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永禄の頃に伊達一門の田手宗光が築いた城で、田手氏の後に伊達成実が居城とした。成実出奔騒動の後、石川昭光が移されて石川氏代々の居城となった。伊達21要害の一つ。現在は角田高校と中学校、住宅地となっている。
年代 | 出来事 |
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1558~1570年 | 伊達氏一門の田手宗光によって築かれ、田手氏の居城となった。なお、宗光が築いた城は角田城ではなく館ヶ崎城だという説もある。 |
1576~1582年 | 田手宗光は伊達輝宗に反旗を翻して相馬氏に寝返ったため、輝宗は城を攻め落とし、父に反して輝宗に従っていた田手宗時にその跡を継がせた。 |
1582年 | 田手宗時は伊具郡の奪還を目指す伊達輝宗に従って相馬氏との合戦に参加し、その戦いの中で討死した。田手氏は子の宗実が継いだが後に柴田郡の小泉へと移された。 |
1586年 | 伊達成実が伊具16郷の領主となって角田へと移り住み、角田城を居城とした。 |
1595年 | 伊達成実は伊達政宗との確執から出奔して高野山へと入った。政宗は角田城を接収するため屋代景頼を派遣したが、羽田右馬助などの成実の旧臣が抵抗したため討ち取られたという。 |
1598年 | 伊達一門の石川昭光が角田城に移され、以後は石川氏の代々の居城となった。 |
1868年 | 戊辰戦争後、仙台藩は伊具郡を失い、この地には南部藩が移封された。領地を失った石川邦光は翌年に蝦夷地開拓のため渡海している。 |
1874年 | 前年に出された「廃城令」により城は取り壊された。 |
城は台山の丘陵地帯の東南端を切り離して独立丘陵のような地形に変えた場所に築かれており、丘の上に本丸、麓に二の丸と馬場の郭があった。城の周囲は水堀で囲まれており、東の大手口と南の馬場口に橋が架けられていたという。