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岩谷堂城 いわやどうじょう

別名
岩谷堂要害、江刺城、柄杓城
時代
鎌倉時代?~江戸時代
分類
連郭式山城
規模
標高:115.4m、比高:約70m、面積:東西300m×南北800m
現状
舘山史跡公園
場所
岩手県奥州市江刺区岩谷堂館下
最終訪城日
2012年11月10日

築城は諸説有り不明だが、葛西氏一門の江刺氏の居城と伝わる。江戸時代には仙台藩士の岩城氏が城代を勤めた。伊達21要害の一つ。現在は大部分が公園とグランドで、外郭は学校と住宅地。

城史

年代 出来事
鎌倉時代 奥州合戦後に葛西氏が北上川中流以南を所領とすると、千葉頼胤の三男の胤道が江刺郡に入り、この時に岩谷堂城が築かれたという説があるが定かではない。
南北朝時代 葛西信詮の次男の信満が岩谷堂城の城主となって江刺氏を称している。 『奥南落穂集』
1495年 江刺隆見は葛西政信と戦って敗れ、岩谷堂城には政信の子の重親が入って新たに江刺氏を称した。政信の孫の重胤からとの説もあり。
1590年 豊臣秀吉の小田原の役に参陣しなかった葛西氏は所領を没収され、葛西氏家臣となっていた江刺氏も同時に没落した。
1590年 奥州仕置により江刺郡は木村吉清の所領の一部となって代官の溝口外記が置かれたが、同年10月に「葛西大崎一揆」が勃発して岩谷堂城は一揆勢に制圧され、外記は捕まり討ち取られたという。
1591年 蒲生氏郷と伊達政宗により「葛西大崎一揆」は鎮圧されたが、木村吉清は所領没収となり、旧葛西大崎領は伊達政宗に与えられた。この時、江刺には伊達氏家臣の桑折摂津守が置かれた。
1615年 「一国一城令」に従うため「城」としては便宜上破却したことにし、これ以降は「要害」と呼ばれるようになった。
1659年 岩谷堂要害に新たに岩城宗規が置かれ、以後は明治まで岩城氏が城代を勤めた。

縄張り

城は人首川右岸の丘陵の上に築かれており、北の最高所に本丸があって南に降りながら二の丸、外郭が連郭式に近い形で配置されている。

【本丸跡と二清院】
最高所の本丸には郭の跡がよく残っており、周囲は土塁で囲まれている。郭内部は今は大部分が紫陽花で埋め尽くされているが、藤原氏を祀った二清院の建物と舘山八幡神社があり、神社脇の土塁には銀杏の巨木が立っている。

【本丸跡横堀】
本丸の側面には横堀が設けられており、今も東側を中心によく残っている。南西側の堀はどちらかというと堀切に近い。

【堀切】
本丸と二の丸の間には小さな郭が2つほど連なっており、それらは全て堀切を持って切断されている。画像の堀切は最も大きな中間の堀で、道と繋がっているため通路として利用されていた可能性がある。

【二の丸跡】
グランドとして整備された時に改変を受けたと思われるが、元々大きな郭で実質の城の中枢施設はここにあったという。

【大手門跡の水堀】
二の丸の南には内枡と外枡をくっ付けたような構造の大手門跡があり、土塁の一部が崩されて車道が通っているが、大まかな形はよく残っている。門の両脇の水堀は西側は埋め立てられて消滅しているが、東側には今でもハッキリ残っている。

【夢の大橋から見た城跡】
城の東側面は急斜面になっており、向山から見るとなかなかの要害ぶりである。現在、向山と城跡の間の谷に「夢の大橋」が架けられており、ここからの眺めもまた絶景だった。

アクセス

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