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水沢城 みずさわじょう

別名
水沢要害、臥牛城、大休城
時代
平安時代?~江戸時代
分類
近世梯郭式平城
規模
面積:東西320m×南北400m
現状
市役所、市街地
場所
岩手県奥州市水沢区大手町
最終訪城日
2012年1月4日

築城は諸説有り不明だが、中世は八谷氏などの葛西氏家臣の居城だった。伊達領になってからは白石氏などが置かれ、最終的に留守宗利が移って水沢伊達氏の居城として明治まで続いた。今はほぼ全て市街地化している。

城史

年代 出来事
1057年? 源頼義の築城説があるが定かではない。
1375~1379年 葛西氏家臣の八谷(蜂谷)氏によって築かれたとされるが定かではない。
1408年 葛西氏家臣となった佐々木繁綱が胆沢郡の水沢に所領を与えられて、この城を居城としたと伝わる。
室町時代? 葛西氏家臣の柏山氏(又は大内氏)の居城と伝わるが定かではない。
1590年 奥州仕置により水沢は木村吉清の所領の一部となって代官の松田源太郎左衛門が置かれたが、同年10月に「葛西大崎一揆」が勃発して水沢城は一揆勢に制圧された。
1591年 蒲生氏郷と伊達政宗により「葛西大崎一揆」は鎮圧されたが、木村吉清は所領没収となり、旧葛西大崎領は伊達政宗に与えられた。この時、水沢には伊達氏家臣の白石宗実が置かれた。
1601年 伊達政宗の命で白石宗直は登米郡の寺池へと移され、替わって柴田宗朝が水沢へと入った。この頃、一国一城令の関係で呼び名が「水沢要害」へと変更させられた。
1616年 柴田宗朝は登米郡の米谷へと移され、替わって石母田宗頼が城主となったと伝わる。
1630年 伊達家の留守宗利が金ケ崎城より移されて新たに領主となり、以後は水沢伊達家の代々の居城として明治まで続いた。

縄張り

城は小違堰(乙女川)右岸の平地に築かれており、川を背後にして北西の本丸から二の丸、南の曲輪、三の丸、総構えと東と南に広がるような梯郭式に近い形で展開し、各郭は土塁と水堀で分けられていた。

【三の丸土塁】
城跡は市街地化してしまっており、遺構としては市役所に隣接する箇所に残る三の丸跡の土塁くらいしか確認できなかった。この土塁の上には当時植えられていた杉の一つが残っており、今は「姥杉」と呼ばれている。なお、この場所には黒い冠木門も移築されているが、この門が当時どこにあったかは諸説あって定かではない。

【大手枡形跡の碑】
完全に街に埋もれてしまった城跡ではあるが、門跡や屋敷跡を示す標柱が至る所に設置してあり、辛うじて当時の位置関係が確認できる。写真の標柱は総構えの東側にあった大手門の枡型のあった場所を示しているのだが、現状は枡型門があったことを全く想像できないほど変わり果てている。

【武家屋敷・八幡家】
城下町の名残として総構えの中には武家屋敷が何軒か残されているが、後藤家(旧後藤新平宅)と内田家(武家住宅資料館)以外の屋敷は今も人が住んでいるため内部は公開されていない。なお、八幡家は留守氏代々の家臣の家柄で、御小姓頭などを勤めていた。

アクセス

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