1992年旅日記

Croatia Zagreb





1992.10.28.Wed
スロベニアのリュブリャーナからクロアチアのザグレブに向かう列車の中。
途中クロアチア側の簡単なパスポートコントロールがあった。
「どこから来た?」とたずねられ、「スロベニアから来ました」と
大きく元気な声で答えたが、おにいさんどこか不満そう。
あっそうだ。私は日本から来たんだ、とはたと我に返ってしまった。
緊張感がなくなっているというかなんというか、ヤレヤレである。
しかしスロベニアもクロアチアもコントローラーの人の年齢層が低いのに
びっくりしてしまった。
なんか学生のアルバイトという感じだった。

今度は、国境警備の人なのか制服を着たおばさんがやって来た。
英語は通じず、なにやらわからない言葉で私に質問するので、一応全部「YES」と答えた。
すると持ち物検査する、なんてすごいけんまくで言われてしまい、小物やポーチの中まで
全部調べられてしまった。
持ち物検査はいいけど、もうすぐザグレブに到着という時にしなくてもと、
私はこの旅行ではじめて怒った。
一体私が何を持ってるっていうんだろう。
おばさんは知らないんだ、
リュックの中に荷物を詰めなおすのに30分は優にかかるって事を!
まったくもう。
そして汗を流しながら、全体重をかけてリュックの中に荷物を押し込むという
格闘の末、ザグレブ中央駅に着いた。


すっきりとした、きれいな駅だった。
列車を降りるなり、
「ドイツマルク持ってないか?あったら
両替してほしい」と言われた。
私は本当に持ってなかったので断ったが、
1990年にハンガリーでたくさん出会った
"CHANGE MONEY おじさん"とはちょっと雰囲気が
違ってた。
なんか真面目そうな、おとなしいおじさんだった。



駅の両替所で20USドル両替した。(1デイナール 約0.3円)
すごくきれいなとこだけど、街全体がなんかザワザワしているような気がする。
軍人さんも多い。
UNHCRと書かれた国連の白い車もたくさんとまっている。
そうなんだ。今このザグレブは静かだけど、この国のどこかでまだ紛争が続いているんだ。
昨日いたリュブリャーナとは対照的なところだった。

共和国広場の一角



夜になって、この共和国広場にしばらく座っていた。
人人人、とにかくたくさんの人がこの広場に集まってどんどん増えてくる。
ただみんな立ち話しをしてるだけなんだけど、
トラムの乗り場が近くにあるせいかもしれないが、
あまりの人間の多さに気持ち悪くなるくらいだ。

オレンジ色の暗い街灯のせいかもしれないが、
とにかくざわついた、異様な雰囲気だった。
なかには、けがをした軍人さんもいた。


この広場を少し入った細い通りの大衆食堂という感じのお店で夕食をとった。
10月といえどもヨーロッパは寒い。
冷えきった体をあったかくするのには、野菜スープが一番だ。
店のおばさんに注文するともう売り切れだなんて言われてしまった。
私の顔があまりにも落胆した様に見えたのか、豆スープならあるわよと中から調理の
おばさんが言ってくれた。
英語もあまり通じないので、言葉はあまりよくわからなかったが、どうやら私は、
この調理のおばさんの夕食用のスープをとってしまったようだ。
今まで飲んだスープのなかで、ここのが一番おいしかった。
スープにビールにポークステーキにコーヒーで約1000円也。



1992.10.29.Thu
美術館も博物館もやってるのかやってないのか、はっきりわからない。
はいっても一枚の絵もなかったりするところもあった。
今日泊まったホテルも、国連関係の人や避難してきた人たちが、たくさん泊まっていた。
新聞には、紛争での負傷者の人の写真が一面に載っていた。
レストランでは、ボスニアがどうとかセルビアがどうとか誰かがいつも議論していた。
ラジオはいつも紛争の様子を伝えていた。
今この時にも、誰かが死んでいってるんだ。
紛争が未だ続いているこの時期に、観光気分でこの国に来ている自分が恥ずかしく思えた。
ここの人たちはそれどころじゃないんだ。
私は邪魔になるだけの観光客だった。
ホテルの部屋も私が泊まったために、泊まれなかった人がいたかもしれない...。
いろいろ考えてるうちに、これからはこういう情勢の国を旅行するのはやめようと思った。




街並みは、ヨーロッパ風の素晴らしいザグレブ。

でも私にとってのザグレブは、
殺気だった印象しか残っていなかった。

平和になったらまた来よう。
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