E-イブ(12歳) & R-リック(9歳) & S-say-umi

10月の本棚

 今月はほとんど新しい本を読んでいません。読書の秋とは言うけれど、現実は行事の秋です。週末は何かしら行事があって、休みらしい休みはみつけられません。図書館行きもしばらくお預けです。一方で、私が職場から借りてくる漫画「三国志」だけは着々と読み進めています。
 45巻まで読み終えた今、「きっと劉備が三国を統一するに違いない、あんなに強い関羽や張飛が死ぬはずがない」と信じて読み進んできたにも関わらず、天下統一を果たさずして関羽、張飛、劉備、とが次々に亡くなっていきました。張飛や関羽の活躍に胸躍らせ、弓や剣を持って自らを重ねていたリックには相当堪えたようで、すっかり意気消沈の様子。「そりゃ、今でも生きていたら怖いよ。でも、死んじゃうのはやっぱり悲しいよね。」信じていた人がそうではなかった事実、裏切られたそのあとに残る心の中の空虚な穴、大人でも相当に堪えます。
 今後の人生において、こども達が現実にそんな体験をすることは、どうかもう二度とありませんように...と願いながら、避けて通ることはできないであろうことも理解できる。せめてそういった体験をしながらも、たくさんの人を支え、支えられながら、人を信頼する心、自分を信頼する心を見失わず、未来への希望を持ち続けてくれることを切に願います。

私の動物園 
作/ジェラルド・ダレル 訳/小野章
 古い本だな、と読み始めてすぐに感じた。なにしろ文体が古いし、今では使わない単語がたくさん出てくる。初版は昭和52年とのことで、私が子どもの頃にはこのような文体の本を読んでいたのかと思うと、ちょっと信じられない。幼い頃、自分の母が子どもの頃のことは遠い昔と感じていた。それと同じで、私の子どもの頃のことは、私にとってはつい最近であっても、こども達にとってはとてつもなく昔に感じられるのだろうと思う。そこで考える。子どもの頃、母が幼い頃に読んでいた本を私が見ることはなかった。今、私が楽しんでいた本を、こども達が同様に楽しんでいる。このようにして、何世代も読み継がれる本が生まれてこそ、日本の児童文学も一つの文化になるのだろう。

 さて、「私の動物園」を書いたダレル氏は、イギリスでは有名な動物愛好家のようで、この本は、彼自身の体験をもとにして書かれている。ひとまねこざるの作者であるレイとは同世代だろうか。海外へわたり、めずらしい動物を収集し、その動物たちと暮らすことを最大の喜びとしているところがそっくりだ。
 それにしても、私達日本人がこういった本を読むのは楽しい。イギリスのこども達がこの本を読む時には、ダレルの目に成り代わってアフリカに住む人々の様子を楽しむのだろうが、私達日本人は、ダレルが外の世界を見る様子を、さらにその外から見て楽しめる。それは、私達から見ると、動物のコレクションを持ち、自国に持ち帰るなどといったダレルの行為自体が奇異なものと映るからだ。
 こうした楽しみを与えてくれる本は、最近ではロビンソンクルーソーがあった。あの本は出版された当時のイギリスでは、ロビンソンクルーソーが蛮人を人間的に扱うことで画期的だったのかもしれない。しかしロビンソンクルーソーの蛮人に対するいばりぶりを、イブはよく笑っていた。西洋人や蛮人に先入観を持たないイブにとって、ロビンソンクルーソーと蛮人はイコールの立場であり、それがまるで王さまと家来のような関係でいることは滑稽でしかなかったのだ。野生動物を柵に囲い、畑を切り開き、島の征服者となろうとするロビンソンクルーソーを不思議がるイブ。日本的感覚では、島で暮らすことは、島と仲良くなることであり、征服することではない。
 これらの本を読んで、西洋との文化の違いは。実はとてつもなく大きいことを、イブも無意識のうちに感じ取っていることでしょう。

Background photo: 夕焼け(2003.9.29ベランダにて)