クエートが占領されてから、何日たっただろうか。ある日、ヨルダンの首都アンマンの街で「ウエストバンクにイスラエル軍の戦車が集結している」という噂を聞いた。

その日の深夜、闇に紛れ、ゆっくりと重たい地響きをたてながら
戦車を乗せたトレーラーが私のいる部屋の窓の下を北上していった。

それはエンドレスなんじゃないかってくらい延々と続き、やがて静かになった。
明かりを消した部屋の窓から、息を詰めて見下ろしていた私は、
カメラを手に持ち、手に汗を握っていた。でも、とうとうカメラをむけられなかった。
みつかったら怪しまれ、撃たれるかもしれないと思ったから。

一時間ほどして、空のトレーラーが軽やかに戻っていき、私はある決心をして眠りについた。

翌朝目覚めると、私はクリーム色に大きな花柄のついたサンドレスを着て
白い帽子をかぶり、部屋を出た。リュックには水を入れたアルミの水筒とニコンF2&現場監督、2つのカメラ。
行き先は、戦車の向かっていった方角の街。
ゴラン高原を見下ろすウエストバンクとの境。

混雑するバスターミナルの隅で、ひときわ小さなマイクロバスに乗り込む。
いかにも田舎の老婆と、いかにも田舎の男達、私は静かに空いている席につく。
子供が売りに来るスティックのヌガーを買ったり
バスから降りて足をのばしたりしているうちに
運転手らしき男が来てバスは出発した。田舎道をがたごとと進む。
のどかな村をすぎていく。
何の変哲もないヨルダンの田舎道だ。ブレーキがかかり、バスが減速する。
前に何かが見える。カーキの服。兵士達だ。
一つ目の検問。
長い銃を肩から下げる兵士達。
バスの乗客の張りつめた沈黙が、空間を圧迫する。
数人の兵士が乗り込み、すべての乗客ひとりひとりをチェックしていく。
どんなに田舎の村人でも、IDカードを持っている。驚いた。
持たない人は、バスに乗れないのだなとも思う。
私は、ただ一人の外国人。
何気ない風をよそおって、ちゃらんぽらんに兵士の目を見ながら
赤い大きなパスポートを手渡す。
兵士は、パスポートに目を落とし、私の目を見る。
ページをめくり、パスポートを閉じて無言で返す。
隣の老婆がIDカードを手渡す。
皆の緊張が、痛いほど伝わってくる。おどおどしてうるんだ目の男達。
全員のチェックが終わり、無言で兵士は降りていき、無言でバスは出発する。
無言の安堵のため息に、バスの空間がゆるむ。
終点の村まで、検問は4回繰り返された。

私は、ちゃらんぽらんのおバカな東洋人観光客の目をしてバスを降りた。
リュックの中のカメラをしっかり抱えてね。
バスを降りると、さらにウエストバンクの方へと歩いた。
そこには遺跡がある。
ここはね、ジーザスが、二人の男からデヴィルを
退散させた場所だったそうだよ。(Matthew 8:28-34)
私は、崩れた円形劇場の客席に座って木々のささやかなおしゃべりを聴き、
静かな光をあびていた。
何枚か写真も撮った。舞台に降りて、舞ってみたりもした。
生ぬるい水をアルミの水筒から飲み、ヌガーを囓り、
一人のピクニックを楽しんだよ。

それから立ち上がった。

右の荒れ地を行くと、Galilee湖とGolan高原、Jordan Valleyが見下ろせた。
石積みの廃墟のような建物が見える。建物の上や周囲に、見張りらしい兵士が時々見え隠れする。
円形劇場からウエストバンクへと続く道をたどると、左の木陰に
戦車が見える。何台も、何台も。
木々はきちんと並んでいる。
昔、誰かがきちんと植えたであろう木々。
誰かがここで生活していたであろう場所に
戦車が潜んでいる。

私は、遺跡を歩くうちに
迷い込んでしまったバカな観光客を演じる。
カメラをリュックからすべり出し、大急ぎでシャッターを押し、
遺跡の方へとくるりと方向転換して帰っていく。

美しい空色のSea of Galileeと、まるで一体の生き物のようにつやつやと光るゴラン高原にむかい
私は枯れ草をかきわけかきわけかけ降りていったよ。

クレイジーイエローの私だよ。
サハラ砂漠でだって、会う人みんなに言われた。
私はクレイジー。
でも、そうせざるを得ないんだ。理由なんてない。


ファインダーを覗きシャッターを押し、それから私の全身に強い電流が走った。
誰か来た。
私を追ってきている。
私を。確かに追っている。草を踏む音。
草をかきわけて、男がくる。
兵士がくる。
大きな男がやってくる。
私は、逃げた。
草をかきわけることもせず、草に体当たりしながら歩いた。
男は走り出す。
叫びそうになるのを飲み込み飲み込み私は早足で歩く。

こんな時、キャーって黄色い声で叫ぶドラマや小説は嘘だよ。
本当に恐ろしいとき、本当に自然に体から発する声は
低いよ。動物のように、うおーとかっていう感じで、人間の声や言葉とは
ほど遠いものになるよ。
黄色い声は、甘えているとき、誰かに頼っているとき、泣き叫ぶ時、助けを求めるとき。
怖い時は吠える。どんな人でもきっと本能のままに吠える。そう思う。

男は短く、大声で、私を呼び止めた。
止まるもんか。つかまるもんか。
取り調べはごめんだ。
ここは、誰もいない荒れ地。
誰の目も届かない場所。
イスラムの地。
初めてのアラブではないもの。
どれだけ危険な状況か、十分承知していた。

男はあっというまに追いついて、
私は、ゆっくりと振り向き、正面にむきあった。
息は荒くても、心は十二分に冷静だった。
そんな時はいつも、自分でも驚くほどにクリアで冷静だ。

兵士は若かった。少年の色を残していた。
息を切らして、彼は言った。
ここは写真を撮ってはいけない。
兵士がたくさんいる。
危ない。ここに入ってきてはいけない。
アラビア語で、身振り手振りを交え、一生懸命に
私に伝えようとした。

力が抜けた。胸が締め付けられるようだった。
ありがとう。わかったよ。
もう撮らない。もう出ていくよ。

それから私は、後ろ手に手を振って、廃墟の村へとゆっくりと歩いて帰っていった。
情けなかった。

帰りのことは、何も覚えていない。
検問は、一つもなかったんじゃないかな。
キレちゃって、呆けてた。だから、何も覚えてない。

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Sea of Galilee and Golan heights