奥羽古城散策
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鮎貝城 あゆかいじょう

別名
桜館
時代
室町時代~江戸時代
分類
中世平山城→陣屋
規模
標高:200m、比高:約10m
現状
町指定史跡/鮎貝八幡神社・住宅地・畑
場所
山形県西置賜郡白鷹町鮎貝
最終訪城日
2012年5月26日

応永の頃に鮎貝成宗が築いた鮎貝氏代々の居城。現在は八幡神社の境内とその周辺の畑や宅地。

城史

年代 出来事
15世紀初頭 鮎貝成宗が段丘の上に城を築いて横越館より移り住んだのが始まりで、以後は鮎貝氏代々の居城となる。
1548年 伊達稙宗と晴宗の対立から始まった『天文の乱』では、鮎貝盛宗は稙宗派に属して戦ったが、戦後に晴宗より所領を安堵され「一家」「守護不入」という特別待遇を受けている。
1587年 鮎貝宗信は最上義光の姉を娶って最上家に鞍替えし、伊達氏に反旗を翻したため伊達政宗の討伐を受けた。両軍は幸寿ヶ原で合戦となったが、宗信は敗れて最上領へと逐電したという。その後、政宗の命で宗信の弟の宗定が鮎貝家を継いで当主となった。
1591年 伊達政宗が奥州仕置きで置賜郡を没収されたため、鮎貝氏もこの地を離れることになり、柴田郡の堤へと移り住んだという。
1598年 上杉氏が会津に転封されると置賜郡は陪臣の直江兼続の預かる地となり、鮎貝城には中条三盛が城代として入った。
1622年 1615年に発布された「一国一城令」で城の廃城が決まったため、三の丸の外に御役屋を建てて代官を置くことになった。
1665年 本庄長政が御役屋将となり、以後は本庄氏が明治まで代官を勤めた。

縄張り

城は河岸段丘の端を利用して築かれており、元は単郭方形の居館で、後に二の丸、三の丸が拡張されて輪郭式に近い縄張りとなった。

【二の丸跡】
八幡神社を城跡に移した時に土塁を崩して内堀を埋めたため、二の丸と本丸の境界は現状では判らなくなっている。一応、南東の2つの参道が合流する場所に二の丸跡の表示がある。ちなみに町の文化財表記は何故か「鮎貝城二の丸跡」(昭和59年1月11日指定)。

【内堀(水堀)】
内堀は本丸の周囲を囲むようにあったが、現在は北側と西側にのみ残っており、西側の一部は車道に改変されている。また、土塁もこの堀に沿った部分が残っている。

【外堀】
外掘は三の丸と二の丸を囲むようにあり、丘陵を横切る堀と、丘陵の麓の堀で構成されていた。現在、堀の大部分が埋まっているが、南西と北東によく残っており、特に後庵桜のある場所の堀が凄かった。

【八幡神社鞘殿】
八幡神社の鞘殿の内部には鮎貝城の模型が納められている。ただ、参考になるかどうかは別である。

アクセス

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