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梁川城 やながわじょう

別名
鶴岡城
時代
鎌倉時代~江戸時代
分類
中世平山城(丘城)
規模
標高:63m、比高:約25m
現状
県指定史跡/学校、住宅地
場所
福島県伊達市梁川町鶴岡
最終訪城日
2013年4月13日

築城には諸説あって定かではないが、伊達氏によって築かれた伊達氏代々の居城の一つである。江戸時代に梁川藩の藩庁にもなる。現在は大部分が学校の敷地に利用され、他は住宅地となる。

城史

年代 出来事
1189年 伊達朝宗によって築かれた城と伝わる。 『浅間神社棟札』『信達二郡村誌』
1190~1198年 伊達宗村によって築かれ、この時に高子館より居城を移したという。 『小手濫觴』
13世紀前半 伊達義広が粟野大館を築いて高子館より移り住んだとされるが、この粟野大館が梁川城の前身だとする説もある。 『伊達正統世次考』
1347年 伊達政広は梁川城に拠って南朝勢として戦ったという。 『伊達正統世次考』
1413年 伊達持宗は懸田定勝と共に鎌倉府に反対して大佛城に立て篭もったが、鎌倉府側の討伐軍に城を落とされて焼失したため、梁川城へと居城を移したという。
1532年 伊達稙宗は梁川城を居城としていたが、西山城へと居城を移した。
1543年 伊達宗清が梁川城に入って梁川氏を称し、以後は梁川氏の居城となった。
1591年 伊達政宗は先祖伝来の地を豊臣秀吉に没収されたため、家臣の梁川氏も梁川城から退去することになった。その後、城には蒲生氏郷家臣の蒲生頼郷が城代として置かれた。
1598年 蒲生氏郷の死後、蒲生秀行は転封されて上杉景勝へと支配者が替わり、梁川城には上杉家臣の須田長義が城代として置かれた。
1664年 上杉氏の減封によって梁川は幕府直轄領となった。
1807年 松前藩は蝦夷地召し上げとなり、代替領として梁川へと移された。そして梁川城が藩庁となった。
1871年 廃藩置県により廃城となった。

縄張り

城は広瀬川右岸の段丘の西端に築かれており、東側が阿武隈山地から続く丘陵地帯になっているが、ここには堀を設けて遮断している。段丘上には本丸があってそれを半分囲むように二の丸があり、南北に出丸がある。西側の段丘の下の低地には三の丸が設けられ、そのさらに低地西側に外郭が設けられていた。

【本丸庭園と楼台跡】
本丸跡は今は梁川小学校と幼稚園となっており、土塁が部分的に残っているが、そのうちの東側の土塁には楼台跡の石垣が残されており、それに隣接して心字池を中心とした庭園が復元されていた。学校内という訪問し辛い箇所にあるが、浅間神社に隣接しているためこちら側からはグランドや幼稚園を横切らずに入れる。

【浅間神社】
伊達朝宗が勧請したと伝わる神社で、元々は城の守護として本丸内を向いて建てられていたが、廃城になってから学校などの敷地となり神社の向きが変更されて鳥居も本丸の外側に変更されたという。

【枡型虎口跡】
丘の北側に出丸である侍町の曲輪があり、ここには土塁と堀と枡型虎口跡がハッキリと残されている。ここが梁川城跡で最も城跡らしい遺構が見られる箇所で、現存する土塁も堀もかなり大きい。街中にあって郭内は団地となっているのに、これだけの遺構があるのは奇跡的とも言える。

【二の丸土塁】
梁川高校には二の丸の土塁が残されており、この土塁もまたかなり大きい。二の丸から東側は丘陵地帯に続いているため、特に強化されたのかもしれない。

【外掘跡】
段丘上の堀は北の侍町の曲輪を除くとほとんど埋められてしまっているが、外堀の南東部分は阿武隈急行の線路が通されて、辛うじて名残は残されている。画像の線路の箇所が堀跡で、かつてはトンネルよりも手前から画面左奥に向かって堀が続いてた。ちなみに埋まってしまった堀の延長線上には北の出丸があり、かつてはそこの堀まで繋がっていた。

アクセス

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