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佐々木館 ささきだて

別名
-
時代
鎌倉時代~安土桃山時代
分類
中世平山城
規模
面積:東西250m×南北250m、標高:130m、比高:約30m
現状
畑・住宅地
場所
岩手県二戸市斗米
最終訪城日
2009年11月21日

佐々木秀綱の居館で九戸政実に攻め落とされた。今は田畑と宅地となっている。

城史

年代 出来事
鎌倉時代 佐々木秀義の4人の息子が奥州合戦に参加しており、この時の戦功によって奥州各地に所領を得て、後に子孫がこの地に土着したとされている。
1588年 南部家の跡継ぎ問題で南部信直と対立していた九戸政実は、佐々木秀綱に味方するように迫ったが秀綱はこれを断った。このため、政実は1588年5月に佐々木館に夜襲をかけて攻め落としたという。この時、秀綱の娘の北姫は金の茶釜を抱いて水堀に飛び込み、16歳の生涯に幕を閉じたという。 『佐々木池伝説』

縄張り

城は2つの舌状丘陵を利用して築かれており、それぞれ堀切で山側から切り離されて1つの郭を形成していた。北と南の丘陵の間には沢を利用した水堀があり、今は佐々木ヶ池と呼ばれている。

【南の堀切】
南郭(佐々木館主郭)を背後の丘陵から切り離している堀切が良く残っており、堀切はそのまま佐々木ヶ池へと繋がっている。南郭は現状では畑と宅地になっており、東端の発掘調査では建物跡と横堀の跡が見つかったというが、今は確認できなかった。

【北の堀切】
北郭(稲荷館)を背後の丘陵から切り離している堀切もよく残っており、今は丸ごと畑となっている。南側の畑になっていない部分を見ると、当時は二重堀切だったのではとも思える。なお、東側にももう一つ堀切らしきものがある。北郭は主に畑となっており、東端中腹には郭の名の由来である太郎稲荷神社が祀られている。

【水堀跡(佐々木ヶ池)】
南郭と北郭の間には水堀跡があり、『佐々木池伝説』では底なし沼と伝えているので、現在の農業用のアースフィルダムの部分から水田の部分までが当時は自然地形を利用した泥田堀だったと考えられる。

アクセス

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