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花巻城 はなまきじょう

別名
鳥谷ヶ崎城
時代
室町時代~江戸時代
分類
近世平山城
規模
面積:東西400m×南北480m、標高:90m、比高:約20m
現状
市指定史跡/鳥谷ヶ崎公園・小学校・市街地
場所
岩手県花巻市城内
最終訪城日
2008年11月2日

室町時代に稗貫氏によって築かれた稗貫氏代々の居城。和賀稗貫の一揆で戦場となった。今は鳥谷ヶ崎公園、花巻小学校、市街地などになる。

城史

年代 出来事
平安時代 「前九年の役」の時に安部頼時の城柵がこの場所にあったとされるが定かではない。
1528~1559年 稗貫氏が鳥谷ヶ崎に新たに城を築き十八ヶ城から居城を移したという。
1590年 稗貫広忠は「小田原の役」に参戦しなかったため豊臣秀吉の奥州仕置きで所領を没収され、その所領は浅野長政に一時預けられた。そして長政は鳥谷ヶ崎城代として浅野重吉を置いて管理させたという。
1590年10月 豊臣秀吉の軍が引き揚げたのを見計らって奥州各地で一揆が起こり、鳥谷ヶ崎城も10月28日には蜂起した一揆勢2千に包囲され、浅野重吉はわずか2百名で篭城しなければならない事態となった。
1590年11月 11月7日、南部信直は5百の軍勢を率いて鳥谷ヶ崎城へと救援に入ったが、篭城戦は厳しいと判断して城を捨て、浅野重吉を連れて三戸へと撤退した。これにより稗貫広忠は城を奪還したという。
1591年 奥州各地の一揆は奥州仕置軍によって再平定され、稗貫広忠も再び城を追われることになった。その後、稗貫領は南部氏に与えられ、鳥谷ヶ崎城には郡代となった北秀愛が入って改築が施された。この時に呼称を花巻城と改めている。
1600年 「岩崎一揆」の勃発により再び和賀・稗貫にて一揆勢が蜂起し、花巻城も9月20日に和賀忠親の軍勢1千に包囲される事態となった。この時、城には北松斎(信愛)と13名の家臣しかおらず、農民や女子供も立て篭もって激戦を繰り広げたという。多勢に無勢で二の丸は陥落するものの本丸はなかなか落ちず、翌朝になって南部家の援軍が到着したため、一揆勢は花巻城を攻略できないまま敗退することとなった。
1613年 北松斎が亡くなったため、城は新たに南部利直の次男の政直に与えられた。翌年には利直の命で城の改修が行われ、この時に二子城から建物を移築している。
1624年 南部政直が城内にて急死したが、毒殺とも病死とも伝わり定かではない。柏山伊勢守暗殺のための犠牲になったとも伝わる。政直亡き後は城代が置かれた。
1869年 「戊辰戦争」の終結後、城は廃城となった。

縄張り

城は北上川右岸の河岸段丘に築かれており、北に後川が流れ、東と南は低地だがそれぞれ北上川、豊沢川に挟まれている。西側だけが丘続きとなっているため、この部分を堀で切り離して城地を形成している。城内の配置は丘の北東隅に本丸があり、西側に向かって梯郭式に二の丸、三の丸が展開している。

【本丸西御門】(復元?)
本丸にあった2つの虎口の一つで、小さいながらも内枡形となっている。平成7年に城門と城壁が木造で復元されているが、復元の根本資料が手元に無いため詳細は不明。外観や造りは円城寺門を参考にしたのだろうか?

【本丸内堀】
城は台地の外縁と各郭の間に堀を設けていたが、今は大半が埋められてしまっており、本丸内堀のみがハッキリと残っている。なお、画像の内堀の水堀部分は「鐘搗堂前御堀」と呼称されている。

【二の丸土塁】
城跡は公共施設や市街地化で埋もれているが、郭の周囲にあった土塁が所々に残っており、本丸跡の公園、二の丸跡の東側、二の丸と三の丸の間等で確認することが出来る。

【円城寺門】(移築現存)〔市指定有形文化財〕
かつて円城寺坂の上にあった三の丸の櫓門で、廃城後に民間に払い下げられ、昭和に入ってから鳥谷崎神社に移築されて今に至る。現状では本来門があった位置とは50mほど離れている。なお、この城門は元は二子城追手門で、1614年の改築時に移築されたと伝わる。

アクセス

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