1990年旅日記


Germany Berlin





1990.11.16.Fri

まず、ブランデンブルグ門に行ってみた。


壁のかけらを売ってた。
イヤリングやネックレスにしてあるものもある。
ほんものかどうかは知らないけど、
この壁のかけらがなんなのかを考えると
こういうの買うのは気がひけるなぁ
と思いつつ、一袋買った。






このブランデンブルグ門近くのシュプレー川沿いの壁を削ってる観光客の人達がいた。

この川の近くには、今みんなが削ってる壁を越えようとして命をおとした犠牲者の墓銘碑がならんでいる。
私も、皆にまじって壁を削ろうという気には
とてもなれなかった。

墓銘碑に89という数字が刻まれているのを見た時、言葉がでなかった。
去年じゃないか...。
あと何ヶ月かしたら、この川を渡るのと命とを引き換えにすることもなかったのに。
そう思ったら、やりきれない気持ちでいっぱいになった。

私と同年代くらいだろうか、旧西ドイツのミュンヘン近郊に住んでいてベルリンに遊びに来たという男の子がいた。
彼にはこの旧東ベルリンに親戚がいるというのを聞いて、ふたつのドイツやこのベルリンの壁のことについて聞いてみた。
すると、「そんなの話したら、まるまる3日あっても足りないよ」と言われた。
そのとおりだった。
人の一生や命までが犠牲にされた何十年という歳月、ちょっと通りすがりの観光客に一言で話せるほど、単純なものではない。
私は日本で特に何を規制されることもなく育った。
今までもこれからも自由に海外に行ける。
でも国の体制が違うというだけで、自由もなく、公に外国人と話すことまでもはばかられる全く違う生活を強いられてきた人達もいるんだと知ったとき、私と同じ世代のそこで暮らす人達は一体今までどんな生活をしてきたんだろうか、それが知りたい知らなきゃいけないんじゃないかというのが今回の私の旅の目的の一つでもあった。
しかし、ずっとここで生活してきたわけじゃなし、聞いてみたところで本当にその人達の
気持ちがわかるものでもない。
私はただの観光客として、彼にそれ以上深入りするのはやめた。


1990.11.17.Sat
今日は、朝からモヒカン刈りのパンクのおにいさん集団と警察の乱闘をみた。
ホテルを出て、何十歩か歩いたところだった。
モヒカン刈りのおにいさん達は、店の壁に手をつけて背中を向けて横一列に並ばされ
警察の人たちがすぐ後ろで銃をつきつけていた。
これは映画か何かの撮影かな?とも思ったが、本物だった。
やっぱりベルリンはすごいところだと思った。

テレビ塔のあるアレキサンダー広場のほうに行ってみた。
ネオンギラギラの遊園地があった。
テレビ塔も夜になると、ピンク・ブルーとネオンがつく。
きれいだが、なんかちょっとかわいげがない。

Sバーンの電車に乗ったとき、途中の駅で乗ってきたおばあさんが私の前の席にすわった。
このおばあさんの顔にはすごく深いしわがあった。
東側に住んでた人なのか西側に住んでた人なのかはわからないけど、
このおばあさんのしわにはいろんなものが刻まれてるんだろうなぁと一人ブツブツ思った。
それは、私の祖父や祖母の顔にも刻まれてるしわとおんなじだった。

とにかくベルリンは寒い。


1990.11.18.Sun
動物園に行く予定を変更し、バスでシャルロッテンブルグ城へ行った。
ちょっと人にここがいいよと聞くとすぐにそっちのほうに行ってしまう。
私には、自分の意志というものがないのだ。

足に水ぶくれができて痛い。
当たり前だ。なにしろずっ−と歩きどおしなのだから。
雨も降ってきたことだし、ペルガモン博物館で休憩することにした。
疲れた時の私の休憩場所といえば、教会か博物館だ。

言うまでもなく、ペルガモン博物館は素晴らしかった。
入り口をはいるなり、ナンナンダコレハ とばかりに圧倒されてしまった。
古代ギリシャの城壁やなんかを、そのまんまここに置きましたという感じだ。

夜帰り道、ウンターデンリンデンの通りでデモンストレーションとでもいうのだろうか、
いろいろ書かれた大きな旗をもち、なにかマイクで話しながらこの大きな通りを埋め尽くすかのように何百人という人がテレビ塔のある方向に向かって行進していた。
道の両端は、機動隊やパトカーでいっぱいだった。
普段こういう何かを訴えてのデモというものに全く縁のない私は、びっくりしてしまった。
みんな私と同じ世代の人たちだった。
日本で、のほほんと生活していて、何の怒りもおぼえない自分が恥ずかしくなってきた。

ベルリンは壁のなくなったただの街にはなっていなかったようだ。

壁跡の空き地になぜか野ウサギが走りまわってた。



1990.11.19.Mon
今日はとにかくあわただしい一日だった。
明日ポーランドのクラクフに行くのにビザをとらねばと、まずポーランド大使館へ。
がしかし、ここじゃないと言われ、また別のところにあるここは領事館か?に行き、
またZOO駅に戻って、今晩乗るクラクフ行きの列車の切符を買う。
これだけ書くと何だそれだけ?という感じだが、そう私はいつも道に迷うんです。
人が半日つぶすとこを、私の場合は一日つぶしてしまう。

クシェットは予約がいっぱいだと言われ、仕方ない座って寝るかとコンパートメントへ。
これで料金が35DM (約3200円) だった。
ポーランドのビザをとるのにも65DM (約5500円)。う−ん。

さぁ明日の朝はいよいよポーランドのクラクフだと、意気揚々と列車に乗り込んだのは
よかったがお昼もろくに食べず、ジュースだけ買い込んで乗ったもんだから、おなかすくわ
喉かわくわでとてもつらい。
おまけに夜中だというのに、途中の停車駅で ドドドドッ− とデッカイ荷物もったデッカイおばさんたちが小さな子供いっぱい連れてたーくさん乗りこんできたものだから、私のコンパートメントもキチキチの状態になってしまった。
肉と肉の攻めぎあいといったところか。
これじゃ座ってもいられないと、私の席をおばさん達にゆずり、寝台車の車両へと荷物を
引きずりながら走った。
が、寝台車の車両には太い鎖で鍵がされている。
あーもうだめだぁ。今更もとのコンパートメントには戻れないし。
今日は通路で寝なきゃだめか...。
と、なかばあきらめかけたところへ、鍵のかかった寝台車両のほうからパジャマ姿で眠そうなおじさんがトイレにやってきた。
助かったぁ。
しかしこのおじさん、こんな夜中に、鍵のかかったドアのところにアメーバーのように
ベタッと貼りついてた私を見て、夢でも見てるのかとばかり何度も目をこすりながら、
しばらくじっーと私のほうを見てたなぁ。
おじさんに車掌さんを呼んでもらって、やっと私は寝台車両のほうに入ることができた。
寝台車の料金は高いんだろうなぁと思いきや、ここがもうポーランド領だからか、車掌さんに払った料金は15DM (約1400円)。
クシェットじゃなく寝台車に乗るのは初めてだ。
一人部屋だし、洗面台もついてるし、大きな鏡まである。
こんなに快適なんだから、今夜一晩中起きてようかなぁなんて思いながら...
すぐ眠ってしまった。




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