児童書の世界へ

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生きる

小学校中学年から
モモタロウが生まれた! ES
著/黒鳥英俊 (フレーベル館)
 絶滅の危機にあるニシローランドゴリラ飼育の記録。愛情豊かな著者の喜怒哀楽が直接伝わってきて、臨場感にあふれています。個性豊かな様子を知らなければただのゴリラだけれど、個体ごとの性格を知れば深い親しみを感じられます。上野動物園に行くならば、ぜひこの本を読んで登場人(ゴリラ)物たちに親しんでからをお勧めします。
 以前、娘が上野動物園の動物園教室に参加した際、たまたま「ゴリラ」がその日のテーマでした。だから娘は、モモタロウをはじめとしてこの本に登場するゴリラたちに会い、よく知っていたのです。ちょっとうらやましい。私はまだモモタロウと会っていないので、今度機会をつくって上野動物園に会いに行こうと思います。モモタロウがでていなかったらどうしよう...。動物園に、電話で確認できないかしら。「もしもし。今日はモモタロウ、でていますか?」(2003.01)

追記:2002年夏、モモタロウはお母さんのモモコとともに、千葉市動物公園へ帰ったそうです。

小学校低学年から
わたしたちのトビアス ES
編/セシリア=スベドベリ 絵・文/トビアスの兄弟 訳/山内清子 (偕成社)
 障害をもった人が周囲にいないと障害について何もわかりません。わからないとこわい。でもこわがらないで、知り合おう。そう、マザー・テレサの言葉を思い出しました。愛はお互いに知り合おうとすることから始まると・・・。
 続編まで全部図書館で読んでしまってから、一冊目のこの本だけを借りてきました。この本の編者であるトビアスのお母さんは、本を出してすぐに亡くなってしまうのですが、続編では新しいお母さんがむかえられ、トビアスは兄弟とともにたくましい青年へと成長していきます。
 本の内容が興味深いのはもちろんでしょうが、たくさんの問題?をかかえる2児の母である私としては、母の死、新しい母、そういった背景の方に意識がいってしまいました。私自身の限りある生と死、子ども達とともに今、何を大切と考え、生きるか。 (2003.01)

家の常備児童書!
小学校高学年から
シャーロットのおくりもの ES
作/E.B.ホワイト 絵/ガース・ウィリアムズ
訳/さくまゆみこ(あすなろ書房)
 「ねぇ、シャーロットって誰?」読み始めてしばらくすると、本から顔をあげもせず、息子が家中にひびく声で聞きました。そう、娘も私も先に読んでいるからシャーロットが誰だかはすでに知っているんですよね。大声で聞けばきっと誰かが答えてくれると思ったのでしょう。でも、宿題をしていた娘も、長ネギをきざんでいた私も、答えるまでに一瞬間をおいてしまいました。そして、私が「ウーム」とうなると同時に娘が「教えなーい!」と叫びました。本に夢中になっている息子は字を追いながら「教えてよ」と反発。娘は「教えちゃったら面白くなくなっちゃうよ。いいの? 本当にいいの?」と反撃。「いい」と息子。しかし結局誰も教えてくれず、それでもどんどん読み進めた息子、すぐにシャーロットが登場して一件落着。しかしその後、さらに息子は「この本の主人公ってシャーロットだよね」と来た。娘は「ウィルバーだよ」。私は「誰だろうねぇ、最初の方読んでるときは女の子じゃないかなぁ? と思ったけれど、途中からはウィルバーみたいだよねぇ。でもやっぱり女の子かな。」答えがママと異なった娘は少々不満顔で「だいたいさぁ、私、主人公が誰かなんてまったく考えないよ」と息子の質問自体を非難。言い出しっぺの息子はすでに本に夢中で答えはどうでもよいらしい。楽しみ方は三人三様、さらに食事時などたびたび話題に出て、読んだ後まで楽しめました。

--------↓まだ読んでいない人は読まないでね↓---------

追記:2月になって再び息子が1人でつぶやいていました。「やっぱり主人公はウィルバーだよ。だってシャーロットは死んじゃうもの。主人公は普通死なないもの。」主人公は死なない。主人公が死んだら、その時点で主人公ではなくなる。残されたもの、生きているものしか主人公になり得ない、なるほどそれはこの世の法則かもしれませんね。「シャーロットのおくりものってこども達だったんだね。あと命。ウィルバーの命。」なんてことでしょう。私は題名の意味まできちんと考えていませんでした。(2002.12)

小学校低学年から
ライギョのきゅうしょく 作/阿部夏丸 絵/村上康成(講談社)
 小学生になった仲良しのお友達、ライギョとタナゴ。それぞれのクラスの時間割表を見てびっくりします。生きること、食べること、自分であること…。弱肉強食の世界は食事だけじゃない。まわりを見渡してみれば、私たちの友達との関係は、この本にあるライギョとタナゴと同じなんだ。人に勝るというのは、どういうことだろう。強いと弱いって、食べる食べられるの関係とは無関係かもしれない。それぞれが、自分であること、それが「強い」ってことじゃないだろうか。それが「大人になる」ってことじゃないだろうか。
 文章はもちろんいいし、絵がとても考えられていて、導入から最後まで決して手を抜いていないのがよくわかります。まだまだ幼いライギョとタナゴの2匹がそれぞれ真剣に考えこんでいる姿は、胸にせまるものがあります。最後のページで、2匹とも笑っているけれど、本当は泣いている。でも笑っている。私は思わず涙ぐんでしまいました。(2001.10)

小学校低学年から
ねこと友だち
作/いとうひろし(徳間書店)
 生きるために食べる。食べると生きるはイコールだろうか。「食べられる(受け身)」と「生きている」はイコールかもしれない。

小学校低学年から
きいろとピンク
作/ウィリアム・スタイグ 訳/おがわえつこ(セーラー出版)
 きいろとピンクに塗られた木の人形が、古新聞のうえにならべてあります。
 ぼくたちはどうしてここにいるんだろう。われわれはなにもので、どこからきたのだろう。誰かがつくったのだとピンクは思うが、これは偶然に生み出されたのだときいろが言い、ピンクはばかばかしいと笑います。
 漫画家であった作者は60歳を機に子供の本を描き始めたといいます。漫画家特有の風刺のきいた、そして人々の心の奥底に深くねむっている大切な物をわし掴みにし、ゆすぶり起こす力をもつ絵本を次々に発表しています。私は作者の「ロバのシルベスターとまほうのこいし」という絵本が大好きです。

幼児から
とべバッタ 作/田島征三(偕成社)
力強い絵。身体がバラバラになるかまきりの顔、その迫力。バッタのバネの強いこと強いこと、バッタの意志の強いこと強いこと、バッタの掴むものの素晴らしいこと。息をのむ壮大さ。大好きな絵本のひとつです。

幼児から
きょうりゅうきょうりゅう
作・バイロン・バートン 訳・中川千尋(徳間書店)
 大昔にこの地球に住んでいた恐竜たちも、私たちと同じに、おなかがすいて食べ、眠くなって寝た。この地球に私たちと同じように生きていた。この地球で私たちと同じように生活していた。

幼児から
せかいいちおおきなうち―りこうになったかたつむりのはなし
作/レオ・レオニ 訳/谷川俊太郎(好学社)
 素敵な大きなうちが壊れてしまうところで胸がこわれそうになる。そんな残酷な話、聞きたくないと思う。娘はおうちが壊れてしまうところが嫌で、読んでもらおうとはしませんでした。でも、この本の中で同じ話を聞いたこどもの蝸牛も涙を流すのです。それで「あぁ、私とおなじだ」とホッとする。共感すること、癒されること。

幼児から
すばらしいとき 作/ロバート・マックロスキー 訳/わたなべしげお
(福音館書店)
 夏の間だけの島の生活。穏やかな日、嵐の日、そして秋の気配へ。人々の生活が自然と共にあるとき、命の気配はとても親しい物として感じられる。私たちの住むこの町で、命の気配はとてもひそやかで見えにくい。

 私は命の気配を、たくさん子どもたちに触れさせてあげたい。人の溢れるこの町で、恐怖より、畏怖をたくさん味わわせてあげたいと思う。

小学校中学年から
森の生きもの 文/B・テイラー 写真/K・テイラー&J・バートン
訳/小野展嗣(岩波書店)
 活き活きとした森の生きものの世界。森に住む生きものを通して、森自体がひとつの生命として息づいているのが感じられます。ただし、この本にある森は、私たちに親しい日本の森とはだいぶ性格が異なります。森にも様々な性格があるのですね。

幼児から
かぜはどこへいくの 文/シャーロット・ゾロトウ 絵/ハワード・ノッツ
訳/松岡享子(偕成社)
 風はどこへいくの…。ものごとは途切れることなく終わることなく続いていくことを、あたりまえのことのように何気なく語るこの本のお母さんの言葉に、私は驚き、感動する。こどもたちの心にも、しっとりとあたりまえのようにしみこんでいくであろうこの絵本の言葉を、たくさんのこどもたちに伝えてあげたい。それはかけがえのない生きる力へとつながると思うから。そして、私自身がこの本にでてくるお母さんのように、すべての物事をありのままにとらえられる人間でいたいと切に思います。

幼児から
くものこどもたち 作/ジョン・バーニンガム 訳/谷川俊太郎(ほるぷ出版)
 山から落ちたアルバートは、くもの子供達がとなえるおまじないでからだが軽くなり、くものこどもたちと共に雲の上での日々をすごすが、家に帰りたくなり、女王様のおまじないで家に戻してもらう。日常に戻ったアルバートは…。
 子供の臨死体験のようなお話です。その体験はアルバートの将来にどう作用していくのでしょうか。大人である読み手の私は、つい余計なことまで気にしてしまいます。

幼児から
わすれられないおくりもの 作/スーザン・バーレイ
訳/おがわ仁央(評論社)
 死んで去っていく者、みえない大切なもの、死んでしまっても残るもの、感じるもの。核家族となり身近な者の死を数多く経験する機会のない私たちには、こういった絵本で疑似体験をすることに意味があるかもしれません。

幼児から
むらいちばんのりょうしアイパナナ アジアエスキモーの昔話
再話/V・グロツェル&G・スネギリョフ 絵/高頭祥八 訳/松谷さやか
(福音館書店)
 本当はくじらつかまえてほしくないんだ…。と言ったのは、くじらが大好きな娘(小2頃)。最終ページの肉を前にしたネズミ達の表情は様々で、お母さんはどういうわけか怒っているようだし、子供達は舞っているように見える。彼らがいったい何を話しているのかを気にして、ああだこうだと言い合う娘(小2)と息子(年長)です。

 生きるということは食べること。食べるということは、命をいただくということ。そんな当たり前のことも、スーパーでの買い物では実感できません。狩りに出ることも漁に出ることもできそうにない私たちは、せめてベランダのプランターで野菜を収穫することで体感したいと思います。

小学校低学年から
おかあさんになったりすのちび 作/河本祥子(福武書店)
 庭で遊ぶ野生のりすを観察し、書かれた物語。野生の生き物たちは、生きることを精一杯しているように見えます。

幼児から
けやきの木の下で 文/三輪裕子 絵/鈴木まもる(PHP研究所)
 人生をともにしてきた庭の大きなけやきの木、引っ越しを前におばあさんは切り倒す決心をします。愛するものの最後をきちんと見届けるために。切られた木は、たくさんの人々にもらわれて新しいいのちを得ることになりました。

小学校中学年から
ほら、きのこが… 文/越智典子 写真/伊沢正名(福音館書店)
 美しく不思議なきのこの世界。私たちの知る世界だけが世界ではなく、様々な生き物が固有の世界をもち、そしてすべての世界は繋がっている不思議。

小学校中学年から
ブラザー イーグル、シスター スカイ―酋長シアトルからのメッセージ
絵/スーザン・ジェファーズ
訳/とくおかひさお なかにしとしお(JULA出版)
 大地は大地として存在している。私のものではなく、誰のものでもないと語りかける酋長シアトル。私たち人間の存在は誰のものなのだろう。私たちの自身のものではないのだろうか…。

 

小学校中学年から
トランキラ・トランペルトロイ―がんばりやのかめ 
文/ミヒャエル・エンデ
絵/マンフレット・シュリューター
音楽/ヴィルフリート・ヒラー 訳/ことうえみこ(ほるぷ出版)
 (娘5歳頃)絵が気に入って借りてきました。こんなに長いお話、大丈夫かな? と心配しながら読みました。長い長いお話ですが、よく聞いていて気に入った様子。もうすぐ3歳になる息子も、静かに聞いています。次の日も「これを読んで」と持ってきました。

 楽譜ものっているので音楽を入れて読んであげたら楽しそう。家に楽器が欲しくなりました。ミュージシャンのパパ&ママ&ジジ&ババには特にお勧めです。(1997.2)

 娘が中学生になったある日、ふと図書館でこの本を手に取り、懐かしくて読み返してみたそうです。「私、小さい頃には全然理解していなかった。かめがようやく着いたときにも、何も疑問に思わなかった。あぁ、こんなお話だったんだって、初めて知ったよ。」感慨深そうに話す娘の様子に、私が感動してしまいました。

 時間の感覚が乏しい幼児には、このお話の内容がさっぱり理解できないことでしょう。ただ、どんなに難しそうに思える本でも、理解できそうにない本であっても、小さな子は感じる力や楽しむ力をもっているので、怖がらずに色々な本を読んで聞かせてあげてくださいね。我が家の娘のように、読んで10年たってから大いに感動できるかもしれないのですから! 気長にいきましょう。(2006.1)

銀のほのおの国
作/神沢利子 画/堀内誠一(福音館書店)
 いたずらラッコのロッコちびっこカムのぼうけん、と読み進み、どれも面白いと連発していた息子が、「これが一番面白い。すごく怖いよ。お姉ちゃんきっと読めないんじゃないかな。ホビットの冒険よりももっと怖い。あと、悲しいところがたくさんある。本当のことみたいに感じて悲しくなる。本当は物語なのわかっているのに、本当にあったことみたいに感じるんだ。」本を読み終えると、生活のいろいろな場面でたくさん話題にあがるのですが、得てして娘はまだ読んでいない。読んでいない本がちょっとでも話題にのぼると「言わないでよ!」と怒ってしまうので、「お姉ちゃんも早く読んでよぉ!」と私。言いたいことを言えないストレスったらありません。この本についても息子はあれもこれも言いたいことだらけだったようですが、口にするたびいちいち娘に怒られて、私も思う存分には聞けませんでした。ちょっと残念です。
 私も読みましたが、今の私には少々問題が的はずれだったようで、歴史的な出来事が述べられる中間あたりで挫折しそうになりました。私が今必要としている物語ではないのでしょう。そこから先は文字をひろってザッと読み流すだけになってしまいました。でもだからといって面白くない本というわけではないと思います。現に息子は魂の奥底から揺すぶられる体験をしたようですし、生と死、食うものと食われるもの、それらのテーマは息子の年代にまさにピッタリだったと思います。彼らは今、自分が確実に安全な世界にいるわけではないことにようやく気がつき、自らの生とどう向きあったらよいのかを考え始めたところです。
 「ねぇ、主人公って何もしないのが多いよね。西遊記の三蔵もそうだし、この男の子もそう、あと(指輪物語の)フロドもそうでしょう? 三蔵なんて、なんであんなんで御仏になっちゃえるわけ? なんにもしていないどころか、最低じゃない。81の苦難を乗り越えてって言うけど、乗り越えたのは悟浄や八戒や悟空でしょう? 三蔵は妖魔の区別もつかないし、疑うこともしらない。知恵がぜんぜんないじゃない。それで御仏だなんておかしいよ(息子9歳)」「きっと経典にその知恵が書いてあったんだよ。だからお経をもらってようやく知恵を手に入れたってことなんじゃない?(娘11歳)」(2003.5)

中学生頃から
バオバブの木と星の歌―アフリカの少女の物語
作・レスリー・ピーク 訳・さくまゆみこ(小峰書店)
 アフリカは、悲劇の場所と悲劇の時をたくさん持っている。その地で生まれた少女が絶望の中で死を選び、身体から生きる意志が抜けてゆくのを感じながら、実際に死ぬのを待つ間に、自らを回想する。その母、その祖父、その雇い主、皆が暗い影を背負っている。
 そこに現れる一筋の希望。そして少女の生きる意志を呼び戻したもの。

 現実離れした世界に思えても、バオバブの木の育つアフリカの地で、実際に起きていることがある。実際にその世界に生きている人がいて、懸命に生きているそれらの人々を見守るものがある。大きなバオバブの木。怒りの血も、悲しみの涙も、喜びの笑いも、その葉をゆらす風と同じように、通り過ぎていく。通り過ぎて、それでも消えず、記憶はしっかりとその樹皮に刻まれ、高い空へと向かって伸びていくのだ。

 朝、何気なくバオバブの種を蒔き、午後、何気なく図書館でこの本を見つけました。この本を読み、我が家のバオバブの木に新しい生命が宿りました。ただのバオバブの木ではなく、アフリカの大地にその友をもつバオバブの木となったのです。アフリカの大地に育つバオバブの木が見る大地、空、そこに暮らす人々、そして彼らの見る夢を、我が家のバオバブの木がアンテナとなり、映写機となり、私達に伝えてくれます。

 中学2年生の娘は、「なんか、はまっちゃった」と言いながら、部活で疲れ切っていたにも関わらず夜遅くまでこの本を読んでいました。

(2005.7)

バオバブの芽(2005.9.26)バオバブの苗(2005.9.26)

生きることにまつわるひとりごと

生きる力が欲しい

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