住井すゑ、「橋のない川」を読んで

はじめに言っておくと、小説としては良くできているが部落問題をテーマにして見ると疑問点がいくつもあるという限界を持っていると言わざるを得ない。

 部落問題をテーマとした小説としては島崎藤村の「破戒」が有名だが、それとは全く異なる小説である。日露戦争から昭和初期における奈良の農村部落を舞台として、主人公の兄弟の成長と水平社運動の展開に至った社会問題もとらえた物語となっている。登場人物は西光万吉をモデルとした部落寺院の息子と木村京太郎をモデルとしたと言われる主人公を軸に書かれているが基本はフィクションであり、部落差別の壁にぶつかりながらも貧しくもたくましく生きていく部落民の群像を語っている点で、また、住井すゑが自分自身も感動した水平社の結成、水平運動を描こうとしている点で、部落問題を人間の問題として描く物となってる。暗さはなく、しかし、部落差別の非人間性を描こうとすることには成功していると思う。書き方としては、ほとんどが、主人公の部落での暮らしが春夏秋冬書かれて、所々に様々な時代背景を入れ、水平社へ行き着くというものだ。どこか牧歌的な雰囲気をかもしだしている。小作農、小作地も持つことができない人が行商に出たり、にかわ、草履作りをおこない、出稼ぎに出たりしている。小学校を出ると奉公に出される。水のようなおかゆが主食で、年に数回作る白飯がごちそうである。差別と貧困が合わさった村での時の流れが淡々と書かれているのだ。

 水平社に関しては、水平社宣言がそのまま作者の言いたいことでありそれ以上でも以下でもない。そして、水平運動についてどのように考えているのかと言うことだが、差別糾弾闘争にはほとんど触れていない。主人公の村の小学校における糾弾闘争と、わずか1ページで触れている水国闘争のみである。作者が言いたいのは小作争議と農民組合である。水平社ができて何が変わったかというというと「面と向かってエタと言われなくなった」「下手に関わり合うと問題にされると言って敬遠する」ようになったと言うことである。作者には水平社運動とは何だったのかという問題意識はない。一言で言えば「水平社できてとにかくよかった」というところで止まっている。そして、水平社を準備した社会背景として、大逆事件、ロシア革命ーシベリア出兵、米騒動が語られている。しかし、ある意味では当然だが、ロシア革命がプロレタリア革命であることは語られず、帝制をなくしたことと地主をなくしたことが賛美されている。また、ドイツ革命で帝制が打倒されたことを受けて「戦争で負けたら天皇もやめるのだろうか」と疑問を投げかけている。しかし答えは書かれていない。その代わり幸徳秋水や佐野学や大杉栄を持ち出している。そして、石川啄木やホイットマンがたびたび引用されている。

 重要なことであるが、作者はどこまで自覚的に書いたのは定かではないが、主要な登場人物に部落民宣言をさせていると言うことがある。まず、西光万吉をモデルとした青年に、高等小学校の同窓会で数百人を前にして「坂田村字小森(部落)の出身です」と宣言させている。この人物は何とか部落から逃れようとして挫折して、部落解放運動しかない水平社を作ろうと考えるに至ったのだが、それは良いとして部落差別について部落民を自分たちとは違った者だという誤った因習があると部落民宣言の中で語っているというレベルである。水平社結成の萌芽とも言うべきものを全く書くことができていない。

 それに対して主人公は同じ同窓会で「自分は小森の出身です」と宣言した上で、いとこの女の子の話をしている。「自分から生まれる子供はやはりエタなのだろうか。そんなのはいやだ」「針で親指を刺し赤い血が出るのを見て同じ人間なのだと思っている」という話をして諸君らはどう思うのか、これが部落差別なのだと主張し糾弾しています。また、主人公の兄は徴兵されシベリア出兵するのだが、たまたま同じ部隊に部落民がおり、その人がひどい差別をうける、そしてみんなの前で裸になることを強要される、それを見た兄は「俺はエタだ。何が悪い」と一喝して上官も含めその場にいた兵隊全員を糾弾するという部落民宣言を行っている(誰一人一言も物を言うことができなくなった)さらに、この兄が奉公先の娘と結婚することになった。米騒動がありその直後奉公先の米屋の主人が警察に連行されると言うことが起こった。「米騒動はエタと朝鮮人がやったのだ」というデマが流される。娘は親から部落民だと言うことを知らされていない、そういう身分だと言うことを隠されて育ったのだが、自分の家はエタだから警察が引っ張っていったと思いこむ。そして、じつは小さいころから自分は何者なのかを知っていた、そんな自分のことをどう思っているのかと問う。兄は折を見て話そうと思っていたと答えて、双方がなっとくすると言うことが書かれている。

 住江すゑはロシア革命後の日本の階級闘争、社会情勢について書いてはいるがあまり多くは書いてはいない。米騒動しかり、労働者のストライキ、部落の状況しかりである。米騒動については富山で始まった動きが広まった、そして大阪でも騒動になった、軍隊まで出動して弾圧した。中心は数十人の竹やり隊でそれを取り巻く数百人の群衆が騒いだと言うことでしかない。米騒動の全体像は書くことができなくても大阪の騒動は一部の人の動きでしかなかったという描き方で終わっている。作者の限界なのだ。水国闘争でもそうだが、住井すゑは暴力とか大衆蜂起と言うことには反対なのだ。

 朝鮮侵略についても語っている。しかし、あくまでも朝鮮人民は犠牲者で、部落民と同じように差別されている。だから、連帯するのだ、というところで止まっている。民族解放、独立運動には目を向けていない。3,1蜂起にふれているがそれがなんなのかというと「たくさん弾圧の犠牲者が出たのだろう」と同情を述べるに止まっている。

 住江すゑとはどのような作家なのか。戦前戦後を通して多くの知識人がたどった同じ道をたどっている。戦前戦中は体制に屈服して戦争を賛美し軍国主義の立場に立ち、戦後新憲法の下で何の反省も自己批判もせず、民主主義者として、あるいは人権擁護派として生きることを恥じない人物である。住江すゑは戦争に屈服しただけでなくそれを賛美し肯定する小説をいくつも書いているのだ。そうしたことについては、完全に口を閉ざしている。良くも悪くも、戦後の解放同盟の思想、部落解放論、の立場にたちつつ、独自の部落観と第1次世界大戦を前後する日本の社会を俯瞰して書かれたのが、「橋のない川」ではないだろうか。

 部落問題を全く知らない人にとっては、ある種の感銘を与えるかもしれない。またそうした作品であるからベストセラーにもなったのだろう。また、一読して多くの疑問にも突き当たる。この作品で終わるのでなく、様々な疑問や問題意識を持って部落問題を考えていく必要もあるだろう。

 最後に、住江すゑがもし生きていたなら、一度たずねてみたい。「象徴天皇制を認めるのか」と。

 

 

起源論について石尾学説の要点

日本史、仏教については門外漢です。石尾氏の説を批判するとか評価するとかはできません。しかし、石尾氏の説を紹介することを試みたいと考えます。 いわゆる法制史にはこだわりません。

石尾氏の起源論の特徴は織豊政権と一向一揆との攻防を重視するところにある。民衆の革命行動とそれに対する反革命戦争と身分政策ー身分貶下をみる

1中世と近世の違い

a中世起源説は間違っている、系譜論に典型「民衆が先に貧しい人々を疎外した、権力があとでこの疎外を確認した」、実際は逆で権力的政策がまずあって、それから民衆の疎外が始まることが確認できる

またいわゆる政治起源説も間違っている(後述))

「日本の場合には、織豊政権ないし幕藩体制の権力がカースト的賤民制に近い賤民政策を打ち出したという意味においてその権力の本質は反革命的反動的権力であると断定しなければならない」最近の政治起源説「統一的権力国家の統合政策をもって、中世から自然発生的に存続してきた賤民を統合したと考えるものであって、統一的権力国家がいかなる階級闘争を経て、成立したかということを一切考えようとしない」

b封建制とアジア的専制主義、

鎌倉時代には法廷闘争が普通に行われていた。民事でも刑事でも、女性も提訴している

 法的合理性が貫かれていた、身分即卑賤視ということはない、主従関係も契約関係

 身分的差別という考え方はない 中世賤民が近世賤民につながるのはほとんどない

江戸時代は民事では基本的に提訴を受けない、和解ということをやっている、従って力の 強い側が勝つ、法に基づく合理的な正義はない

刑事では密告と拷問によって犯人を作り出す。自白させるのが目的、証拠など調べない「自白は証拠の王」、判決は有罪のみ、一審制

大岡越前の話は全くのフィクション

 *武州鼻緒騒動では捕らえたものを何の調べもせず牢死=毒殺している、政治犯=反逆罪だがそのようなことはあってはならないから事件そのものを犯人ごと抹殺した、法的制裁ではなく暴力的専制的処断

c身分は中世では流動的(特に室町時代後期から)、卑賤感もなかった。身分的なものであった、旧仏教でも叡尊は非人救済、忍性(般若寺)は非人のみならず病者、貧者、特にハンセン病者の救済を行っている(迷信を否定する思想)西大寺から一向宗に引き継がれた思想

d差別戒名、太田城の敗北直後から、全宗派で行われている、天正7年「貞観政要格式目」寛永3年(1626年)「無縁慈悲集」、呪術的卑賤感 仏教による輪廻思想とも違う、仏教の天皇制イデオロギーへの屈服、権力からの自立性の放棄、中世にはない

2中世後期と戦国時代、織豊政権から徳川幕藩体制へ

a国人一揆、土一揆、

寺内町、惣村の成立、自治の芽生え、自ら法を定め、自ら裁く、旧来の支配体制から独立したコミューン(脇田晴子)内乱情勢の中で自衛するための団結という受動的なものではない。自己解放的な自治運動と宗教活動=思想運動の一体化

仏教の関わり 一向一揆、長島、加賀など自治促進の積極的イデオロギーとして民衆の自治意識と一体、仏のもとの平等ー身分差別、血統主義の根本的克服思想が民衆に受け入れられた、そこから寺内町、惣村が作られた

「一向一揆の本質は、寺内町すなわち宗教的自治都市の建設にある」「仏のもとの平等という思想にもとづき身分差別主義あるいは血統主義というものを根本的に克服するという宗教運動が、自治的な自律的な人民運動と深く結びつく」そういう寺内町、惣村の成立、暴力的身分的支配からの自立的自己解放、ヨーロッパの宗教都市の性格を参考にして考えるとよくわかる

一向宗 その革命性とは「宗教的な自治都市、すなわち寺内町と自治的農村、すなわち惣村の確立であり、その連帯運動の推進」「絶対主義国家から国民国家へという国家権力の合理化への発展の動向の根拠」

「浄土の真実信心のひとは、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、こころはすでに如来と等しければ如来とひとしとまうすこともあるべしとしらせたまえ」「無碍光如来の慈悲光明に摂取せられまいらせ候ゆえ、名号をとなえつつ不退のくらいにいりさだまり候なむには、このみのために摂取不拾をはじめてたずぬべきにはあらずとおぼえられて候」(末燈抄)不浄穢れということがむしろ根源悪として原罪として把握されている、必然的に他者に責任を転嫁することが不可能となる(自己責任、他者を恨むとか差別するとか卑しむとかは出てこない。宗教による自己救済だけがある)。すべての人に対する救済主の絶対性ということを確信することによって、輪廻思想への対決をしめしている(現世における絶対的自力救済であり、生まれ変わりとか前世の行いだとか、地獄に落ちるだとか、そういうことの否定)。

こうした一揆と戦国大名との戦い、暴力的制圧と抵抗闘争 「救済宗教運動を核心とする民衆の自治運動に対する、権力の血統主義なりあるいは輪廻思想を包摂した呪術的な身分差別観念、それから、そういう人たちの身分をおとして自主独立の精神を失わせるーーー行刑役を負担させることによって転向させるーーーという賤民身分政策」が始まる。一揆という大きな民衆運動の最大の勢力が一向一揆

b信長による長島一向衆の激烈な戦い(1570年元亀元年から石山本願寺と連携して)、皆殺し、逃れたものは伊賀、大阪へ流れた

伊賀の乱(天正9年)本能寺の変(天正10年)

信長、秀吉に典型的に見られる戦国大名の残虐性、殺戮を喜ぶような精神

c信長の大阪本願寺攻め、元亀元年から天正8年3月勅命講和まで10年続く、本願寺内部での分岐ー徹底抗戦派と講和派 たとえば富田本照寺と教行寺、教行寺は大阪一帯を回って徹底抗戦を訴えている、それらの場所がエタ村となっている、伊賀に末寺がある

d毛利氏と一向宗、相互依存と一向宗の自発的参戦(本願寺側の主力)

、天正11年厳島神社一向宗禁止令

e加賀の一向一揆、前田利家とたたかう、天正8年4月23日 勅命講和後の戦い

f高野山は秀吉に屈服して抵抗せず、天正13年逃げてきた一向宗門徒をさしだすー権力への迎合

3さいごの一向一揆 太田城の戦い 天正13年

aここでの敗北によって豊臣政権と一揆勢力=被支配階級の力関係が一変した。

b勅命講和は本願寺側の軍事的敗北のみならず思想的屈服=転向、天皇制=呪術的血統主義への屈服がある、一向宗の腐敗の始まり。救済宗教でなくなる。

c「天正8年(1580年)3月5日の勅命講和以後、この講和を不当とする門徒集団の抵抗がつづいたが、講和以後も執拗な抵抗をつづけた門徒集団が確かに身分を貶下されている事実を、天正13年(1585年)3月24日に始まる秀吉の水責めを約一ヶ月持ちこたえ4月24日降伏した太田城の退城衆に、これを認めることができる。」 信長なら皆殺しにしたであろうが、秀吉は助命し武装解除し身分貶下した、どちらも残虐さは同じ

d顕如の手紙、天正5年3月3日付け、天正14年正月24日付「太田城退衆中へ」

蓮乗寺文書 「太田城の粛正において指導者の殺戮とともに助命者の身分を賤民身分におとすことによりその自律的精神を骨抜きにするという賤民制の構想(政策)」を秀吉は持っていた、落城後それを全国に全面展開した。ここに部落の起源がある。

太田城を包囲した堤防を「鹿垣」と呼んだ。人間とは見なさないということ、秀吉の門徒集への憎悪、憎しみがその呪術的観念、卑賤視に表れている、対極で秀吉は自らを天皇の血筋と称した。そうゆう思想による支配構想を持っていたといえる

秀吉の前田玄以(キリシタン弾圧に関わっている)に当てた手紙(天正13年3月27日)「鹿垣を結」「奴原」

秀吉朱印状(天正13年卯月22日) 呪術的天皇制思想をよりどころとした弾圧であるといっている「以 禁裏様御昨事無由断者尤候」、「鉄砲腰刀以下迄取りて免置所も在之事候」「この書状においては雑賀一揆をケダモノと見なす賤民政策とすなわち誰を賤民身分におとすかという賤民政策と兵農分離政策(刀狩り)とが不可分の一体を構成する政策として示され」ている「兵農分離政策のはじまり」「最後の一向一揆の抵抗者をケダモノとして賤民身分におとすという賤民政策と兵農分離政策の必然的な関係」「賤民政策と身分組織ーーー賤民組織とは実は切り離すことができない不可分の一体をなすもの」

e中心の53人首をはね天王寺あべのにさらした。死屍刑、助命者は鉄砲刀を取り上げられ身分を落とされ穢多寺にあづけられた なぜあべのか、寺内町への見せしめ

キリシタン弾圧も始まる。1587年バテレン追放令 大阪の非人2000人のうち902人の転びキリシタンが身分を落とされている 「道頓堀非人関係文書」、文禄、慶長時代 文禄5年京都引き回し耳そぎ落とし

「宗教一揆という革命的権力の指導部を賤民身分におとすという粛正の問題を考えなければ近世賤民に何故差別戒名がつけられたか、部落寺院が組織されたかという問題を解決し得ないであろう」(太田城から始まった秀吉の身分政策、賤民政策を見ればわかる)

4近世賤民制の成立

「近世の賤民制というのは、反革命的専制主義の国家が革命的勢力を粛正する過程においてできあがっている」「反動的権力は、そういう過程において賤民制あるいは身分制度というものを確立したと考えなければなりませんので、誰を賤民に貶すかという賤民政策と、賤民の組織、身分の組織というものは、決して切り離すことはできない」

a真の意味での一向宗の壊滅、一掃は新たな支配権力にとって絶対的課題だった、とにかく根こそぎたたきつぶした。そして身分をおとした。慶長5年安芸門徒1万人を鼻そぎの刑にして、さらに一般との婚姻を禁じ身分をおとした 福島正則 安芸門徒は雑賀衆とならぶ石山合戦の主要な担い手

本来の一向一揆は勅命講和後にたたかわれた「宗教の自立性と純粋性ということからいえば勅命講和不服従ということから真の意味の宗教一揆が始まる」

b太閤検地とかわた記載、いわゆる中世賤民につけられているわけではない、農民にも。

「かわた身分の全国的規模における確定」「国家権力の側からの賤民の組織化という事実すなわち、検知政策を進めながら行われた勅命講和以降の一向一揆の抵抗者の摘発とその身分貶下という事実」だから単なる兵農分離政策ではなく、一向宗の摘発ーかわた身分に落とすということと一体のもの、教行寺の寺領の没収(文禄4年)、エタ寺の組織化(文禄慶長年間)

国家権力の側からの賤民の組織化

c行刑役を担わせていること、身分を落とした上でさらに転向の実を示せということ、自発的にやる=実質上の行刑役、法で規定していない、つまりお上から命令されたからやるということではない、より決定的な転向を行わせる賤民組織政策

だから俸禄、賃金もない、法律上はただの賤民が自主的にやっていること、そして最大の目的は百姓一揆の摘発

d一線を画す近世身分制の始まり

文禄3年片桐市正検地 天王寺あべのに「籠屋敷」を設定し(太田城戦から9年)それに付随して「悲田院」非人が集結されている、宗教一揆ー思想的政治的抗議行動ーを粛正する処刑地に「籠屋敷」の役負担をなす賤民集団が秀吉政権により組織されている、これは近世の賤民制が宗教一揆の粛正を第1の目的として組織されたことを示す確乎たる事実、(誰がこの非人とされたのか、太田城の残の衆か従来の非人なのか、どちらとも可能性ある) のちに転びキリシタンを大阪非人の中核としたこととの連関を見ることができる、

旧来の非人をおいたのであっても「(中世とは違う)新たなる構想の下にある賤民制であるといえる」「これが思想弾圧を目的とする賤民制であり、近世幕藩体制のアジア的専制主義の支配こそ、思想弾圧を目的とするところの賤民制ーーーカースト的賤民制を作り上げた」これが近世日本の賤民制だ、「アジア的専制主義国家の賤民制に関する構想」の独自性は「思想弾圧を目的とする賤民制という構想であります」

e呪術的天皇制思想、古代からの?祇令など、血の汚れ、血統主義ー輪廻思想、呪術性にもとずく身分制度ー死後にも継続する身分差別ー暴力主義と一体

f反逆犯罪者の身分貶下 岡藩百姓一揆の指導者の庄屋をエタ身分におとしている