児童書の世界へ

大丈夫」にまつわるひとりごと

林明子の「こんとあき」、いとうひろしの「だいじょうぶだいじょうぶ」、「だいじょうぶ」という言葉がキーワードになる2冊の本が、どちらも祖父母にまつわる絵本だということは偶然ではないと思います。

 実は、こんとあきを読んでいて、決して大丈夫なんかじゃないのに、なんでも「大丈夫」と言ってしまうこんに対して、腹立たしくなることがありました。

私は、大丈夫じゃない、と言うことが苦手です。私と同様に、大丈夫じゃないにも関わらず、助けを求められない人がどれほどいることでしょう。日本では耐えしのぶことを美徳としてきました。どんなに苦しくても「大丈夫」と気張っていることが大切と、習慣的に教えられてきました。それによって、声を出すことが苦手です。不当な立場に立たされたとき、声を出すことができません。現状に甘んじ、堪え忍ぶばかりで、現状を打破しようとする意志に欠けます。

 集団を大切にし、和を重んじる日本の風土では、必要なことだったのでしょう。堪え忍ぶことは、日本だけでなくアラブの国々で大ヒットした「おしん」でもわかるように、日本人の美徳のひとつでもあることでしょう。

 でも、私には現状を打破しようとする意志に欠ける自分を不甲斐なく思う。「大丈夫」なんかではない現状を打破しようとする強い意志と行動力を持ちたいと常々思っている。

 一方で、私は「大丈夫」という言葉を信じてもいる。本当は、どんなことが起きても、どんなことになってしまっても、それが表面上ではどうしようもなく許し難いことであっても、本当は「大丈夫」なのだと信じている。そういったときに使う「大丈夫」は、魂にまで深く食い下がった信仰にも通じる言葉だと思います。そして、「こんとあき」や「だいじょうぶ だいじょうぶ」で何度もあらわれる「大丈夫」という言葉は、もちろんこちらの深い方の意味での「大丈夫」なのでしょう。その意味での「大丈夫」という言葉は、経験の浅い子どもや若者には無縁であり、実感として深いところでわかっているのは、しっかりと歳を重ねた老人たちなのだと思います。

 そして、そういった意味をもつ言葉は、表面上では異なる意味をもちながら世界中に存在しているように思います。

たとえば、ムスリムの人たちの言う「インシャッラー」は「アッラー(神)の御心のままに」だとか「アッラー(神)のみぞ知る」などと訳され、ときには、自らの責任を神に押しつけているかのように受け取れる状況で使われるため、まるで逃げ言葉のように誤解されますが、真意はもっと深いもののはずです。どんな状況になろうとも、それは神のご意志ですという意味をもつ神の言葉です。一神教の神は唯一絶対の神であり、だからこそ神の行うことに間違いはないのです。だから、大丈夫。どんなことになっても大丈夫なのです。No problem!

大丈夫、大丈夫だから、怖れずに生きていこう。(2006.9.11)

児童書の世界へ