅の家宅捜査時の写真を見せると、その中に被写されている「関口邦造」「諏訪部」「福島」「石川金五」「飯野」を確認し、Sについても、記憶がある旨の供述をしている。また、Eにとっては、鴨居を「なげし」とも呼んでおり、担当した捜索場所については、このときは明言をさけたものの、「なんか台一つおいたっけな」「台したような気がするけどね」「なげし、なげしもやったよ」とし、年齢については「六七」で「大正八年生まれ」、背の高さは「一メーター五入センチ」とし、弁護人の「なげしなんかこうね、捜されたときに、何か押収されたものなんてありますかね」との質問に、Eは「ない、なかったね」と答え、「わしは背が低いから、台がなければ、こんなとこ届かないね。一メーター五八センチしかないもんだから」とし、Eの捜索の班は「三、四人だと思つたね。記憶はね」と供述し、具体的に記憶していることを自ら認めている。そして、「押入とかそういう所を捜索されたか」という質問に「なんちゅんだかなー。この。」 と答え、弁護人が「鴨居」(?)と質問すると、Eは「鴨居ちゅんか、なげしみたいなとこ、そこだ。」 と答え、Eが右の答えを供述しながら、自ら自宅玄関引き戸の上の桟の上部を指さした。本件万年筆が発見された請求人宅の鴨居の構造と似ているところを指したものである。そして、弁護人が病気の程度を聞いても「入院はしねえ」と答え、入院する程度ではなかったことを答えている。
 右調査日のE供述の全体を見れば、突然、二八年以上も経って、狭山事件の弁護人らが訪問したことに驚き、なるべく話したくないとの思いから、単に「忘れちゃった」を連発したに過ぎない。それでも、このときでさえ、場所こそ特定することをさけたものの、なげし、鴨居を捜索して、何も押収したものはなかつたことを、述べていたことこそ、注目に値するものである。その後の弁面で、一〇ケ月にわたる弁護人への供述は、事実を話すことを決意した、元警察官のプライドが、ひしひしと伝わってくるのである。
 E弁面についての決定の曲解は、はなはだしい。右昭和六一年一〇月二日の全体の供述も、これをもって記憶が不鮮明であるなどということはとうていできないし、後のE弁面を否定するものは何も存しない。むしろEは現場の捜査官として自身の供述が狭山事件において、いかなる意味を持つかは十分すぎるほど理解し、それでも、一〇ケ月間にわたって供述内容も変遷することなく三人の弁護人に対して三回供述しており、弁護人らに対する供述、E弁面こそ信用し得ると言うべきである。

二、本件万年筆と被害者の万年筆との同一性

  決定は要するに、被害者がライトブルーのインクを常用しており、当日午前のペン 習字の授業でも同種のインクを用いているが、本件万年筆に入っていたインクはブルーブラックであって、被害者の常用していたインクと異なることを前提にしつつも、「被害者の兄中田健治、姉中田登美恵、学友Y・Tの第一審における各証言、中田方に保管されていた万年筆の保証書(浦和地裁前同押号の六二)により、本件万年筆は被害者の持ち物で、当時被害者が携帯して使用していた万年筆であると認められる。
 就中、健治の右証言によれば、本件万年筆は、昭和三七年二月に、同人が西武デパートで買って被害者に与えたパイロット製の金色のキャップ、ピンク系の色物のペン軸、金ペンの万年筆で、その後も、自宅で書きもの仕事をするとき、被害者から借りて使っていたことがあり、外観、インク充填の様式、捜査官から被害者の持ち物か確認を求められて試用した際のペン先の硬さ具合などから、被害者の万年筆に間違いないというのであって、本件万年筆に被害者が平常使用しないブルーブラックのインクが入っていた事実を踏まえて慎重に検討しても、健治の右証言の信用性は左右されない」とする。
 しかしながら、右指摘の保証書は、もともと同じ種類の万年筆であることを示すにとどまっているものに過ぎず、本件万年筆と被害者の万年筆が、具体的に一致する直接的な証拠とはならないばかりか、被害者兄中田健治の、試用の際のペン先の硬さ具合などで、同一性をはかられるものでは全くないし、右健治の信用性の担保も全く存しない。本件捜査当時、いち早く捜査側は保証書を確認し、販売元、製造元まで捜査しており、保証書と同一種類の万年筆を捜査等において入手していたであろうことは容易に想起される。発見された万年筆が偽造のものであるとすれば、それは捜査側の関与なしには不可能であつて、そうとすれば先に保証書を入手して同種類の万年筆を入手しているであろう捜査側が、真実らしく偽造するには同種類の万年筆を使わざるを得ないことは明らかである。右のように、いくら保証書と発見された万年筆が同一種類のものであることを強調しても同一性の証明にならないことは明らかである。むしろ、被害者が、事件当日午前中のペン習字の授業で、一貫して常用していたライトブルーのインクの万年筆を使用していたことこそが重要であり、そして右ペン習字は最後までライトブルーのインクで記載されていることが明らかである。確定判決によれば、被害者は五月一日午後に死亡したとされているのであるから、ペン習字を終えた後、死亡までの間に、ブルーブラックのインクを入れていなければならない。しかし、本件記録をいくら精査しても、その形跡は全くないのである。まず、第一に、被害者が学校を出る前に、クラスの友人達からブルーブラックのインクを補充したのであれば、その後、その万年筆を何らかに使用する予定がなければインクを補充する意味はないのに、それを窺わせる証拠は何ひとつない。更に、ペン習字の文字につき、その末尾を見ても、インクが足りなくなってきてかすれたような痕跡も全くないのである。また、郵便局でインクを入れたとするには、あまりにも不自然であり、横田報告書、S員面等によっても、被害者が、異なるインクをことさら入れることはあり得ない。また、確定判決は、被害者は学校を出た後、特段の予定はなかつたというのであるから、そうであればなおのこと、郵便局で、インクを補充して帰宅しなければならない理由は全くない。被害者の自宅には、当時、ライトブルーのインク瓶があり、当日までつけていた当用日記も、全てライトブルーで記載されていることからしても、郵便局へ寄った後、何らかの事情で、万年筆を使用する可能性があるところに寄る予定があるなどの特段の事情があれば格別、本件記録の他の証拠を総合しても、ことさら補充するような事情は全く存しない。翌日以降、学校などで使用するのであれば、自宅に帰ったあと、自宅のライトブルーのインクを補充すれば足りる。また、被害者は日記をつけるなど、かなり几帳面な一面もあることを考えると、もし仮に本件事件当日、どこかでブルーブラックのインクを補充してしまえば、当日まで、すべてライトブルーのインクで記載されていた日記のインクが、ブルーブラックにもなりかねず、自宅に帰ればライトブルーのインクが常置されていたことをもあわせて考えると、あまりにも不自然である。まして、本件万年筆が、被害者の万年筆であるとすれば、インクを入れ替えるときに、キャップをはずし、中のスポイトを操作することになるが、右万年筆のスポイトは、インクが入っている部分を、手指でつまむと、指紋の痕跡が肉眼でも見えるような、金属製様の簡状で、その末端に上下に動くポッチ様がついている構造であつて、具体的にインクを入れる通常の形態通り操作すれば、右金属製様の筒状部分を左右いずれかの手指でつまんだりして支持して、もう一方の親指と人差し指で、ボッチを持って、それを上下に動かして、インクを補充する構造となっている。右のように操作すると、実際に、右万年筆を手にして検証してみると、一目瞭然あてるようにしてみるだけで、肉眼でさえ指紋の存在が確認できるはどである。本件万年筆には、もしこれが被害者の万年筆であり、事件当日午前中のペン習字の授業の後に、被害者がインクを補充したとされるのであれば、右の箇所に、被害者の指紋が検出されるのが、ごく自然であるのに、それがないのである。また、もし右万年筆が被害者のものであれば、前日または当日補充していなくても、補充する人は記録上、被害者しかあり得ず、事件当日より数日前に補充しても、被害者の指紋がスポイト部分に遺留されているが自然であるのに、これさえも存しないのはあまりにも不自然という他はない。
 本件万年筆は被害者の万年筆とは、とうてい言えず、偽造の疑いが極めて濃い。
 原決定が、「当日午前のペン習字の後に、本件万年筆にブルーブラックのインクが補充された可能性がないわけではない」などとして、本件万年筆が被害者の持ち物であることに存する合理的疑いを回避したことは、刑事裁判の鉄則にも反する誤りである。

三、万年筆は偽造であり、秘密の暴露に該たるものではない。

  本件万年筆は偽造であり、自白の信用性を裏付けるような秘密の暴露に該たるものではないし、むしろ石川無実を指し示す無実の重大な積極証拠の一つである。
 1、本件万年筆は前述のように、そもそも発見の経過自体が不自然である。
   確定判決は、「万年筆のあったのは鴨居の奥行約八・五センチの位置であるから、背の低い人には見えにくく、人目に付き易いところであるとは認められない」とし請求人の自白に基づいて万年筆が発見されたものとした。しかしながら、本件万年筆は、偽造のものである。
 検証を実施した原一審裁判所は、「前掲当裁判所の検証調書及び小島朝政作成の同年六月二六日付捜索差押調書によれば、右隠匿場所は、勝手場出入口上方の鴨居で、人目に触れるところであり、その長さ、上方の空間及び奥行いずれも僅かしかなく、もし手を伸ばして捜せば簡単に発見し得るところではある」とし、請求人方を三回にわたり捜索した小島朝政は、原二審において、万年筆の発見場所について「あまりにも簡単な所に、あつたということだと思います」と供述している。
 確定判決は、検証結果に基づく「人目に触れるところ」という原一審の認定や捜査責任者の原二審証言に反し、結論としては、前記の通り「人目に付き易いところではあるとは認められない」とし、「背の低い人には見えにく」いとした。しかし、第二次再審請求で請求人方家宅捜索に従事した元警察官に対する事情聴取の結果、明らかになつたことは元警察官は、Eのように背の低い人(一五八センチメートル)もいたが、低い人は台等を使用するなど工夫して捜索しているし、T(一七三センチメートル)のように当時としては比較的背の高い人もいたのである。そして、Eのように背の低い人は、台に乗つて捜索するなどの工夫をし、完全を期していたのである。
 内田鑑定書は、本件万年筆認知の可能性について、本件捜索時刻の照明度などを与件として、実験を実施した結果に基づいて作成されたものである。それはまさに小島証人をはじめ、該勝手場鴨居の前に立った人々の「こんなに発見されやすいところ!」という実感を科学的に裏付けるものである。
本件万年筆隠匿場所が、発見され易いところであることを否定した確定判決及び第一次再審請求各決定の事実認定は、第二次再審請求における新証拠である内田報告書、内田鑑定書によって、いずれも現実から遊離した憶測に過ぎないことが、科学的に明らかにされた。
 内田報告書、内田鑑定書は、本件万年筆がその発見に先立つ二回の捜索の折に発見されない苔はないこと、従って本件万年筆捜索に捜査当局の作為が介在していることを推認させるに足る前提事実を確定した。そして、本件押収万年筆は、真に被害者の所持品であるかという問題が提起されたのである。
2、押収万年筆は被害者のものではない。       .
 押収万年筆在中のインクの色はブルーブラックであるのに、被害者が事件当日午前中使用していた万年筆のインクの色はライトブルーと認められることから、押収万年筆と被害者が所持していた万年筆とは別物であることが、第二次再審においても再審理由となっている。
 右につき、第一次再審請求審は、被害者の級友N・Tの原二審証言によると、同人が事件の当日かその前日ころ被害者にインクを貸したことがあり、また被害者は当日の午後狭山郵便局に立ち寄っていることから、それらの機会にライトブルーとは異質のインクを補充し、「そのインクが本件万年筆に残留していたという事態の考えられる可能性は十分に存在する」としていた。
 第二次再審請求における本決定は、被害者の当用日記(本事件発生日当日までライトブルーのインクで書かれていた)及びペン習字浄書(事件当日の午前中にライトブルーのインクで書かれていた)が、いずれもライトブルーのインクを被害者が常用していたことを認めた上で、保証書や被害者の実兄中田健治のペン先の「硬さ具合」から被害者の万年筆であるとする証言により被害者の所持していた万年筆であるとする。
 ところで、第一次再審における各審の認定は、いずれも事件当日か前日被害者にインクを貸したことがある旨のN・Tの原二審証言に依拠していた。しかし、右証言(昭和四七年九月一九日六八回公判)は、もともと(インクを中田さんに貸したのは)「事件のあった日か前の日だと思います。けれどもよくわからないんです。」という程度の曖昧なものでしかなかった。新証拠であるN・Tの検察官に対する昭和三八年五月二九日付供述調書には「五月一日、午前中の休み時間に私が友達から借りていた女学生の友四月号を中田さんに貸しました」旨記載があり、同人は同年一一月一八日の原一審六回公判においても、検察官から事件当日被害者に何か貸したものはないかと尋ねられ、友達から借りた『女学生の友』を貸しましたと証言している。
 同じくN・Tの司法警察員に対する昭和三八年七月二七日付供述調書には、事件当日の一週間前の同年四月二四日被害者に対しインクを貸した旨の供述記載がある。
すなわち、事件後間もなくで記憶の鮮明な時期には右Nは、事件当日に被害者に貸したものは『女学生の友』であり、インクを貸したのは四月二四日である旨を明確に述べていたのである。更に、被害者が所持万年筆にインクを補充しているところは目撃していないこともあり、被害者が真に補充したか否かについては、曖昧さを残していた。右調書には、「中田さんが私にインクをかしてくれといったとき、色が違っちゃうかなといいました」旨の記載があるが、被害者の当用日記の四月二四日以降分は、それ以前の部分と同じライトブルーのインクで書かれており、四月二四日被害者は、右Nのブルーブラックのインクをいったんは借りたものの、これを補充しなかったことは、客観的に確定されている。一週間後の事件当日の一時間目のペン習字の授業中、被害者が書いたペン習字浄書も、ライトブルーのインクで書かれており、被害者が前日や当日のペン習字授業に先立って、右Nのブルーブラックのインクを補充したということは、あり得ないことも客観的に確定されている。事件当日までの当用日記及び当日のペン習字が、いずれもライトブルーであることが明らかになった現在、右N供述にかかるインクの補充の可能性は存しない。仮に、右Nより、インクを借りて、被害者が補充したとすれば、前述のごとく、万年筆のスポイト部分に、被害者の指紋等が付着してごく当然であるのに、全く存しないのであり、この点でも補充の可能性はない。残る可能性は、下校の途中、狭山郵便局における同局備付のブルーブラックインクの補充だけである。
 被害者が、当日の午後に、領収書を受領するため狭山郵便局に立ち寄ったこと自体は、争いがない。しかし、被害者が、右備付インクを補充したことを示す証拠は全くなく、次の理由からも補充の事実は否定される。すなわち、前記N・Tの七・二七員調書の記載によれば、四月二四日一旦インクを借りながら、被害者はインクの色が変わることを気にして補充をためらっていることが窺われるが、当用日記の同月二四日以降の色が変わっていないことは、結局インクを補充しなかつたことを示すのである。必要性の高かった教室内でさえ補充しなかった被害者が、必要性の低い下校途中に、補充するということ自体が、そもそもきわめて考えにくいことである。S・Sの昭和三八年五月七日付員面調書によると、被害者が来客した際局内には数人の客がいたという。同じく横田報告書記載のとおり当日被害者と応待したS・S(当時主事)は、局員が見ていれば、自分の所持する万年筆に局備付のインクを補充する者はいないので、そのような客を見たことがない旨を述べている。同人によれば、当時の局の公衆室は間口三間、奥行一間半の狭い場所であった。数人の客や局員らの目があるなかで、クラスの長としての任務をもって来局していた高校新入生の被害者が、盗みに類するような行為をするとはまず考えられないところである。
 しかも被害者の所持していた万年筆は、もともとは筆箱の中にあり、筆箱は鞄の中にあり、鞄は自転車の荷台にゴムひもでくくりつけられていたと考えられ、これをことさら色の違うインクを入れるために、自転車の荷台のゴムひもをほどき、鞄を取り出し、その中の筆箱をわざわざ取り出して、更に、万年筆を取り出して、領収書の受領のみのために立ち寄った郵便局で、ことさら、インクを入れるとは考えられない。以上の事情を越えて、なおかつ被害者が、狭山郵便局で、インクを補充した可能性があるとするには、それを首肯させるに足るだけの特段の事情が、示されねばならない。確定判決によれば、被害者は学校から帰宅途中どこかに立ち寄るような予定は全くなく、万年筆を使用するような場面も全く想定できない。
 右のように、被害者が、事件当日か前日ころN・Tのインクを補充した可能性も、当日午後狭山郵便局で補充した事実も全く認められない。更に請求人方捜索に従事した元警察官の供述によっても、被害者の万年筆が、一回日の捜索に先立って請求人宅にあったとはとうてい認められない。
 本件押収万年筆は、その発見経過に、何らかのかたちで、捜査官の作為が介在している疑いが強いといわざるを得ないだけでなく、その在中インクは、被害者が生前所持していた万年筆在中のインクとも異質であることから、被害者の所持品とは認められず、本件万年筆発見がいわゆる秘密の暴露に該らないことはいうまでもない。万年筆に関する原決定の誤りであり、ただちに破棄され、再審が開始されるべきである。

第一七、鞄に対する原決定の判断の誤りについて

 原決定は、本件鞄発見の経緯に徴すると、「本件鞄は、請求人の供述に基づき捜索の 結果、請求人が捨てたと図示した場所から程遠からぬ地点で発見押収されたものと認めることができる」とし、本件鞄の発見場所が「遺体発見以来、捜査当局が、それまでに幾度か証拠物捜索の対象とした地域であった」ことは認めながらも、発見地点が「荷掛け紐発見地点の略西方五六メートル、教科書等発見地点の略東方一三六メートルに位置するのであって、いずれの場所とも道路を隔てており、五月から六月という時節柄、本件鞄は、草木の繁茂する雑木林の端付近(当時の現地付近の模様は、右実況見分調書の添付写真、司法警察員伊藤操作成の同年五月二五日付実況見分調書(第一審記録一三四八丁)の添付写真等から窺われる。)の溝の中で泥に覆われていたのであるから、以前の捜索の際に必ず発見できていたはずであるとは言い得ない」と判示した。
  また、「畑と雑木林が混在し、そこかしこに点在する集落間を結ぶ未舗装道路や、地図上に載らない、狭くて曲折した農道が幾本も走ってるような場所であり、後に投捨場所を特定する目印になるようなものもほとんどなかったのであるから」 ということを理由に、「請求人の図示が、ある程度不正確なものであつたとしても不自然とは言えないし、請求人の描いた略図を見た警察官の側においても、場所の特定としては、その程度のものとして受け止めて、捜索に当たったものと認められる」と判示した。
 しかしながら、本件鞄発見地点は、捜査当局が当然捜索する範囲内に位置しており、現実に捜索されたであろうことは、捜査官証言等から十分推認されるところである。すなわち、「教科書類が発見された地点の捜査は、その付近一帯を徹底してやった」(原二審一三回公判、将田政二)「本があったんだから鞄もどこか別にあるんだということで、小島警部の班だろうと思うんですが、捜査は一生懸命にやつたように私は記憶してるんですがね」(同四七回公判、清水利一)などの証言があり、特に、原二審六五回公判における高橋乙彦証言によれば、「付近一帯」を捜索したのであり、「薮とかどぶ、山と畑の間」は重点的に捜索したことが明らかである。
 山狩りの方法なんですが、今、はぼ一列に並んだりしてということのお話があつたんですが、その他、特徴的な点はどのようなことがありますか。
 特徴的な点は一列に並びますが、薮とか、特にここがおかしいというところはそこに行って調べてみました。
薮などは細かに調べると。
はい。
おかしいところというのは、現場に即して思い出していただきたいんですが、例えばどういうところをおかしいとして捜索したんですか。
薮とかどぶ、山と畑の間ですね。
(略)
重点をかけたのは山とか、山と畑の間とか、薮とか、雑木林の中とか、こういうところでしよう。特に重点を置いて調べたのはその、発見の付近二何ということじやないんですか、四日以後は。
ええ、付近一帯になりますね。
そうでしょう、死体は上がりましたけどもまだそのほかに遺留品があるんじゃないかということで、お調べになったんでしよう。
ええ、そうです。
どんなふうなものがあるだろうという推定でお調べになったんですか。漠然と調べたんですか、あるいはこういうものは必ずあるに違いないということだったんですか。本人がもっていたカバンあたりが重点だと思います。
(略)
最初に山狩りをする時に一列横隊に並んで順次捜して行くというようなことをしたといわれましたね。
はい。
大体、そういう形でやられたと.・
原則はそれでやっております。条件によって違いますが。
そうすると麦畑などを捜索される場合に麦の畦のみぞを捜索するという形ですか。
やっております。
機動隊の分隊長として山狩りに従事した右高橋乙彦証言からも明らかなように、五月二五日の教科書類発見後には鞄が埋められた溝も捜索の対象になったであろうことが窺われるのである。本件鞄発見には「捜査機関ないし裁判機関によって容易に発見されえない特殊事情のある内容」(鴨良弼)は含まれておらず、本件鞄埋没場所自体については、特段の秘密性があった訳でないことは明らかである。
新証拠として提出したM・Sの検察官に対する昭和三八年七月三日付供述調書には、本件鞄が発見された溝につき次のとおり記載されている。
この溝は強い雨が降ると溝一杯に水があふれて速度は早くありませんが、水は東の方に流れる様になっています。本年六月四日頃、私がその溝の近くの桑畑に桑を刈りに行った時は溝の半分位迄水がたまっていました。…中略…あの溝は、大雨が降ると溝から水があふれ出して、畑に迄水が出る事もあります。.
右M・Sは、原一審五回公判においても、「鞄が発見される前あのほりには水が相当流れたことあります」と証言している。もしそうだとすれば、自白の態様のような「埋没」では、仮に溝に捨てたとして、右流水時に鞄は流れ出し、自白した投棄地点付近よりも東に移動していたはずである。ところが、現実の発見場所は、逆に自白地点付近の西方一〇〇メートル以上の地点であって、客観的状況との間で重要な食い違いを生じることになる。請求人は、鞄発見場所付近については、少年時代の遊びや山学校の手伝いなどを通じてその地形等をよく知っており、もし右付近で鞄を捨てるとすれば、大雨後に流水することがわかっている本件溝をわざわざ投棄場所に選ぶことはありえないのである。しかも、自白調書上「投棄した」時刻頃には、すでに本格的な降雨が約二時間半も継続していたのである。
もしも請求人が犯人であるならば、雨に打たれながら、溝に鞄を棄てたわけであって、当然流水も予想されたであろうのに、請求人は、次のとおりポリグラフ検査において「水」に対して全く特異反応を示していないのである。
六月一一日付ポリグラフ検査書においても、「鞄の始末(処分)してあるのは水の中か君は知っていますか」との質問に対する反応は陰性)となつてい、特異反応は認められない。一般にポリグラフ検査において特異反応が認められるのは、被者が犯人である場合のほか、被験者の推測と一致する場合、身体的刺激や検査者の特異な日勤などに起因する場合もあるので、特異反応が認められたからといって必ずしも被験者が犯人であるとは限らないとされている。しかし、逆に特異反応が何ら認められない場合には、上述の原因がすべて否定される。本件において、右検査結果は請求人が犯人でないことを示しているといわなければならない。右のことを科学的に論証したのが、新証拠である多田敏行作成の「狭山事件とポリグラフ検査」と題する論文である。
前記のとおり旧証拠のみからでも、本件鞄に関する確定判決の事実認定は相当動揺しているのであるが、右の新証拠を加えて総合判断されるならば、確定判決に対する合理的疑いは払拭しがたいものとなり、右新証拠は刑訴法四三五条六号にいう「無罪を言渡すべき明らかな証拠」である。本件鞄は、自供に基づいて発見されたとは認めちれず、従って何ら秘密の暴露には該らない。原決定の誤りは明らかである。

第一八、腕時計に対する原決定の判断の誤りについて

原決定は、「本件腕時計が被害者のものであることは、兄、姉の前記のような確認の結果により明らかであるばかりでなく、関係証拠によれば、押収にかかる本件腕時計とは別に、業者から借りて右品触れに写真入りで掲載された商品名コニーのシチズン製金色側女持ち腕時計そのものが存在する」と判示した。
しかしながら、原一審七回公判において、兄健治は、検察官から発見時計を示されて、被害品との同一性について確認を求められた際、概括的に「間違いないように思います」と答えたのみであり、弁護人からどの程度断言できるかと迫られた際には、物としての同一性については一言も述べず、被害者ないし被害者方を中心とした該時計の普及度をもって答えるというすりかえを行っている。姉登美恵もまた、同一性については概括的に「間違いないと思います」と述べるのみで、特に見覚えがあるところがあるかとの尋問には沈黙している(原一審七回公判)。
公判廷における供述は、登美恵と被害者が共用していたところ、姉妹の手首回りの相違からバンドに二つの大きな穴があいていたことと発見時計のバンドにある二つの大きな穴との一致ということが中心になっており、原決定も「姉登美恵の確定判決審での証言によれば、これを試着してみたところ、バンドの大きくなっている穴二つのうちの、内側の穴(手首の細い方の穴)に止め金を通したとき、自分の腕に丁度具合よく合致した」ことを認め、「これらの事実から、前記○により発見された本件腕時計は、被害者の持ち物であることが、確認された」と判示した。しかし、右バンド穴による特定については、使用頻度が少ない姉が使っていたバンド穴の方が痕跡が著しいという矛盾が生じている。五・四員関口邦造作成の実況見分調書添付写真(二冊五三〇丁)によれば、当時姉登美恵は他の腕時計を使用していたことが認められ、兄健治の七・六検調書によれば、同人は昭和三七年三月二四日男物一個、女物二個の腕時計を購入しており、かつ同人は原二審六〇回公判において、当時二個の女物があつて、姉登美恵と被害者が一個宛所有使用していた旨述べており、本件前から姉登美恵が自分の腕時計を持っていたことは間違いないところである。かかる事実からすれば、姉登美恵が妹の腕時計を借用したということは、何か特段の事情でもない限り不自然な話であるが、兄健治は右公判において弁護人からの尋問に対して右の点に何も説明しえておらず、姉登美恵が妹のものを借用したかについては疑問が残るのみならず、事件の年の三月中旬以降はもっぱら被害者自身が使用していたというのであるから、被害者使用の穴の方がむしろより明瞭な痕跡を残していなければならない。以上の論議はすべて本件時計のバンド穴が二個続けて大きいという兄健治らの供述を前提にしているが、右バンドにおいて使用された穴の痕跡ははたして二個だけなのか、右二個のみが載然と他から区臥されうる程大きいかにっいては、証拠自体を見たときにそもそも疑問が生ずるのである。これを要するに本件バンド穴には、同一性を確認し得るほどの特異性は存しないということである。
新証拠である員遠藤三外一名作成の捜査報告書が明らかにした見本時計借り受けの経緯は、発見時計との型の相違を浮き彫りにしたのみならず、その関与者自身がコニーとペットで相違をきたした原因が他人の誤認にあったかのようにいいなし、型が相違していることは意識にすらのぼらなかったのであるから、右関与者自身およびその近親者による同一性確認には致命的な弱点が潜んでいたことを明らかにしたのである。その反面本件発生後間もないころの、予断の生じる余地のなかった五月八日の時点で、複数の買受関係者が捜査官の依頼によってコニーを被害品との同一品として特定し、これに基づき特別重要品触書が作成配付されている事実は、むしろ被害品はコニーであつてペットではないこと、換言すれば、発見時計は被害品ではないことを指し示すのである。
また原決定は、具体的な理由は示さず「関係書類から認められる本件腕時計の発見現場の状況に照らし、先に大掛かりな捜索が行われながら発見できなかったことは、必ずしも不自然な事態とは言い難い」と判示した。
本件腕時計は、請求人が捨てた旨自供した地点近くの茶株の根元に捨てられていたところを、七月二日、通行中のO・Mによって発見されている。発見に先立つ六月二九日、三〇日の両日にわたり七〜八名の捜査員がくまなく捜索しているのであり、七八歳の老人にたやすく発見された物が、目的意識をもち時間をかけて捜索したプロの捜査員らに発見されなかったことを説明するに足るいかなる事情も見いだし得ない。確定判決も「殊更捜査員が茶株の根元を捜さなかったとは考えられない」と判示しているのであり、捜索の範囲・方法からみて、本件腕時計を発見したO・Mよりも捜査員の方がより注意深く捜したことは明らかでその逆はあり得ない。捜索時に本件時計が発見地点にあったとすれば、捜査員が見落とすはずはないのであり、捜査員らが捜索した際に発見されなかったとすれば、その際にはなかったものと考えるのが自然かつ妥当である。原決定の誤りは明らかである。

第一九、指紋に対する原決定の判断の誤り

原決定は指紋に関する弁護人ら提出の意見書、鑑定書を却けたが、その理由とするところは、「一般に、手指で紙などに触れた事実があり、その分泌物の付着も十分であったはずでも、その触れた個所から、異同の対照が可能な程に鮮明な指紋が必ず検出されるとは限らない」との一般論を越えるものではない。本件自白内容の特殊性、すなわち脅迫状作成に相当の時間を要したこと、筆圧も強かったこと、作成後数日持ち歩いていたこと、被害者宅に封筒ごと差し込む直前封筒を切って確認をしていることなどは一切捨象されている。差し込まれた封筒から脅迫状を取り出し、これを読んだ後駐在所に届け出たにとどまる被害者の兄の指紋、右封筒・脅迫状を受理して本署に持参したにとどまる派出所の巡査の指紋が脅迫状から一個宛検出されているのに比して、請求人の自白によれば、脅迫状・封筒に同人が接触する頻度は、右両人よりはるかに高かったにもかかわらず、請求人の指紋が一個も検出されなかったことは極めて不自然であると言わなければならない。
対照不可能な指紋にしても、脅迫状から二個、封筒から三個検出されたにとどまっている。脅迫状の作成者は手袋を着用していたものと考える他ないくらいの少数である。
原決定は軍手様の手袋痕が付着しているとの斎藤鑑定書の指摘を否定しているが、右指摘による手袋痕は封筒の開封の仕方をも推認させるものであって、長年指紋業務に専念してきた斎藤鑑定人の指摘はたやすく否定されるべきものではない。これに本件脅迫状・封筒の指紋検出の結果を併せれば、脅迫状の作成者が作成時前後を通して手袋を着用していたものと考えるのが合理的である。
原決定の理由は不備であり、違法たるを免れない。

第二○、佐野屋付近での体験事実についての原決定の誤りについて

原決定は、身代金喝取の目的で佐野屋東側畑に赴き、中田登美恵と問答を交わした後逃走したという請求人の自白が虚偽であることを、視覚的認知の状況から解明した増田鑑定と、発生音を聴取できるかどうかという立場から解明した藤井・小林鑑定にたいし、「一般に、真犯人でなければ認識し得ない事象を記憶していて、後に捜査官に対して、これを的確に再生して供述する場合がある反面、確定判決も指摘するとおり、真犯人であれば当然自分の行動にまつわる周囲の状況の詳細を認識、銘記しており、自白する以上は、捜査官の取り調べに対して、その記憶どおりに率直に供述するはずであるとは、必ずしもいえない」として、両鑑定の結論を否定した。
しかしながら、中田登美恵と問答した際の状況についての請求人の自白は、ある程度の一貫性と具体性をもっているのであり、「小母さんのような人が来て」「小母さんは白っぽいものを着ていました」「女の人の横の方に誰か男が立っているように見えました」「私は女の人の姿はみましたがその時の明るさは男か女の見分けがつく程度の明るさであったので」「身の丈は私位と思いました」「女の後にもう一人誰か居る様だったので」という請求人の自白が、「推定照度値よりも高い照度での認知実験においても、対象が動いた場合でなんとか人間の姿・形が認められる程度であり、性別の認知はできなかつた」という増田鑑定の結果と矛盾をきたすことについて、原決定はいかなる合理的な理由も示せていない。
増田鑑定、藤井・小林鑑定は、自白の非体験性、虚偽架空性を科学的に明らかにしたものであり、「請求人の供述内容が不自然で、虚偽であるとはいえない」とした原決定の誤りは明らかというべきである。

第二一、佐野屋付近の畑地内の地下足袋の足跡痕についての原決定の誤り

原決定は、「3号足跡の竹の葉型模様後部外側縁に存在する弓状にゆるく膨らんだ屈曲部分は、関根・岸田鑑定書が指摘するとおり、押収地下足袋の『あ号破損』が印象されたものである蓋然性がすこぶる高いと認められるのである。この意味において、関根・岸田鑑定書の鑑定結果に依拠して、押収地下足袋と現場石膏足跡の証拠価値を認め、『自白を離れて被告人と犯人とを結び付ける客観的証拠の一つであるということができ(る)』と判示した確定判決の判断に誤りは認め難い。」と判示した。
原決定は、右判示の理由として、「同鑑定書(関根・岸田鑑定書)が、3号足跡について、破損痕跡であると指摘する竹の葉型模様後部外側緑の部分は、これを押収地下足袋の右足用に存在する『あ号破損』及びその対照用足跡の『あ号破損痕』と対比照合しつつ検討すると、3号足跡の印象状態が粗いにもかかわらず、その形状、大きさ、足跡内の印象部位等の諸点で、まことによく合致している」と認定した。
しかし、右原決定の誤りは明白である。以下、その理由の要点を述べる。
関根・岸田鑑定が、押収地下足袋右足用の「あ号破損」が3号足跡の竹の葉型模様後部外側緑の部分に印象されていると指摘した論拠の中で、最も重要な点は、同鑑定書第七図の下線の位置に認められる弓状に屈曲して隆起した線状の模様が、剥がれて左方に湾曲した外側縁によって印象された像であるという点である。
しかしながら、次のとおり右鑑定の判断は誤りである。
@3号足跡の下線は、起伏が激しく明確に線状だとはいえず、また(起伏の激しい連なりを強いて結んだ線状を想定したとしても)その線は左右に小さく蛇行状であるうえ、隆起している部分の幅も極めて狭いことが明らかである。この形態は、「あ号破損」及び「あ号破損痕」とは、全く異なっている。
A新証拠である井野・湯浅鑑定における四五度からの立体写真による破損痕の解析結果によれば、下線は決して連続した線ではなく、へこんだ箇所や二本の線から成る箇所が存在することが明白である。この形状は、対照用足跡の形状とは全く異なっている。
B右鑑定における断面解析の結果によると、3号足跡の下線は高さ、横幅ともその値が小さいのに対し、対照用足跡は剥がれた外側縁の高さ、横幅がともに二ないし三ミリもある。このように、両者の違いは余りにも明白である。
C井野・湯浅鑑定における図画機を用いた横断面分析結果によれば、3号足跡の三本の横線のうちの一番前の線の左端から約三ミリメートル左側に寄った位置に突起部が認められ、その位置から、これを印象した足袋の該部分には外側線が正常な位置に存在すると考えられる、と合理的に推測している。
右の諸点から、3号足跡には押収地下足袋の「あ号破損」の痕跡は認められないことが明らかであって、関根・岸田鑑定のこの点に関する最も重要な論拠が誤りであることもまた明白というべきである。
これに加えて、次の点も充分斟酌されなければならない。
3号足跡も、他の二個の現場足跡と同様、極めて不鮮明であり、泥土のついた足袋で踏みつけられているため、足跡に土の崩れやひび割れの変形をしている可能性が高い。
しかも、足跡採取までに破損が生じたり、また石膏液を流入して採取する際に変形する可能性も大である。これらの可能性からいって、複雑な紋様の中から地下足袋の破損痕が現場足跡に印象されているというためには、厳正かつ慎重な分析が必要である。本件の場合、井野・湯浅鑑定が明らかにしているとおり、3号足跡の「あ号破損痕」といわれる模様と同様・類似の模様が土のひび割れに石膏が流入してできる可能性があるから、尚更である。
この点に関し、原決定は余りにも安易に「あ号破損痕」が3号足跡に認められると結論づけているが、これは慎重かつ厳正な分析を放棄した結果であつて、最初に結論ありきといった極めて恣意的な判断と言わざるを得ない。
以上から、原決定が、関根・岸田鑑定に依拠し、他方新規かつ明白な証拠である井野・湯浅鑑定を無視し、3号足跡の竹の葉型模様後部外側緑に存在する弓状にゆるく膨らんだ屈曲部分は押収地下足袋の「あ号破損」によって印象されたと結論づけたことの誤りは明白である。したがって、現場足跡を客観的証拠の一つとした確定判決の誤りも、これまた明らかである。

第二二、供述調書添付図面の筆圧痕についての原決定の誤り

上野・宮内鑑定は、供述調書添付図面のあくまで一部に限って、鉛筆線より先につけられた筆圧痕はないと結論づけているのであって、右鑑定の対象外となった図面に鉛筆線より先につけられた筆圧痕があるかどうかは、未だ未解明である。これを解明することなしには、筆圧痕をなぞって図面を作成したことがあるとの請求人の第二審公判廷での供述を虚偽と結論づけることはできない。
そこで、請求人は、改めて再鑑定が必要だと力説し、これを解明する方法として荻野鑑定書の提起する方法を提案し続けてきたのである。
ところが、原決定審は、請求人の再鑑定請求を採用しないまま原決定を下した。
原決定は、その中で、請求人の主張とその提出にかかる証拠に対し、「確定判決の事実認定に合理的な疑問を生じさせるまでの具体的内容を持つものとはいえない。」と判示している。
しかし、右の点を解明することなしに、請求人の自白には誘導された部分があるとの請求人の主張を排斥し、また前記請求人の公判廷供述が虚偽であり請求人は意識的に虚偽を述べたと結論づけられるものではない。ところが、にもかかわらず、原決定は、筆圧痕をなぞって作成された図面はない、請求人は公判廷で意識的に虚偽供述をしたとの確定判決を維持した。この点の誤りは、一点の疑う余地もなく明白である。

第二三、自白の心理学的分析に関する原決定の誤り

一、原決定は、浜田意見書の説くところが一つの仮説として以上には認められないとしてこれを却けている。
しかしながら、浜田意見書の方法は自白調書の検証にあたり自白の嘘の分布が真犯人の嘘の分布であるという仮説と無実の人間の嘘の分布であるという仮説と二つの仮説を立てた場合、いずれがよりよく説明しうるかの判別が可能であるということを前提としている厳密に学問的な方法である。原決定が理由にもならない理由で浜田意見書の「嘘分析」仮設検証の方法と本件への適用を安易に却けたのは優れた学問的方法を軽視するのであって、理由不備の違法を免れない。
二、原決定は、また山下意見書も却けているが、その理由は原決定の考える右意見書の前提―犯人は合理的な行動をとり、行為を的確に供述するものである―が常に成り立つとは言えないとする。
しかしながら、山下意見書は供述についての不自然性の有無の心理学的検討を主軸に、自白の再現実験をも含めて自白の信用性に関する総合的な分析を行っている。その説くところは学問的に裏付けられるとともに一般実務の感覚にも適合していてその証拠価値は高い意見書である。これをたやすく却けた原決定には理由不備の違法がある。

第二四、結び

本件第二次再審の原審審理は、実に、十三年間垂んとして、継続されてきた。
この間、一件記録からあきらかなように、弁護人、請求人は、当然のこととはいえ、間断なく、新証拠の発見提出につとめ、またその都度再審請求補充書(追加意見書)を提出してきた。いうまでもなく、新証拠(鑑定書など)についてその作成人につき公判廷で証人尋問をするよう請求してきた。
弁護団は本年六月二十二日、近近に、さらに新証拠を提出する予定であることを、裁判長に直接、面会のうえ申し入れてきたところであった。
このような経緯のもとで、原審がただの一回の事実調べ(公判廷における証人尋問など)も実施しないまま、突然に本件棄却決定をなしたことにつき、強い遺憾の意を表明せざるをえないのである。
当審におかれては、再審における無事の救済の理念のもと、厳格に、白鳥決定、財田川決定を履践し、すみやかに事実取調べを実施され、本件につき再審を開始するよう要請し、本異議申立書を提出するものである。
(なお本異議申立書につき、追って補充書を提出する予定であります。)

以上