E-娘(11歳) & R-息子(9歳) & S-say-umi

5月の本棚
相変わらず『西遊記』一色の我が家です。というのも、西遊記は読んでもらう本にする、と息子が決めたからです。私が読む時間をなかなか作れないでいるのに行を煮やした息子は、私が夕飯の準備をしている間、あるいは洗濯物をたたむ間に読み進んでいってくれます。私は息子の声を聞きながらの家事で、とても楽しめます。娘も「私も読みたい!」と名乗りをあげ、息子と取り合いで読んでくれます。それでも寝る前に布団の中で読むのは私。私が読む時間はほんの僅かですが、二人ともそれがないと納得しないところがなんとも嬉しい。そしてとうとう完読。少しさびしい。
 娘が言います。「食べ物だったら好きなのを最後に食べるけれど、本の場合は逆なんだよね。面白そうなのを一番最初に読んじゃう。がまんできないのよ。面白そうなやつはホントに絶対面白いんだもの。それでね、読み終わると、他のは読みたくなくなっちゃうんだ。面白くないのがわかってるから。」そこで私が「それじゃ、読まないで返しちゃって、また面白い本借りに行けば?」と言ってみました。そしたら「読みたい本がないのもさびしいけれど、読む本がないのはもっとさびしい。それに、最近、図書館で面白そうな本がないのよね。私、最近面白いだけの本はダメなの。そういうのは面白くないのよ。そうじゃないのがこのごろはいいの。そういうのを読むと、読み終わったときにすごく悲しかったり、それでもそれは悲しい本じゃないんだよ。悲しい本は嫌いなんだけれど、読んでいて悲しくなったり、そういう本がこのごろはいいのよ。」

だれも知らない小さな国 選者
作/佐藤さとる 絵/村上勉(講談社)
 息子の「これが一番面白い。」は永遠に続くのでしょうか。銀のほのおの国を読み終えて『だれも知らない小さな国』に取りかかった息子は、読み始めてすぐにまたこう言いました。この本も私が子どもの頃に好きだったはずの本です。でもやはりラッコのロッコと同様で、村上勉氏の絵はよく覚えているにもかかわらず、内容は不思議なことにこれっぽっちも覚えていませんでした。
 物語の絵は重要です。たとえば、『小さなモモちゃん』はずいぶんと大きくなるまで、ずっと私の大好きな本でした。ボロボロになって捨ててしまい、これほど後悔した本はありません。なぜって、私の持っていたモモちゃんは、もうどこにもいないからです。今見られるモモちゃんは、私の知っているモモちゃんではありません。ニンジンさんも、ねずみのチュッチュも、チューインガムさんも、煙の出るおうちのおばあちゃんも、ママも、プーも、噴水の水までも、みんなみんな別人になってしまいました。私の知っている大好きなモモちゃんたちにまた会いたいです。親しい人の顔形が変わってしまったら、こども達はどれほど混乱することでしょう。本を作る人にお願いです。一度書かれた絵を変えないでください。読者によって命吹き込まれたその絵は、その人にとって一生涯をかけた大切な大切な友達なのですから。

銀のほのおの国 選者
作/神沢利子 画/堀内誠一(福音館書店)
 ラッコのロッコ、ちびっこカム、と読み進み、どれも面白いと連発していた息子が、「これが一番面白い。すごく怖いよ。●●(娘)ちゃんきっと読めないんじゃないかな。ホビットよりももっと怖い。あと、悲しいところがたくさんある。本当のことみたいに感じて悲しくなる。本当は物語なのわかっているのに、本当にあったことみたいに感じるんだ。」本を読み終えると、生活のいろいろな場面でたくさん話題にあがるのですが、得てして娘はまだ読んでいない。読んでいない本がちょっとでも話題にのぼると「言わないでよ!」と怒ってしまうので、「●●(娘)ちゃんも早く読んでよぉ!」と私。言いたいことを言えないストレスったらありません。この本についても息子はあれもこれも言いたいことだらけだったようですが、口にするたびいちいち娘に怒られて、私も思う存分には聞けませんでした。ちょっと残念です。
 私も読みましたが、今の私には少々問題が的はずれだったようで、歴史的な出来事が述べられる中間あたりで挫折しそうになりました。私が今必要としている物語ではないのでしょう。そこから先は文字をひろってザッと読み流すだけになってしまいました。でもだからといって面白くない本というわけではないと思います。現に息子は魂の奥底から揺すぶられる体験をしたようですしね。生と死、食うものと食われるもの、それらのテーマは息子の年代にまさにピッタリだったと思います。彼らは今、自分が確実に安全な世界にいるわけではないことにようやく気がつき始めたばかりですから。
 「ねぇ、主人公って何もしないのが多いよね。西遊記の三蔵もそうだし、この男の子もそう、あと(指輪物語の)フロドもそうでしょう? 三蔵なんて、なんであんなんで御仏になっちゃえるわけ? なんにもしていないどころか、最低じゃない。81の苦難を乗り越えてって言うけど、乗り越えたのは悟浄や八戒や悟空でしょう? 三蔵は妖魔の区別もつかないし、疑うこともしらない。知恵がぜんぜんないじゃない。それで御仏だなんておかしいよ(息子談)」「きっと経典にその知恵が書いてあったんだよ。だからお経をもらってようやく知恵を手に入れたってことなんじゃない?(娘談)」

いたずらラッコのロッコ 選者
作/神沢利子 絵
/長新太(あかね書房)
 神沢さんの作品は、「くまの子ウーフ」をはじめとして、たくさんたくさん子どもの頃に読んだ記憶があるのだけれど、どれ一つとして内容を覚えているものがないので借りてみました。このラッコのロッコも題名を良く覚えているし好きだったはずなのですが、読んでみてもやっぱり内容は覚えていませんでした。覚えていたのは長新太氏の絵だけです。そして、この本の評を書きたいのですが、幼い日に読んだことのある本はどうも書きにくいことに気がつきました。読んでも何も感想が浮かんでこない。なぜだろうと考えると、どうもそういった本はすでに自分の体の一部分になっており、それ以上でもそれ以下でもない。私の中にある基準をもとにああだこうだ言うのが批評だとすると、その基準は私が子どもの頃に読んで楽しいと思った本なのだろうから、基準を批評しようったって無理な話なのかもしれない。

弁慶 選者
文/谷真介 絵
/赤坂三好(金の星社)
 里見八犬伝、西遊記、と読んできて、ふと気になったのが弁慶でした。歴史はからきしダメなので、弁慶が橋で誰かと戦ったのはわかるけれど、その物語はすっかり抜けていたので、弁慶に関する本を探してみようと思ったのです。
 この本は迫力があります。絵と文章の流れが的確で、よく練ってあるのがわかります。表紙には仁王立ちで全身に矢を受ける弁慶の姿があり、寒気がするほどの迫力に目が釘付けになります。
 終わりの見開き3ページで読者は、遠くで両手をいっぱいに広げて立つ弁慶と、今にも矢が放たれようという弓をかまえる敵の視線で対峙させられる。緊張してページをめくれば、矢が一斉に弁慶に向かって風を切っていく。そして次にめくれば表紙の全身矢を突き立てた弁慶の絵に戻り、最終ページでは文字だけによって結末が語られる。本を閉じてもしばらくは息をするのが苦しく感じられるほどの緊張感だ。
 我が家のこども達は、私と同様で語彙は少ないけれど、「これ、すごいよねぇ」と何度か繰り返していました。

竜の王女シマー 選者
作/ローレンス・イェップ 訳/三辺律子(早川書房)
 最初に読み終えた息子が「面白いんだけど、終わりがいやだ。なんかもっと続く感じなんだもの。」と言った。それを聞いた私は、後の物語を連想して楽しめるような、すてきな終わり方なのかと思った。次に読み進んでいた娘に、「面白い?」と聞いてみた。娘の返事は微妙だった。「んううううーん」。うんなんだか、うなって考えているのか、ううんなのか、よくわからない。それでも面白くないとは決して言わない。読み終えてからつぶやいていた。「なんか物足りないのよ。」
 今月はなかなか読む時間がとれず、二人にお勧めの本を聞いて、それを読もうと思いました。それで、息子が「面白いよ」を連発していたこの本を読むことにしたのですが、娘の反応は、果たして私に勧めて良いのやらと何か煮え切らない様子。それでも私はその様子の意味を知りたくて手に取りました。手に取る前に気になったのは、日本人が書いたのか、それとも翻訳本なのかでした。題名を見ると、「竜」「王女」「シマー」どの単語を見ても、西洋風に思える。ちょっと見たところでは欧米でつくられた、よくある魔法うずまく愛と冒険の物語だろうかと思いながらも、もしかしたら日本で最近多いそういった欧米文化を真似たような物語だったらいやだなぁと思った。日本人の手で書かれたその類の本は文化や歴史的な地盤がないせいか得てして表面的だ。日本人の書いたその類のもので、私はまだこれといったものには出会えていない。
 竜は世界各地にいるが、私達日本人の知る竜はやはり棋士が射落とす欧米の竜とは別物で、水神様だったりやまたのおろちだったりする。現在に生きる竜はいない。古い歴史の世界にとどまっている。さて、それではこの本において、竜はいったいどのような文化を背負って登場するのだろうか。
 まず、表紙を見て少し退いてしまった。イラストは派手な色遣いのアニメタッチの竜と、東洋系少年。題字もまた劇画タッチのカッターで切り抜いたような派手なものだ。微妙に中国古来から伝わる派手な色遣いをひいているようでもあるが、安っぽさは否めない。娘は「ゲームみたい」と表現していた。
 本の作者は中国系アメリカ人で、翻訳本だった。孫悟空を思わせる猿の登場など中国的な文化を表面的に背負いながらも、ストーリー自体は欧米的で明快な展開をみせる。しかしこの本は中途半端に終わっており、読後がなんとも気持ち悪い。たとえ続編が続くにせよ、本という形態をとるからには、その1冊の中での収まりをきちんとつけて欲しい。
 また、これは翻訳の問題なのかもしれないが、主人公の竜シマーが、まるで20才前後の若い女性のような言葉遣いでしゃべるのはなんとも気持ち悪い。あの世に属する竜は、良きにしろ悪しきにしろ何か神々しいものであって欲しいと思うのは、単なる私の頭の固さのせいだろうか。


ペットになりたいねずみ 選者
作/ローレン・チャイルド 訳/木坂涼(フレーベル館)
 娘が「これ、面白いよ。図書館で読んじゃったんだけれど、借りてきてみた。」と、私のところに持ってきてくれました。夕飯がすんだらさっそく読もうと思っていたのに、急に具合が悪くなって布団の中でうなっていたところ、隣の部屋で娘が息子に読み聞かせているのが聞こえてきました。大きな声で楽しそうに読む娘、嬉しそうに合いの手を入れる息子。そんなことをしているのは、もう5年ぶりでしょうか。苦しみながらも嬉しくて涙が出てきました。人に読んであげるのも、読んでもらうのも、本当に楽しくて嬉しいですよね。それを端から見ている人も、幸せな気持ちになれます。娘は、先日上述のごとく読み終えた西遊記によって、読んであげる楽しさを思い出したのでしょうか。
 翌早朝、私が本をめくっていると息子が起きてきて膝に乗り、いっしょにながめました。「これって写真が多いね。このねずみは絵だよね。」と息子。言われるまで、絵の手法はまったく気にもとめていませんでした。私は観察力がないなぁ。息子に言われて、最初から何度も絵を楽しませていただきました。登場人物一人一人にぴったりの背景は、細かなモチーフの隅々まで見れば見るほど楽しめます。きっと原語では韻をふんだんにふんで、語呂がいい文章なのでしょう。見るだけではなく、読むのも聞くのも楽しいリズム感あふれる本なのだろうと思います。