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応永の頃に鮎貝成宗が築いた鮎貝氏代々の居城。現在は八幡神社の境内とその周辺の畑や宅地。
年代 | 出来事 |
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15世紀初頭 | 鮎貝成宗が段丘の上に城を築いて横越館より移り住んだのが始まりで、以後は鮎貝氏代々の居城となる。 |
1548年 | 伊達稙宗と晴宗の対立から始まった『天文の乱』では、鮎貝盛宗は稙宗派に属して戦ったが、戦後に晴宗より所領を安堵され「一家」「守護不入」という特別待遇を受けている。 |
1587年 | 鮎貝宗信は最上義光の姉を娶って最上家に鞍替えし、伊達氏に反旗を翻したため伊達政宗の討伐を受けた。両軍は幸寿ヶ原で合戦となったが、宗信は敗れて最上領へと逐電したという。その後、政宗の命で宗信の弟の宗定が鮎貝家を継いで当主となった。 |
1591年 | 伊達政宗が奥州仕置きで置賜郡を没収されたため、鮎貝氏もこの地を離れることになり、柴田郡の堤へと移り住んだという。 |
1598年 | 上杉氏が会津に転封されると置賜郡は陪臣の直江兼続の預かる地となり、鮎貝城には中条三盛が城代として入った。 |
1622年 | 1615年に発布された「一国一城令」で城の廃城が決まったため、三の丸の外に御役屋を建てて代官を置くことになった。 |
1665年 | 本庄長政が御役屋将となり、以後は本庄氏が明治まで代官を勤めた。 |
城は河岸段丘の端を利用して築かれており、元は単郭方形の居館で、後に二の丸、三の丸が拡張されて輪郭式に近い縄張りとなった。