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室町時代に稗貫氏によって築かれた稗貫氏代々の居城。和賀稗貫の一揆で戦場となった。今は鳥谷ヶ崎公園、花巻小学校、市街地などになる。
年代 | 出来事 |
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平安時代 | 「前九年の役」の時に安部頼時の城柵がこの場所にあったとされるが定かではない。 |
1528~1559年 | 稗貫氏が鳥谷ヶ崎に新たに城を築き十八ヶ城から居城を移したという。 |
1590年 | 稗貫広忠は「小田原の役」に参戦しなかったため豊臣秀吉の奥州仕置きで所領を没収され、その所領は浅野長政に一時預けられた。そして長政は鳥谷ヶ崎城代として浅野重吉を置いて管理させたという。 |
1590年10月 | 豊臣秀吉の軍が引き揚げたのを見計らって奥州各地で一揆が起こり、鳥谷ヶ崎城も10月28日には蜂起した一揆勢2千に包囲され、浅野重吉はわずか2百名で篭城しなければならない事態となった。 |
1590年11月 | 11月7日、南部信直は5百の軍勢を率いて鳥谷ヶ崎城へと救援に入ったが、篭城戦は厳しいと判断して城を捨て、浅野重吉を連れて三戸へと撤退した。これにより稗貫広忠は城を奪還したという。 |
1591年 | 奥州各地の一揆は奥州仕置軍によって再平定され、稗貫広忠も再び城を追われることになった。その後、稗貫領は南部氏に与えられ、鳥谷ヶ崎城には郡代となった北秀愛が入って改築が施された。この時に呼称を花巻城と改めている。 |
1600年 | 「岩崎一揆」の勃発により再び和賀・稗貫にて一揆勢が蜂起し、花巻城も9月20日に和賀忠親の軍勢1千に包囲される事態となった。この時、城には北松斎(信愛)と13名の家臣しかおらず、農民や女子供も立て篭もって激戦を繰り広げたという。多勢に無勢で二の丸は陥落するものの本丸はなかなか落ちず、翌朝になって南部家の援軍が到着したため、一揆勢は花巻城を攻略できないまま敗退することとなった。 |
1613年 | 北松斎が亡くなったため、城は新たに南部利直の次男の政直に与えられた。翌年には利直の命で城の改修が行われ、この時に二子城から建物を移築している。 |
1624年 | 南部政直が城内にて急死したが、毒殺とも病死とも伝わり定かではない。柏山伊勢守暗殺のための犠牲になったとも伝わる。政直亡き後は城代が置かれた。 |
1869年 | 「戊辰戦争」の終結後、城は廃城となった。 |
城は北上川右岸の河岸段丘に築かれており、北に後川が流れ、東と南は低地だがそれぞれ北上川、豊沢川に挟まれている。西側だけが丘続きとなっているため、この部分を堀で切り離して城地を形成している。城内の配置は丘の北東隅に本丸があり、西側に向かって梯郭式に二の丸、三の丸が展開している。